開経偈 唱和

 最近、世界の情勢が少し静かになったように感じておりますが、やはり当面かなり問題になるのは、来年の一月の末にイラクの選挙がありまして、果たしてその後イラクの政治がうまく順調に行なわれていくかどうかという問題がかなり大きいのではないかと、そういう見方をしております。

 最近、サマワという地域にあるモスクにたてこもっていた過激な立場の宗派の人々に対して、非常に強い攻撃が行なわれて、その勢力を駆逐したことはたいへんよかったというふうに見ております。

 というのは、私の考え方は少し悲観的かもしれませんが、暴力というものは武力で鎮圧する以外に解決方法がないという見方をしております。で、話し合いによって解決をしたいという希望がありますが、地球の上ではそういうのんきなことはない。武力を使って戦おうという勢力に対しては、武力で対抗してその力を潰す以外にどうも私は解決の方法がないのではないかと、そういう見方をしております。

 ですから、サマワ地区の過激な人々に相当大きな兵力をつぎ込んでその拠点を破壊してしまったということはたいへんよかったと思いますが、それでもやはり来年の一月の末に選挙がうまく行なわれてイラクの情勢が落ち着くかどうかということが非常に大事な問題のように見ております。

 そうしてそのことがうまく収まりますと、イランという国は世界の情勢を眺めながら、少し動いて得ができると思うとすぐ動き、これは動いたら損だと思うと動かなくなるという非常に上手な外交の駆け引きをやる国のようでありますから、イラクが落ち着けば、当分アフガニスタンの攻撃以降の世界の情勢が少し落ち着くのではないかというふうな見方をしているというのが現状であります。

 

 それではまたこの本のほうに入ってまいりますと、きょうは一一三ページのところからになるかと思います。この「栢樹子」という巻は、趙州従諗禅師が説法しているときに、僧侶が「祖師西来ノ意はどういう内容のものか」という質問をしたときに、趙州従諗禅師が「庭の先のこのてがしわの木だ」という返事をした。僧侶が「いや、そういう具体的なもので説明をされてもどうもよくわかりません」といったところが、趙州従諗禅師が「いや、自分はそういうものを使って説明している覚えはない」と。そこでもう一度僧侶が同じ質問をしたところが、趙州従諗禅師が同じ返事をした。ただ二度目の返事のときに、質問をした僧侶が、趙州従諗禅師が達磨大師が西のほうからはるばると中国に来られた趣旨というものも庭先のこのてがしわの木と同じように現実のありのままの姿であるという理解の仕方に気がついたと、こういう物語が中心になりまして、このてがしわの木について趙州従諗禅師と僧侶の間でさまざまの問答が行なわれておりまして、きょうやるところもその一つということになるわけであります。

 

 そこで一一三ページのところを読んでいきますと、

 「大師有僧問、栢樹還有仏性也無」、趙州従諗禅師に対して僧侶が「このてがしわの木には仏としての性質がありますか、ありませんか」と、こういう質問をした。

 「大師云、有」、そうすると趙州禅師が「ある」という返事をした。
 「僧曰、栢樹幾時成仏」、僧侶がさらに「このてがしわの木はいつ仏になりますか」という質問をしたところが、「大師云、待虚空落地」、そうすると趙州禅師が「大空が地面に落ちてくるときを待つ」と、こういう返事をしたわけであります。

 「僧曰、虚空幾時落地」、そうすると僧侶がまた質問して「その大空が地に落ちるという時期はいったいいつですか」と聞いたところが、「大師云、待栢樹子成仏」、「庭先のこのてがしわの木が仏になるときを待つ」と、こういう返事をしたという物語が残っているわけであります。

 この物語をどう理解するかということになるわけでありますが、このてがしわの木が成仏するときというのはどういう時期かといいますと、人間の心が落ち着いて、つまり自律神経がバランスして頭でくよくよ考える立場も消える、感覚的に敏感過ぎる立場も消える。そうすると現実がありのままに見えてくる。現実がありのままに見えてくるというときがこのてがしわの木が仏になるときと、こういう考え方が仏教の基本的な考え方であります。

 ですからここの問答も、そういう意味で、人間の自律神経がバランスしていろいろと考え過ぎる状態も消える、さまざまの感覚的な刺激を敏感に受け過ぎるという状態も消える、現実がありのままに見えてきたときがこのてがしわの木が仏になったときだ、それがまた本人自身が仏になったときだと、こういう物語を説いているというふうに理解することができます。

 そこで道元禅師がこの物語に解説をされまして、

 「いま大師の道取を聴取し、這僧の問取をすてざるべし」、いまここで趙州従諗禅師が一つの主張をされた。それを十分よく聞いて、またこの質問をした僧侶の質問というものを見過ごすべきではない。「這僧」の「這」という字は「この」という意味であります。ですから「この僧侶」という言葉の意味が「這僧」であります。

 「大師道の虚空落地時、および栢樹成仏時は、互相の相待なる道得にあらざるなり」、そこで、趙州従諗禅師が大空が地面に落ちるとき、あるいは栢樹が成仏するときという言葉を使っているけれども、「互相の相待なる道得にあらざるなり」、それはどういうことをいうかというと、何か二つの情景があって、それが変わるというふうな主張ではない。「虚空ガ地ニ落ツル」ということがどういうことを意味するかというと、われわれの生きている世界の様子が変わる。どう変わるかというと、ふだんさまざまのことを心配している立場というものも人間には多いわけであります。それからまた非常にゆったりし過ぎてしまって、その代わり感覚が敏感になって、頭では問題を考えないんだけれども、何となく不安で落ち着かないという状況もあるわけでありますが、その両方が消えるときが「虚空ガ地ニ落ツル時」という表現を取っているわけでありまして、それがまたこのてがしわの木が仏になる時期というふうな表現をしているわけであります。

 そういうふうな二つの条件というものが、いつ来るか、いつ来るかというふうに待っているようなことを意味しているわけではない。

 「栢樹を問取し、仏性を問取す」、そこではこのてがしわの木がどういうものかということを質問し、また仏としての性質がどういうものかということを説明しているのである。

 「成仏を問取し、時節を問取す」、人間が本当の人間になるときがどういうことかということを問いかけており、また、そういう事実が起こる現在の瞬間がどういうものかということを問いかけている。「時節」という言葉がありますが、この「節」という字は非常に短い部分という意味でありますから、道元禅師は時節という言葉を今日の言葉でいうならば、現在の瞬間のために使っておられると、こういう解釈をしております。

 「虚空を問取し、落地を問取するなり」、ここで趙州従諗禅師はこの世の中の様子が一斉に変わると。それが何を意味するかというと、自律神経がバランスして考え過ぎる状態も消えた、敏感過ぎる状態も消えた。それが大空が地に落ちるという時期であり、そういう意味でのわれわれの住んでいる空間のことを質問している。それが「虚空を問取し」。「落地を問取するなり」、いままでさまざまのことを頭で考え過ぎていた、あるいは感覚が敏感過ぎてびくびくしていた。そういう状態がなくなるということを「落地」という言葉で表現し、そういう変化というものについて質問をしているのである。

 「いま大師の向僧道するに、有と道取するは、栢樹仏性有なり」、その僧侶の質問に対して趙州従諗禅師が「ある」という返事をした。それは、「栢樹仏性有なり」、このてがしわの木といえども仏としての性質を持っているという意味だ。

 普通、このてがしわの木は一つの植物にすぎない、心があるはずがない、だから仏としての性質もあるはずがないと、こういうとらえ方をするわけでありますが、仏教の立場では、この世の中の一切に関連して、程度の違いであって、本質的な違いはないという考え方を持っております。ですからそういう点では、人間も、動物も、鳥も、魚も、あるいは草も、木も、石も、砂も、この世の中の一切のものが本質的な違いがあるというよりは、段階的な違いでしかないと、こういう考え方をしておりますから、単なる植物の一種であるこのてがしわの木にも仏としての性質があるという返事をしたわけであります。

 「この道を通達して、仏祖の命脈を通暢すべきなり」、そこで、この趙州従諗禅師がこのてがしわの木にも仏の性質があるという返事を聞いて、物事の意味を十分に理解すべきである。

 「いはゆる栢樹に仏性ありといふこと、尋常に道不得なり、未曽道なり」、ここで、このてがしわの木に仏の性質があるという主張をしているけれども、このような主張というものは、「尋常に道不得なり」、普通は主張することのできないような主張である。「未曽道なり」、いまだかつて誰もいわなかったところである。

 このことが何を意味するかというと、人間はこの世の中を精神的に考えて、清らかな世界と汚い世界というふうな形に分けて説明するわけでありますが、仏道の世界では、この世の中は現実そのものであるから、事実そのものが眼の前にあるのであって、それをさまざまの言葉で区別するよりも、宇宙全体を一つの現実としてとらえるという考え方がありますから、このてがしわの木に仏性はないというふうな差別的な考え方ではなしに、この世の中の一切のものに仏としての性質がある。だからこのてがしわの木も当然仏としての性質があると、こういう返事をしたけれども、この主張というものは普通はなかなかいえないところである。趙州従諗禅師以前にこういう主張が行なわれたというわけではないと、こういうことをいわれております。

 「すでに有仏性なり、その為体あきらむべし」、そうして、このてがしわの木に仏の性質があるといっておられるんだから、その様子がどんなものかということをはっきりさせる必要がある。

 「有仏性なり栢樹、いまその次位の高低いかん」、仏の性質をこのてがしわの木が持っている。そのこのてがしわの持っている順番というものは高いのか低いのか、どの程度のものなのかという質問が当然出て来る。

 「寿命身量の長短だづぬべし、種族類族きくべし」、その点では、このてがしわの木についてもどのくらいの生命を持っているか、あるいはこのてがしわの木の重量がどのくらいかというふうなことを尋ねてみるべきである。「種族類族きくべし」、どんな種類に属しているのかということを尋ねるべきである。

 この辺の文章は、科学的な検討も必要だと、こういう主張であります。このてがしわが寿命がどのくらいであるとか、木の重量がだいたいどのくらいあるとか、どういう種類に属するかというふうなことを尋ねてみるべきである。

 植物の種類については、欧米では分類が非常に進んでおりまして、きわめて現実に分類が行なわれておりますが、東洋ではそれほどでなくても、やはり科学的な立場から事実そのものを調べるという意味での態度も必要だということをいわれているわけであります。

 「さらに百千の栢樹、みな同種姓なるか、別種胤なるか」、そこで、百千という無数のこのてがしわの木があるけれども、それがみんな同じ種類なのか、あるいは別の種類なのか。

 「成仏する栢樹あり、修行する栢樹あり、発心する栢樹あるべきか」、このてがしわの木にも仏としての性質があるという以上、仏になった栢樹子もあれば、仏になろうとして努力している栢樹子もあり、仏になりたいという気持ちを起こした栢樹子もあるというふうに考えたらいいのかどうか。

 「栢樹は成仏あれども、修行発心等を具足せざるか」、逆にこのてがしわの木は仏になるということはあり得る。つまり、この世の中の一切が仏だという考え方に立てば、このてがしわの木も例外ではないという考え方ができるけれども、そういう意味でこのてがしわが修行をし、また、真実を得たいという気持ちを起こすことができるのかどうか。

 「栢樹と虚空と、有甚 因縁なるぞ」、そうして、このてがしわの木と、この世の中のさまざまのものをすべてその中に含んでいる空間とがいったいどういう関係があるのか。

 「栢樹の成仏、さだめて待儞落地時なるは、栢樹の樹功、かならず虚空なるか」、そうして、このてがしわの木が仏になる時点というものは、おまえ自身が地面に落ちるときを待って成仏が行なわれる。「儞落地」というのは何を意味するかというと、人間が地球の上に生きていることに気がつくということ。人間がどういうところに生きているかというようなことについて、具体的に自分たちが地球の上に立って動いているという自覚というのは意外に少ない。

 よく上の空に生きているというような考え方もある。上の空に生きているということは、頭で考えたことと事実との区別がつかなくなって、自分の頭で考えたことがこの世の中の本当だと思っているような立場もあるから、そこで、「儞落スル時ヲ待ツナルハ」というのは、各人が現実の世界に生きている、地球の表面に生きているということに気がつくときという意味でありまして、「栢樹の樹功、かならず虚空なるか」、その点では、このてがしわの木というものは必ずこの空間の中に存在するという考え方なのか。

 「栢樹の地位は、虚空それ初地か、果位か、審細に功夫参究すべし」、もしこのてがしわの木に仏になるという性質があるとするならば、現状はその最初の段階なのか、あるいは最終段階なのかというふうなことを細かく考えてみるべきである。

 「我還問汝趙州老、儞亦一根枯栢樹なれば、恁 の活計を消息せるか」、そうして、自分としては逆に趙州従諗禅師に対して尋ねてみたい。あなたも一本の枯れたこのてがしわの木と同じものなのかどうか。そういうふうな枯れた一本のこのてがしわの木とするならば、その様子というものがどんなものか知っておられるか。

 「おほよそ栢樹有仏性は、外道二乗等の境界にあらず、経師論師等の見聞にあらざるなり」、一般的にいうならば、このてがしわの木が仏としての性質があるという考え方は、「外道」、仏教を信じない人々。

 「外道」、仏教を信じない人々というのが何を意味するかというと、今日の言葉でいうならば、観念論者と唯物論者。そういう二つの仏教とは違う思想を持っている人を「外道」と呼ぶわけであります。それから「二乗」というのは、仏教の考え方を持っているけれども、理論だけに頼る仏教徒としての声聞乗という立場と環境だけを大事にする縁覚乗という立場の二つが二乗でありまして、そういう立場と現実を基礎にした仏教徒の立場とは違う。そういう意味で「外道二乗等の境界にあらず」。「経師論師等の見聞にあらざるなり」、経典を教えている人、あるいは経典の注釈を教えている人々の経験とは違う。

 「いはんや枯木死灰の言華に開演せられんや」、「枯木死灰」というのは、仏道修行を欲望や生命を抹殺することが目標だという形で、非常に禁欲的な生活をして人間の生命を抑えつけてしまおうという努力をする人々を「枯木死灰」というわけでありますが、そういう枯木死灰の人々の言葉によって説明することはできない。

 「ただ趙州の種類のみ参学参究するなり」、そういう意味では、趙州従諗禅師に類する人々が、この世の中の生き生きとした実体というものを勉強するだけの考え方を持っていた。そこで、「ただ趙州の種類のみ参学参究するなり」。だからわれわれの生きている世界というものも、そういう生き生きとした現実としてとらえるべきだという主張が行なわれているわけであります。

 

 そうして最後に一一六ページのところで、

 「いま趙州道の栢樹有仏性は、栢樹被栢樹礙也無なり、仏性被仏性礙也無なり」、いま趙州従諗禅師がこのてがしわの木には仏との性質があるといったけれども、そのこのてがしわの木に仏としての性質があるという主張は、「栢樹栢樹ニ礙エ被ルヤ無ヤ」、栢樹が栢樹に礙えられるというのはどういうことを意味するかというと、このてがしわの木がこのてがしわの木そのものによって拘束される、縛られる、邪魔をされると、こういう意味であります。それは何を意味するかというと、このてがしわの木が現実としてあるという意味であります。したがって、そういう状態かどうかということが「栢樹栢樹ニ礙エ被ルヤ無ヤ」という言葉でありますし、「仏性仏性ニ礙エ被ルヤ無ヤ」、仏としての性質が仏としての性質として現実のものとしてあるかどうかと、こういう意味であります。

 「この道取、いまだ一仏二仏の究尽するところにあらず」、こういう主張というものは、真実を得た一人の人、二人の人というふうなわずかな人々が追求してその本当の意味を知ったところではない。

 「仏面あるもの、かならずしもこの道得を究尽することうべからず」、そうして、仏教徒としての様子を示している人々でも、この主張に対しては、その意味を十分究め尽くすということがなかなか難しい。

 だから、現実そのものをつかむということ、この世の中が現実そのものであって、頭で考えた架空の世界ではない、また眼に見えた、耳に聞こえたというふうな外界の刺激だけがこの世の中ではないと、こういう考え方に気がつくということが、仏道の真実を得るということを意味しておりまして、そういう現実に触れるという事実は、仏教を勉強している人々の中でも誰もがその境地に行き着くということはいえないと、こういう主張を、「仏面あるもの、かならずしもこの道得を究尽することうべからず」。

 「たとひ諸仏のなかにも、道得する諸仏あるべし、道不得なる諸仏あるべし」、だから仏道の真実を得た人の間でも、このてがしわの木に仏の性質があるというふうなことをいえる人もいるけれども、いえない人もいる。

 「いはゆる待虚空落地は、あるべからざることをいふにあらず、栢樹子の成仏する毎度に、虚空落地するなり」、そうしてまた物語の中で、このてがわの木が仏になるというのは、空間が地面に落ちるときだと、こういう主張があるけれども、この「虚空ノ落地ヲ待ツ」という言葉も、「あるべからざることをいふにあらず」、とても起こり得ないようなことが起きることを意味しているわけではない。「栢樹子の成仏する毎度に、虚空落地するなり」、つまりこのてがしわといえども本当の現実に気がつくときというものは、空間の様子が変わるものだ。大空に広がっている空間というものが地面に落ちてくることだ。それは架空の世界が消えて、自分たちが現実の世界に生きているということに気がつくと、こういうことを意味しているわけであります。

 ですから『正法眼蔵』に書かれた仏教思想というものは、この世の中が現実だという基本的な思想を基礎にしない限りとうてい理解することはできない。

 この仏教に対して、この世の中が現実の世界だという主張を基準にして説かれた仏教書が、私の知る限りではもう一冊ある。それが龍樹尊者のお書きになった『中論』。だから『正法眼蔵』と『中論』とを読む限り、釈尊の教えが、われわれはこの現実の世界に生きている、そのことに気がつくべきだ。そのことに気がつかないと、この世の中の本当のものはわからないと、こういう主張を釈尊がお説きになった。それが連綿として少数の人々によって受け継がれて今日まで幸いにして続いてきたというのが実情だというふうに考えることができます。

 そこでそういう意味で、「いはゆる待虚空落地は、あるべからざることをいふにあらず」、とうてい起こり得ないようなことを架空の物語としていっているわけではない。「栢樹子の成仏する毎度に、虚空落地するなり」、庭先に立っているこのてがしわの木も現実の存在だということに気がついたときに、空間が地面に落ちるようなものの見方の変化があるんだ。

 「その落地響かくれざること、百千の雷よりもすぎたり」、そういうふうに自分たちの生きている環境のとらえ方が変わるということは、百、千という無数の雷が鳴るよりも大きな音がする。

 「栢樹成仏の時は、しばらく十二時中なれども、さらに十二時中なり」、そこで、このてがしわの木が仏になるという時点は、とりあえず二十四時間の一部ではあるけれども、さらに現実の二十四時間である。架空の世界の出来事ではない。われわれが生きているこの現実の生活の中の出来事だ。

 「その落地の虚空は、凡聖所見の虚空のみにはあらず、このほかに一片の虚空あり、余人所不見なり、趙州一箇見なり」、そうしてそのように空間が地面に落ちてくると、地面に落ちてくる空間というものは、「凡聖所見の虚空のみにはあらず」、凡人や聖者が眺めているような空間だけではない。「このほかに一片の虚空あり」、凡人や聖人が眺めている空間以外にもう一つの種類の空間がある。「余人ノ見ザル所なり」、それはほかの人が経験することのない空間ではあるけれども、「趙州一箇見なり」、趙州禅師はそのような形で徹底した現実の世界を見た。

 「虚空のおつるところの地、また凡聖所領の地にあらず、さらに一片の地あり、陰陽所不到なり、趙州一箇到なり」、そうして、空間が地面に落ちてくる。つまり大空が地面に落ちてきて、われわれの生きている世界が完全に現実的な世界になるという場合には、「また凡聖所領の地にあらず」、凡人や聖人が生きている場所とは違う。どう違うかというと、徹底した現実の世界だ。そのことを、「さらに一片の地あり」、普通の人々とは違う世界があって、それはどういう世界かというならば、「陰陽到ラザル所なり」、われわれはこの世の中を陰と陽という二つのもので理解するけれども、そういう陰と陽とも現れてこないような現実の世界だ。「趙州一箇到なり」、趙州禅師一人はそういうふうな徹底した現実の世界に到達された。

 「虚空落地の時節、たとひ日月山河なりとも、待なるべし」、そこで、大空が地面に落ちるような時点というものは、仮に太陽であろうと、月であろうと、山であろうと、川であろうと、すべてがそういう現実になる時期というものを待ち構えているというふうな状況がわれわれの生きている世界であろう。

 「たれか道取する、仏性かならず成仏すべしと」、その点では、常識的に、あるいは頭の中で考えれば、仏としての性質は間違いなく仏になるというふうな考え方をするけれども、本当にそんなことがいえるのかどうか。そういう頭で考えた抽象的なものがわれわれの生きている世界なのかどうか。そういう点では、「たれか道取する、仏性かならず成仏すべしと」、仏の性質は必ず仏になるというふうなことを誰がいったのか。

 「仏性は成仏以後の荘厳なり」、仏としての性質は、一切が真実である、その後の厳かな状況そのものを指すのである。だから仏性でないものが仏性になるという考え方よりは、この世の中の一切が仏性であって、そのことに気がついて以降、この世の中が非常に厳かな、すばらしい世界として見ることができるようになるのである。

 「さらに成仏と同生同参する仏性もあるべし」、そこで、宇宙全体が真実になった。そういう宇宙全体が真実になった状況の中で、同じように生き、同じように体験する仏としての性質もあるであろう。

 「しかあればすなはち、栢樹と仏性と異音同調にあらず、為道すらくは何必なり、作 生と参究すべし」、このように考えてくると、「栢樹と仏性と異音同調にあらず」、このてがしわの木という言葉と仏性という言葉とは、言葉の音声は違うけれども同じ内容のものだというふうな意味に理解すべきではない。「為道すらくは」、そのことを言葉で表してみると、「何必なり」、これこれと断定することのできない何かだ。「作 生と参究すべし」、われわれの生きている世界はいったいどういう世界なのか、仏というものはどういう世界なのか、このてがしわの木の実体はどういうものなのか、そういうことを勉強してみるべきであると、こういう表現をされているわけであります。

 こういう表現からしますと、このてがしわの木に仏性があるというふうな主張も、それがある、なしというふうな理屈の問題ではなしに、このてがしわの木も宇宙全体の一部であるから、やはり仏としての性質が含まれているというふうなことを実感できるかどうかのほうが問題であって、そういう形で、この世の中の一切が現実であり、われわれはまさに現実の中に生きているということに気がつくときというものが、仏道の本当の状況に行き着いたときである。そのときの様子というものを考えてみると、あまりはっきりした説明のできるものではない。この世の中とはいったい何なんだろう、仏性とはいったい何なんだろうと、そういう疑問が出て来て、それを一所懸命勉強するような状況の中に仏があり、仏道があると、こういう主張をしておられるわけであります。

 「正法眼蔵栢樹子」

 「仁治三年壬寅五月菖節二十一日、在雍州宇治郡観音導利院示衆」、これが西洋の紀元でいうと一二四二年でありまして、旧暦の五月二十一日に山城国というわけでありますから京都でありますが、京都の宇治郡の観音導利院においてたくさんの僧侶にこの「正法眼蔵栢樹子」という巻を説いた。

 以上が「正法眼蔵栢樹子」という巻の全体であります。この「庭前栢樹子」という物語は、中国の仏道の世界で非常に有名な物語でありますが、どういう意味で理解するかということについて、道元禅師がご自分の立場からきわめて丁寧に説明されたというのが、この「正法眼蔵栢樹子」という巻の意味だということになります。

 ですからわれわれが仏教を勉強する場合には、仏教は難しくてよくわからない、わからないものを無理して勉強する必要はないというふうな態度ではなしに、『正法眼蔵』を頼りにして克明に意味を勉強してみる。そうして仏教がどんな哲学か、どんな思想かということをつかむことが非常に大事だという問題があります。

 なぜ大事かといいますと、われわれは今日欧米の文化の世界の中で生きている。欧米の世界の一つの特徴は何かというと、理論を通じて一切のものを勉強しようという態度であります。そのことが今日の世界の文明をリードしているということでもある。

 だからこの世の中がどんなものかというふうなことを説いた仏教の哲学についても、理論的に詰めていかないと二十一世紀以降は役に立たない。漠然と理屈の通らないことを述べ合って、それが仏道だ、それが真実だというような形で、甘い判断で二十一世紀以降人類は生きることができない。なぜかというならば、人類の頭脳の水準がそれ以上の水準に入りかけているということが実情であります。

 欧米の文化の偉大さは、すべてを理論的にとらえようとして真剣に何千年も命がけで勉強したというところにある。われわれは幸いにしてそれを勉強することができたから、欧米の水準のところまで行くことができて、その後どう進むかというと、東洋の一角にあった釈尊の教えを基準にして、さらに現実的な世界に人類の文化が入っていかなければならない。その主導的な役割をするのが仏教思想だという事情がありまして、そういう意味で仏教思想というものは勉強していくべきだと、そういう主張が道元禅師の思想の中には説かれているということになります。

 

 それでは、まだいつもより少し時間が早いわけでありますが、一つの巻が終わりましたので、ここで話のほうをとめまして、またご質問を受けるということにしたいと思います。何かありましたらどうぞ。

 

   ここで「虚空落地」という言葉が出て来て、栢樹が成仏するということは先生のお話でよくわかるんですが、空間の様子が変わるとか、ものの見方が変わるということのご説明があったんですけど、その虚空が落地するということ自体はどういうことなんでしょうか。

   それはどういうことかといいますとね、夢のようなぼんやりとした情景が消えて、一切のものがありのままに見えるという情景です。というのは、ふだんわれわれがこの現実の世界を克明に正しく見ているかというと、必ずしもそうではない。たまたまアッと気がつくことがある。アッと気がついたときは、それ以前は何も本当のものは見えていなかった。だからこの世の中について、「ああ、そうか」ということに気がつくときが虚空が落地するときです。

   そうすると、その虚空が地面に落ちてくるということと、そこがちょっと結びつかないというか、もうすでに虚空は地に落ちて、地にあって存在しているものが落ちてくるわけですよね。

   うん。だからその点で、何がかかっているかというと、人類の意識が不明確だから、漠然としたくもりがかかっているんです。それが落ちるときが「虚空の地に落ちるとき」という表現になっているというふうに見ていいと思います。

   そうすると、その虚空が地に落ちるという表現は、何かほかの言葉でそういうことを表している言葉ってありますか。

   だから言葉でいうよりも、どういう情景かというと、このわれわれの自律神経が(こういうふうにと、笏を傾けて)右寄りになっていると人間は頭で問題を考えているんです。そうするとその人が生きている世界というのは、思想の世界、頭で考えた世界。こうではなかろうか、ああではなかろうかという考え方の世界です。

 それから副交感神経が強いときには、感覚が敏感になっているから、畳が見えた、机が見えた、電気が見えたというふうな感覚の世界で生きているわけです。

 ところが真っすぐになったときに、人間は現実に出会うわけです。現実に出会ったときに右寄りの状況とも違う、左寄りの状況とも違うという世界があって、この真ん中の状態になったときのことを「虚空が地に落ちる」という表現をされていると、そういうふうに見ていいです。

   そうすると逆に、その栢樹子の成仏から、「虚空落地」、結局同じことなわけですよね。

   そうそう。

   そういうふうに考えれば、虚空が落ちてくることはどういうことなんだろうという、その言葉の意味を考える必要はなくて、その中身だけを、特別なことが起こっているわけじゃないと書いてありますよね。

   うん、そうそうそう。

   ですから、そういうふうに両方合わせて読んでいくということでいいわけですか。

   そうそう。だからそこでね、自律神経の状態を中心にした仏教思想の理解が実に偉大なんです。それがないうちは釈尊の教えが何であるかが読めなかった。ところが、欧米の心理学、生理学が発達して、交感神経の強い状態と副交感神経の強い状態と二種類ある。そしてその二つのものと違う真ん中の状況があるという理論がはっきりしてきたとき、釈尊の教えが右寄りの状態でもない、左寄りの状態でもない、真ん中が基準だなということが科学的にもはっきりし始めたというのが現在の実情です。

 だから二十世紀以降、仏教の理解の仕方は非常にはっきり変わる、また変えなければならない。それと同時に、その考え方を活用することによって世界の文明は変わるというふうに期待していいと思います。

   その場合は、一一七ページの二行目の「いはゆる待虚空落地」の「待」というのはどういう意味があるんですか。

   待つという意味です。

   待つでよろしいんですか。

 答  そうそう。

   一一七ページの前から七行目なんですけど、「待なるべし。たれか道取する、仏性かならず成仏すべしと」、いま先生がいわれたように、仏性というものを交感神経のバランスした状態というふうに取るとしますと、交感神経がバランスをするとその状態は仏になっている状態である。この交感神経がバランスした状態というのは、実は仏になってみるとその様子がよくわかるということなんですか、「以後の荘厳なり」というのは。

   そうそう。それと同時に、自律神経がバランスしていないと仏の世界は見えないということ。

   それで、「さらに成仏と同生同参する仏性もあるべし」、こうなるときは、要するに仏になったという状態と同時にバランスすることがあるということですか。

   そうそう。バランスした状態と仏の状態と同じことだということ。

   これは別にいっているように聞こえるんです。仏性にもいろいろ種類があって、「さらに成仏と同生同参する仏性もあるべし」、となっていると、この仏性というのは、要するに仏になった状態と別の仏性なんですか。

   いや、だから仏性というのは、その状態であり、仏になるというのは、そういう状態に変わる、なるという意味だから、現在の瞬間においては、仏性というものと成仏というものと区別できないというのが実情です。だからそういう状態になるかならないかの違いだ。

   そうすると、「仏性かならず成仏すべしと」、仏としての性質は、持てば必ず仏となるというのと、ここのところの「成仏と同生同参する仏性もあるべし」と、この二種類の仏性があるように聞こえるんですけれども。

   ここでは「あるべし」というふうに表現しているけれども、実情からいうならば、バランスしているときが仏だし、バランスしていないときは仏でない。だからバランスしているときと仏とは同じものだと、こういう主張です。だから「あるべし」という表現になると、いかにも別の仏性もあるような表現にはなっているけれども、この辺は道元禅師が表現を遠慮しているんですよ。道元禅師の判断としては、バランスしているときが仏だと、こういう主張だけれども、あまり断定的にいうと品がないから、「仏性もあるべし」という柔らかい表現をされたというふうに見ていいと思います。

   先ほど先生は「仏性は本質的には仏性というものに変わりがないんだけれども、段階的には違っているんだ」とおっしゃっていましたが、そういうこととは違うんですか。

   いや、その段階的というよりも、仏か仏でないかも瞬間的なものなんですよ。だから右寄りになっているときもあれば、左寄りになっているときもある、真ん中になっているときが仏だと、こういう主張なんです。だから右寄りになっているときもある、左寄りになっているときもあるということだけれども、真ん中になったときが仏だよという主張なんです。

 いや、そんなのは珍しいかというと、仏道の主張では、真ん中が人間の本来だという主張なんです。左寄りになっているのも人間の異常現象だ、右寄りになっているのも人間の異常現象だ。「いやあ、そんな厳しいこといわれちゃかなわない。右寄りになっているのも人間だし、左寄りになっているのも人間だ。人間はそういうゆとりがあるから楽に生きていけるんだ」という考え方のほうが強いけれども、仏教ではそういうことをいわない。真ん中の状態が本当の人間だから、本当の人間になりなさいというのが釈尊の教えです。

   先生、いまのところ、もう一度よろしいですか。一一七ページの後ろから四行目の「しかあればすなはち、栢樹と仏性と異音同調にあらず」という主張は、成仏と仏性を栢樹と仏性に……。

   うん。だから言葉を置き換えたって問題に違いはないです。

   そうすると、「さらに成仏と同生同参する仏性もあるべし。しかあればすなはち」の「しかあればすなはち」は、「さらに成仏と同生同参する仏性もあるべし」を取っているわけですか。

   うん、そう。だからそういう点では、一致している場合がある。それだから今度はこのてがしわの木と仏性とが言葉は違っているけれども同じだというふうにはいえない。

 なぜいえないかというと、言葉の問題でないから。現実の問題だから、同じだとか同じでないとかいうことがいえない。だから「為道すらくは何必なり」、言葉で表現しようとすれば、必ずしもはっきりしないものだ。

   そうすると、この「為道すらくは何必なり」はここにもくっつくわけですか。「さらに成仏と同生同参する仏性もあるべし」もこの中に入るわけですか。

   うん。だからそういう表現ができるし、さらに栢樹と仏性とが言葉は違うけど同じものだという表現もできる。だけど、さらにもっと現実の世界にいくならば、これこれとという言葉で説明できないようなものが現実だし、仏性だ。

   ここで最終的に栢樹と仏性は違うという主張じゃないんですか。

   うん、違うという主張じゃなくて、同じだということもいえるけれども、そういう言葉の説明だけでは本当の実体に触れることはできない。だから一番最後のところで、「じゃどうしたらいいんだ」というふうに勉強すべきだ。「どうしたらいいんだ」という言葉の答えは、坐禅をしなさいと、こういうことです。

   そこのところに「仏性は成仏以後の荘厳なり」という言葉があるんですが、この「以後」というのは、この本当の意味をいえば、「仏性は成仏の正当恁 時の荘厳」というほうが正しいというか、「以後」というと何か時間がつながっているというように思ってしまうんですが、そこで「成仏と同生同参」という言葉が生きてくるというか、その成仏の瞬間が荘厳であるというふうにとらえちゃいけないんですか。

   うん、そう。だから「以後」というのは、仏になったときと仏性とは同じものだという主張です。

   「以後」というのは、それから後ということじゃなくて…。

   うん。だからこの笏で説明すれば、右寄りなのがだんだん真ん中のほうになってきて、真ん中になったときが仏だ。

   それをここでは「成仏以後」といっているわけですか。

   そうそう。だから真ん中になったときから仏の状態が始まるということ。

   はい、わかりました。

   そこのところで先生はさっき「段階的」とおっしゃったと思うんですが。

   うん。だから段階的というのは、右寄りの状態のときもあれば、左寄りの状態のときもある、そして真ん中になったときが仏だ。

   それが「虚空落地の時節、たとひ日月山河なりとも、待なるべし」の「待」ということなんですか。

   そうそう。だからそういう点では、右寄りのときも待っている、左寄りのときも待っている、こういう真ん中の形になったときが仏だと、こういう主張です。

   「栢樹と仏性と異音同調にあらず」ということで主張しているのは、言葉じゃないということなんですか。

   というよりも、頭で考えると言葉は違うけれども同じものだという解釈ができる。しかしそれはまだ言葉で考えた解釈の問題だから、現実はもっと漠然としたもので、言葉では表現できないものだと、それが「何必なり」という言葉です。

 それじゃいったい何なんだという疑問が出て来る。それに対して、そういう疑問に答えるものが坐禅の修行だと、こういう主張を道元禅師は意味しておられるというふうに見ていいと思います。

   栢樹と仏性というのは「何必なり」ということなんですね。

   だからそういう点では、「異音同調」までは言葉の説明だけれども、そういう言葉の説明以上の何かだと、そういうことをいって、じゃいったいそれは何なんだということになれば、坐禅をして実感する以外に手がないと、こういうことです。

   はい、ありがとうございました。

   この「何必」という言葉は「現成公案」という巻の最後のほうにも出てまいりましたね。

   はい。

   やはりこういうふうに落ち着くところに落ち着くというか……。

   うん。だから現実というものは言葉で説明できないものだということの一つの表現です。

 「いや、そんなこといわれちゃ困る。言葉で説明がわかりたいために勉強しているんだ。結論的に言葉で表現できないようじゃ困る」という主張が出て来るけれども、仏教の主張というのは、現実というものは言葉では説明できないものだ、だからそれは体験で実際に味わうしかないと、そこに坐禅としての修行法の意味があるという主張なんです。だから坐禅がなければ仏道はないんだというふうに見ていいです。

   いまの若者が実社会に出るのが怖くて、働きもしないし、就職活動もしないし、勉強もやる気がないと。それはなぜかというと、やはり現実社会、人間社会といいますか、そこに出るのが怖いという子が非常に多いんですね。それは専門家にいわせると、学校や家で社会に出るための訓練というのをほとんどやっていないから、現実社会が怖くて仕方がない。だから出るのが怖いということになるわけですけど。

 恐らく西嶋先生はそんな実感を持たれたことは一回もないと思いますし、先生の世代ではそういうことはないと思いますけど、どういうふうにお考えになりますか。

   これはね、私は正直いうと、子供を遊ばせないからだ。遊んで、失敗したり怪我をしたりして現実を知るんですよ。子供がそういう経験を持たないで、家から学校に行って勉強して、また家に帰って来て勉強すると。そんなことであれば、人間の個性の育つはずがないです。

 だけども、この世の中は競争の社会だから、ちょっとでも先に出て世の中で楽ができるようにという形の社会体制になっているから、人間が人間として生きていないんですよ。子供が子供として育っていないんです。そういう社会は危険だと思う。だけども、まあ社会の一般の通念としては、人に負けてはいけない。負けると落伍して惨めな生活になるからということで、「よーい、ドン!」でみんなを競争させて、あなたは一等、あなたは二等ということで決める社会になっているから、だから人間社会がもう行き過ぎてしまってゆがんだ社会になっているんです。そのことに気がついて健全な社会に戻さなきゃならんという事情があると思います。

   おとついでしたか新聞を見ていましたら、日本の子供の学力が大幅に低下して、これからの日本は困ることになるという話が出ていましたけど、これほど豊かな、恵まれた、食べ物がいっぱいあふれている国で何でそんなふうに学力が低下するんでしょうか。

   教育制度の劣悪ですよ。今日の日本の教育制度は実に愚劣になっています。人間を育てるというふうな態度がない。競争をする道具をつくるということに夢中になって、立派な道具をつくろうとしているから、人間の育つ余地がないんですよ。だから人間として生きたいという人は、そういう激しい社会に入って行くことが怖くなっちゃうんです。

   私もチラッと新聞の見出しを見ましたけど、日本の子供たちの学力がトップクラスでなくなったというのを読んで、隣にいたドイツのバベールさんという女の人に、「日本はだいぶ学力が落ちたらしい。トップクラスといえないそうだ」という話をしたらば、「ドイツは何番に載っているか」というので、「いや、ドイツの名前はない」といったらば、「じゃあドイツは日本以下じゃないか」と笑い出したんですね。

 そうなってくると、トップクラスにいるかいないかということ自体もそれほど重要なことなのかということになるんですけど。

   うん、そう大して重要なことではない。だから人間が子供らしく育って、立派な一人前の人間になればいいんですよ。そうするとどんな苦労に当たっても、工夫をして生き抜けるだけの力が人間にないと、人類社会は惨めなんです。温室で育ったようなひ弱な形で、ちょっと苦難にぶつかると負けてしまう、折れてしまうというふうな弱い人間じゃ社会で役立たないですよ。

   そのことに関しまして、きょうは「現実」という言葉を何十回も聞かされまして思い出しますのは、現実というのは変化しますよね。確かにいろいろ変化するわけです。ところが人間というのは、過去の成功体験があると、それが記憶に残っているから、困難に面したときに、「昔俺はああやってよかったんだから、今度もこうなるんだ」といってやりだして、それが失敗のもとになる。つまり「成功は失敗の母」ですか、私は逆にいうんですけどね。そんなことも結構多いことはいろんな人から聞いたことがありますけれども、先生はどういうふうに考えられますか。

   だから過去というのは実在じゃないです。過去がどんなに偉かろうと、どんなに悪かろうと、過去は現実でないから問題にしなくていいです。

   ところが、記憶だけで、かつてはああだった、こうだったというのは……。

   ああ、そんなのは、夢を追っかけているだけのことで、もうぜんぜん無価値なんですよ。

 だから、「私は元何々でございます」というようなことで挨拶しているけれども、昔はそうであったかもしれないけれども、大事なのは現在なんです。

   一一六ページの一行目の「栢樹被栢樹礙也無なり」ですね、このことについてご老師は一一七ページの「観音導利院示衆」の次に解説をなさっていますね。これが非常に重要なのは、最後に仏性ということについて、これが仏性なんだと。禅なり仏教を勉強していますと、やはり無仏性、有仏性ということは、別段公案禅をやる、やらないじゃなくて、どうしても気になりますね。

 それで、これを拝見しますと、たとえばこの「有仏性」とはどういうことなんだということについて、まあ何でもそうですけど、「ああ、これがこのてがしわだ」と認識するたとえば人間とか、そういうものがなくても、絶対的存在としてこのてがしわというのがありますね。

 そういう一面と、それからたとえばわれわれから見てこのてがしわが、さっきの科学的な把握とか究明というものが必要なんですよとここに出ていましたね。ということをいうと、こうこうこうだという眼でこのてがしわを見たときには、今度はそこに当然そういう概念というか、認識に束縛されますね。

 この二つのことをもって、実情を称して「有仏性」というんだと、こういうふうに書いてありますが、それはたとえば有名な「趙州狗子」みたいな、犬に仏性がありますか、ある場合にはない、無仏性、ある場合は有仏性ですね。犬も確かに絶対的な存在の犬であるし、同時にいろんな認識というか、見られた場合の犬と。

 そうすると趙州さんはそういう意味で、あるときは狗子に仏性ありといったり、ないといったり。これは非常に面白いので、私は頭で考えてみたいなということで昔ちょっと考えたことがあったんです。

 これを読みますと、この有仏性、無仏性というのはそういう認識でよろしいんですか。

   うん、そう。だからそういう点では、現実そのものだという主張なんです。だから人間が言葉で「仏性」という言葉を使ってあるとかないとかいうことをいうけれども、そんな理論はどっちでもいいんだ、現実があるだけだ、現実の中にわれわれは生きているという実情に気がつくことのほうがはるかに大事だと、そういう主張です。

   それをさらにもうちょっと分析的に考えると、絶対的な認識の対象としての存在、これを併せて有仏性だ、無仏性だといっていると、そういう理解でよろしいんですか。

   いや、有仏性、無仏性というのは、頭の中における判断です。だけど、現実というのはそういうものを乗りこえている。だからあるとかないとかいう議論そのものはあんまり意味がないし、あるといってもいいし、ないといってもいい。その奥にある現実をつかみなさいというのが仏教の主張です。

   わかりました……というか、もうちょっと考えてみます。(笑)

   「古仏心」という巻がありまして、そこに「牆壁瓦礫」という言葉が出てまいります。結局、虚空が地に落ちるときに栢樹子が成仏すると。それは仏教を修行している人が成仏するということでもあるんですけど、ほとんど同じことをいっているといっていいと思うんですね。

 結局結論がこういうふうに当たり前な結論であるならば、何でこんなややこしい勉強をやらなきゃいけないのか(笑)という疑問も当然出て来るわけです。

 それから「古仏心」というのは「牆壁瓦礫」ではありますけれども、いまの世界情勢というのはそんな四つの言葉でいえるような簡単なものではなくて、それこそあらゆる利権が絡み合ってイラクでチャンチャンバラバラ、ウクライナでドタバタやって、そういうご時世ですから、そういうことをひっくるめて先生何かご意見をお願いします。

   その点ではね、イラクで争いをしているのも仏性です。(笑)大砲でドンドン、パチパチやって、こっちが絶対勝とうなんて頑張っているのも現実です、真実です。二十一世紀の何月何日にはそういう事件がありましたというだけのことだ。

 あれはけしからんとか、大いに賛成だといってみたって始まらない。人類が愚劣か愚劣でないかはわからないけれども、地球上にそういう事実が何年の何月何日にはありましたということは疑いようのない現実であり、真実です。

   はい。

 それから一一六ページの最後の行に「栢樹被栢樹礙也無」とございますね。道元禅師の文章の中ではこういう表現がよく出て来るわけですし、これは先生のご提唱録の中にもしょっちゅう出て来るわけですけれども、ある方に対して、「あなたはあなたであっていいんですよ」というふうにある提唱録の中で先生が諭されているというか、教えられている、そういう発言が載っていました。

 それはどういう文脈の中にその発言が載っていたか、そこまで記憶にないですけれども、結局、他人に対して羨ましいとか、そういう気持ちというのはやっぱり持たなくてもいいと、そういう気持ちが消えていくということでもあるわけですね。

   うん、そうです、そうです。

   「今年一年を振り返って」という番組とか雑誌がよく出ていますけど、勝ち組と負け組みがはっきり分かれたとか、世の中の金持ちと貧乏人の階層が分かれてはっきりしたとか、そういううっとうしい話が結構広まっていますので、それと仏教とどういうふうに結びつくのか、そこのところもお話いただければと思います。

   そういう勝ち組、負け組みというのを分ける思想は、思想として非常に程度が低いです、愚劣な思想です。人間の価値というものは比較で決まらない。一人一人がそれぞれ宇宙でたった一つの価値を持っているんです。宇宙におけるたった一つの価値だから、隣と比較してどっちが上だ、どっちが下だなんていう思考は愚劣です。この世の中の価値がわかっていない。だから人間の相対的な価値を基準にして、どっちが偉い、どっちが劣っているというふうな話をするけれども、宇宙の本質がわかっていないから、そういう愚劣な考え方が残るんですよ。

   結局自分の所属している組織が勝ち組だったら自分も勝ち組のような感じがするし、組織が負け組みだったら自分の人間性も負け組のように感じてしまいますよね。

 そこのところで、「そうではないんだ」ということで仏教の力によって救われれば大きな力になると思うんですけど、それもなかなかたいへんな気がするんですけれども、先生はどういうふうに思われますか。

   だからそういう点で勝ち、負けなんていうのは一時的な現象ですよ。中国と日本と比較してみて、日本が中国に勝ったときがあるんです。今日は総理大臣が靖国神社に行っちゃいけないなんていわれるぐらい国力の違いが昔と変わっているんです。

 だから歴史的な現象というのは時々刻々に変わって、どっちが偉いか、どっちが偉くないかなんていってみたところで、一時一時の変化でしかない。時々刻々変わっているんだから、どっちが偉い、どっちが偉くないなんていうことは固定的なものじゃないです。

   はい。

   先週なんですけど、一一〇ページの後ろから五行目に「将錯就錯」という言葉の先生のご説明が「混沌を混沌としてはっきり認識すること」というふうに書いてありまして、先生は「錯(あやまり)ヲ将ツテ錯ニ就ク」とおっしゃられたと思うんですが、この混沌のほうがいい得ているんじゃないかと思うんですね。

 それでこの「錯」というのはこの『正法眼蔵』の中でずいぶん使われている字なんですが、この前後を読んでみると、「葛藤」という言葉を道元禅師は使われますよね。そういうことになんか私は一番近いかなというふうに思って、「錯(あやまり)」といってしまうと、全部の意味がつながらなくなるような感じがするんですが、その辺はどう考えたらよろしいんでしょうか。

   その点はね、中国語の「錯」という字は誤りという意味なんです。だから私のこの『現代語訳』は全部文字の意味に忠実なんです。

   先生はここで「混沌」という言葉を使われていますが、混沌と誤りというのだと、私はこの混沌のほうに近いと思うんですね。でも先生はご説明のときに誤りというふうにおっしゃったんですが、たとえば本文のところを見ますと、一〇九ページの終わりから五行目のところに「さらに道取するに渠無不是なり」という言葉がありますよね。先生は「これは誰も間違ってはいないんだ」というふうにおっしゃられたんですね。

 そうすると、「このゆゑに錯錯なり」ということと、「錯錯なるがゆえに将錯就錯なり」というところを見ると、誰も間違っていないんだったら、それはさまざまものがあると、混沌というか、葛藤というように、複雑なものがあって、そしてそれは複雑だから、さまざまの複雑なものでもってとらえないさというほうが、なんか意味が通じると思ったんですが……。

   だからここでね、「錯錯」という言葉には混沌という意味が含まれています。つまり、間違いだらけだ、何が何だかわからないという意味で「錯錯」という言葉が使われているんです。

   そうすると先生、やっぱり「錯」というのは間違いというか……。

   だから間違いが二つ重なっているから、何だかわけがわからないという意味で、混沌という意味になるんだと、そういうふうに理解していいです。

   そうすると、葛藤に近い意味というふうに取ってもいいですか。

   うん。だから「錯錯」というのは、そういう葛藤そのものを表現している。現実そのものは混沌としていてはっきりしないものだと、そういう主張です。

   いいですか、そういう考え方で。

 答  うん。だから「将錯就錯」というほうは、言葉どおりに、間違いが間違いだというふうにしっかり判断できることを意味している。

   ああ。そうすると同じ「錯」でも、「将錯就錯」と「錯錯」ということの「錯」が違うということですか。

   というよりも、「錯錯」という表現になると、間違いが重なっているから、はっきりわからないという意味に取っていいということになります。

   はい、わかりました。

 

 それでは、時間がきたようですから、普回向を唱えて終わりにしたいと思います。

普回向 唱和