開経偈 唱和

 二、三日前にイスラエルにおいてイスラエルとパレスチナの人々が非常に難しかった休戦の約束をしたという事実がありまして、私はこの事件が世界の歴史の一つの転換点になっているという見方をしております。

 それはどういうことかといいますと、イスラエルとパレスチナの争いは非常に長い期間にわたって行なわれておりまして、しばらく前にもイスラエルの総理大臣でラビンという人が和平ができそうになったところで暗殺されている。それからその後、アラファトというパレスチナの議長が協定ができそうになると壊すという形で何回も失敗を繰り返したわけでありますが、今回初めて休戦にたどり着いた。これは世界の歴史の流れの中で非常に大事な事件だというふうに見ております。

 なぜ大事かといいますと、その和平の原因がやはりイラクにおける選挙が成功したことにあるという見方をしております。その点では、あの選挙がうまくいくかどうかということについてたいへん疑問があったわけでありますが、曲がりなりにも成功したということから、多くの人々は世界の歴史の流れがちょっと変わったぞという印象を受けている。そうすると、いままでやってきたテロリズムの反抗というものが長続きするかどうかということに疑問を持ち始めた。そういう空気が反映して、しかもアラファト議長が最近死亡したというふうな事実もあって、この辺が潮時だという考え方が恐らくパレスチナの人々の間にも生まれて、やっと休戦が成立したと、こういうふうに見ております。

 したがって、アフガニスタンに対する攻撃以来、かなり激しい争いとして地球上を騒がしたわけでありますが、そろそろその問題が解決の方向に動き始めたということを意味しているわけでありまして、そのことが世界の歴史の中で非常に大きな流れとしてすでに成長している人間主義の文化に対する異質の文化の反抗が一つ解決に向かうというふうに理解すべきではないかという見方をしているということになります。

 

 それではまたこの本のほうに入ってまいりますと、きょうは一五九ページの「身学道といふは」というところに入っていきたいと思います。

 釈尊の教えは現実主義の教えでありますから、物事を勉強するに当たっても、心だけの勉強ではだめだという主張があるわけであります。では何が要るんだといいますと、体で勉強しろと、こういう主張をしております。そうして体の勉強だけでもだめだ。どうしたらいいんだというと、心の勉強も同時に要る。

 そのことは、仏教の基本的な思想が、この世の中は単に精神的なものだけではない、物質的なものだけではない。だから心と物とが一つに重なった現実の世界を基準にして人生問題を考えないと本当の人生問題はわからないという主張が仏教の教えには含まれているわけであります。

 ですからこの巻でも、まず心の勉強というものを先にいろいろ説明して、この一五九ページのところから体の勉強がいったいどんなものかという説明に入って行くわけであります。

 

 そこで一五九ページのところを読みますと、

 「身学道といふは、身にて学道するなり、赤肉団の学道なり」、体で真実を勉強するということはどういうことかというと、体そのものを使って仏道を勉強することだ。それは言い換えてみるならば、丸裸の肉の塊を使って真実を勉強することだ。「赤肉団」というのは赤い肉の塊という意味であります。赤い肉の塊というのは、人間の体そのもの。人間の体を使って真実を勉強するんだ。そういう体を使った勉強の仕方がないとこの世の中の真実はわからないと、こういう主張を道元禅師はしておられるし、仏道の教えそのものにそういう教えが含まれているわけであります。

 「身は学道よりきたり、学道よりきたれるは、ともに身なり」、そうして道元禅師は、体というものがなぜ価値を持つかというならば、真実を勉強しているからだと。体を使っても、真実と無関係にご飯を食べました、寝ました、ご飯を食べました、寝ましたと、何万回続けてみても、価値があるかどうかというと、たいへん疑問だ。

 道元禅師は、「身は学道よりきたり」、体の価値というものは真実を勉強しているから初めて価値があるんだ。そうして、「学道よりきたれるは、ともに身なり」、真実を勉強することによって体というものの本当の価値が出て来るんだ。ご飯を食べました、寝ました、ご飯を食べました、寝ましたということを何万回繰り返していても、体そのものの価値は出て来ない。体を使って真実を勉強したときに体の価値が出て来る。そういう意味で「身は学道よりきたり、学道よりきたれるは、ともに身なり」。

 「尽十方界、是箇真実人体なり、生死去来、真実人体なり」、あらゆる方角に広がっている宇宙全体というものも、まさに本当の人間の体と同じものだ。このことがどういうことを意味するかといいますと、宇宙の存在も人間が現在の瞬間において何をするかによって決まるんだ、人間の現在における瞬間の行ないと宇宙全体とは同じものだと、こういう考え方が仏教哲学の中にありまして、そのことを中国の長沙景岑禅師は「尽十方界、是箇真実人体なり」、宇宙全体はまさに人間の体と同じものだ。「生死去来、真実人体なり」、人間が一所懸命毎日努力をして生きていく、また死んでいく、そういう変化そのものが本当の人間の実体である。

 「この身体をめぐらして、十悪をはなれ、八戒をたもち、三宝に帰依して、捨家出家する、真実の学道なり」、したがって、そのような体を使って十種類の悪い行ないから離れる。そうして八つの戒律を守り、「三宝に帰依して」、仏・法・僧という三つの価値というものに自分の行ないをゆだねて、「捨家出家する」、家庭生活を離れて社会的な価値観を離れた生活をするということが、「真実の学道なり」、本当の意味で本当の教えを勉強することを意味する。

 「このゆゑに真実人体といふ」、そのように真実を勉強する体であるから本当の人間の体と呼ばれるのである。そのことは、真実と無関係な人間の体というものは本当の意味で人間の体でないと、こういう主張にもなるわけであります。

 「後学かならず、自然見の外道に同ずることなかれ」、そうして、時代が遅れてから仏道を勉強している人々は、自然主義という仏教の教えとは違う教えに同調してはならない。この「自然見の外道」というのは何を意味するかというと、今日でも「自然主義」という言葉がありますが、科学的な立場で単に物質的なものだけを基礎にして考える哲学が「自然見」であります。「自然見の外道」というのは、そういう自然主義の考え方、あるいは物質主義の考え方というものが釈尊の教えと違うという意味で「外道」と呼ばれるわけでありますが、道元禅師は体で勉強するからといって唯物論的な立場で仏道を勉強することがあってはならないと、こういう注意をしておられるわけであります。

 ですから仏教思想がどういう思想であるかということに関連して、心だけを大切にする観念論でもない、物だけを大切にする唯物論でもないということが仏教哲学を理解する上の非常に中心的な内容ということになるわけであります。

 

 その次にいきますと、一六一ページのところで、今度は百丈大智禅師の言葉を引用して、やはり釈尊の教えを勉強することがどういうことかということの説明が行なわれております。

 「百丈大智禅師のいはく、若執本清浄本解脱 自是仏、自是禅道 解者、即属自然外道」、百丈大智禅師という方は百丈懐海禅師と呼ばれた方でありますが、その人の言葉に「若シ本清浄本解脱ニシテ自ラ是レ仏、自ラ是レ禅道ナリトノ解ヲ執スル者ハ」、こういう表現で表されている人がどういうことを意味するかというと、われわれは本来清らかな存在であり、すべての真実を得て一切の障害から抜け出している、それがまさに仏と呼ばれるものだという考え方をするということでありまして、何を意味するかというと、「オギャー」と生まれて育った人間は特別に努力をしなくても本当の人間だという考え方でありますが、そういう考え方は仏教思想ではないと、こういうことをいっておられるわけであります。そうして、われわれは本来正しい存在として生まれてきているんだから、クヨクヨ真実などを心配する必要はない、自由自在に行動していれば、それがすべて真実だというふうな理解の仕方が禅宗と呼ばれる考え方の中に強いわけでありますが、その考え方は間違いだと、こういうことをいっておられるわけであります。

 「即チ自然外道ニ属ス」、そういう考え方は自然主義と呼ばれるこの世の中を物質的なものだけとして考える人々のものの見方であると、こういうことを百丈大智禅師が述べられた。

 そこで道元禅師がこの大智禅師の考え方に解説をつけられて、 「これら閑家の破具にあらず、学道の積功累徳なり」、ここで百丈禅師がいわれた言葉というものは、のんびりと日常生活を生きている人々の使い古した価値のない道具とは違う。それが「これら閑家の破具にあらず」、「閑家」というのは暇のある人という意味でありますし、「破具」というのは壊れた道具という意味であります。そのことは何を意味するかというと、この百丈禅師の言葉というものは、百丈禅師が長年にわたって真実を勉強されて、さまざまの効果を積み上げられた結果得られたものである。「積功累徳」というのは、たくさんの成果を積み上げてでき上がった人間の価値である。

 「 跳して玲瓏八面なり、脱落して如藤倚樹なり」、その様子というものは、現在の縛られた境遇から抜け出して、非常にすばらしい姿をあらゆる方角に示している。「玲瓏」というのは金の鈴の鳴る音を意味していて、非常に美しいものを指すと、こういうふうに理解されております。そいうふうな美しい境涯に入り込んだ状態をいうのであるし、「脱落して如藤倚樹なり」、さまざまの束縛から抜け出して自由自在の境涯に立って、藤が藤らしくよその木に寄りかかって成長しているというふうな、ごく自然の状態を示すことである。

 「或現此身得度而為説法なり、或現佗身得度而為説法なり、或不現此身得度而為説法なり、或不現佗身得度而為説法なり、乃至不為説法なり」、そこで、そういう形での仏道修行者のあり方というものは、現にわれわれが持っているこの具体的な体を現して人々を救い本当の教えを人に説くことである。あるいは現に自分が持っている姿と違う姿を示して人々を救い人々に説法することである。あるいは具体的な体を示さずに人々を救い真実を説くことである。あるいは自分とは違う姿を現すことをせずに人々を救い説法をすることである。そうしてそれは、総括した形でいうならば、わざわざ真実を説くということをしないことである。

 このことは、真実を説くというものも、言葉で説くのではなしに、人間の行ないとして説くべきだと、こういう思想が含まれているわけであります。言葉による説明がいかに美しくても、実際にやる行ないがそうでなければ、本当の意味の仏道修行とはいえないと、こういう趣旨であります。

 「しかあるに棄身するところに揚声止響することあり、捨命するところに断腸得髄することあり」、そうしてわれわれの日常生活というものを考えてみると、自分たちの体を捨てて捨身の態度で生きるときに、「揚声止響することあり」、声を上げることによってほかの響きがとまってしまうような優れた行ないもあり得るし、「捨命するところに断腸得髄することあり」、命を捨てることによって非常に苦しい思いをするけれども、それと同時にこの世の中の真実がわかるというふうなこともあり得る。

 だからこの辺の事情は、行ないをすることによって真実が得られると、こういう考え方であります。そのことは逆にいうならば、行ないをしなければ真実は得られない、真実はわからないと、こういう主張にもなるわけでありまして、われわれがなぜ坐禅をするかというならば、足を組み、手を組み、背骨を正して、最も優れた姿勢をとることによって、この世の中の真実が何であるかということを体そのものを通じて感じ取ることができるということを意味するわけであります。

 「たとひ威音王よりさきに発足学道すれども、なほこれみづからが児孫として増長するなり」、そこで、われわれの修行が威音王という世界で最も古い仏よりも以前から仏道修行を始めて仏道修行を続けているような場合でも、「なほこれみづからが児孫として増長するなり」、やはり自分たちは釈尊の弟子である、孫弟子であるというふうな態度で一所懸命釈尊の教えを勉強することによって少しずつ成長するのである。

 「尽十方世界といふは、十方面ともに尽界なり、東西南北四維上下を十方といふ」、そこで、「尽十方世界」という言葉がある。あらゆる方角に広がった世界という意味でありまして、宇宙を指すわけでありますが、その宇宙に関連しても、あらゆる方角がすべて宇宙である。東も宇宙である、西も宇宙である、南も宇宙であり、北も宇宙であるというふうな形で、あらゆる方角に広がっているすべてが宇宙そのものであり、「東西南北四維上下を十方といふ」、東、西、南、北という四つの方向に対して、今度はその中間に東南とか西北とかいうふうな四つの方角があるから、四と四とを足して八になるわけでありますが、その上に上と下の二つの方角が加わるところから、十の方角という言葉を使って宇宙全体を表しているわけであります。

 「かの表裏縦横の究尽なる時節を思量すべし」、そこで、そのように宇宙全体が表も裏も縦も横も全部わかったような瞬間を心でつかむべきである。「時節」というのは短い時間という意味で瞬間を指すわけでありまして、その点では、坐禅をしてジーッと坐っていることによって瞬間瞬間が経過していく、その瞬間瞬間を勉強すべきだと、こういう趣旨を述べているわけであります。

 「思量するといふは、人体はたとひ自佗に罣礙せらるといふとも、尽十方なりと諦観し決定するなり」、そうして、ここで考えるという言葉が使われているけれども、どんな考え方をするかというならば、「人体はたとひ自佗に罣礙せらるといふとも」、人間の体というものは、自分の体もあれば、その周囲の環境もある。そういうふうな自分と環境との関係でわれわれの人間の体というものはあるけれども、それと同時に、そのわれわれの持っている人間の体が宇宙全体と同じものだというふうに受け取り、それをしっかりと信ずることである。

 この思想が、『中論』という龍樹尊者のお書きになった本にも出て来るわけでありまして、われわれの行ないというものと宇宙全体とは一つのものだと、こういう考え方を仏教ではするわけであります。そのことはどういうことをいうかというと、人間が盗み食いをしていれば宇宙が盗み食いをしている、そういう関係だということをいうわけでありまして、この表現は沢木老師がよくされた。寺院の中で物を盗むことを「作務する」というわけであります。「作務」というのは仕事をするという意味でありますが、仕事をすることは作務するという言葉で物を盗むという意味に使っているわけでありますが、自分が作務をすれば宇宙が作務をしているんだ。つまり自分が盗みをしているということは宇宙が盗みをしているということと同じことだ。人間が現在の瞬間において何をやるかということと宇宙がどんな様子かということとは完全に一致している。

 この思想は『正法眼蔵』に出て来ますが、龍樹尊者のお書きになった『中論』にも同じ思想が出て来る。これが仏教が宇宙というものをどう理解していくかという上における非常に重要な考え方の一つになるわけであります。

 そこで、「これ未曽聞をきくなり」、こういう考え方というものはいままで聞いたことがない、そういう教えを聞く。だから道元禅師といえども仏教思想においてわれわれの行ないと宇宙とが一つのものだという考え方を読まれたときにはびっくりされたんだと思う。だから、「これ未曽聞をきくなり」、いままで聞いたことないような教えを聞くということが事実である。

 「方等なるゆゑに、界等なるゆゑに。人体は四大五薀なり」、この世の中のあらゆる方角も安定している。そうして、「界等なるゆゑに」、われわれの住んでいる世界というものも安定している。「等」という字は等しいという字でありますが、二つのものの重さが同じという意味でありまして、均衡がとれているという意味であります。だからこの「等」という字が坐禅をして得られる自律神経のバランスした状態を意味しているわけでありまして、宇宙というものを考えてみると、あらゆる方角も完全に安定している。宇宙全体が安定している。それが事実であるから、そういう点では、人間も同じように、「人体は四大五薀なり」、人間の体も地・水・火・風というふうな物質的な要素ででき上がっているということもいえれば、色・受・想・行・識というふうに「五薀」と呼ばれる五つの集合体によってでき上がっているというふうな解釈が行なわれている。

 「大塵ともに凡夫の究尽するところにあらず、聖者の参究するところなり」、そこで、「大塵」というのは、「大」というのは物質的な要素を意味しておりまして、「塵」というのも非常に細かい粒子を指しておりまして、やはりこの世の中を形成している物質的な微粒子を指すわけであります。したがって「大」という字が物質を表し、「塵」という字が微粒子を表すわけでありますが、物質も、それをつくりだしている微粒子も、いずれも普通の勉強をしている人々にはわからない。それが「大塵ともに凡夫の究尽するところにあらず」。「聖者の参究するところなり」、だから古代インドの思想の中には、今日の自然科学が説いている、この世の中が非常に細かい最小単位の寄り集まりであるという考え方がすでにあって、それが「塵」と呼ばれていたわけでありますが、その実体というものは真実を得た人だけが勉強できると、そういう主張をしておられるわけであります。

 そうして、「また一塵に十方を諦観すべし」、一粒の微粒子の中にも完全な宇宙が含まれているという理解の仕方をすべきである。

 「十方は一塵に嚢括するにあらず」、宇宙というものが一つの微粒子の中に含まれているという考え方ではない。そのことは一粒の微粒子も宇宙全体もまったく同じものだという主張である。

 「あるひは一塵に僧堂仏殿を建立し、あるひは僧堂仏殿に尽界を建立せり」、そこで、この世の中のとらえ方としては、小さいとか大きいとかいう区別がなしに、微粒子の中にも坐禅をする建物や仏像を飾る建物が含まれていると考えることができるし、「あるひは僧堂仏殿に尽界を建立せり」、坐禅堂の中にも、仏を祀る仏殿という建物の中にも宇宙全体が含まれているというふうな考え方も同時に成り立つ。

 「これより建立せり、建立これよりなれり」、こういう形で一切のものを組み立てるというふうな事実が現実の世界にあるということがいえる。

 「恁麼の道理、すなはち尽十方界真実人体なり」、こういう考え方をするところから、尽十方界と呼ばれる宇宙と本当の人間の体とは同じものだという考え方が生まれてくる。

 「自然天然の邪見をならふべからず」、その点では、こういう問題が物質世界と関係があるからといって、この世の中がすべて物質だけの存在だという唯物論的な考え方を正しいと考えて勉強すべきではない。「自然天然の邪見をならふべからず」というのは、唯物論の考え方に陥るなと、こういうことであります。

 だからこういう問題は近代の思想を頭において勉強すると実によくわかる。だから『正法眼蔵』の思想水準というもの、あるいは仏教の思想水準というものがいかに高い水準まで上っているかということがこういう表現の中で非常にはっきりわかるわけであります。

 仏道を勉強することがなぜありがたいかというならば、この世の中のたった一つの真実を教えてくれるという性格がある。われわれはだいたい生意気に育っておりますから、「いやあ、真実なんてありはしないよ。真実があるなんていうのは、頭が悪いから真実があると思うのであって、この世の中は複雑怪奇で、真実なんかないんだよ」という考え方の人が今日では人間社会のかなり大きな部分を占めているということがいえるわけでありますが、道元禅師はそういう幼稚な考え方を持っておられなかった。この世の中はたった一つの真実しかない。宇宙の数が幾つあるかというと、よく考えてみても、恐らくたった一つだろう。宇宙がたった一つであると同じように、本当の真実もたった一つしかないと、こういう考え方が仏教思想の中にあるわけであります。

 だから頭のいい人、いろんなことのよくわかる人は、「いやあ、そういう単純な考え方は当てにならない。この世の中はもっと複雑であって、真実が一つであるなんていうことは本当かどうかわからない」というような考え方もするわけでありますが、道元禅師は仏教徒はそういう幼稚な考え方をしないと、そういう意味で「自然天然の邪見をならふべからず」、自然主義と呼ばれるような唯物論的な間違った考え方を勉強すべきではないと。

 「界量にあらざれば広狭にあらず」、この宇宙の大きさ、あるいは人間の現在の瞬間における行ないの大きさというものは、それを決める範囲というものがない。それが「界量にあらざれば広狭にあらず」、宇宙やわれわれの行ないが広いとか狭いとかいうことはいえずに、絶対の事実である。

 「尽十方界は、八万四千の説法蘊なり、八万四千の三昧なり、八万四千の陀羅尼なり」、そこで、われわれの生きている宇宙というものは、八万四千と呼ばれるような無数の説法の塊である。宇宙全体が無数の教えをわれわれに説いてくれている。「八万四千の三昧なり」、それは無数にある自律神経のバランスである。さまざまのもののバランスである。「八万四千の陀羅尼なり」、それが短い言葉で表現された無数の真実である。

 「八万四千の説法蘊、これ転法輪なるがゆゑに、法輪の転処は、亙界なり、亙時なり、方域なきにあらず、真実人体なり」、そうして、「八万四千の説法蘊」、宇宙というものがどんなものかということを考えてみると、宇宙全体の事実がわれわれに本当のことを教えてくれるさまざまのものの集まりである。

 だからそういう点では、イスラエルとパレスチナとの長年の争いもわれわれにとっては勉強材料。人間というものはちょっと考えが違うと、いかに態度が違い、争いを解消することが難しいかというふうな、非常に優れた教育材料として、この世の中の一切のものが活躍しているということが事実でありまして、そういう意味で「八万四千の説法蘊」。「これ転法輪なるがゆゑに」、釈尊がお説きになった教えと同じものであるから、「法輪の転処は、亙界なり、亙時なり」、そのような教えを説法する場所というものはこの世の中全体であり、時間のすべてであり、それが方角がないとか地域がないとかいうわけではないけれども、それと同時に、そのような宇宙全体が本当の人間の体と同じものである。

 「いまのなんぢ、いまのわれ、尽十方界真実人体なる人なり」、そこで、「いまのなんぢ」というのは、説法を聞いている僧侶に向かって、現在のおまえたちと、こういうことをいわれているわけであります。「いまのわれ」、現在の道元禅師自身も、「尽十方界真実人体なる人なり」、宇宙全体とまったく同じ、本当の人間としての実体である。

 「これらを蹉過することなく学道するなり」、これらを誤解することなしに真実を勉強すべきである。

 「たとひ三大阿僧祇劫、十三大阿僧祇劫、無量阿曽祇劫までも、捨身受身しもてゆく、かならず学道の時節なる進歩退歩学道なり」、「三大阿僧祇劫、十三大阿僧祇劫、無量阿曽祇劫」というのは、いずれも無限といって、いい非常に長い時間を指すわけでありますが、永遠の時間に向かって体を投げ出し、あるいは人間の体というものを大切に使って生きていく。「かならず学道の時節なる進歩退歩学道なり」、そういう人生というものは例外なしに真実を勉強している瞬間であり、真実を勉強している瞬間において、ある場合には前進し、ある場合には後退するというふうな真実の学び方である。

 「礼拝問訊する、すなはち動止威儀なり」、人と人が出会ったときに、お互いに礼拝をする、あるいは合掌して頭を下げるというふうなことも、「すなはち動止威儀なり」、人間の行ないではあるけれども、そこには威厳のある姿というものが具わっている。

 「枯木を画図し、死灰を磨塼す、しばらくの間断あらず」、その点では、仏道修行の世界で枯れた木のような仏道修行者の姿を示し、あるいは生命のないような存在を一所懸命に瓦を磨くような努力をするということも、「しばらくの間断あらず」、そういう努力が切れ目なしに続いている。

 「暦日は短促なりといへども、学道は幽遠なり」、われわれの日常生活における一日一日は実に短い。しかし真実を学ぶ状況というものは無限の長さを持っている。

 「捨家出家せる風流、たとひ蕭然なりとも、樵夫に混同することなかれ」、家庭生活を離れ、社会的な価値観を離れて静かな生活を送っている場合も、「たとひ蕭然なりとも」、はたから見るならばしょんぼりとした気の毒な状況のようには見えるかもしれないけれども、「樵夫に混同することなかれ」、単に山で木を切って生活を立てている木こりの人々と同じではないということを知るべきである。

 「活計たとひ競頭すとも、佃戸に一斉になるにあらず」、その点では、生き生きとした生活というものは絶えず競争のように活動を続けているけれども、農民として奴隷のような生活をしている人々と完全に同じというわけではない。

 「迷惑善悪の論に比することかなれ、邪正真偽の際にとどむることなかれ」、そういう行ないを通じて真実を追究している仏道修行者の姿というものは、迷っているとか、戸惑いしているとか、善いとか悪いとかいうふうな、言葉で考えた善悪の問題と違うということを考えるべきである。

 なぜ違うかというと、言葉で考えた場合には、頭で問題を考えることになるわけでありますが、われわれの日常生活の行ないというものは、頭の中で考えて善いとか悪いという性質と違う。宇宙の原則と合っているかどうかということを基準にしてどう生きていくかということが仏道修行の世界でありますから、言葉で考えて、迷っているとか迷っていないとか、善いとか悪いとかいうふうな議論とは違う。そういう意味で「迷惑善悪の論に比することかなれ」。

 「邪正真偽の際にとどむることなかれ」。間違っているとか正しいとか、本物であるとか偽物であるとかいうふうな、比較の世界で問題を考えてはならない。われわれの現実における日常生活というものは、正しいとか正しくないとかいうふうな言葉における区別ではなしに、真実そのものとしての実体を持っていると、こういう主張であります。

 「生死去来、真実人体といふは、いはゆる生死は凡夫の流転なりといへども、大聖の所脱なり」、仏道の世界では「生死去来、真実人体」という言葉がある。それは、われわれが日常生活の中で瞬間瞬間に生まれ、瞬間瞬間に死滅していっている、あるいは瞬間ごとに到来し、瞬間ごとに去って行くという人生があるけれども、それがまさに本当の人間の姿だという主張は、「いはゆる生死は凡夫の流転なりといへども、大聖の所脱なり」、生き死にの世界ではごく普通の人間が流されたり転換させられたりして生きているということが実情であるけれども、そのような境涯を真実を得た人は抜け出している。

 「超凡越聖せん、これを真実体とするのみにあらず、これに二種七種のしなあれども、究尽するに、面面みな生死なるゆゑに、恐怖すべきにあらず」、そういう点では、われわれの日常生活というものが普通は生死流転と考えられているけれども、実体をよく眺めるならば、それがまさにわれわれの人生であり、貴重な現実の姿であるという主張をしておられるわけであります。だからそれが生死流転であろうと、そのことを怖がる必要はない。

 「ゆゑいかんとなれば、いまだ生をすてざれども、いますでに死をみる」、どうしてそういう考え方を持つかというならば、現にわれわれは生きているけれども、その瞬間において現在の瞬間が去って行くわけでありますから、死滅したと同じような状況を経験している。だからわれわれの人生は現在の瞬間において生まれては消え、生まれては消えした状況が次々に続いているだけのことである。

 「いまだ死をすてざれども、いますでに生をみる」、そこで、死ぬというふうなことを問題にしなくても、次々に自分の生命が瞬間瞬間に生まれてきているというふうな事実に出会う。

 「生は死を罣礙するにあらず、死は生を罣礙するにあらず」、そういう点では、生まれるということと死ぬということがお互いに邪魔をし合っているということではない。現在の瞬間が次々に生まれては消え、生まれては消えしているから、それに伴ってわれわれも生まれては消え、生まれては消えしているだけのことである。

 「生死ともに凡夫のしるところにあらず」、その点では、現在の瞬間における生き死にというふうなものも、仏道を勉強していない普通の人にとっては知ることができない。

 「生は栢樹子のごとし、死は鉄漢のごとし」、そこで、生まれるということと庭先に立っているこのてがしわの木と同じような性格を持っているし、死ぬといってみても仏道修行者が一所懸命仏道修行をしている状況そのものと同じものだということができる。

 「栢樹はたとひ栢樹に礙せらるとも、生はいまだ死に礙せられざるがゆゑに学道なり」、そこで、このてがしわの木はこのてがしわとして現実の木として眼の前に立っているかもしれないけれども、生まれるということと死滅するということがお互いに邪魔することがなくて、その結果、われわれは現在の瞬間瞬間を真実を勉強しながら経過しているのである。

 「生は一枚にあらず、死は両匹にあらず、死の生に相対するなし、生の死に相待するなし」、生き死にという考え方があるけれども、生きるということが一つの立場で、死というものがもう一つの立場というふうな理解の仕方ではない。そのことを「生は一枚にあらず」、生きるという事実だけが独立に存在しているわけではない。それと同時に、死というものと対立して生と死とが二つあるということでもない。「死の生に相対するなし」、死ぬという事実は死ぬという事実で絶対の事実だし、生まれるということは生まれるという意味で絶対の事実だ。「生の死に相待するなし」、だから生と死とが二つに対立して理解ができるという形のものではなしに、死という瞬間もあれば、生という瞬間もあって、そういう形でわれわれの人生というものが次々に経過している。そうして、そういうふうなわれわれの日常生活の事実を勉強していくべきだということを道元禅師が説かれているわけであります。

 

 そうして最後の一六八ページのところで、

 「圜悟禅師曰、生也全機現、死也全機現、逼塞太虚空、赤心常片片」、圜悟克勤禅師が次のような表現をしている。生きるということも全機能の発現である、死ぬということも全機能の発現である。「太虚空ニ逼塞シ」、生も死も大きな空間の中に十分に行き渡っていて、別の言葉でいうならば、赤裸々な心というものが瞬間瞬間に動いているだけのことである。

 私は『正法眼蔵』の中でこの「赤心片片」という言葉がかなりわれわれの人生の実情を描写しているという理解の仕方をしております。つまり、われわれの人生というものは瞬間瞬間のものだ、瞬間において何をするかということがわれわれの人生のすべてだと、こういう主張があって、その瞬間瞬間を真心に従って生きていくことが仏道修行のすべてだと、こういうことを説いていることになるわけであります。

 だから生きるとか死ぬとかいうふうなことを考えてクヨクヨするよりは、現在の瞬間において一所懸命に生きていくべきだ。そういう点では、生きるといってみても死ぬといってみても同じようなものであって、この世の中のすべての働きが具体化している事実だけがあるわけだ。もっと具体的にいうならば、与えられた現在の瞬間を一所懸命生きていくだけの問題だ。そういう理解の仕方が仏道の中心思想だという主張であります。

 そこで道元禅師が解説をされまして、「この道著、しづかに功夫点検すべし」、この言葉というものを静かに考えて細かく調べてみるべきである。

 「圜悟禅師かつて恁麼いふといへども、なほいまだ生死の全機にあまれることをしらず」、圜悟禅師はこういうふうな表現をされたけれども、まだ生き死にというものがあらゆる機能よりもさらに大きなものだということがわかっていないと、道元禅師はこういう主張をしておられるわけであります。それが「なほいまだ生死の全機にあまれることをしらず」、この世の中にあらゆる機能の発現というふうなものがあるかもしれないけれども、われわれの生き死にの世界というものはそれよりももっと大きい。

 「去来を参学するに、去に生死あり、来に生死あり、生に去来あり、死に去来あり」、去るとか来るとかいうふうな言葉がどういう意味を持っているかというようなことを勉強してみると、去るという事実の中にも生と死が両方含まれている。来るという言葉の中にも生と死が両方含まれている。「生に去来あり、死に去来あり」、死というものも去ったり来たりするし、生というものも去ったり来たりするし、死というものも去ったり来たりする。このことは、一切の事実が現在の瞬間において行なわれているということの表現であります。

 「去来は尽十方界を両翼三翼として、飛去飛来し、尽十方界を三足五足として、進歩退歩するなり」、そうしてみると、去るとか来るとかいうふうな言葉があるけれども、それは尽十方界という宇宙全体を自分の翼として飛び去ったり飛んで来たりすることであるし、「尽十方界を三足五足として」、宇宙全体を自分のはく履物として、「進歩退歩するなり」、前に進んだり後退したりするわれわれの日常生活の動作があるだけである。

 「生死を頭尾として、尽十方界真実人体はよく飜身囘脳するなり」、そこで、生き死にというふうな事実を最初から最後までの実体と考えて、「尽十方界真実人体はよく飜身囘脳するなり」、宇宙全体と本当の人間の体とが同じものだという考え方で日常生活を生きていくことによって、われわれが動作を実際にやることもできれば、またものの考え方を切り換えることもできる。「飜身」というのは体を動かすことでありまして、われわれの動作を通して自分のものの考え方を切り換えていくという意味になりますし、「囘脳」というのも自分が頭の中で考えてきたことを次々に入れ換えて本当の教えに近づくということを意味するわけであります。

 「飜身囘脳するに、如一銭大なり、似微塵裡なり」、しかし、そういうふうに体を動かして動作を切り換えたり、頭を動かしてものの考え方を転換させたりするということも、けっしてそういう抽象的な表現ではなしに、「一銭大ノ如クなり」、少額の金属の貨幣と同じような大きさである。きわめて具体的なものであり、「微塵裡ニ似タルなり」、それはまた同時に非常に小さいもので物質の最小単位の中にさえ入ってしまうような内容のものでもある。

 「平坦坦地、それ壁立千仭なり」、われわれの人生においては実に平らかで何の障害もないように見えるという状況があるけれども、その実情としては、千仭もあるような高い塀が張りめぐらされているような、きわめて限られた世界だという実情もある。

 「璧立千仭処、それ平坦坦地なり」、われわれの日常生活においては難しいことが山のように重なって、どうにも動きのとれないようなことがあるけれども、考え方を切り換えてみれば、きわめて平坦な土地をごく普通に歩いているというふうな状況でもあり得る。

 「このゆゑに南洲北洲の面目あり、これを検して学道す」、そこで、人間が住んでいるといわれている南のほうの大陸も、天使が住んでいるといわれている北側の大陸も、それぞれの大陸の姿があり、「これを検して学道す」、そのような問題を検討して真実を勉強していくのである。「南洲」というのは、人間の住んでいる世界という意味でありますから、人間社会の実情というものをよく勉強して真実を勉強するというふうなことがあるし、それと同時に、天使が住んでいるような理想の世界を知って、それを勉強するということも真実を勉強するための一つである。そのことは、人間社会のこともわかっていなければならないし、高尚な理論もわかっていなければならないと、こういうことを意味するわけであります。

 「悲想・非非想の骨髄あり、これを抗して学道するのみなり」、そこでわれわれの仏道修行に関連しては、それは頭で考えることではないという理解の仕方もある。それが「悲想」という言葉の意味であります。「想ニ非ズ」、頭で問題を考えることではないという意味でありますが、その後に「非非想」という言葉があって、頭の中で考えることでないこともないと、こういう意味が「非非想」でありまして、したがってものの考え方についても、頭で問題を考えたり、その頭で考えた思想を乗りこえたりするというふうな、非常に大切な立場が仏道にはあり、「これを抗して学道するのみなり」、そういうものも押しのけて真実とは何かということを日常生活の行ないの中で、あるいは坐禅の修行の中で勉強していくだけである。

 こういう形で道元禅師が「身心学道」という文章をお書きになっております。こういうふうな「身心学道」というふうな文章を読みますと、今日われわれが学校で教わる教えではこの文章は読めない、理解がつかない。なぜかというならば、われわれの日常生活と密接に関係しているから。

 だからこういう考え方と坐禅の修行とが密接に関係しているわけでありまして、坐禅をして自律神経がバランスすると、一切のものを現実の立場で見るようになる。現実の立場で見るようになると、頭で考えた理論というものがそう頼りになるものではない。眼に見える、手に触れるという物質的な世界がそう頼りになるものではない。その奥に人間の行ないがあって、その人間の行ないと宇宙とが一つのものだと、そういう現実の立場で問題を勉強していくべきであって、それが「身心学道」といわれることの意味だと、こういう主張になるわけであります。

 「正法眼蔵身心学道」

 「爾時、仁治三年壬寅重陽日、在于宝林寺示衆」、これが西洋の紀元でいいますと一二四二年でありますが、「重陽」というのは、「陽」という字が九を意味しておりまして、「重陽」というのは九が二つ重なるという意味で九月九日を指しております。宇治にありました観音導利興聖宝林寺においてたくさんの人々にこの「身心学道」の巻を説いた。

 

 以上が「身心学道」という言葉の意味であり、「身心学道」と呼ばれる章の意味ということになるわけであります。この「身心学道」の巻などはやはり仏教思想、あるいは『正法眼蔵』の中でも難しいほうの巻に入りますが、なぜ難しいかというと、欧米流の観念論と唯物論を離れて、その中間にある行ないの世界を説いているという点で、世界の哲学の中でもほかには見られない特別の思想であります。

 こういう現実を中心にした思想が二十世紀、二十一世紀には人類にとって必要になってきたということが事実でありまして、そういう意味で世界の人々が今日仏教思想に意外な興味を持ち始めているということがなぜかといいますと、このような行ないを中心にした哲学を取り上げることによって、観念論と唯物論に完全に分かれたわれわれが今日恩恵を受けている文化を乗りこえることができると、こういう事情があって、そのことが仏教思想が今日非常に世界的に歓迎されている大きな意味になるということがいえるわけであります。

 

 それでは、一つの巻が終わりましたので、話のほうをとめまして、またご質問を受けるということにしたいと思います。何かありましたらどうぞ。

 

   何度も聞く先生からのお言葉ですけれども、行ないということは宇宙と一緒ということで、自分が盗みをしていると宇宙も盗みをしているということで、宇宙と一体ということで何となくわかるような気がするんですけれども、言葉を換えていえば、自分が泣いていれば宇宙も泣いているということになると思うんですが、そこのところがどうもしっくりというか、すんなりと受け入れがたいので……。

   その点ではね、われわれは普通宇宙というものは長い時間系列の中でずうっと無限の過去から続いているような理解の仕方をしておりますけれども、仏教ではいま自分がどういう動作をするかということと宇宙全体の実情とが同じものだという主張をしているわけです。

 だからわれわれがタバコを吸っていれば宇宙がタバコを吸っている。われわれがタバコをやめれば宇宙もタバコをやめたと。そういう形でこの世の中の実体をとらえていくというのが仏教哲学の一つの最終的な原則になるわけです。

   そこのところへいきますと、自分は自分、宇宙は宇宙だというふうにどうしても分かれてしまうという感じが出て来るんですけど。

   うん、それは頭がいいから。(笑)

   頭で考えているからということですか。

   そうそう。頭で考えて「ああ、わかった」と思っている。だから人間の知識というのはみんなそうですよ。頭で考えて、学校の先生に教えられて「こうだ」というから、「ああ、そうですか。わかりました」ということで各人の人生がずうっと続いているわけだけど、仏教ではそういうことが実情ではなしに、「いま何をしているか」が宇宙の実体という主張をしたという点に特徴があるわけです。

   一六一ページの終わりから四行目に「また一塵に十方を諦観すべし。十方は一塵に嚢括するにあらず」とありますね。これにちょっと似た表現として、「諸悪莫作」の巻に「一塵をしれるものは尽界をしり、一法を通ずるものは万法を通ず」というのがありましてね。

 私は仕事をやっているときに、「一塵をしれるものは尽界をしり」ということは、まさしくこういうことだと。それから「一法を通ずる」というのは、これはもちろん宗教的にはあれなんですが、仕事をやっていますと、どうしてもいつも自分の担当している仕事、それは技術の分野でもまあいいんですが、やっぱり一つのことをとことんやりますと、各論を突き抜けて何か汎用といいますか、共通といいますか、そういうある真理に到達するということで、これを自重自戒の言葉として、あんまり守りませんけれどもやってきたんです。

 ところが、ここを見ますと、「一塵に十方を諦観すべし」ということですから、一塵には全宇宙が含まれているという言葉はあれですが、という意味で、そういうことをきちっと認識しなさいよと。

 ところが問題なのは、その次に「十方は一塵に嚢括するにあらず」、だけども「十方」、全宇宙というのは一塵にすっぽり含まれるということじゃないですよ、というふうに取れますが、そうするといま申し上げたこととこの上の段と下の段のつながりがちょっとよくわからないんですが。

   ここはね、こういう意味なんですよ。「また一塵に十方を諦観すべし」というのは、一塵と十方、つまり分子、原子というふうな細かい分子と宇宙全体とは同じものだと考えろと。

 それで次の文章は、「十方は一塵に嚢括するにあらず」というのは、十方と一塵、つまり微粒子と二つのものがあると考えて、どっちかがどっちかを包んでいるというふうに考えてはならないと、こういう意味なんです。微粒子というものと宇宙とは同じものだ。だから微粒子と宇宙とを二つのものに分けて、宇宙が微粒子を包んでいるとか、微粒子が宇宙を包んでいるとかという考えをすると正しくないと、こういう主張です。

 問  まったく同等のものであると?

 答  うん、だから一つのものだと。

 つまりもっと具体的にいえば、机というものが一つある。物質というものがあって机をつくっていると考える考え方でもないし、それから机という言葉があるからそれに物質が包まれているんだという二つに分けた考え方じゃなくて、現実の机が眼の前にあるというとらえ方をしろと。それが現実主義の見方なんです。それが行ないの立場におけるものの見方であって、そういう人生の中に生きているというのが仏教の主張なんです。

 われわれが学校で教わった教えというのは、言葉を使っていろいろと説明をしてくれますから、理屈でわかる。ただそういう理屈でわかった知識というものが本当のわれわれの現実の生活の正しい描写がどうかということについて、仏教では疑問を持っているわけです。現実というのはもっとたった一つの包括的なものだから、頭で考えて分析的に理解するのも一つの見方ではあるけれども、それが完全なものの見方にはならないという主張なんです。

   はい、わかりました。ありがとうございました。

   沢木老師のお名前が出て来ましたけれども、沢木老師のご提唱の中では「天地一杯」という言葉がよくでて来ましたね。

   はい。

   いまにして思えば、やはり非常に含蓄のある言葉だなあと思いますけれども、それはこういう深い意味が含まれていた上でああいうわかりやすい表現をされていたと、こういうふうに考えてよろしいわけですか。

   そうですね。それはそうです。

   ただ、いまの世の中は、昭和三十年代のときと違いまして、情報化社会といいますけど、いろんな新聞とか雑誌とか書籍で情報が出て来るわけですけれども、なぜそれを皆さんが読むかというと、やはり自分は世の中に置いてきぼりをくいたくないからという気持ちはあるわけですね。これは間違ったことではなくて、ある意味では正しいんですけど、先生はどういうふうにお考えになりますか。

   それはね、情報そのものが大事なのではなしに、情報をどう理解するかという自分の態度にかなり大事な問題がある。だからそれは、交感神経が強いと、頭で考えて「わかった」「わかった」という態度をとるわけです。副交感神経が強いと、「どうもわからないなあ」ということで投げるわけです。副交感神経と交感神経とが同じ力になっているときには、世の中がどう動いているかということが見えるんです。

 だから情報をつかんだ場合にも、それを仏教のように現実の立場で読まなきゃならない、理解しなきゃならないという事実があると思います。

   一五九ページの最後のほうに「自然見の外道」という言葉が出てまいりましたね。まあ唯物論のことですけど。私が最近思いますことは、この頃の中学生は偽札をつくっているという記事がありまして、偽札をつくって平気でゲームを買っているわけですが、ああいうのはやはり罪の意識というのはほとんどないと思うんですけれども、これはやはり親の育て方とか、家庭環境とか、世の中の社会の現象とか、やはりそういうものと関係があるとお考えですか。

   うん、そう。その点では、「自然見の外道」の世界には善悪がないんです。だからこの世の中は物質的な問題だけでとらえるならば善悪はないんです。何があるかというと、エネルギーが大きいか小さいか、力が強いか力が弱いかという価値観でこの世の中を全部理解するわけです。だから唯物論の世界では正義観はないんです。力強いものが正義だという考え方が出るわけだけれども、それが本当かどうかということが釈尊の説かれた疑問だし、そういう点では唯物論も間違い、観念論も間違いという理解の仕方が非常に大事なんです。

 ところが、われわれの生きている世界の実情というものは、何千年もにわたって観念論か唯物論で処理されてきたから、そのために文化は非常に進んだけれども、そのために今度は混乱を処理できないような状況にいま置かれているというのが世界の実情だと思います。

 だからこの実情から抜け出すためにはどうしたらいいかというと、私の正直な印象をいえば、釈尊の教えをみんなが理解して、釈尊の教えが盛んになる以外に手はないという見方です。

   それから一六一ページですけれども、百丈懐海禅師の言葉が出ておりますね。この言葉とちょっと違うんですが、『普勧坐禅儀』の初めに「原ぬるに夫れ、道本円通」というふうな表現がありますけれど、言葉だけ読むと、この『普勧坐禅儀』の初めの言葉とこの百丈懐海禅師の言葉は意味合いが違いますね。これはどういうふうに考えたらよろしいですか。

   その点ではね、この百丈禅師の主張というものは、具体的にどういうことをいうかというと、「悪いことをやったって、罪なんかありゃしないよ」という考え方を表現しているわけです。ところが、「事実はそうなっていないよ」というのが釈尊の教え。

 だから頭で考えれば、この世の中はもう善悪なんかないんだ、エネルギーのかたまりで力が強いか弱いかで全部決まっているんだという考え方になれば、善悪の立場というものを考える余地が残らないわけだけど、仏教では、単にエネルギーの大小だけじゃなしに、どちらが正しいか、どちらが間違いかという価値基準が別にあるという主張をしているから、「自然見の外道」と少し違うんです。

   はい、わかりました。どうもありがとうございました。

   一六八ページの前から四行目のところなんですが、ここのところで出てくる「生死去来」という言葉と、「尽十方界真実人体」というのが出て「人体」と出ているんですけど、これというのは何か対応しているといっては変なんですが、何か表しているんですか。

   だから『正法眼蔵』の各巻の構成というのはやっぱり苦諦・集諦・滅諦・道諦という考え方の切り換えをしながら説明が行なわれているということになるから、この最後のところでは道諦的な説明になっているんです。だから現実そのものの描写ということになっている。
   「去来は尽十方界を両翼三翼として、飛去飛来し、尽十方界を三足五足として、進歩退歩するなり」とあって、ここからずうっと最後のところまで読んでいくと、「生死去来」というのと「尽十方界真実人体」というのは呼応しているんですか。どういうふうに考えればいいんですか。

   同じものだと考え方。

   はい。

   だから、「真実人体」と呼ぶ表現もあれば、「生死去来」という表現もあるけれども、そういう言葉が一つに重なった、たった一つの現実があるだけだという主張なんです。

   はい。それが一つのものであるから、一番最後のところで、「それ璧立千仭なり。璧立千仭処、それ平坦坦地なり」という、この二つがあるわけなんですか。

   うん、そうそう。だから現実は一つのものだから、平和そのものでたいへんありがたいと思ってみたところで、もう邪魔者が多くてどうにも動きがとれないと思ってみたところで、対象は同じものだよと、こういう主張なんです。

   はい。

 

 それでは、時間がきたようですから、普回向を唱えて終わりにしたいと思います。

普回向 唱和