開経偈 唱和

 何回か前の会合で泰純君の質問について少し鋭過ぎるから手控えたらどうかというご意見が出たようでありますが、私はそういう考え方は絶対に持っていない。仏道の世界というものは真剣に追究しない限り本当のことはわからない。だから質問の内容についても徹底して厳しくて構わない。厳しくなければ仏道の質問として役に立たない。厳しくなければ真実の追究には役に立たない。私はそういう考え方で仏教を追究してきた。だから、八十過ぎてわずかに釈尊の教えがわかりかけたなというふうな感じを持っているのは、そういうバカッ正直な追究をしてきたから。バカッ正直な追究がなければ釈尊の教えには到達しない。

 ただ幸いにして、そういう形の追究が最後のところに行き着くとこの世の中にはたった一つの真実しかないということが明白にわかってくる。それが仏道修行、それが仏道の勉強と、こういうことになりますから、そういう点では、質問の内容に手心を加えるなんていう気持ちはぜんぜん要らない。「西嶋をやっつけてやろう」と思って大いに厳しい質問をしてもらってちょうどいいということが仏道の追究にはあるというふうなことでありますので、どうぞ遠慮なく厳しい質問をしていただくということで一向に差し支えないと、こういう問題があろうかと思います。

 

 それではまたこの本のほうに入ってまいりますと、きょうは一三四ページの「雲門山大慈雲匡真大師」というところからになるかと思います。

 この「光明」という巻は、仏道の世界というものは明るいものだ、仏道の世界というのは暗いものでないと。今日世間一般では仏道の世界は暗いものだ、暗い顔をして真面目そうに頑張っていればそれが尊いんだという考え方がありますが、釈尊の教えはそういうものではない。釈尊の教えは太陽がさんさんと輝くような明るい世界の教え。だからそのことをこの「光明」という巻では道元禅師がお説きになっているということになるわけであります。

 

 そこで本文のほうを読んでまいりますと、

 「雲門山大慈雲匡真大師は、如来世尊より三十九世の児孫なり、法を雪峰真覚大師に嗣す」、雲門山大慈雲匡真大師という方は雲門文偃禅師といわれている人でありますが、「如来世尊より三十九世の児孫なり」、釈尊から数えて三十九代目の弟子、孫弟子に当たる人である。そうして、「法を雪峰真覚大師に嗣す」、雪峰義存禅師から法を伝えられた。

 「仏衆の晩進なりといへども、祖席の英雄なり」、その点では、仏道を勉強している人々の中では比較的後輩に当たるけれども、「祖席の英雄なり」、「祖」という字には坐禅を通じての仏道を中国に伝えた達磨大師の意味が含まれておりますから、「祖席の英雄なり」というのは、達磨大師が中国に伝えられた坐禅を中心にした教えの中における非常に優れた人物である。

 「たれか雲門山に光明仏の未曽出世と道取せん」、したがって雲門山匡真大師のところには、「光明仏」、光り輝く仏というものがいまだこの世の中に出ていないというふうなことはいえない。

 「あるとき上堂示衆云、人人尽有光明在、看時不見暗昏昏」、あるとき雲門大師が法堂に上って正式の説法の際にたくさんの人々に次のように教えた。「人人尽ク光明ノ在ル有リ」、一人一人の人間がすべて輝かしさを持っていると、こういうことをいわれた。

 こういう話を聞いて、「いやあ、それはちょっと困る。私はそんなに明るくない。暗くて暗くて憂鬱で、悩みばかり多くてちっとも楽しくないんだ」というふうな主張する方もおられるであろうかもしれませんが、人間というものは輝かしさに満たされた存在だ。それが「人人尽ク光明ノ在ル有リ」。

 「看ル時見エズ暗昏昏」、そこで何かを知ろうと思うと、物事が見えない。このことは何を意味するかというと、頭を使って真実は何かというふうな態度で仏道を勉強するならば、暗くて仕方がない。頭で問題を考えるということと暗さということは関係があるわけであります。だから坐禅のときにも暗い、明るいというふうな表現がありますが、頭で問題を考えるときには心のあり方というものが暗い。そこで、「看ル時見エズ暗昏昏」、真実を知りたいと思っていろいろ頭で考えて苦心をしているときには真っ暗闇だ。

 「作麼生是諸人光明在」、「それではいったいたくさんの人々が輝かしさを持っているというふうな状況はどんな状況であろうか」と、こういう問いかけをして、「衆無対」、その説法を聞いている人々は黙って何の返事もしなかった。

 「自代云」、そこで雲門大師が自分で弟子たちに代わっていうには、「僧堂・仏殿・厨庫・三門」、これもけっしてわけのわからない物語をいっているわけではない。この説法をしているところから坐禅堂も見えた、仏殿も見えた、庫裡も見えた、入口の三門も見えた。ここから眺めて見える僧堂も、仏殿も、庫裡も、三門も、それぞれが光明そのものだと、こういう主張をされた。

 「そんなおかしな話があるもんか」と、こういう態度もあるわけでありますが、この井田両国堂さんの二階の坐禅道場の中も光明でいっぱい。各人の心の中、体の中を見てみても、真実を勉強したいということで木曜日の夕方にここへ集まって来るということは光明そのもの。それが光明というものの意味であります。

 だからそういう点では、誰もが光明で満たされている。その光明を味わって、その光明に従って生きていくべきだというのが釈尊の教えだと、こういうことをこの雲門禅師に関する物語が述べているわけであります。

 

 そこで道元禅師がこの物語に対して一三五ページのところで解説をしているわけでありまして、

 「いま大師道の人人尽有光明在は、のちに出現すべしといはず、往世にありしといはず、傍観の現成といはず、人人自有光明在と道取するを、あきらかに聞持すべきなり」、いまここで雲門大師が一人の人がすべて輝かしさに満ちあふれているという言葉を述べられたけれども、これは後に出現するということをいっているわけではない。それはどういうことかいうと、いまはだめかもしれないけれどもそのうちに明るくなると、そういうことをいっているわけではない。

 そうして、「あきらかに聞持すべし」、この言葉の本当の意味を知るべきである。「往世にありしといはず」、昔はあったけれどもいまはなくなったということもいわない。それから「傍観の現成といはず」、はたから眺めていて、ああ、あの人は立派だ、光輝いているというふうな見た人が眺めた情景でもない。「人人自ラ光明有ル在リと道取するを、あきらかに聞持すべきなり」、だからここで、将来現れるとか、昔にあったとか、はたから眺めて輝かしさが見えるというふうなことではなしに、それ以外の事情を主張しておられるということをはっきりと聞き、それを保持すべきである。そのことは、誰もが現在の瞬間において明るさを持っている。そのことに気づくか気づかないかということが仏道の勉強において非常に大切なことだと、こういう主張であります。

 「百千の雲門をあつめて同参せしめ、一口同音に道取せしむるなり」、その点では、百人、千人というふうな雲門禅師と同じような境地を得た人々を集めて同じように体験をさせて、「一口同音に道取せしむるなり」、各人が誰もが明るさを持っているということを一斉に唱えることができるような状態を意味しているのである。

 「人人尽有光明在は、雲門の自搆にあらず、人人の光明みづから拈光為道なり」、そうして、人々はすべて輝かしさを持っているという主張は雲門禅師自身が考えたことではない、つくり出したことではない。「自搆」というのは自分がつくり出す、考えるという意味であります。「人人の光明みづから拈光為道なり」、各人がそれぞれ輝かしさを持っている。その輝かしさというものは自分で光り、真実が何かを教えてくれているのである。「拈光」というのは光を取り上げるという意味でありまして、自分自身が光を持っているということに気がつく。そうして、「為道」というのは、その状態が真実とはこれだということを見せてくれている。

 「人人尽有光明とは、渾人自是光明在なり」、「渾人」の「渾」という字はすべてという意味でありまして、体全体という意味であります。体全体が光そのものであるという事実が眼の前にある。

 「光明といふは人人なり」、輝きというものは一人一人の人間が一所懸命生きている状態である。

 今日、ビルの清掃という仕事がありまして、たくさんの人々がわれわれの使う手洗いを掃除してくれておりますが、その掃除しておられる方々自身が光り輝いている。何もしないでぼんやりして悩んでいるということではなしに、いま働いている、いま一所懸命やっています、いま生きておりますという状況の中に光がある。そのことを「光明といふは人人なり」。輝きというのがどこにあるかというならば、一人一人の人間の事実の中にある。

 「光明を拈得して依報・正報とせり」、したがって人々はその輝かしさというものを取り上げて、それが環境をなし、それが自分自身をなしている。「依報」というのは環境を意味しております。それに対して「正報」というのは自分自身を意味しております。だから周囲も輝きであるし、自分自身も輝きであるというのが「光明を拈得して依報・正報とせり」。

 「光明尽有人人在なるべし」、そこで、輝かしさというものは人間が持っているということだ、人間として生きていることだというふうな表現も可能であるし、「光明自是人人在なり」、輝かしさというものと人間とは同じものが眼の前にあるということを意味する。

 「人人自有人人在なり」、そういう形で現実に一人一人の人間が生きている。一所懸命会社に行かなければならないということで歩いている人もいれば、家庭を守って掃除をしなければならない、洗濯をしなければならないというふうな立場の人もある。すべてが輝かしさに満ちあふれている。そのことを、「人人自ラ人人有ル在なり」。

 「光光自有光光在なり」、それは輝かしさそのものだ。われわれの生きている宇宙は輝かしさそのものだ。

 その点では、私の正直な感想をいえば、イラクの戦争も人生の輝き。ああいう問題がなくて、ああいう問題の解決がなければ人類の歴史は闇だ。だからこの世の中の一切のものは真実だ。この世の中の一切のものは輝きだ。そういう立場がここのところでは、「光光自ラ光光在ル有リなり」、輝かしさというものが眼の前にある、宇宙全体に満ちあふれている。

 「有有尽有有有在なり」、それはさまざまのものがわれわれの周囲に存在しているということを意味する。机もあれば畳もあると、そういう狭い世界ではなしに、日本もあればアメリカもある、イラクもあればスイスもあるというふうな、一切のものが存在する世界にわれわれは生きている。そのことを「有有尽ク有有在ル有リなり」。

 「尽尽有有尽尽在なり」、そこで、この世の中のすべての存在というものは、それが現実にすべてのもの、つまり宇宙全体として存在しているということを意味する。

 「しかあればしるべし、人人尽有の光明は現成の人人なり、光光尽有の人人なり」、このように考えてくると、人々が持っているといわれている光明は、「現成の人人なり」、眼の前に現実に生きている人間そのものである。

 そのことは、この部屋の中におられる何十人かの方自身の問題。一人一人が輝きとしてこの世の中に生き、毎日の生活をしているというふうなことであって、こういうことが何を意味するかというと、各人は自分自身に自信を持つべきだ、自分がいかに価値があるかということに気がつくべきだと、こういう主張をしておられるわけであります。

 「しかあればしるべし、人人尽有の光明は現成の人人なり、光光尽有の人人なり」、そうしてみると、人間がどんな様子をしているかということについての輝かしさというものは、現実に眼の前にいる人々のことである。「光光尽有の人人なり」、輝かしさというものを限りなく持っている具体的な人間そのものである。

 「しばらく雲門にとふ、なんぢなにをよんでか人人とする、なにをよんでか光明とする」、そこで道元禅師が今度は雲門禅師に質問してみたい。あなたはいったい何を呼んで人間といっているのか、何を呼んで光だ、輝かしさだといっているのか。

 「雲門みづからいはく、作麼生是光明明在」、そうして雲門禅師自身は輝かしさがあるということはいったいどんな様子なのかということをいっておられる。

 「この問著は、疑殺話頭の光明なり、しかあれども恁麼道著すれば、人人光光なり」、この雲門禅師の言葉というものは、「疑殺話頭の光明なり」、人間が言葉を使っていろいろ議論していることは意味がないという立場での輝かしさである。「疑殺」というのは完全に疑うという意味であります。「話頭」というのは言葉で話をすること。だから言葉で話をするような理論の世界というものは完全に疑うということが輝かしさの意味だ。「しかあれども恁麼道著すれば、人人光光なり」、しかし、この程度の言葉を述べることができるようになれば、個々の人々が光そのものだということがいえる。

 「ときに衆無対」、ところが、この雲門禅師の質問に対して、説法を聞いている人々は返事をしなかった。

 「たとひ百千の道得ありとも、無対を拈じて道著するなり」、道元禅師の解釈では、たくさんの僧侶の人々が何も返事をしなかったけれども、そのことは百人、千人の説法を聞いている人々がすべて自分の意見を持っていたけれども、何もいわないという態度で自分の意見を述べているんだ。

 「これ仏祖正伝の正法眼蔵涅槃妙心なり」、このように説法を聞いている人々も、真実というものは言葉とは違うということをよくわかっているから、そこで雲門禅師の質問に対して黙っているという返事をした。

 こういうもののとらえ方、つまり貴重な現実があって、その現実というものは言葉で説明することのできる内容と違うと、そのことがわかってくるということが、「仏祖正伝の正法眼蔵涅槃妙心なり」、釈尊が正しくお伝えになったところの「正法眼蔵涅槃妙心なり」、道元禅師がここで「正法眼蔵」という言葉で何を意味しているかというと、坐禅を意味しておられる。「涅槃妙心」というのは坐禅のときの落ち着いた境地を指しておられる。だから道元禅師はこの書籍の表題に『正法眼蔵』という表題をつけられたけれども、これは坐禅そのものの説明だというふうに理解をしていい。仏教の教えを説いていると同時に、仏教の教えが坐禅そのものだということを説いておられるというふうに理解すべきであるという見方をしております。

 

 そうしてさらに解説が続くわけでありますが、一三八ページのところで、

 「雲門自代云、僧堂、仏殿・廚庫・三門」、聴衆が何もいわなかったので、雲門禅師が自分の意見として、「眼の前に見えている坐禅堂であり、眼の前に見えている仏を祀った建物であり、また食事の用意をする庫裡であり、また寺院の入口の三門である」と、こういう言葉を述べられた。

 そこで道元禅師が解説をされて、

 「いま道取する自代は、雲門に自代するなり、大衆に自代するなり、光明に自代するなり、僧堂・仏殿・廚庫・三門に自代するなり」、ここで「自ラ代ツテ」という言葉が使われているけれども、その「自ラ代ツテ」というのは何を意味するかというならば、まず雲門禅師に代わって自分が述べているんだと、こういう意味が含まれている。「いま道取する自代は、雲門に自代するなり」、「自代」というのは自分に代わってという意味であります。「大衆に自代するなり」、説法を聞いているたくさんの僧侶に代わって自分が言葉を述べているのである。「光明に自代するなり」、宇宙の輝かしさというものに代わって雲門禅師がその輝かしさを説明しているのであり、「僧堂・仏殿・廚庫・三門に自代するなり」、また僧堂・仏殿・廚庫・三門に代わって雲門禅師が僧堂・仏殿・廚庫・三門がどういうものかということを述べておられるのである。

 「しかあれども雲門、なにをよんでか僧堂仏殿廚庫三門とする」、そこで道元禅師がご自分の質問をされて、しかしながら雲門禅師はどういう意味で「僧堂仏殿廚庫三門」ということをいわれたのか。

 「大衆および人人をよんで、僧堂仏殿廚庫三門とすべからず」、そうして道元禅師の解説としては、説法を聞いているたくさんの僧侶及び個々の人々を呼んで、それが僧堂、仏殿、廚庫、三門と同じものだというふうな意味には解釈することができない。

 「いくばくの僧堂仏殿廚庫三門かある」、世の中を見渡してみるならば、たくさんの寺院があり、僧堂も仏殿も廚庫も三門もたくさんある。非常にたくさんの僧堂があり、仏殿があり、庫裡があり、三門がある。

 「雲門なりとやせん、七仏なりとやせん、四七なりとやせん、二三なりとやせん、拳頭なりとやせん、鼻孔なりとやせん」、その点では、雲門禅師が光明というものは僧堂仏殿廚庫三門といわれたけれども、そのことは雲門禅師自身だといっておられるのか、あるいは過去七仏といわれる古い時代の真実を得た人々をいっているのか、あるいは四・七の二十八で釈尊の直接の弟子の摩訶迦葉尊者から中国に坐禅を伝えられた第二十八祖の達磨大師までをいっているのか。「四七」というのは、四・七の二十八で第二十八代目の達磨大師を指しているわけであります。「二三なりとやせん」、また二人、三人というふうに仏道修行をしている人々のことをいっているのか。「拳頭なりとやせん」、「拳頭」というのは握りこぶしでありますが、行ないを象徴的に指す言葉でありまして、われわれの行ないを意味しているのか。「鼻孔なりとやせん」、「鼻孔」というのは鼻の穴でありまして、そこを通じて空気が出入りしているわけでありますが、古代インドの人々は鼻の穴というものが生命そのものだ、鼻の穴を通じて出入りする空気が生命そのものだという解釈を持っておりましたから、生命そのものというふうに主張するのか。

 「いはくの僧堂仏殿廚庫三門、たとひいづれの仏祖なりとも、人人をまぬかれざるものなり、このゆえに人人にあらず」、そうしてその点では、「いづれの仏祖なりとも」、どのような立場の真実を得た方々であろうとも、「人人をまぬかれざるものなり」、人間であるということを避けることができない。

 このことは大切なことでありまして、仏というものを人間離れした偉い人と考えてはならない。本当の人間が仏。だから、「たとひいづれの仏祖なりとも、人人をまぬかれざるものなり」、人間であるという条件はどんな仏といえども避けることができない。「このゆえに人人にあらず」、このことがどういうことを意味するかというと、確かに人間ではあるけれども、普通の人間とは違う状況になっている。

 「しかありしよりこのかた、有仏殿の無仏なるあり、無仏殿の無仏なるあり、有光仏あり、無光仏あり、無仏光あり、有仏光あり」、こういうふうな現実の世界にわれわれは生きているのであるから、現実の世界においては仏殿の建物はあるけれども真実に合体した人格というものはいない場合もある。「無仏殿の無仏なるあり」、仏殿もなければ、真実を得た人もいないという場合もある。「有光仏あり」、光輝いている真実を得た人もいる。「無光仏あり」、光輝くような真実を持っていない人もいる。「無仏光あり」、真実を得た人の輝きなんていうものはない状況もあれば、真実を得た人の輝きが眼の前にある場合もある。

 こういう形で、現実というものがどんな様子でわれわれの前に姿を見せているかということを述べておられるわけであります。

 

 その次にまいりますと、一三九ページの最後から二行目のところで、今度はまた別の物語になるわけであります。

 「雪峰真覚大師、示衆云、僧堂前与諸人相見了也」、雪峰義存禅師がたくさんの弟子たちについて教えていうには、「僧堂前諸人与相見シ了ル」、あなたがたと坐禅堂の前で出会ったと、こういうことをまず述べた。

 「これすなはち雪峰の通身是眼睛ときなり、雪峰の雪峰を覰見する時節なり、僧堂と僧堂と相見するなり」、この雪峰禅師の言葉の述べられた状況というものがどういうものかというと、「これすなはち雪峰の通身是眼睛ときなり」、雪峰禅師の体全体が釈尊のものの見方と同じ状況になっているときだ。釈尊のものの見方と同じ状況になっているということが何を意味するかというと、この世の中が思想でもない、感覚的な刺激でもない、現実そのものとして体験できているということを意味する。だから自分たちが現実の世界に生きている。理屈でもない、感覚的な刺激でもない、この世の中そのものの中に生きているという情景を雪峰禅師が感じ取っておられるときのことである。「雪峰の雪峰を覰見する時節なり」、別の言葉でいうならば、雪峰禅師が自分がどんなものかということをわずかでものぞき見することのできた瞬間である。「僧堂と僧堂と相見するなり」、それは僧堂というものが眼の前に現実の姿を見せていることである。僧堂と僧堂とがお互いに出会うということは、僧堂というものが二つのものではなしに、一つに重なって現実の世界に見えていると、こういう意味であります。

 「保福挙問鵝湖、僧堂前且置、什麼処望州亭、烏石嶺相見」、保福禅師がこの話題を取り上げて鵝湖禅師に質問をした。「僧堂前ハ且ラク置ク」、雪峰禅師は坐禅堂の前ということを述べておられるけれども、それはとりあえず棚上げしておいて、「什麼処ニカ望州亭、烏石嶺ト相見セン」、望州亭というのも烏石嶺というのもこの雪峰禅師の寺院の近くにあった景色のよい場所を意味しているわけでありますが、僧堂前というふうな問題はとりあえず棚に上げておいて、望州亭がどこにあるのか、烏石亭がどこにあるのか、自分たちはそれにどうやって出会えるのかというふうな質問をした。

 「鵝湖驟歩帰方丈」、そうすると鵝湖禅師は足早に自分の自室に帰って行った。このことは恐らく鵝湖禅師が仏教書を読みたいと思って、そういうつまらない問答には関係がないという意味でさっさと自分の部屋に帰ってしまった。

 「保福便入僧堂」、その鵝湖禅師の様子を見て、保福禅師もこれは時間を無駄にできないといって坐禅をしに僧堂の中へ入って行った。こういう物語について道元禅師が、「いま帰方丈入僧堂、これ話頭出身なり、相見底の道理なり、相見了也僧堂なり」、この鵝湖禅師が足早に方丈に帰って行った、あるいは保福禅師が坐禅堂に坐禅をしに入って行った。「これ話頭出身なり」、これは物語の境地から抜け出した現実の描写である。「相見底の道理なり」、現実というものとしっかりと見合ったところの理論が説かれている。「相見了也僧堂なり」、その点では現実の坐禅堂に直接対面している様子を表している。

 

 そうしてさらに一四一ページのところで、

 「地蔵院真応大師云、典座入庫堂」、地蔵院真応大師は次のような言葉を述べておられる。地蔵院真応大師というのは羅漢桂琛禅師という方であります。この羅漢桂琛禅師が次のようにいっておられる。「典座庫堂ニ入ル」、これは寺院における日常生活の様子を見られたわけでありまして、「典座」というのは修行僧の食事を準備する責任者の僧であります。そろそろ食事の準備をしなければならないということで食事を準備する責任者である典座和尚が庫裡の中に入って行った。そういう現実の状況の中に真実がある、この世の中がある、われわれの生きている世界がある、宇宙と呼ばれるものがあると、こういう意味であります。

 「この話頭は七仏已前事なり」、この物語というものは過去七仏よりもずうっと前から続いている現実の世界、真実の世界を説いている。

 「正法眼蔵光明」

 「仁治三年壬寅夏六月二日、夜三更四点、示衆于観音導利興聖宝林寺」、このときが西洋の紀元でいいますと一二四二年の旧暦の六月二日であった。「夜三更四点」というのは、昔は夜の時間が五つの更という時間の単位に分かれておりまして、三更といいますと真夜中の十二時を過ぎた時点が三更でありまして、三番目の時間の区分でありますが、その一つの更が五つの点という単位に分かれておりまして、その四番目の時期ということでありますから、現在の時計でいいますと真夜中の一時を過ぎた時間になるわけでありますが、道元禅師がこの説法をしておられた時間がそういう真夜中を少し過ぎた時間でありまして、「観音導利興聖宝林寺ニ示衆ス」、たくさんの人々に対して観音導利興聖宝林寺でこの「光明」という巻を説いた。

 「于時梅雨霖霖、簷頭滴滴、作麼生是光明在、大衆未免雲門道覰破 」、そのときは梅雨の季節であって雨が非常にたくさん降っていた。そうして軒先には雨だれの音が絶えず聞こえていた。「作麼生カ是レ光明在」、いったいそういう情景のどこに輝かしさがあるのか。「大衆未ダ免レズ雲門道ニ覰破セラルルコトヲ」、もしどこに輝かしさがあるのかということがわからないならば、その説法を聞いている人々は雲門禅師の真実を通して実体をのぞき見されることであろう。

 こういう形で、道元禅師がご自分がやっておられるときの説法の情景に関連して感想を述べておられるということになるわけであります。

 以上が「光明」という巻でありまして、仏教を勉強するときには暗いものを目指してはいけない。釈尊の教えというのはきわめて輝かしい明るい教え。それがどういうわけか何千年も暗い教えとして誤解されて今日まで来ている。だけれども、信頼できる文献を克明に読んでいくと、釈尊の教えは明確に現実主義の教えであり、徹底した楽観論。この世の中は真実の教えである。その真実を自分のものにするならばどこにも暗いものはない、一切が輝きに満ちあふれていると、こういう教えを述べられたということが事実であります。

 こういう教えを申し上げると、「いやあ、西嶋は自分の個人的な感想ででたらめをいっている」という解釈がたくさん起きてくると思いますが、私はそう思わない。こういう釈尊の教えを発見するために六、七十年かけている。で、バカッ正直に真剣に追究してきた。だから私は釈尊の教えというものは二十一世紀においては疑問の余地のない明確な哲学体系だ、そのことを勉強することが人類にとっていかに貴重かという事実があるというふうな考え方をしているということになるわけであります。

 

 それでは、まだいつもより少し時間が早いわけでありますが、一つの章が終わりましたので、ここでご質問を受けるということにしたいと思います。

 

   冒頭にお話がございましたけれども、光明というのは真実であるということをご説明いただいたわけなんです。それは明確にわかるような気がするんです。それと同時に、先生はいま頭で考えることとというのは往々にして暗いというふうにいわれたわけです。

 頭で考えるということについては、暗さだけではなくて、たとえば楽観的な見方というものがございますよね。極端にいいますと何でもうまくいくと。それはどういうふうに解釈したらいいですか。

   考えないときには明るい。それはもう考えるような暗い様子がないから。

 そこで自律神経のバランスという状態が大切になってくる。考え過ぎることも消える、考えないようなぼんやりした態度も消えるときに現実が見えてくる。自分が現実の中に生きているなということを実感できる。それが光明。

 だから光明というのも暗さと光明との対立があって、明るいほうを取るか暗いほうを取るかという選択ではない。自律神経がバランスしたときに現実がよく見えて、われわれがどんな輝かしい世界に生きているかということを実感できるということ。それがこの「光明」という巻の趣旨です。

   ちょっとまだわかっていないような気がするんですけれども。頭の中で考えるということは、暗さだけではなくて、明るいということも考えがち、というふうに感じますが。

   明るいということを考えたからといって明るくなったわけじゃない。だからその点では、どういう状況かというならば、自律神経がバランスした状態。そのときに本当の真実が現れ、本当の健康が現れ、本当の輝かしさが現れるんです。これは理論でも、はたから眺めた状況でもない。自律神経のバランスの中には明るさそのものがあるんですよ。そのことを経験しなさいというのが釈尊の教えだから。そこで坐禅の修行というものが意味を持ってくるわけです。

   わかりました。

   一三八ページの最後のところで、「有仏殿の無仏なるあり、無仏殿の無仏なるあり、有光仏あり、無光仏あり、無仏光あり、有仏光」とありますが、ここは真実を得た方というのがみんな光を持っているんだとしたら、この「無光仏」とか「無仏光」というのは何を意味しているんですか。

   これはあるなしの判断を超えた眼の前の現実。だからあるとかないとかいう理解そのものは頭の中の考え方であって、現実に自律神経がバランスしたときの事実を指すわけです。

   バランスしたときには、こういう四つの場合もあると考えるんですか。

   バランスしたときには、暗さと明るさがちょうど同じ力になって現実そのものが現れてくると、こういう意味です。

   先生の一三九ページの後ろから三行目の現代語訳のところを読みますと、「明るさを具えた真理体得者のいる場合もあれば、明るさを具えた真理体得者のいない場合もあり、真理体得者に具わる明るさがない場合もあれば、真理体得者に具わる明るさがある場合もあるのである」となっているんですね。

 そうすると、真理体得した人でも中には明るくない人もいるし、というふうに単純に考えてしまうんですけど、じゃそれはそういうわけではないんですね。

   というよりも、真実を得た人というのは、自律神経のバランスした人でそういう明るさを持っている人もあれば、自律神経がバランスしていないために明るさが失われている場合もあると。

 問  あ、でもそういう場合は真理体得者なんですか。

   うん。だからその点では、人間としての共通の性格があるから、誰でも自律神経をバランスさせる可能性を持っているわけだけれども、それを持っていない場合もあれば持っている場合もある。だから結局性質というふうな意味じゃなくて、現在の瞬間においてどうかという意味。だから真実を得た人といえども悩んで苦しんでいることもあり得る。そういうものから離れて明るい情景の中で生きている場合もあり得ると。

   はい、わかりました。

   一三六ページの後ろから二行目の「疑殺話頭の光明なり」というのをもう一度お願いします。

   「疑殺話頭の光明なり」の「話頭」というのは、言葉で話すことを意味しておりまして、いわゆる公案ということを意味している。だから師匠と僧侶との間の問答が「話頭」。この物語というものが真実を教えてくれているといわれているけれども、そういう言葉の説明を離れたところに輝かしさがある。

 だから「疑殺」というのは、そんなものは完全に疑いを持ってしまって完全に否定するような状況の中で、本当の輝かしさが出て来る。だから公案の意味はどうかなどといって考えているうちは本当の明るさが出て来ない。そんなものはもう問題にしなくなったときに本当の明るさが出て来ると、こういう意味です。

   ということは、先入観がなくなった状態が光明が輝いてくるという意味ですか。

   そういう意味です。現実に徹して生きていくというところになるわけです。

 だからそれはどういうことかというと、「いや、おれは癌かもしれない」と思って暗くなってしまって、朝から晩まで心配しているような状況がなくなるということ。

   はい、すみません。

   真理体得者がそういうふうに考えて暗くなったとしても、その人は真理体得者であるわけですね。

   うん、そう。だからそういう点では、人間としての共通なものはあり得る。だから真実を得た人といえども自律神経がバランスしなくなっている状態のときには、暗さを持っていたり、あるいは敏感過ぎる状態を持っているということになる。

   そういうのを全部含めてやっぱり「仏」と呼んでよろしいんでしょうか。

   うん、そう。だからそういう点では、自律神経のバランスしたときが仏だから、「もう仏になった」というふうな表現は仏道にはないんです。いま仏である、いま仏でないというふうな考え方をするわけだから。自律神経がバランスしているかしていないかが仏であるか仏でないかのすべてだ。

   そうすると光がないときでも仏ですよね。

   うん、そう。そういう点では、そういう見方をすることができるわけです。

   はい。ありがとうございました。

   去年から続いている事件ですけれども、関西地方の奈良県で小学生の殺人事件がありまして、犯人は逮捕されたようですね。三十代の男性だったようですけれども。この人が新聞記事を通じて聞こえてくるその考えは、自分は非常に不幸な育ち方をした。だから自分は不幸な人間である。だから幸せな人を見ると腹が立つ。だから相手の家族が幸せであれば、こういう家族は不幸な目に遭わせても一向に構わないんだというふうな、そういうことをどうもいっているようで、あまり反省もしていないようなんですね。これはある種の劣情といいますけれども。

 きょうは光明とか、明るい宇宙とか、こういうすばらしいお話を教えてもらったわけですが、やはりまったく正反対の世界を生きている人も世の中にはたくさんいるわけで、そういう場合に対して、まあ私たちも注意しないとそんなになるかもしれないけれども、これはどういうふうに考えたらよろしいでしょうか。

   これは、間違っているのは自分自身だから、自分の間違っている状態を直さなかったら解決になりませんよ。そういう不幸な状態だから、殺人を犯したらば、法に従って処分されて、刑務所に入るなり、死刑に遭うなり、それはもう人類社会の約束に従って処理されるというだけのことです。本人がだめなときに、本人自身が自分を救わなければ、本人自身がまともになれないということはもう鉄則ですよ。

 だから自分がひねくれてしまって、もっと悪いことをやってやろう、もっと悪いことをやってやろうというふうな態度で生きていれば、正しい状態に戻る可能性がない。それは自分自身を捨てるんだから、捨てた場合には社会が処分しますということです。

   世の中の至るところにそういう社会の目というのがあって、たとえばこの『正法眼蔵』のような本に出会って勉強するというのはそういう点では非常にありがたいということになるわけですね。

   そうです。だからそういう点で、私は正直いうと、一つの国家の繁栄も衰退も教育制度の良さが非常に大きな役割をしているという見方です。だから教育制度が正しい方針で運営されていないと国家は衰退する。

   先生が学校に行かれていた当時は、もう何十年も前ですけれども、いまの子供たちのあり方ですね、勉強ばっかりしているわりには学力が下がったというふうなおかしなことが出て来ていますが、これはどういうふうにお考えになりますか。

   これはね、私は正直いうと、子供のときに遊ばせていないから。子供は遊ぶことによって、手を動かしたり足を動かしたりすることによって健全な頭脳が発達するんです。それをやらせずに、子供が好きでもないことを、これを覚えろ、これを暗記しろというようなことをやっていれば、子供の成長はないんです。そういう成長し損なった人間が、才能だけがあって力を持つと、おかしなことを平気でやるわけです。そういうことが事実だと思います。

 だから世の中の基礎にある考え方が正常であるかどうかということが非常に大事な問題。だから「正法」の「正」という字は正常だということですよ。

   一三九ページですけれども、雪峰義存禅師というのは雪峰真覚大師のことですが、第一行目の下のほうに「雪峰の通身是眼睛のときなり」とございますね。この「通身」というのは体全体に釈尊と同じ真理の見方が具わったということなんですけれども、結局こういうふうな発想というものがいまの学校においてまったくなされていないと。体の状態を正しい状態にするということではなくて、はっきりいえばテストの点がいいということでその人物を評価しているわけですから、そのことからもやはりおかしな事態が……。

   これは世界観が違うから。だからその点では、心の働きだけを中心に考える観念論と、体の快適さだけを中心に考える唯物論と、もう一つが行ないを大事にする現実主義なんです。

 欧米の文化では観念論と唯物論とがとてつもなく精密にもう膨大な思想体系を成して発達しているんです。だからその二つの思想体系の中で右か左かで揺れ動いているの、今日の人類社会の文明ですけれども、釈尊はその二つの立場は間違いだということを宣言されたんです。

 じゃ何が本当かというと、考えることでもない、感覚的な刺激でもない。現実がまず眼の前にあるんだから、それを基準にして人生を勉強すべきだ、真実を勉強すべきだ。ただそれが人間の努力の意志では出て来ない。そこで釈尊が古代インドに伝わっていたヨガの姿勢の一つを取り上げて、それをやることによって自律神経をバランスさせて、考え過ぎの状態からも抜け出す、感じ過ぎの状態からも抜け出す、そこに現実があって、それに気がつくことによって本当のことがわかってくるという教えを残されている。

 欧米にはこういう考え方はないんです。だから頭が大切か感覚的な敏感さが大切かということで二つの膨大な文化が出来上がって、それが対立して争っているというのが欧米の文化の中心ですから、今度はその二つの対立から抜け出す時代が人類にはきている。もうすでにその時代に人類の歴史は入っていると思う。まだ気がつかないだけのことであって。だからそこで何が真実かということがもう少しはっきりしてくると、人類の中心的な文化が本当のものに入れ替わる可能性があるというふうに見ていいです。

   十代、二十代の人たちというのは、現実というのは何となく怖いもんだというイメージが非常に強いようですね。これにつきましてはどんなふうにお考えになりますか。

   それはもう誤解だから、現実に触れさせなきゃだめ。だから正直いうと私たちの子供の頃は竹の棒に餅網をつけてトンボばかり追っかけているときもあった。下手な野球をやってみたこともあるし。そういう体を動かす、努力するということの中で仏教的な人生観が生まれるんです。

 だからそういう経験をさせないと仏教哲学というのはわからな、現実というものは見えない。だから現実そのものが怖いものに見えるから、逃げて逃げて逃げまくろうとする。だけど本人自身が現実の中に生きているんだから、逃げて逃げて逃げまくっても、逃げ切れない。

 『正法眼蔵』の中に「廻避のところなし」という言葉があるけれども、逃げて回る場所がないというのは真実です。人間は逃げて回る場所があると思っているから、何とか逃げたい、何とか逃げたいと思って努力をしているけれども、そんな場所は宇宙の中にはないというのが真実です。

   教育というか、学校といういまの話なんですけど、うちはお店をやっていて、先生も結構見えるんですよ。それですごく休みが多いので、遊ぶことに熱心な先生もおられるんですね。その反対に、もう悩んじゃって精神科のクリニックに通っている先生もいらっしゃるんです。それでいろんなお話を聞くんですよ。

 だからすごく自信がなくて、そういう病院に通いながら、辞めないでやるから、「じゃあ辞めちゃえば」というと、「どうやって食べていくの?」とかいうんですよ。だからすごく自信がある先生と自信がない先生と極端になっているような気がするんですよね。

 要するに冬休みに入ったらもう外国へ行っちゃうとか。そうすると学校の生徒に何かあった場合、私なんて思うと、すぐ帰って来れないようなところへ行ったりしてるんですよね。だけど本人はすごく楽しそうにルンルンルンという感じで、お客さんだから、「ああ、よかったですね」と聞いているんですね。だから「あれー、学校もいまは変わったんだな」と、そういうところからすごく感じるんですけれどね。

   うん。だからそういう問題がいま日本が抱えている最大の問題だと思います。教育制度が悪かったら一つの国はけっしてよくならない。衰退の一途ですよ。だからそのことに気がついて、国民全体がどういう優れた教育制度を持つかということは、どの国にとっても最大の課題です。

   そうしたらやっぱり先生みたいな自信のあるお勉強をさせてくれる人のところへ行ったりすれば、先生だってもっと自信を持って生徒に教えられるんじゃないかなとか思うときがあるんですね。「お医者さんに行っていくら悩みを話したって解決にならないんじゃない?」といっても、「聞いてもらうだけでいいの」というんですね。ああいう先生ばっかり増えちゃうと子供がかわいそうだなと本当に思うんですよね。

   だからそこで、人々が本当の教えに気がついて勉強しなければ社会はよくならない。

 だから私が大きな声で釈尊の教えをお話しているのは、釈尊の教えが宇宙の中における唯一の真実です。だからその真実を勉強しないで、いろんな教えを追っかけ回していれば、いつまで経っても本当のことがわからないから、人間社会そのものがよくならないというおそれがあるというふうに見ていいです。

 そんなことをいうと、「西嶋だけが自分の田んぼに水を引いている」というふうな感想にはなると思うけど、私は正直いって宇宙全体の中で真実と呼ばれるものは釈尊の教えだけです。だからそういう点では、釈尊の教えが再評価されて、誰もが勉強するような時代が来ないと人類社会は幸せな社会にならない。

   だからこれ(「ドーゲンサンガ・ニュース」)を少し余分にもらっていって、それで「読んでみて」とは渡しているんですけど、少しでも、精神科行くよりもこれを読んだほうがいいんじゃないかといっているんですけどね。(笑)

   最後の一四一ページの「梅雨霖霖」から最後までなんですが、いまのご老師のいろいろのご説明も含めて、光明に関して道元禅師が非常に確信を持って自説を展開されていますね。

 ところがこれを見ますと、私がたいへん興味を持ったのは、この「梅雨霖霖」以降は、自分の弟子たちはどうも光明ということについていまいち理解不足ではないのかという疑問を持ってこういうふうにまとめられたような気がするんですが……。

   うん、そう。だからそういう点では、おまえ方は自信があるかどうか、ちょっとまだ危ないんじゃないかと、こういうことをいっておられるわけす。

   ここが、こういうふうなずうっと議論の展開からのまとめるとすると、道元禅師はあまり自信にあふれている人というのも怪しいものなんで、逆に道元禅師の人間らしさというか、自分の弟子たちに対するある種の危惧といいますかね。

   うん。だからその点では、ここのところは、「俺もわかっていないよ」といっておられるのかもしれない。現実というのはそういうものなんだ。

   はい。ただ、そうしますと、たいへん面白いのが、一三六ページの最後から二行目に「衆無対」とありますよね。衆無対とありますね。このことに対して道元禅師はこれはもう仏祖正伝の「正法眼蔵涅槃妙心」であるということでたいへんほめているというか、肯定なさっているわけです。

   はい。

   ところが、「衆」というのはつまりたくさんのお弟子さんですから、中には本当にわからなくて、たとえば私みたいのがいて、わからなくてぜんぜん返事ができないというのが大部分ではないかなと、こういう気がするんですが、それはちょっとあれですか。

 で、その前に、実は一二八ページに例の韓愈文公が皇帝に対して仏舎利が光ったのはいいけどお祝いの言葉を申し上げなかったと。仏様の光というのは何もそんなに赤や緑や黄色に光るわけじゃないんですよということで、じゃ、何なんだということで、これは「文公無対」というのが一二八ページの前から六行目にありますね。

 こちらは、韓愈文公というのは、私もよく知りませんが、いろいろ読みますと、とにかくたいへんな学者、政治家、文人でしたね。いろいろ面白い話もいっぱいございますし。

 こういう方が「無対」というのであれば、「ああ、そうだな」と思いますけど、お弟子さんがいっぱいいて、これに対して誰も返事をしなかったということについて、これは「正法眼蔵涅槃妙心」だ、これこそあるべき姿だというのは、何か甘いんじゃないかなと……。

   ということはどういうことをいっているかというと、口を使って大喧嘩をしているよりは、坐禅をして黙っているほうがはるかに立派だよということ。だから事実の問題。だから僧侶そのものが「私はこう思います」というようなことをいうよりは、黙っていたというところに本当のものが多少わかっているかなという判断があるわけです。

   もちろん師匠が何も質問しないんであれば、それは黙って坐禅をしてればいいですね。しかし、ここでこういう質問をしているわけですね。それに対して誰も返事をしないというのは、何か頼りないというか……。

   ですから弟子たちが、それは言葉で表したら本当のものは出ませんよという回答でもあるわけです。 

   「衆」ですから、ここにいる雲門さんのお弟子さんは全部そういうことできちっと本当のことがわかって、本当のことというのは言葉では説明できないんだ、だから黙っていたというふうに取るわけですね。

   うん、そうです。

   それで最後のところでは、自分の弟子たちについてはもしかしたらわかっていないんじゃないかなと、こういうことですか。

   だからそういう点では、それが現実なんです。全員が全部わかっているというようなことが現実かというと、そのとき正確にいうと二十八人まではわかっていて七十二人はわからなかったのかもしれないし、六十人はわかっていたけれども四十人がわかっていなかったのかもしれないけれども、そういうさまざまの現実があって、それが現実だよということになるわけです。

   わかりました。私も理屈っぽいかもしれませんが、この文章の続きを読んでいると、そういうとらえ方をしたら面白いなと。真意はどこにあるのかとかいうあたりで、このいま三つ申し上げたことが、この文章の続きをお聞きしていますと、たいへん面白い。この道元禅師の認識の仕方が一つ一つ違うわけですね。

 それに非常に興味を持ちまして、あんまり真実を求めるのとは関係ないかもしれないですけれども、この文章そのものが読んでいて非常に面白いなと。

   うん。だからそういう点で、言葉で表現できない現実をどうやって表現するかということで苦心されてお書きになった本が『正法眼蔵』です。

   どうもありがとうございました。

   この「光明」の巻ですが、理屈をいって申しわけないんですけど、四諦論でいえば道諦のことと滅諦のことと両方のことを含めて書かれたということですか。

   最終の道諦のことをいっておられるわけです。

   行ないをしているとき、一所懸命善いことをしているときも光輝いているということなんでしょうか。

   ただ光明ということも、四諦論の教えで説明すれば、まず光明というのは光だというふうな理屈の上での解釈もあるわけです。二番目の態度になると、ろうそくが燃えている、太陽が照っているというふうな具体的な事実としての光明もあるわけです。それから本人が自律神経をバランスしていれば楽しくてしようがないというふうな光明もあるわけです。そういう三種類の光明を全部含めた現実の輝かしさがあるんだということを説いておられるということになります。

   あともう一つお聞きしたいんですけど、一三六ページの 先生の訳文があるんですけれども、「当然」とか「必然」とかいうふうに分けてあるものがあるんですよね。前から八行目のところには「当然」と書いてあって、その次々行のところは「必然的に」というふうに分けて訳されているんですが、そこのあたりのことをちょっと詳しく教えていただきたいんですけど。

   その点では、「必然」という場合には、因果関係で原因があれば結果があるというふうな形の関係だという表現をするわけです。

 だから「当然」というほうは、現実にそういう事実があるというふうな意味のときに「当然」という言葉を使っているというふうに見ていいです。

   はい。

 それからあともう一つなんですけど、一三六ページの一行目のところの「在」という字と「有」という字がありますよね。その漢字の違いを道元禅師は何か区別したんでしょうか。

   この「有」という字と「在」という字の違いは、昔漢文を教えていた時代の教え方として、在のほうはニアリ、有のほうはタダアリという解説が行なわれていたんです。だからニアリのほうはどこかに何かがあるという意味で、場所的なものを指すわけです。タダアリというのは存在を意味するわけで、あるという事実をいっている。有と在との違いにはそういう違いがあります。

   ニアリ……。

   在というのは何々ニアリというふうに使う。それから有のほうはタダアリというふうに読む。だからタダアリとニアリと両方あって、意味の違いがあるということを私は中学のときに教わった経験がある。漢文で在と有とを区別するときにはそういう教え方をしてくれました。

   ありがとうございました。

   『正法眼蔵』の中で『中論』の漢訳を道元禅師が引用されてご自身でまた解釈されているというところがあるのかどうかというと。

 あともう一つは、釈尊の教えというのが、要は実践から真実に行き当たるということで、いわゆる『中論』以降の禅定を大切にされている教えがあるようなんですが、それも幾つか文章が漢訳されているようなんですね。その漢訳の論証から引用されて道元禅師ご自身が解釈されている巻というのは『正法眼蔵』中にあるんでしょうか。

   私の記憶では、『正法眼蔵』の中で『中論』を引用された個所はないと思います。恐らく道元禅師が『中論』の漢訳を読まれて、意味が通らないから捨てたと思います。鳩摩羅什の訳というのはそれほどおかしいから、その中に仏教思想が含まれているとはお考えにならなかった。だから一度も使っておられないというのは事実だと思います。

 それからもう一つ、『中論』以降の『中論』に対する説明については、時代が経つに従って解釈が増えていって、誤解が増えたと、そういう見方です。だから『中論』を読むのであれば、直接龍樹尊者の原文だけを読むべきだ。その後の注釈を読んだ場合には、注釈の誤解が当然頭に入って来るから『中論』の解釈としては間違ってくると、そういう見方をしています。

   はい。ありがとうございました。

   私はどうも年を取ってきたせいか、いうことが過激になってきたと思うので、自分でもよくないなとは思っているけれども、私は本音が出てきたんだと思う。まあ、もう命が短いから、適当な、世間に通ずるようなことをいっていたのでは申しわけないという気がする。もう正直な意見をさらけ出して死んでいくべきだという見方をしています。

 だから私の最近いうことは過激過ぎる。判断も非常に厳密にがしっと決めてしまうから、恐らく迷惑を受ける人もいるかもしれない。だけども、もうそう命が長くないんだから、最後ぐらいは本当の話をすべきだという見方をしています。

   これは本当に教えていただきたいことなんですが、また文字にとらわれて申しわけないのですが、一四一ページの一行目に「典座入庫堂」とありますね。典座の場合は、道元禅師ですと『典座教訓』というのがございますね。私は実は『典座教訓』というものを昔読んで非常に強烈な印象を受けたことがあるんですが、特にお二人の老典座に会われていますね。

 また字句のことをいって申し訳ないんですが、最初に寧波に入って、阿育王山の老典座が訪ねて来て、それにはいろんな方のご提唱があって私だいたい全部読んでいますが、その中に当然ご老師のもございましてね。木に甚と書いて、要は老典座は何しに船に来たんだといったときに、日本の船が来たと知っている。あした夏安居が明けるので自分は麺汁をご馳走したいんだ。ところがいいだしを取るものがないんので、そこは書いてないんですが、要は日本のシイタケを買いに来た。「椹」と書いてあるんですね。ご老師もそれはシイタケと書いてあるんです。ほかの人もいろいろと書いてあるんですが、どの漢和辞典を見ても、それは桑の実なんですね。食品となるのは。その辺が私の悪い癖で言葉にとらわれて申しわけないんですが、その「椹」というのはどこから確信を持ってシイタケというふうに……。

 しかし、唯一東京農大の先生で、私は一緒に仕事したことがあるんですが、その方は桑の実と書いてあるんですよ。しかし桑の実で麺汁をつくるというのは、これも理屈に合わない話でしてね。乾燥して持って行くわけないなと。生だと腐っちゃいますし。あんなえぐくて酸っぱいものは、まあ食えばうまいですけど、それをするわけはないし。

 それでお聞きしたかったのは、「椹」をなぜシイタケというふうにとらえられたのか。もしご記憶であれば……。

   私ははっきりした記憶はないけど、字引を引いて見つけたんだと思います。「椹」という字は、私はたしか字引を引いて字引の言葉をそのまま使ったと思います。私は解釈については字引を引いて意味を知るということをもっぱらやっています。で、個人的な想像で意味を取るべきでないという考え方です。

   ところが出ていないんですよ。これは中国人に直接聞いても、中国ではシイタケは「椹」とはいわない。あれは香の草冠に野 と書いて何と読むか知りませんけれども、どれ探してもないんですね。ですからつまらないことをお聞きして申しわけなかったですが、どこから来ているのかなというのがありまして……。

   私はどの字引という記憶はないけど、字引を引いてそういう意味を発見したからキノコという訳を持った。

   文章からするとシイタケがぴったり合うんですね。でもどこを探しても、いろんな人に聞いても、どうしてもないんで、どこから来たのかなという、仏道の勉強とはあんまり関係ないかもしれませんが、えらく興味を持ちましてね。というのは、私がちょっと食事に関係しているようなことを長くやったものですから、そういう会社にいてたいへん興味を持ちましてね。

   だからそれは今後も言葉の意味を調べれば、いろんな説があり、本当のことがわかるはずだから、それはもう学者先生に調べてもらったらいいだろうと思います。

   はい。どうもすみませんでした。

 

 それでは、時間が近づきましたので、普回向を唱えて終わりにしたいと思います。

普回向 唱和