21世紀の今日、われわれは比較的恵まれた文明の中に生きていると考えても、

そう大きく間違つてはいないと思われるけれども、一方、世界の実状を見てみ

ると、イスラエルとパレスチナとの対立があり、またアルカイダと呼ばれる武装

集団が世界の各地に広がり、不測のテロリズムが世界の何処に起きても不思議

でないような様相を見せている。

   そこでそのような事態が何故起こるかという問題を考えてみるとその根は意外に深く、

われわれが過去において経過した膨大なそして複雑な人類全体の歴史と密切な関係を

持つているように思う。したがつてそのような長い人類の歴史とわれわれが信じている

仏道との関係を考えて見 たい。

 

   われわれが現にその恩恵に浴している世界の文明は、最初エチオピヤ、エジプト、

メソポタミヤ、インド等に生まれた文明が非常に長い時間を経て、今日の中近東に集まり、

やがて地中海を経過してギリシャ半島に上陸し、古代ギリシャ文明が生まれた。

 

   その文明の中で紀元前四、五世紀頃に活躍したプラトンという哲学者が極めて特異な

思想を唱えた。彼はわれわれが日常生活で見聞きしている外界の世界は本当の実在

ではなく、本当の実在はわれわれの脳細胞の中で生まれて来る観念であることを

主張した。

   この主張はわれわれの常識的な観点からするとやや異例の考え方として受け取られる

けれども、思考能力の優れたギリシャ民族の間で意外な共感を呼び、やがてそれが

ローマに伝わり、ローマ帝国の領土の拡大と共に ヨーロツパ各地に広がつた。

 

   しかもその心を大切にし魂を大切にする態度が、紀元前後に中近東で生まれた

キリスト教と合流した処から、中世のヨーロツパに おいては比較的生産性の低い

農業生産に支えられた中世社会における社会秩序の維持に役立つた。

    このような事情から我々は人類の歴史に関して、古代から中世の末までの時代を

比較的に観念論の盛んであつた時代として、仏教の立場からすれば「苦諦」の立場の時代

として位置付けることが出来るように思う。

 

 しかし中世の末頃から素朴ではあるけれども製造業的な活動が始まるようになり、

また交通手段特に航海術の發達に基ずく東洋、西洋間の交通が開けて以来、

人類の文化は様変わりの發展を始め、いわゆるルネツサンスの時代を迎えた。

  それまでキリスト教会ではわれわれの住んでいる地球が不動であり、太陽がその

周りを廻つているという天動説を唱えていたが、天文学者の努力によつて実は我々の

住んでいる地球が太陽の周りを廻つているという事実が確認された。

 

  また人類はルネツサンス時代に人間が生身の身体を持つていることを再確認した。

ルネツサンス時代に人間の裸体を描いた絵画が多数生まれたことはこのためである。

  人々は自分の眼や耳を使つて眼の前の事実を確認する習慣を持つようになり、

心や魂ではなく物質が尊重され肉体の尊重される時代が到来した。自然科学が發達して、

この世の中の一切の事実が物質を基礎にして解明される時代が到来した。

 

  哲学の世界においてもイギリス経験論と呼ばれる人間の感覚器官の働きを中心にした

哲学が發達したけれども、これも一種の唯物論哲学であり、更にドイツのフォイエルバツハや

カール・マルクスは、この世の中のすべてのも のが物質であることを主張した。

仏教の立場から考えるならば、唯物論の時代すなわち「集諦」の時代が始まつたと云える。

  そして科学の研究が盛んになればなる程唯物論に対する信仰は強くなり,十九世紀の

末には唯物論万能の時代を迎えた。すなわち「集諦」万能の時代を迎えた。

 

  しかし「集諦」万能の時代を迎えてみると、人類社会は何か欠けているものに気付い

たように思う。十九世紀の後半からは哲学の世界においても、観念論でもなく唯物論

でもない哲学が急激に登場し始めた。実存主義、現象学、プラグマテイズム、生の哲学

など何れも物と心との統合を目指し,観念論と唯物論との中間に立つて両者を一つの

統一した思想に纏め上げようとする努力が目立つように思う。

  特にカール・マルクスの唯物論思想を人類自身の歴史の中で実験しようとした

ソビエツト連邦の約七十年に亘る貴重な努力が、見事に失敗した時点から時代の流れは

明らかに唯物論から離れようとしている.今日世界的に見られるアルカイダという

武装集団による動きも、唯物論から離れようとしつつある世界史の流れに対する

一種の反動と見られないこともない。

  何れにしても世界の歴史がソビエツト連邦の崩壊以降、「集諦」の時代から「滅諦」の時代に

入りつつあると云えるように思う。いま世界は観念論でもない唯物論でもない次の段階を

求めていると考えられ、そのような時代の要請に答えることの出来る哲学としては、 理性と知性の

哲学を脱出して「滅諦」の哲学、すなわち現在の瞬間における行いの哲学に頼る一手だけが

残されているように思う。勿論何千年にも亘つて理性と知性との哲学に埋没して来た欧米の思想が、

理知の世界から抜け出して行いの世界に入つて行くことは決して容易なことではない。

 

  しかし今日でも世界の王座に君臨して全世界の誘導を実現しつつある欧米社会が、理知の

世界を離れて行いの世界に入つて行くことが不可能であると考える必要はない。

  現に欧米諸国における仏道研鑽の熱意は想像以上のものがあるから、やがて全世界の

文明が仏教的な現実主義によつて統一されることは充分可能であると考えられる。

 

  そして行いの哲学が自律神経のバランスを媒体として道義と結び付いて行く時、道義を基準

とした人類の黄金時代を期待することも夢ではなく,人類は仏道が示す極めて合理的な

仏教哲学と坐禅の修行とを根幹として、究極的な道義の世界に向けて一歩一歩近付いて行く

ことが考えられる。

  したがつてそのように世界の歴史の中で重大な機能を発揮すると考える世界最終の哲学

としての仏教が發見され、それを更に拡大する機運が存在しつつある今日、そのように優れた

真実を発見され、そしてそれを二十一世紀の今日まで伝えられた大師釈尊に対して無限の

感謝を捧げたい。

                                              (西嶋(愚道)和夫)