しかしこのように因果関係の存在を100%認めた場合には困つた問題が起こる。それは若しもわれわれが

因果関係の存在を100%信じた場合には、人間が自分自身の意思に基ずいて自由に行動する能力が

なくなるという問題である。

    何故かというと若しも現在が過去によつて縛られており、未来が現在によつて縛られているとするならば、

この世の中の一切が過去によつて縛られていることとなり、この世の中において人間の自由は完全にない

ことになつてしまう。

    事実、欧米の哲学においても人間の自由が認められた場合には、人間の行いが過去によつて決定されて

いるという決定論は絶対に成立せず、また逆に人間の行いが過去において既に決定されているという決定論に

したがえば、人間に関する自由論は絶対に成立しないということが実情である。

 

   そして若しも「因果の理法」が説くようにわれわれの人生が完全に過去によつて決定されているならば、

人間にとつて一切の自由があり得ず、その場合人間にとつて善悪の問題は全て消えてしまう。

 

    何故ならば人間が善いことを実行したり悪いことを止めるだけの能力があつてこそ、善悪の問題は

議論の価値があるのであるが、もしも人間に善を選んだり悪を拒否したりする能力がないならば、

善悪の問題を議論すること自体が無意味となる。

   この人間に関する人間に自由があるとする自由論と人間に自由なしという決定論との対立は、欧米の

哲学の世界では数千年に亘つて争われて来た処であり、二十一世紀の今日においても未だに解決されて

いない問題である。

 

   しかし釈尊が説かれた仏教哲学においては、この欧米の哲学思想において全く解決不可能であつた

問題が見事に解決されている。それが「刹那生滅の道理」である。

    「刹那生滅の道理」とは、われわれ人類が現実に生きることの出来る時間は現在の瞬間だけであつて、

われわれは過去の時間にも生きることが出来ないし,未来の時間にも生きることが出来ないという主張で

ある。

 

   何故そのようなことを云うかというと、もしもわれわれが過去において何か失敗をしそれをどのように

後悔しても、時間が過去に逆戻りしてわれわれが過去の失敗をやり直すことは絶対に出来ない。そして

そのことはわれわれ人間は過去に遡つて生きることが絶対に不可能であることを示している。

    またわれわれが未来に向かつてどんな素晴らしい夢を持つていたとしても、その未来が現在となるまでは

その夢を実行に移すことが絶対に出来ない。したがつてわれわれは未来が現在になるまでは、どのような

素晴らしい夢も地上の事実として具体化することが出来ない。したがつてわれわれ人間は未来の時間の

中でも絶対に生きることが出来ない。

    しかも現在の瞬間と過去の瞬間との間にも深い断絶があり、現在の瞬間と未来の瞬間との間にも深い

断絶がある。これが現実の世界における現在の瞬間の実情であり 、われわれは普通、過去にも生きる

ことが出来ると考え未来にも生きることが出来ると考えているけれども、それは錯覚である。

 

   現在の瞬間はこのようなあり方のものであり、しかもその現在の瞬間は極めて短い一瞬である処から、

われわれの瞬間における行いはちょうどカミソリの刃の上に乗つた真珠の玉のように、それを乗せる人の

極めて僅かな決断によつて、真珠はある場合には左に落ち、ある場合には右に落ちることが出来る。

    釈尊はこのような形で、絶えず原因結果の関係に縛られているわれわれの行いが、現在の瞬間が

持つている極めて短い時間的な構造に依存することに自由であり得るという論証をした。これが欧米の

哲学の分野では何千年にも亘つて全く解決の付かなかつた人間に関する自由論と決定論とに対する

回答であり、私はこの理論の正当性を疑うことが出来ない。

                                                                                                                (西嶋(愚道)和夫)

                               

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