釈尊が真実を得られてからサールナートでされた最初の説法が、「四諦の教え」であつたと伝えられている。

この「四諦の教え」に関しても小乗仏教の時代に編纂された経典の中で、理性的には到底納得することの

出来ない不可解な解説が行われている。しかし「四諦の教え」の真意は決してそのように不可解な教えではない。

 

    この世の中の実在を信ずる仏教哲学は、その探求の対象を現実そのものの中に求めの世の中の実在を

信ずる仏教哲学は、その探求の対象を現実そのものの中に求めるのであるが、現実は本来言葉を使つて

表現することの出来ない実体である。しかしもしもわれわれが、現実はあくまでも言葉で表現出来ないものと

するならば,仏教という教えは永遠に言葉では説けない教えになつてしまう。

   しかし釈尊はご自分の若い時からの経験に基ずき、四つの全く異質の哲学を重ね合わせながら、現実の

哲学を言葉によつて近似的に表現する方法を發見された。それが「四諦の教え」である。

 

   人は誰でも問題を先ず頭で考える。その場合頭の中に現れて来るものは言葉によつて表現される処から、

常にこの世の中の完全な姿が描かれる。しかし実際の世の中はそれほど完全なものではない。

     したがつて問題を頭の中で考えたこの世の中の完全な姿と、それほど完全ではないこの世の中の現実との

食い違いに苦しむ。これが「苦諦」という言葉の意味であり、今日世の中の現実との食い違いに苦しむ。

今日の哲学用語で現わすならば,「観念論」と呼ばれる哲学である。

 

   そこで人々は「観念論」に絶望し別の哲学を求める。それが「唯物論」である。今度は人々は頭で考えた

ことを信用せず、眼で見たり耳で聞いたり手で触つたりする物の世界に関心を持つ。「集諦」という言葉の

意味は、原子、分子というような微粒子の集まりを基礎とした考え方の意味である。

    しかしこの世の中を単なる物質の寄り集まりと考えた場合には、この世の中が持つている意味や価値が

見えなくなり,人間は生きることに関する張り合いを失う。

 

   この二つの哲学は、今日の世界文明の中では非常に發達した代表的な哲学であり、われわれはその影響を

日常生活の中で非常に受けている。しかしこの二つ哲学は両者が完全に異質であり、「観念論」が正しければ   

「唯物論」は完全に誤りであり、「唯物論」が正しければ「観念論」は完全に誤りであるという互いに両立しない

性格を持つている。

    したがつてこの二つの哲学が並存している社会では、常に相反する哲学が対立して絶えず争いが繰り返され、

社会が決して安定しない。

 

    釈尊はこの事実に気付かれた。そしてその解決に努力された。その結果釈尊は、「観念論」や「唯物論」の

ようにわれわれが単に問題を頭の中だけで考えた場合には、「観念論」と「唯物論」との対立の問題が永遠に

解決不可能であることに気付き、「観念論」と「唯物論」との永遠に続く対立関係を解決するためには、頭で物事を

考えたり感受したりする理知の世界から抜け出し、自己管理の世界、行いの世界に入つて行かなければ成らない

ことを発見された。これが「滅諦」の立場である。

     釈尊は理知の世界と行いの世界との間に横たわる全く次元の違う二つの哲学の存在に気付き、長い人類の

歴史の中で他に類例を見ない行いの哲学を發見された。これが「滅諦」の意味である。

 

    しかし釈尊は更にその行いが、現にわれわれがその中に生きている現実の世界における宇宙の原則と

当然合致することを説かれ、われわれ人類の目標が道義的な世界の実現にあることを主張し、「道諦」の主張を

人生における究極の目標として捉え、仏教哲学を完成された。

 

     このようにたつた一つの哲学では究極の真理を説くことが不可能であり、「観念論」と「唯物論」と

「行いの哲学」と「道義」という四種類の哲学を重ね合わせることにより、この世の中の一切の問題を解明する

ことが出来るという説を立てた処に、「仏教哲学」の特徴がある。

                                                                                                                        (西嶋(愚道)和夫) 

 

[トップ ページ][@四諦の教え][A因果の理法][B刹那消滅の道理][C道義]