開経偈 唱和

 先月の三十日に終わりましたイラクの選挙が比較的平穏に終わったようで、人類の歴史のために非常によかったという見方をしております。

 そのことはどういうことを意味するかといいますと、イラクの国民が民主主義に向かい始めたということは、世界の思想の流れにイラクの人々の一部が同調するようになったという事情を示すわけでありまして、そのことがほかのイスラムの国々にもいい影響を与えるだろうということが予想できるわけであります。

 そのことがイスラムと人間主義的な文明の流れの対立にとって非常にいい方向に進むという可能性がやっと見え始めたということでありますから、恐らくイスラエルの問題もいい方向に解決していくのではないかというふうに見ることができるように思います。

 ただ、きょうの夕刊ですか、ブッシュ大統領の演説の内容の中にイランに対して非常に強い批判的な発言が入っておりますので、ひょっとするとイラクだけで収まらずにイランまで解決しないと本当の平和の状態が生まれないという考え方をひょっとすると持っているかなという印象がありまして、今後どうなるかということをやはり見ていかざるを得ない事情がきょうの夕刊でまたちょっと現れたような印象を受けております。

 いずれにしてもイラクの選挙がうまくいかなかった場合に比べると世界の情勢が非常によくなったということはいえるのではないかという見方をしております。

 

 それではまたこの本のほうに入ってまいりますと、きょうは「身心学道」の一五二ページのところからになるわけであります。

 「学道」の「道」という字は、道(みち)という字でありますが、真実を意味しておりまして、「学道」というのは真実を意味することを指しております。

 今日の一般社会の情勢から見ますと、真実というものに対する信仰は非常に少ない。ほとんどの人々がわれわれの生きている人間社会に真実などというものはあり得ないという考え方のほうが多いように思いますが、仏道の世界では、さまざまの思想問題を探究した結果、この世の中にはたった一つの真実があるという主張に基づいて教えが説かれておりまして、そういう点では、ここの「学道」という言葉についても、この世の中に一つの真実があるということを信じて、それを勉強するにはどういう努力をしなければならないかというふうな問題が説かれているということになるわけであります。

 そこで一五二ページのところを読んでいきますと、

 「学道は恁麼なるがゆゑに、牆壁瓦礫これ心なり」、「学道」というのは、いまも申し上げたように、真実を勉強するということでありますが、「恁麼なるがゆゑに」、「恁麼」というのは「このように」という意味があります。ですから、このような状況であるからということでありますが、このような状況というのが何を意味するかというと、われわれが絶えずその中に生きている現実そのものを指すという理解ができるわけでありまして、真実を勉強するということは現にわれわれが生きている現実の生活を体験していくことを意味するのであるから、「牆壁瓦礫これ心なり」、垣根や壁や瓦や小石というふうなわれわれの外側に見えているものも、われわれに心があって初めてわれわれがそれに気がつくというふうな事情があるから、「牆壁瓦礫これ心なり」、垣根や壁や瓦や小石とわれわれが持っている心とは一つのものだ。つまり、垣根や壁や瓦や小石があって、それを人間の心で見る、考えるという外界の世界と人間の心の働きとが一つになった状況が現実の世界だと、こういう意味であります。

 「さらに三界唯心にあらず、法界唯心にあらず、牆壁瓦礫なり」、仏教の教えの中では、欲界・色界・無色界といってこの世の中を三種類の世界に分ける。欲界というのは心の働きの世界、色界というのは物質の世界、無色界というのは行ないの世界というふうに理解することができるわけでありますが、それも心だという主張があるけれども、本当にそうかどうかという点について道元禅師は必ずしも肯定的な考え方をとっておられない。

 それと同じように、「法界唯心にあらず」、「法界」というのは宇宙でありますが、宇宙も単に心の働きだけだというふうな考え方をとらない。では何かというと、「牆壁瓦礫」である。垣根とか壁とか瓦とか小石とか、そういうふうな現実の物とわれわれが生きている世界、あるいは宇宙というふうなものとが同じものだ。

 「感通年前につくり、感通年後にやぶる」、そういう点では、疎山匡仁禅師という方が、「病僧咸通年前会得法身辺事、咸通年後会得法身向上事」、咸通という年号の前には自分の宇宙の中に生きている周辺のことはわかったけれども、咸通という年号の後にはさらにその自分の体が現実の世界に入って行って、現実の世界がどんなものかということがわかってきた、現実の生活がどんなものかがわかってきたと、そういう言葉を述べているわけでありますが、そのことを道元禅師は、「感通年前につくり、感通年後にやぶる」、感通という年号の以前には一所懸命仏道の教えを勉強したけれども、感通という年号の後にはそういうものを問題にしないような現実の中に生きることができるようになったと、こういう意味であります。

 「拕泥滞水なり、無縄自縛なり」、そこで、われわれの日常生活というものは、泥にまみれ水につかって生きていく生活である。われわれの現実の生活はけっして楽な、きれい事の世界ではない。泥にまみれ、水につかって一所懸命生きてきている。それと同時に、「無縄自縛なり」、何も拘束されるような原因が現実の中にはないんだけれども、自分自身で勝手に縄をつくってそれで自分を縛っている。それがわれわれの日常生活の実情である。

 そういう面で、われわれの現実の人生というものはけっして簡単なものではない。拘束を受けたというふうな事実がないにもかかわらず、自分自身で自分を縄で縛りつけて動きがとれない、苦しい苦しいといっているということがここの「拕泥滞水なり、無縄自縛なり」という言葉の意味であります。

 「玉をひくちからあり、水にいる能あり」、人間というものは宝玉のような非常に価値の高いものを自分の手元に引きつけるだけの力を持っている。そうしてまた水のような必ずしもよくない環境の中にも入って行けるような能力を持っている。

 「とくる日あり、くだくる時あり、極微にきはまるときあり」、その点では、さまざまの問題が解決する場合もある。問題が完全に壊れて個々バラバラになって解決してしまうというふうなこともある。「極微にきはまるときあり」、きわめて細かい問題まではっきりと見えてくるようなときもある。

 「露柱と同参せず、燈籠と交肩せず」、その点では、人間の行ないの世界においては、単に戸外に立っている柱と同じではない。人間にはそれぞれの自主的な判断があり、自主的な行動がある。戸外に立っている柱と必ずしも同じ状況ではない。「燈籠と交肩せず」、道のそばに置かれていて道を明るくする燈籠のようなものと人間の行ないとが必ずしも同じものではない。

 「かくのごとくなるゆゑに、赤脚走して学道するなり」、行ないを通じての仏道の勉強というものはこのような状況であるから、ある場合には裸足で走るというふうなこともまた真実の勉強である。「赤脚走」というのは裸足で走るという意味でありまして、たとえば傘を持たないときに大雨が降ってきた。慌てて駆け出すというふうなこともその例でありますが、そういう行ないの中で真実を勉強する、それが「赤脚走して学道するなり」という言葉の意味であります。

 「たれか著眼看せん、飜巾斗して学道するなり」、その点では、人間というものはとてつもなく際どい動作をして真実を勉強しているものである。しかし、そういう状態について必ずしも人々がそれに目をつけるというふうなことばかりではない。つまり、人間の行ないというのは非常に際どいものであって、現在の瞬間における事実でありますが、そういうものに気がつく人というのが意外に少ない。そのことを「たれか著眼看せん、飜巾斗して学道するなり」。

 「飜巾斗」というのは、体を宙に投げ出して一回転してまた地面に立つという動作を意味するわけでありまして、今日は体操競技というものがありまして、体操競技の訓練をしている人は空間でトンボ返りをうつということができるわけでありますが、中国でも意外にこういう体育が発達していたということがありまして、中国の人々も空間に飛び上がって体を一回転させてまた地面に立つというふうな修行というものが行なわれていたわけであります。だから人間の行ないというものは非常に緊急な現在の瞬間における努力だというふうな意味で「飜巾斗して学道するなり」。

 「おのおの随佗去あり、このとき、壁落これ十方を学せしむ、無門これ四面を学せしむ」、そこで、「おのおの随佗去あり」、人間の生活の中では各人が環境に従っていかなければならない場合がある。「随佗去」というのは、「佗ニ随テ去ル」という意味でありまして、「佗」というのは自分以外のもの、つまり環境を指しております。ですから環境に従って行動していくというのが「随佗去」でありまして、仏道の世界では自分の意志だけを主張して何でもかんでも頑張るという立場ではなしに、周囲の環境をよく見ながら無理のない形で自分がどう生きていくかというふうな態度をとるという面がありまして、そのことを「随佗去」と呼んでいるわけであります。

 「このとき、壁落これ十方を学せしむ」、環境に従って生きていくときに、周囲の壁が壊れて落ちて、あらゆる方角がどんなものかということを勉強することができる。そのことを、「無門これ四面を学せしむ」、また、出入りする門がないということを体験することによって、東、西、南、北というふうな四つの方向の現実を勉強することができる。

 こういう形で、真実を勉強するということに関連して、行ないを通じて勉強するということの説明が行なわれているわけであります。

 

 その次に一五四ページのところにいきますと、「発菩提心」ということを解説しておられるわけであります。「発」という字は起こすという意味で、「菩提」というのはサンスクリットにボディーという言葉がありまして、真実を意味しているわけであります。「菩提心」というのはその真実を知りたいという気持ちでありますが、「発菩提心」というのは真実を知りたいという気持ちを起こすことでありまして、仏道修行に関連しては、真実を知りたいという気持ちを起こさないと仏道修行が始まらないという問題があります。

 第一、この世の中に真実があるという信仰が生まれてこないと真実を勉強しようという気にはならない。だからたまたま真実というものがあるということに気がついて、それを勉強したいという気持ちを起こすところから仏道修行の可能性が出てくるわけでありますから、真実を知りたいという気持ちを起こすことが仏道修行に入るためには不可欠の条件だという事情があります。

 

 そこでこの一五四ページのところでも、

 「発菩提心は、あるひは生死にしてこれをうることあり、あるひは涅槃にしてこれをうることあり、あるひは生死涅槃のほかにしてこれをうることあり」、真実を知りたいという気持ちというものは、われわれが生きている日常生活の中でその気持ちを持つということがある。ある場合には、「涅槃にしてこれをうることあり」、「涅槃」というのは波風の立たなくなった落ち着いた境地でありますが、涅槃には二つの意味がありまして、われわれの心が落ち着く状態、つまり自律神経がバランスした状態も涅槃と呼ばれますが、また、生命の終わりを迎えることも涅槃というふうに呼ばれております。

 そこでここでは、「あるひは生死涅槃のほかにしてこれをうることあり」、生命を終わるその瞬間において真実を知りたいという気持ちを起こす場合もある。「あるひは生死涅槃のほかにしてこれをうることあり」、あるいは生き死にの問題も消えてしまう、あるいは涅槃というふうな落ち着いた境地の問題も消えてしまう。そういう状況の中で真実を勉強したいという気持ちが起きる場合もある。

 「ところをまつにあらざれども、発心のところにさへられざるあり」、そこで、どこでなければ真実を知りたいという気持ちが起きないというふうな場所の条件があるわけではない。そのことを、「ところをまつにあらざれども、発心のところにさへられざるあり」、真実を知りたいという気持ちを起こすときには、それを邪魔するようなものは何もないというふうな状況も同時にある。「発心のところにさへられざるあり」というのは、どの場所でなければ真実を起こすことができないというふうな場所的な制限はない。

 「境発にあらず、智発にあらず、菩提心発なり、発菩提心なり」、その点では、環境が真実を知りたいという気持ちを起こすわけではない。「智発にあらず」、自分の心の働きが真実を知りたいという気持ちを起こすわけではない。「菩提心発なり」、真実を知りたい気持ちというものがどういうわけか自然に起きてくるのである。「発菩提心なり」、したがって人間が真実を知りたいという気持ちを自分で起こすというふうな事情もある。

 「発菩提心は、有にあらず、無にあらず、善にあらず、悪にあらず、無記にあらず、報地によりて縁起するにあらず、天有情はさだめてうべからざるにあらず」、そこで、真実を知りたいという気持ちを起こすということは、具体的に物としてあるわけではない。そうかといって具体的な実質的なものがないわけではない。「善にあらず、悪にあらず」、それは善いとか悪いとかいうふうな評価の対象ではなしに、突然現実の事実として起こるというふうな性格を持っている。「無記にあらず」、善いとか悪いとかいうふうな性質とは関係がないというふうな性質のものでもない。「報地によりて縁起するにあらず」、過去の行ないが積み重なって、その結果、真実を知りたいという気持ちが起きてくるというわけでもない。「天有情はさだめてうべからざるにあらず」、その点では、神であるとか、あるいは心を持ったものは真実を知りたいという気持ちを持つことができないというふうなわけではない。そのことは、神も真実を知りたいという気持ちを起こし得るし、また人間が感情的な状況の中に置かれている場合でも、真実を知りたいという気持ちを起こすことがあり得る。そのことが「天有情はさだめてうべからざるにあらず」。

 「ただまさに時節とともに発菩提心するなり」、そこで結論的にいうならば、現在の瞬間において真実を知りたいという気持ちが起きる。だから、人間が意図的に真実を知りたいという気持ちを起こしましょうという努力をして起こるわけではない。どういうわけか原因はわからないけれども、ある日真実を知りたいという気持ちが起きる。そのことを「ただまさに時節とともに発菩提心するなり」。「時節」というのは、「時」というのは時間でありまして、「節」というのは短い部分でありますから、道元禅師は「時節」という言葉で現在の瞬間を意味しておられたというふうに理解することができます。そこで、「ただまさに時節とともに発菩提心するなり」、われわれは「オギャー」と生まれてから赤子の時代があり、幼年時代があり、少年時代があるというふうな形で少しずつ時間を経過してきているわけでありますが、そういう経過の中で、なぜか理由はわからないけれどもある瞬間にフッと真実を知りたいという気持ちが起きるものだ。

 「依にかかはれざるがゆゑに、発菩提心の正当恁麼時には、法界ことごとく発菩提心なり」、「依」というのは環境を意味しております。そこで、環境がどうこうだというふうな問題はない。つまり、恵まれた環境でないと真実を知りたいという気持ちが起こせないとか、不遇なときでないと真実を知りたいという気持ちを起こせないというふうな環境の善し悪しではなしに、ふと真実を知りたいという気持ちが起きるものだ。そこで、「依にかかはれざるがゆゑに」、どういう環境かというふうなことは問題にせずに、「発菩提心の正当恁麼時には」、真実を知りたいという気持ちを起こしたまさにその瞬間においては、「法界ことごとく発菩提心なり」、宇宙全体が真実を知りたいという気持ちになるのである。

 だからこれも行ないというものが、本人の行ないであると同時に、宇宙全体が本人の行ないと一つのものになるという仏教思想からきている思想であります。

 「依を転ずるに相似なりといへども、依にしらるるにあらず、共出一隻手なり、自出一隻手なり、異類中行なり、地獄・餓鬼・畜生・修羅等のなかにしても、発菩提心するなり」、そこで、その真実を知りたいという気持ちを起こす状況というものは、自分が与えられている環境を切り換えるような様子には見えるけれども、それが「依を転ずるに相似なりといへども」。「依」というのは環境でありますが、「転ずる」というのはそれを変化させるという意味であります。だから真実を知りたいという気持ちを起こす状況は、環境を変化させるような様子には見えるけれども、「依にしらるるにあらず」、環境がそのことがわかっているというふうな環境に寄りかかった状況ではない。「共出一隻手なり」、自分自身と環境とがお互いに片方の手を出し合って手を握り合うことであり、「自出一隻手なり」、自分自身も環境に対して自分の片方の手を差し出すのである。その状況は、「異類中行なり」、「異類中行」というのは、ほかの人と違うような自分自身が周囲のさまざまの自分とは違った人々の間で行動をしていくという意味であります。

 たまたま周囲が自分の意見と同じ場合には、きわめて恵まれた環境だということがいえますが、周囲がまったく自分と違う主張であるにもかかわらず、自分自身の信念で生きるという人間の生き方もあって、そのことを「異類中行」といっているわけであります。
 その点では、アフガニスタンの攻撃、あるいはイラクの攻撃が起きましたときに、世界の各国でアメリカとイギリスの積極的な政策を批判する、攻撃するということがあったわけでありますが、ああいう状況の中で仮に周囲の意見に負けて自分の進むべき政策を変更した場合には、今日の平和に恵まれそうな状況というものは生まれてこなかった。

 だから、ブッシュ政権も、あるいはイギリスのブレア政権も国際的に非常に非難されたことがありますが、それを無視して自分たちの方針を実行したということが今日の平和な状況をつくりだしているわけでありますから、人間というものは絶えず周囲の意見だけに従って巻き込まれて生きていくというだけが人間の生き方ではないと、こういう主張がありまして、そのことを仏道の世界では「異類中行」というわけであります。自分とは違った人々の中で自分自身が自分の行ないをしていくと、こういう意味であります。
 「地獄・餓鬼・畜生・修羅等のなかにしても、発菩提心するなり」、その点では人間は、「六道輪廻」といいまして、六種類の環境を次々に経過していくという考え方がありますが、その六種類の環境の中で、「地獄」というのは苦しい世界、「餓鬼」というのは欲望が満たされないで苦しんでいる世界、「畜生」というのは動物と似たような凶暴な世界、「修羅」というのも阿修羅といいましてやはり凶暴な境地を指すわけであります。そういう苦しみの世界、あるいは欲望に飢えている世界、あるいは動物の世界、あるいは狂乱の世界、そういう中でも真実を知りたいという気持ちを起こすことはある。そのことを「地獄・餓鬼・畜生・修羅等のなかにしても、発菩提心するなり」。

 こういう形で、真実を知りたいという気持ちを起こすことが仏道の世界では非常に大切でありますが、その実情がどんなものかということを道元禅師が具体的にお書きになっているわけであります。

 ですからこういう表現というものは、道元禅師が単に理論的に仏教経典を読んでこういう解釈を持ったということではなしに、道元禅師ご自身が、自分の生涯を振り返って、真実を知りたいという気持ちになったときの子供のときの状態を思い出して、真実を知りたいという気持ちがどういうものかをお書きになっているという事情があるわけであります。

 つまり、道元禅師は十二歳の時に出家を志したわけでありますが、自分の誕生よりも八年ぐらい前に日本の政治の権力が天皇家から武士の手に移った。そこで、従来の価値観が百八十度転換しているような時期に誕生されまして、二歳のときに父親を失う、七歳のときに母親を失うというふうな境遇の中で生きておられたわけでありますから、何とか本当のことが知りたいという気持ちが十二歳のときにすでに生まれて、家族が反対したのを振り切って比叡山に上って僧侶になったという経験をしておられますから、真実を知りたいという気持ちがどんな形で出て来るものかということを自分の体験で知っておられたところから、この文章をお書きになっているということがいえるわけであります。

 

 その次にいきますと、一五六ページのところで、今度は「赤心」という言葉の意味を説いておられます。ここでは次々に心というものがどんな現れ方をしているかというふうな解説が続いているわけでありまして、一五六ページのところでは、

 「赤心片片といふは、片片なるはみな赤心なり、一片両片にあらず、片片なるなり」、仏道の世界には「赤心ノ片片」という言葉がある。「赤心」というのは赤裸々な心という意味で真心を指すわけであります。「片片」というのはそれが瞬間瞬間に移り変わっていくという意味でありまして、「赤心の片片」というのは瞬間瞬間を真心で生きるという意味であります。そこで、「赤心ノ片片といふは、片片なるはみな赤心なり」、そうして道元禅師は逆に、瞬間瞬間の心はいずれも真心であると、こういうことをいっておられます。

 つまり、いろいろと損得を考えて、あるいは人がほめるかほめないかを考えて行なうという行ないの世界ではなしに、瞬間瞬間の自分の真心そのものをそのまま行動に現すという状況が「赤心ノ片片」であり、「片片赤心」という言葉の意味であります。そこで、「一片両片にあらず」、一つの瞬間、二つの瞬間というふうな数で数えられるような瞬間ではない。「片片なるなり」、瞬間瞬間である。

 だからわれわれの人生というものは、行ないの立場から眺めて見ると、現在の瞬間をどう生きていくかというだけの問題であって、人生というものは何かというならば、瞬間瞬間の移り変わりだと、こういう趣旨であります。

 「荷葉団団、団 似鏡、菱角尖尖、尖 似錐、かがみににたりといふとも片片なり、錐ににたりといふとも片片なり」、そこで、「荷葉」というのは蓮の葉であります。それから「団」というのは丸いという意味であります。「荷葉団団、団ナルコト鏡ニ似タリ」、蓮の葉はたいへん丸くて、その丸さというものは鏡に似ている。「菱角尖尖、尖ナルコト錐ニ似タリ」、「菱」というのはひしという言葉でありまして、ひしというのは水中に生えてくる植物で、その実がダイヤモンドの形のように四つの角がとがっている食料にも供する植物をいうわけでありますが、そういうひしと呼ばれる植物は、角がとがっている。そのことを「菱角尖尖」。「尖ナルコト錐ニ似タリ」、そのひしという植物の四つの角は針のようにとがっている。「かがみににたりといふとも片片なり」、蓮の葉は鏡に似ているけれども、やはり瞬間瞬間の存在である。「錐ににたりといふとも片片なり」、ひしは錐に似たようなとがった姿をしているけれども、やはり瞬間瞬間の存在である。そこで、この世の中の実体というものは瞬間瞬間の事実であり、その瞬間瞬間の事実というものは真実そのものであると、こういう主張をしているわけであります。

 そこで仏教哲学を考えていくうえにおいては、この世の中の存在というものは常に現在の瞬間における存在だという思想がありまして、それがここでも出て来ているわけであります。

 

 その次にいきますと一五七ページのところで、今度は「古仏心」という言葉の説明をしておられます。「古」というのは古いという意味でありますが、永遠を指しております。「仏」というのは真実を得た人であります。したがって「古仏」というのは永遠の真実を得た人という意味であります。

 「古仏心といふは、むかし僧ありて大証国師にとふ」、永遠の真実を得た人の心という言葉があるけれども、それについては、「むかし僧ありて大証国師にとふ」、かつて僧侶が大証国師に質問した。「いかにあらんかこれ古仏心」、「永遠の真実を得た人の心はどんなものでしょうか」という質問をした。

 「ときに国師いはく、牆壁瓦礫」、大証国師がそれに対して「垣根であり、壁であり、瓦であり、小石である」と、こういう返事をした。この返事というものは、恐らく質問した僧侶には意味がわからなかったのであろうというふうに考えられるわけでありますが、この大証国師の返事というものについて道元禅師が解説をされて、「しかあればしるべし、古仏心は牆壁瓦礫にあらず、牆壁瓦礫を古仏心といふにあらず」、ここに道元禅師が解説をされて、永遠の真実を得た人の心というものが垣根や壁や瓦や小石と同じものだといっているわけではない。そのことは、垣根や壁や瓦や小石という言葉の説明ではないと、こういう意味があるわけであります。「牆壁瓦礫を古仏心といふにあらず」、垣根や壁や瓦や小石と真実を得た方の心とが同じものだといっているわけではない。

 「古仏心、それかくのごとく学するなり」、では古仏心とは何かというと、「それかくのごとく学するなり」、「かくのごとく」というのが何を意味するかというと、漢字で「かくのごとく」という字を書きますと、「如是(にょぜ)」という言葉になるわけでありまして、「如是」というものは現実を指しているわけであります。そこで、「古仏心、それかくのごとく学するなり」というのは、永遠の真実を得た人の心というものは現実そのものであるということを勉強すべきであると、こういう解説をしておられます。だから大証国師がいわれた垣根や壁や瓦や小石だというのも、眼の前の現実そのものだと、こういう趣旨に解するということになるわけであります。

 

 その次にいきますと、今度は「平常心」という言葉について説明が行なわれております。

 かつて総理大臣をやられた中曽根康弘さんは、新聞記者からいろんな感想を求められると、煙にまくときには「平常心」「平常心」といっていたようであります。

 「平」というのは水平ということ、平らということ、「常」というのはいつでもあるという意味でありまして、水平でごく普通の心というのが「平常心」であります。この「平常心」という言葉はやはり仏道の世界の基準ということになるわけでありまして、今日の科学的な考え方からするならば、自律神経のバランスした状態の心が平常心だという解釈ができるわけであります。

 

 そこで一五八ページの道元禅師の解説では、

 「平常心といふは、此界佗界といはず平常心なり」、この世界とか、この世界以外の世界というふうな考え方ではなしに、われわれが持っているきわめて平静な、ふだんと変わらない心を意味するのである。

 「昔日はこのところよりさり、今日はこのところよりきたる」、われわれがどういう世界に生きているかということを考えてみると、一番究極の考え方は、「この場所に生きている」と、こういうことでしかないわけであります。われわれはいま井田両国堂坐禅道場の二階の一室にいるわけでありますが、この二階の一室の自分たちの坐っている場所が現在の自分の世界だということになるわけであります。そこで、「昔日はこのところよりさり、今日はこのところよりきたる」、過去も自分のいる場所から時間として過ぎ去っていった、現在というものも自分のいるこの場所にやって来ている。

 「さるときは漫天さり、きたるときは尽地きたる」、その点では、時間が経過していく場合に時間の経過とともに大空全体が去っていく、また瞬間がきたときには大地全体が到来する。

 「これ平常心なり」、そういう変化の中で平静な、いつもと変わらないような心が平常心といわれるのである。

 「平常心、この屋裡に開閉す」、そこで、均衡のとれたごく普通の心というものは、われわれが生きているこの場所において開いたり閉じたりしている。

 「千門万戸、一時開閉なるゆゑに平常なり」、その点では、現在の瞬間瞬間に千というふうな門が開き、一万というふうな家が開かれる。つまり、この世の中の一切のものが開かれると同時に、瞬間の直後には一切のものが閉じてしまう。したがって、この世の中といってみても、現在の瞬間において到来し、また消えていく、到来し、また消えていくというふうな瞬間の世界である。そういう瞬間の世界であるから均衡がとれており、ごく普通の変わらない状態である。そのことを、「千門万戸、一時開閉なるゆゑに平常なり」。つまり瞬間瞬間がわれわれの生きている世界であるから、その瞬間というものは絶えず均衡がとれており、ごく普通の状態である。

 したがって、仏道ではそういう時間を勉強すべきだ、経験すべきだという主張があって、その瞬間を実際に経験するためにわれわれは坐禅をしているということになるわけであります。

 ですから姿勢を正してジーッと坐っていることが仏道そのものを勉強していることになる。現在の瞬間を自分自身の体と心で味わっているということが坐禅の内容だということになるわけであります。

 「いまこの蓋天蓋地は、おぼえざることばのごとし、噴地の一声のごとし」、そこで、大空全体とか、大地全体とかいってみても、そういうものはどういうものかよくわからないような意味の言葉として受け取れる。それが「いまこの蓋天蓋地は、おぼえざることばのごとし」、大空全体とか大地全体とかいうけれども、それがいったいどんなものかがよくわからないような様子をしている。「噴地の一声のごとし」、その点では、この世の中がどういうものかというと、地面から大きな声が一つ聞こえてきたというふうな瞬間瞬間の状況でしかない。

 「語等なり、心等なり、法等なり」、そういう瞬間の事実というものは言葉も均衡がとれている。「等」という字は等しいという意味の言葉でありまして、二つのものが同じ力になっているということを意味するわけでありますから、それが均衡がとれているという意味を持っております。そこで、「語等なり」というのは、言葉も均衡がとれていて落ち着いている。人間の気持ちが落ち着いているか落ち着いていないかは、その人のしゃべり方を聞くとわかるというふうな事情がありまして、その点では、言葉を聞いただけでその人の気持ちが落ち着いているか落ち着いていないかがわかるということが日常生活の中にありますし、「心等なり」というのも、心というものが均衡がとれている。そのことは自律神経がバランスしているという意味にもなるわけであります。そうして、「法等なり」、宇宙というものも均衡がとれている。

 「寿行生滅の、刹那に生滅するあれども、最後身よりさきはかつてしらず」、そこで、われわれの生命、あるいは行ないというものも瞬間瞬間に生まれては消え、生まれては消えしているのであるけれども、「刹那に生滅するあれども」、したがって現在の瞬間瞬間において生命も行ないも生まれては消え、生まれては消えしているのであるけれども、「最後身よりさきはかつてしらず」、その点では、この人生が終わった後どうなるかというふうなことについてはわれわれにはわからない。

 このことも仏教を勉強する上においてかなり大切でありまして、今日の仏教思想ではわれわれの生命の終わった後の世界があるというふうな主張が強いわけでありますが、道元禅師の思想の中にはそういうものが見当たらないという事情があります。そこで、「最後身よりさきはかつてしらず」、自分の生命が終わった後どうなるかは私にも皆目わからない。

 「しらざれども発心すれば、かならず菩提の道にすすむなり」、だから自分の生命が終わってからはどうなるかわからないけれども、自分自身が現に真実を知りたいという気持ちを起こすならば、自分の人生そのものが真実の方向に向かって進んで行くことができるのである。

 「すでにこのところあり、さらにあやしむべきにあらず」、自分は現にこの場所に坐っている。自分の坐っているこの場所というものがあることについては間違いがない。それが「すでにこのところあり」という言葉の意味でありますが、この言葉もかなり仏教哲学を考える上において大切な意味を持っておりまして、今日の仏教学ではこの世の中は存在するか存在しないか断定できない世界だという考え方が主流をなしております。

 そういう虚無的な思想というものが、私の推察では、龍樹尊者の書かれた『中論』の意味が本当に取れないところから、非常にたくさん否定の言葉が並んでいることを理解して、この世の中の存在は何もないという主張が釈尊の教えだというふうな説がありますが、そういう思想というものは本当に仏教思想を最後まで詰めていきますと出て来ないという問題がありまして、道元禅師はこの世の中を実在の世界というふうに考えておりましたから、「すでにこのところあり」、現にいま自分たちはこの場所に坐っている。自分が坐っていると同時にこの場所が存在するということも間違いない。「さらにあやしむべきにあらず」、それを疑う必要はけっしてない。

 「すでにあやしむことあり、すなはち平常なり」、ただそれを本当かなというふうな懸念を持つ場合がある。その状況の中に平静な心、ごく普通な心が存在するということがいえる。

 こういう形で、平常というものについても、現在の瞬間における心というものがどんなものかというふうな理解の仕方をしておられるわけであります。

 ここまでが心を中心にした問題のとらえ方であります。

 そこでその次に一五九ページのところで、今度は「身学道」といいまして体で勉強するというのがどういうことかというふうな解説に入っていくわけでありますが、まだいつもより少し時間は早いわけでありますが、ここで心に関する説明が終わりましたので、話のほうをここでとめまして、またご質問を受けるということにしたいと思います。何かありましたらどうぞ。

 

   さっき、「異類中行」のところで、イラク戦争のアメリカとイギリスのことを譬えでお話されたわけですけど、いま日本でいえば、小泉首相が郵政の民営化を一所懸命やっているのはそれに当てはまるんじゃないかなと思うんですね。国家とか、あるいはそういう権力のある首相とかという場合は、まあそれでも自分が正しいと信じてやっていていいんですけれども、個人の場合に、社会の中で、あるいは私は会社に入っていないんですが会社などに入っていて、上司とか周りとか、そういう場合に、これのちょっと前に「随佗己」という反対の意味のような、一方でそれも大事というふうなことがありますよね。

   はい。

   そうすると、その辺のところで、自分が正しいからというようなやり方でやって、仮にそれが客観的に正しかったとしても、周りから袋叩きにあったり、摩擦がかなり生じますよね、継続していく中で。だけど、それは後になったら彼のやったことは正しかったということだってあり得るんだけれども、ただそのときの現実の中で生きていく場合に、やっぱり他人とも、いろいろに生きているから、その辺のところのバランスというか、どういう行動のとり方をしたらいいのかなと思いまして……。

   その点はね、仏教では「随佗己」という態度と「異類中行」という態度と両方要るという考え方なんです。「いや、そんな都合のいいことをいわれたんじゃ、どう理解していいかわからない」というのが、理性的に考えればそうですけれども、現実の世界というものは、周囲について行くほうが正しい場合もあれば、周囲に逆らって自分の意見を通すほうが正しい場合もある。だからその状況によって、周囲について行くべきときには周囲について行くし、断固として自分の主張を遂げなきゃならんというときには自分の主張を遂げる。

 だから抽象的に「随佗己」が必要なんだとか、「異類中行」が大切なんだという考え方ではなしに、現在の瞬間において周囲の環境を眺めながら、自分の判断を頭に置きながら、どうするかということを決めるというのが仏道の立場なんです。

 だから原則的に「随佗己」がいつでも正しいんだとか、あるいは「異類中行」がいつでも正しいんだということが、選択の問題ではなしに、「いま何をしなければならないか」ということについて、その都度判断して生きていくという考え方になります。

   そうすると、そのときの判断力というか、いままで教えられてきた直観を磨いていくという……。

   そうです。だからそのときに判断の基礎になるのは、自律神経のバランスなんです。交感神経が強いと頭で考え過ぎて正しい決断にならないんです。副交感神経が強いといつまで経っても決断がつかない。だからその点では、自律神経のバランスしているときに最初に結論が出るというふうな状況が人間の生活の中にあって、そのことを仏教では非常に尊重したんです。

 で、そういう思想というのは欧米の思想にはないんだと思います。だから仏教思想はある意味では危険思想だというふうなとらえ方もあり得るわけですが、どうも釈尊のいわれたことのほうがわれわれの人生経験の中では本当だなという印象が強いと思います。

   一五七ページの二行目の大証国師のこの「古仏心の牆壁瓦礫」というのは非常に有名なところですね。

   はい。

   それで、「牆壁瓦礫を古仏心といふにあらず」とございまして、このことについて最後に「それかくのごとく学するなり」とありまして、これがどういう意味かなと思ったんですが、いまのお話で、「如是」というふうなとらえ方をしろということで、このことはこのご老師の現代文でもそういうことが書いていないのでよくわからなかったんですが、これはたいへんよくわりました。

 ところがですね、一つ気になりましたのが一五二ページの一行目に「牆壁瓦礫これ心なり」、さっきのお話では、そういう墻壁瓦礫、まあ外界の世界と心が一つになったものが現実の世界であるということで、これも非常にわかりやすかったんですが、これとこの「古仏心といえども」ですけれども、宗教的とらえ方をすると、別段古仏心が尊くて普通の心がそんな尊くないというわけじゃないので、この辺が何か矛盾したような表現になっているように取れるんですが、この辺はどう考えたらよろしいでしょうか。

   ここではね、「牆壁瓦礫を古仏心といふにあらず」というのは、この文章そのものであって、牆壁瓦礫というものと古仏心とが二つあって、それが同じものだといっているわけじゃないと。

 そのことは何を意味するかというと、たった一つの現実があって、それを人は「牆壁瓦礫」と呼んだり、「古仏心」と呼んだりする。だから牆壁瓦礫というものと古仏心というものとが別々にあって、それが同じだといっているわけじゃない。現実というものが一つあって、それを「牆壁瓦礫」と呼んだり、「古仏心」と呼んだりすると、こういう意味です。

   その「あらず」というのは、二つの言葉を否定しているのであって、そうすると要は現実という一つの事実を別の言葉で表しているので、別々にあるんじゃないよと。あえて否定なさっているわけではないということですか。

   そういう意味です。

   はい、わかりました。

   これで四つの心をきょうお伺いしたんですけれども、この四つの心の心に共通するものとして五薀の色受想行識が仏道では心という形でとらえるんだというようなことをいう方がいらっしゃるんですが、先生はその辺をどう思われるのか。

 もう一つ、『正法眼蔵』の中に心そのものについて道元さんが何か述べられているところがあるのかどうか、その辺はどうでしょうか。

   その点ではね、最初の問題につきましては、五薀というのは客観的な世界なんです。心というのは自分の主観なんです。仏教の世界では客観的な世界と心とが一つに重なったものが現実としてあるんだと。だから外界の世界があり、心があって、心が外界の世界を眺めたり考えたりするという理解の仕方でなしに、現実というものがあって、それを人々は「五薀」と呼んだり、「心」と呼んだりしていると、こういう理解の仕方になります。

 だからここのところで「牆壁瓦礫これ心なり」というのも同じような主張なんです。つまり、客観的な世界と自分の心の働きとが別々のものでないという主張なんです。

   色受想行識の色は肉体ということで、受想行識は精神作用だということで、その関係がちょっとよくわからなくて……。

   五薀の理解の仕方は、「色」が物質で、「受」というのは感覚の働き、「想」は考える働き、「行」というのは行ない、「識」というのが心、意識という意味なんです。だからそういう点では五薀の場合には、心の要素と物質の要素と両方含まれて全体を表しているということになります。

 ただここで述べているのは、客観的な世界と心とが二つあって、心が外界の世界を眺めているとかいう対立の関係ではなしに、われわれの生きている現実の世界というものは、心というふうな面からもとらえることができるし、物という面からもとらえることができる。現実は一つしかない。人間は頭で考えて、心と外界の世界とを分けて説明するけれども、現実はそういう説明が実情ではなしに、心と外界の世界とが一つに重なった現実の中にわれわれは生きているという理解の仕方を仏教ではするということになります。

   あと、心について道元さんは『正法眼蔵』の中で何か述べておられますか。

   だから道元禅師は心というものを純粋に独立した存在としてお考えになるということはなかったと思います。心というものは必ず外界の世界と対立して心があり得るということを考えておられるから、今日のように心というものは独立に存在して外界の世界を考えるんだ、とらえるんだという理解の仕方は仏教思想でないという見方をしておられます。

   ありがとうございました。

   一五四ページに「発菩提心」というのが出て来ますが、この菩提心ということについては道元禅師はいろいろ触れられていますね。特に『学道用心集』なんかでは無常を感ぜよというようなことから始まって。

 したがって努力、意識してそういう菩提心を起こすと。だからそういう能動的な面が非常に強いかなと思ったんですが、ここの菩提心のところを見ますと、どっちかというと受身というか、自然発生的といいますか、なんかそういうことでかなり印象が違うんですが、この辺はご老師はわれわれと違ってこのことを非常に読みこな  されて、この菩提心とほかでいわれている菩提心と何か矛盾というか、そういうものはお感じになりませんか。

   その点ではね、道元禅師がここに述べておられるのは、まさにわれわれの人生における事実そのものだという性格があると思います。

 つまり私自身がなぜ仏道を勉強する気になったか、あるいは僧侶になったかというようなことは、ぜんぜん理由がわからない。事実が積み重なってこうなっていますというだけのこと。だから人生というのはそういうものだと思います。

 だからここでも「発菩提心」というのは、どういうわけかわからないけれども突然起こるものだというふうな理解の仕方になっていますから、そういう点では、人間が意図して「よし!」という形で決心して始めたということよりも、「どういうわけかよくわからないけれどもどうもこの世の中には本当のものがありそうだ。その本当のものを勉強してみたい」という気持ちがいつの間にか起きてしまったというようなことが事実だと思います。

   はい、わかりました。どうもありがとうございました。

   「発菩提心」というのは、本当の知りたい心というだけではなくて、行動が伴って、しかもその行動が坐禅というか、それだけなんでしょうか。

   私はね、この「発菩提心」というのも自律神経のバランスと関係があると思います。交感神経が強いときには、「真実を勉強しなきゃいけない」「真実を勉強しなきゃいけない」と思って自分にいい聞かせているんだけれども、本当に起きてこない。

 それから副交感神経が強いときには、「真実なんて信じているのはバカだ。そういう頭の悪いやつはたくさんいる」といってせせら笑っているようなときなんです。

 ところが、交感神経と副交感神経とが均衡したときに、どういうわけかわからないけれども「本当のことが知りたいな」という気持ちなり状態なりが生まれてくると、そういう趣旨です。

   僕はね、自分で若い頃なんか、学生運動に入ったわけじゃないし、激しくやったわけじゃないんですけれども、デモなんかに行きますよね。そのときは、まだ未熟だったけれども自分なりに世界を知りたいとか、人間というのは何だろうかみたいなことを考えて、それでも行動が伴っていくんですよね。

 だけど、そういうのはいまから振り返ってみれば非常に幼かったと思うし、そんなことはぜんぜん大したことじゃなくて、その後仕事に就いていて、そういう本当のものを知りたい、聞きたいというのと少し離れていって、五十をこえて、「そんなふうに生きていても」という感じで、『正法眼蔵』と、先生にお会いしたのもそうなんですが、そういうところへ来たんですね。

 そうすると、それまでみんな一所懸命仕事なり、いろんなところで、若い人もそれなりの人も生きていても、そこのところに達しない限りは、僕の場合、そういう若いときのそれというのは、交感神経のほうが強過ぎてぜんぜんだめだったということなんですけど。

 いまのこういう仕事なんかをしていて、それでもいろいろなことを思っていきながらという人がほとんどだと思うんですが、友達やなんかにも、自分がいまやっていることが別に偉いと思っているわけじゃないから偉そうにはいえないんですけれども、そういう悩んでいる人がやっぱり自分で気がつかない限りはだめなんでしょうか。

   というよりもね、真実を知りたいと思う気持ちを消してしまう要素が二つあるんです。一つは名誉心、もう一つは物質欲、この二つが自分の心の中にあると、真実を知りたいという気持ちなんか出て来ないんです。そういうバカなことを考えている人間がこの世の中にはいるもんだと、名誉を得ることが人生目的だと考えたり、経済的に豊かになることが人生目的だという考え方があるわけだけれども、それはもう世間の一般的の常識なんです。だから世間では名誉を求めるか、金銭を求めるかでもう夢中になって努力をしているわけだけれども、真実というものはそういう二つの目標から離れたときに出て来るということが実情としてあります。

 だから道元禅師が『学道用心集』という本をお書きになって、名利の心を離れろということをいっておられるのはそのためなんです。名誉や利得の心を離れないと真実を知りたいなんていうバカな考え方は起きてこないんです。

 ただそれと同時に、人類の中で非常に偉大な仕事をやった人が、金が欲しいから努力したかとか、人にほめられたいから努力したかというと、そうではない。偉大な仕事をしている人というのは名誉や利得というものについては非常に恬淡としている人がまず例外なしに事実です。だからそういう生き方をしなさいというのが釈尊の教えになるわけです。

 だけど、たいていの人は「いやあ、そんなことをやっていたら飯が食えない。贅沢ができない。だからそういうことは年を取って暇でもできたらやります」というふうな考え方になるけれども、人生というものがそうのんきなものかどうかということについての考え方が仏道の世界にはあるということになると思います。

 ただ、仏道の難しさというのはそういうところにあるんだと思います。だからたいていの人が好きになれないのはそのことがあると思います。私も若い頃に『学道用心集』を読んで、「名利の心を離れろ」と書いてあったので、「いや、これは困ったな」と思った。その頃は偉くもなりたいし、金も欲しいと思っていたから、いや、それをやめろといわれたんじゃ、どうも困るなと思って考え込んだことがありますよ。

   そういうことをお考えになって、自然にそういうことを頭でじゃなくて、それは捨てるというか、本当の道に行けば自然に消えちゃうわけなんですか。

   そこでね、私の場合は変な経験があるんだけど、運動に夢中になったときに忘れちゃった。だからもう運動が面白くて夢中になってバカみたいに走っていたときを考えてみると、そのときに名誉や利得は消えちゃったんだと思う。「何かそれ以外のもの」という気持ちが強くなってこういうバカが生まれたと。

 だから私は自分の僧侶の名前に「愚道」という言葉をつけているけれども、愚道というのはそういう意味なんです。そういう点では、世間で大事に考えることを全部忘れちゃって、バカなことをやっているということになると思います。

 ただ、私は正直いって自分は本当にバカだと思います。だからよく自分の生活の中で「ああ、俺はバカだなあ」と思います。

   平常心のご解説の中で、人の言葉を聞いただけでその人の気持ちが落ち着いているかいないかというのがわかりますという解説をされたんですが、いろんな人といろんな場面でお話をしたり、あるいはお会いしたり、意見交換したりする場というのが皆さん非常に多いと思いますが、その相手の方が自律神経がバランスしているかどうかというのは少しお話するとわかるんでしょうか。

   というよりもね、わかるわからないは、自分のほうがバランスしていないとだめなんです。自分がバランスしていると、自分の心が鏡のようになっていますから、相手の人の気持ちが映るんです。だからそういう点で直観的に判断することになりますから、自分自身の心が絶えずバランスしていなきゃだめだというのが釈尊の教えです。

 だからここで「赤心」とか「平常心」とかいっているのも、全部バランスした気持ちなんです。だから考えてわかるものじゃなしに、鏡に映るように結論が出ちゃうというのが実情だと思います。

   そういたしますと、たいへん失礼なご質問ですが、ご老師はいろんな方とお会いされると思うんですけど、その方が自律神経がバランスされているかどうかというのは直観でおわかりになるんでしょうか。

   うん。その点ではね、結局、威張った態度をしている人というのはバランスしていないです。卑屈な人もバランスしていないです。ごく普通の人がやっぱりバランスしているということがあるように思います。

   はい。ありがとうございました。

 

 それでは、時間がきたようですから、普回向を唱えて終わりにしたいと思います。

普回向 唱和