仏教の基本的な立場は実在論である。しかし今日の仏教界の実情としては、仏教経典に対する誤解から、無自性とか

空とかという仏教用語を拠り所として、仏教はこの世の中の実在を信じない宗教であり、この世の中の実在を信じないこ

とが仏教哲学の核心であるという考え方を持つている。しかし私が正法眼蔵を読み、竜樹尊者の中論を読んだ限りでは,

仏教は正にこの世の中の実在を確信した思想である。

    したがつて二十一世紀の現在において真の仏教哲学を把握しようとするならば、仏教思想がこの世の中の実在を

信じているか否かという問題はどのような問題よりも優先して議論されなければならないと思う。残念ながらこの問題は

今日の日本の仏教界においては殆ど論議の対象となつていないけれども、私が六十年以上の才月を費やして

道元禅師の正法眼蔵と竜樹尊者の中論を読んだ限りでは、両祖師の仏教理論は疑問の余地のない実在論と考えられ、

われわれがドーゲンサンガという団体を作つて仏教思想の普及に努力する内容の一つには、この問題が含まれている。

 
   釈尊は紀元前五世紀に古代インドに誕生されたけれども、その当時二つの代表的な思想がインドに存在した。

一つは紀元前十二,三世紀頃に誕生したとされているバラモンの教えであり、他の一つは釈尊とほぼ同時代に

活躍した六師外道と呼ばれる六人の思想家の教えである。

 

   まずバラモンの教えは、古くからインドに伝えられて来たヴェーダ聖典の内容を絶対の真実と考え、この世の中は

ブラーフマンという神によつて作られたと考えていた。

    したがつてわれわれ人間も神の分身として魂、心、精神を持つているのであるから、その精神的な要素を高めて

神の領域に近ずくことが人間の幸福であることを主張した。したがつてその思想内容は今日一般に宗教と呼ばれている

ユダヤ教やキリスト教やイスラム教などに非常に似ている。

 

   これに対して六師外道と呼ばれる六人の新しい思想家達は、多くの場合宗教的なバラモンの教えに反対し、

この世の中が物質によつて出来上がつた世界であり、神や魂の存在に対する疑いを強く持つていた。

    したがつて彼らは道徳の価値を疑い、肉体的な快楽が人生の最高目的であると云う主張を唱えた。

 

   このように釈尊が生きられた時代は、神を信じ魂を信ずるバラモン教的な観念論と物質だけを信ずる六師外道的な

唯物論とが対立して、どちらが正しいか結着の付かない時代であつた。釈尊はこのような二つの対立する思想から

生まれる人間社会の混乱に気付き、何とかしてその解決を図ろうとし、その結果生まれた思想が仏教である。

 

   釈尊は人間が脳細胞を使つて考え出した思想が実在そのものではないことに気が付いた。しかしそれと同時に

釈尊はわれわれが感覚器官を通じて受け入れる外界からの刺激に対して名付けた物質と呼ばれるものも、

実在ではないということに気が付いた。

    そして釈尊は、われわれが思想の存在や物質の存在を考える以前から実在している現実の世界に気付き、その現

実の世界がこの世の実体であり真実であることに気が付いた。

 

   道元禅師が書かれた正法眼蔵の中で道元禅師は、釈尊がこの世の中の真実に気付かれた時の情景を

「大地有情、同時成道」という言葉で表現しているけれども、このことは釈尊が、現にわれわれがその上に住んでいる

地球も、またその上に生息しているさまざまの生物もすべて真実であるということに気付かれたことを意味する。

 

   では何故このような実在論の教えである仏教が何千年にも亘つて、実在を信じない虚無思想として誤解されて

来たのであろうか。

     この答えは仏教がその思想体系の中で二種類の真実、すなわち俗世界における真実(俗諦)と、行いの世界、

実の世界における真実(真諦)との二つの次元の違う真実を主張していることと関係している。

     仏教ではわれわれが理性を使って問題を考える観念論の世界を認めている。そしてまたわれわれが感性を

使つて捉える唯物論の世界をも認めている。しかし現実の世界,したがつて仏教が主張する真実の世界は、理性と

感性との世界を乗り超えて、行いの世界に入り現実の世界に入つた時に始めて経験することが出来る。

 

    しかしこのような二つの世界の存在を主張した哲学は、世界広しといえども仏教哲学の中にしか存在しない。

もしも仏教を正しく理解したいとするならば、われわれは従来哲学が常にその中に存在した理知の世界を乗り越えて、

行いの世界、現実の世界に入つて行かなければならない。しか しこの問題については、人々が頭が良ければ良い程

理知の世界に拘わつて、行いの世界に入つていけないことも実情である。

     したがって坐禅の修行に頼つてわれわれの自律神経をバランスさせ、理性と感性とをプラス・マイナス・ゼロの

状態にすることが、仏道修行の出發点である。

 

                                                                                                                                (西嶋(愚道)和夫)

  

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