開経偈 唱和

 仏教の勉強をしておりまして一番ありがたいことは、釈尊の教えと社会の動きとが完全に一致しているということ。これは教えとして非常にありがたいことだと思う。私はそういう教えが地球上にあるとは思えなかった。

 だいたい、いろんな意見というものは事実に反する、こうなるだろうという予想に反して社会が動くということが普通の状況でありましたけれども、釈尊の教えの場合はそれがない。「いやあ、そんな調子のいいことをいったって困るじゃないか。事実がどうなっているかわからないぞ」という考え方もあるかと思いますが、私はこの講義の中で、アメリカがアフガニスタンを攻めたとき、あるいはイラクを攻めたとき、あるいはフセインが捕まったとき、そういうときに、こうなるんではなかろうかという判断が次々に起こっている。イラクの選挙がうまくいくかどうかについても疑問があったけれども、ともかくうまくいった。そうして最近では国会も動き始めた。
 ただ新聞の論調は、ここまではうまくいったけど、あとはわからないぞということをいう考え方が非常に多いわけでありますが、釈尊の教えを基準にして問題を考えると、そういうことは起きてこない。

 最近の例では、ライブドアという会社がニッポン放送の株式を買い占めるという努力があったわけでありますが、それに対して一週間ぐらい前だと思いますが、日本経済でフジテレビの持ち株が三五%を超えた、だからフジテレビの勝ちではなかろうかというふうな記事が出た。

 私はそのときに、三五%を取ったということは、株式総会で拒否権が使えるというだけのこと。拒否権を使えるということは、経営に反対することはできるけれども、自分自身が経営することにはならない。自分自身が経営したいと思うならば、五〇%を超えなければならない。ところがそれから二、三日後のニュースでライブドアの持ち株の比率が四九%を超えた、五〇%を超えることは時間の問題であろうという記事が出た。

 そういう記事を読んでいると、人間社会の現実というものがどう動くかということは明々白々、疑問の余地などはない。事実だけが動いている。だからそういう事実を教えてくださる釈尊の教えというものがいかにありがたいかということ。これが事実としてあるわけで、そんなありがたい教えが地球上にあるとは思えなかった。宇宙の中にあるとは思えなかった。

 だけれども、ここ何年かの社会の情勢を眺めながら、釈尊の教えに従って、「こうなるのではなかろうか」という想像をすると、そのとおりになる。こんなありがたい教えは世界中、宇宙の中でも一つしかない。そういう教えがわれわれの文化の中にあるんだから、それを勉強して、それを信じて、それに従って社会を運営し、世界を運営すべきだ。それが人類の義務だと思う。

 だからそういうふうな点で、釈尊の教えを勉強するということは非常にありがたいこと。だから私はこの教えを残すために命をかける。後継者の問題についても、私の考え方を維持できないような後継者は使わない。

 私はそういう考え方で仏教の問題を考えておりますから、結果がどうなるかということは事実問題だからどうともいえないけれども、私としては生命が続く限りそういう方針で動く。それだけの人生でしかないという見方をしております。

 世間の見方というのはいろいろあるから、釈尊の教えと違った見方でいいとか悪いとかいう立場はいろいろあるだろうけれども、事実は一つしかないということがどうもあるのではなかろうか、というふうな想像をしているというのが私の最近の心境だというふうなことを感じております。

 だからこういう話を聞くと、「西嶋は少し頭がおかしくなったぞ。気違いの先触れではなかろうか」という考え方も当然出て来ると思うけれども、まあそういう考え方も世間ではあっても仕方がないですが、私はそういう安易な形で仏道は勉強してこなかった。人間として生きている以上、死ぬまでに本当のことを知りたいという気持ちだけで生きてきた。それがなければ絶望だった。それがあるぞということに気がついたから、その点では私の人生というものは花のような人生だったというふうに自分で感じています。

 今後もその線で進んでいって、まあ途中で倒れることになりますが、「西嶋はばかだった。おかしなことをやって、とうとう野垂れ死んだ」ということになるかもしれないけれども、それは一向に構わない。それは事実だから、宇宙の教えだから、宇宙の原則だから、釈尊の教えだから、それをどうこういう必要は毛頭ない。ただ、そういう人生が残されているということだけでもありがたいという印象を持っております。

 

 それではまたこの本のほうに入ってまいりますと、一八七ページのところで、「夢中説夢」という巻の最後のところでありますが、「夢中説夢」というのは、われわれの人生というものは頭で考えてこうだ、ああだと結論を出すけれども、それが本当に当たっているのかどうかはわからない。あるいは事実を調べあげて、エネルギーがこうなっているからこうなるだろうという想像をするけれども、それも想像のようなものだ。だからこの世の中で理論を唱えるということは、その実体からするならば、夢の中で夢を説くようなものだという意見がこの巻の主題であります。

 そのことは、そういうことを知られた方は本当のことがわかっている。われわれの人生というのは夢の中で夢を説くようなものだという考え方の中に、この世の中には一つの真実があるぞという意志が含まれている。そういう意味でこの巻というのも読んでいくべきだというふうな性質を持っていると思います。

 

 そこで本文のほうを読んでいきますと、

 「釈迦牟尼仏言、諸仏身金色、百福相荘厳、聞法為人説、常有是好夢」、釈尊が次のようにいわれた。「諸仏ノ身金色ニシテ」、たくさんの真実を得た方々は体が金色に輝いている。金色に輝いているということがどういうことを意味するかというと、釈尊も含めて、インドの人々でありますから皮膚が茶褐色であって、それが健康の場合には輝くような美しさを持っているということを表現しているというふうに理解することができます。「百福ノ相荘厳シタマウ」、非常に幸いに満ちている。
 よく仏教の勉強をすると体をこわすというふうな意見がありますが、釈尊の教えを勉強していると健康になる、釈尊の教えに背くと不健康になる。
 最近、新潟大学の安保先生がいっておられるような免疫学を基礎にした健康のとらえ方、病気のとらえ方、病気を治すということに関するとらえ方をしてみると、人類は健康である義務がある。健康でないということは、本当の教えに従っていないということ。そういう問題があって、「諸仏ノ身金色ニシテ、百福ノ相荘厳シタマウ」、これも単に文学的な表現ではない。釈尊の教えを勉強している人の事実としてあるわけです。「法ヲ聞キテ人ノ為ニ説クニ、常ニ是ノ好夢有リ」、そういう点では、人生というものは非常に楽しい夢のようなものだ。

 「又夢 作国王、捨宮殿眷属、及上妙五欲、行詣於道場、在菩提樹下、而処師子座、求 道過七日、得諸仏之智、成無上道已起而転法輪、為四衆説 法、逕千万億劫、説無漏妙法、度無量衆生、後当入 涅槃、如煙尽燈滅」、「又夢ムラク」、次のような夢のようなことを考えた。「国王ト作リテ」、その夢のようになったということは、釈尊がどんな生涯を送られたかということを述べているわけであります。だから釈尊の一生といえども夢のような性格を持っていると、こういう主張でありまして、「又夢ムラク国王ト作リテ、宮殿眷属、及ビ上妙ノ五欲ヲ捨テ」、釈尊は一国の皇子でありましたから、当然そのまま社会生活をしておれば国王になった方であります。だからそういう身分におりながら、「宮殿眷属」、自分の住んでいる宮殿や、 さまざまの親族、「及ビ上妙」、非常にすばらしい五種類の欲望。五種類の欲望というのは、人間の欲望でありまして、よく欲望を罪悪視する考え方がありますが、これは仏教思想ではない。なぜかというと欲望というものは生命の現象。だから欲望というものを断ち切ったときには生命が消える。では欲望はありのままに発揮していいかというと、そうでない。欲望というものを宇宙の原則に従って正しく使っていくべきだという主張が釈尊の教えであります。だからいかにおいしいものといえども、食べ過ぎれば体をこわす。少なく食べていればいい、少なく食べていればいいと思って無理をした場合には健康を害する。だからその点でも均衡を大切に考え、中道に生きるということが釈尊の教えであって、そのことが、「上妙ノ五欲ヲ捨テ」というのは、非常にすばらしいものではあるけれども、欲望は欲望なりのものとして理解してと、こういう意味になります。

 「道場ニ行詣シ、菩提樹下ニ在リテ、而師子座処シ」、その点では、真実を勉強する場所に行って菩提樹という木の下で、「師子座ニ処シ」、「師子座」というのは仏教の説法をする席をいうわけでありまして、ライオンがほえるとほかの動物が全部黙ってしまう。そこで釈尊の教えを説くことをライオンの声に譬えて、そのような説法をする場所が「師子座」でありますが、そういう釈尊の教えを説法する場所にいて、「道ヲ求ムルコト七日ヲ過ギテ」、真実を求めることが七日間経過した後に、「諸仏之智ヲ得」、真実を得た人々の直観的な能力を得た。「智」というのは智慧という意味の字でありますが、智慧というのは単に頭のいいことだけではなしに、自律神経がバランスしていて直観的な判断力を持っているということを「智」と呼ぶわけであります。

 そこで、そういう形での正しい教えをつかむ能力を得て、「無上道ヲ成ジ」、釈尊がお説きになった最高の真実というものを達成し、「已ツテ起ツテ而法輪ヲ転ジ」、それから立って釈尊の教えを説いた。「四衆ノ為ニ法ヲ説クコト、千万億劫ヲ逕」、そうして釈尊という方は、「四衆」というのは、四種類の人々という意味でありまして、この世の中におけるすべての人々を指すわけであります。仏道を勉強する四種類の人々、それは僧侶と尼僧と在家の男子と在家の女子というふうな人々でありますが、そういう四種類の人々に対して、「法を説クコト」、本当のことを教えるということ。

 この世の中には本当のことがある。ところがたいていの場合には、この世の中に本当のものがあると思っていない。あの人のいっていることはよく聞こえるけれども、さあどうかというようなことが人々の本心。ただ私のようなバカッ正直な人間は、この世の中に、宇宙の中にたった一つの真実があるはずだと思って八十五年間費やした。そうして幸いにして「ああ、やっぱり本当のことは一つしかなかった」ということを痛切に感ずる。だからそのたった一つのことを人様に教えたいということで生きているわけでありますが、このたった一つのことはわりあい理解が難しい。頭がよければ頭がいいほど理解できない。

 なぜ理解できないかというと、ここにも説いているように、夢の中で夢を説いているようなものだということが真実の実体であります。脳細胞を働かしてわかるものが唯一の真実ではない。それも一種の真実ではあるけれども、別の見方から見た真実というものがあって、四種類の立場から問題を考えないと本当のものがわからないというのが釈尊の教え。こういう高尚な教えというものは世界中にたった一つしかない。古代インドに生まれたんだけれども、二十一世紀になって人類の文化が発達したところでやっと本当のことがわかるかなという時代にわれわれは到着しつつあるというのが、今日のわれわれの立場だということがいえるわけであります。
 ですから釈尊がおられなければ、われわれは永遠に真実はわからなかった。ご飯を食べました、寝ました、ご飯を食べました、寝ました、ぜいたくをしました、いい思いをしましたといってみたところで、百年足らずの歳月。そんなものに本当の価値があるのかどうかということになると、たいへん疑問ではありますが、釈尊がおられたからわれわれは真実に到達できた。だからその教えを勉強しないで生きているということは、人間として生きた立場としてはもったいなさすぎる。勉強すれば本当のことがわかるんだけれども、「まあちょっとたいへんだからやめておきましょう」ということでやめていると、百年足らずの生涯というのはすぐ経ってしまうというふうなことが実情であります。
 そこで、「千万億劫ヲ逕」というのは、非常に長い期間にわたって経過した。そのことは、真実というものは永遠の教え。何億年経っても真実でなくなることはあり得ない。だから「千万億劫ヲ逕」というのはそういう意味で、永遠というものの中で仏道を勉強して、「無漏ノ妙法ヲ説キテ」、「無漏」というのは余分なものがないという意味でして、間違ったことを含んでいない、すばらしい教えというものを説いて、「無量ノ衆生ヲ度シ」、今日まで釈尊の教えによってつくられた人というものは非常にたくさんあるというようなところから、「無量ノ衆生ヲ度シ、後ニ当ニ涅槃ニ入ルコト、煙尽キ燈滅スルガ如シ」、これはわれわれの生涯の最終の情景だと思う。私もいままだ生きているわけでありますが、人間の一生というのはろうそくのようなものだというふうに常に感ずるわけで、ろうが燃え尽きればおしまい。ろうが燃え尽きないうちに、だらだら、だらだらろうが脇から流れて早く終わってしまう人もいる。ろうが正確に燃えて長々と続くけれども、結局ろうが燃え尽きればおしまい。そこで、「煙尽キ燈滅スルガ如シ」というのがわれわれの人生の描写としてはたいへん正確だということがいえるわけであります。

 「若後悪世中、説是第一法、是人得 大利、如 上諸功徳」、そこでそういうふうに釈尊の教えを説く人が、「後ノ悪世ノ中ニ」、この「後ノ悪世ノ中ニ」というのは二十一世紀が入っているかどうか、これは何ともいえない。ただ私は恐らく二十一世紀も「後ノ悪世ノ中」に入っているんだと思う。だからそういうふうな状況の中でも、「是ノ第一ノ法ヲ説カバ」、つまりたった一つしかない真実を説明するならばということ。「是ノ人大利ヲ得ルコト、上ノ諸ノ功徳ノ如クナラン」、その人は非常に大きな幸せを得るであろう。それは、この釈尊がどんな方であったかというふうな内容と同じであろう。こういう引用が『法華経』からされております。

 

 その『法華経』からの引用に対して道元禅師が解説をされまして、

 「而今の仏説を参学して、諸仏の仏会を究尽すべし」、このような釈尊のお説きになった教えを勉強して、たくさんの真実を得た方々が形成している仏教教団の本当の意味を知るべきである。

 「これ譬諭にあらず」、これは譬え話ではない。地球上の事実だ。で、地球上の事実であるかどうかは非常に大切なこと。内容がどんなにすばらしい物語であっても、地球上に実現の可能性のないような物語というのはあまり評価する価値がない。その点では、「これ譬諭にあらず」というのは、これは譬え話ではないよと、こういう意味。譬え話なら幾らでも面白い話はできるけれども、これは譬え話ではありません、地球の上の具体的な出来事ですと、こういう意味をいわれているわけであります。

 「諸仏の妙法は、ただ唯仏与仏なるゆゑに、夢覚の諸法、ともに実相なり」、たくさんの真実を得られた方が説いておられるすばらしい教えというものは、「ただ唯仏与仏なるゆゑに」、「唯仏与仏」がどういう意味かというと、本当のことのわかった人と本当のことのわかった人と、こういう意味。だから本当のことがわかった人にとっては釈尊の教えの価値がわかる。本当のことがわかっていないと釈尊の教えの内容が本当にわからないから、「仏教、仏教というけれども、そう大したことはないよ」というふうなことにもなるわけだけれども、果たしてそうかどうかということは、実際に勉強してみた上で、「ああ、そうか」ということがわかる状況だというふうに見ることができます。「夢覚の諸法、ともに実相なり」、夢の中で見ている夢も、あるいは目がさめているときに実際に出会う経験も、一切のものが真実の姿を示している。だからこの世の中は真実の姿だということを知ることが仏道の勉強にとって非常に大切なことだということになります。

 ライブドアという企業を指導している堀江という人は、写真で見るとまだ非常に若い人のようでありますが、本当のものをつかんでいるのかどうか、きょうの夕刊の広告に『ホリエモン』かな、なんか奇妙な名前の本の広告が出ておりましたが、その点ではどんなことをいっているのかなという関心をちょっと持ったというふうなことであります。

 「覚中の発心・修行・菩提・涅槃あり、夢裏の発心・修行・菩提・涅槃あり」、そこで、はっきり目がさめているときにも真実を知りたいと思い修行をし、真実を得て落ち着いた境地に入るということはある。「夢裏の発心・修行・菩提・涅槃あり」、夢のような状況の中で本当のことを知りたいと思い、実際に修行をし、真実を得て、落ち着いた境涯に入ることもある。

 だから、われわれの人生というものはいろいろな場面がありますが、私も子供のときには細い竹竿に鳥モチをつけてトンボを追っかけて回ったというようなこともあったし、また、第二次世界大戦で軍隊に行って軍隊の経験をしてきたということもありますが、そういうさまざまの経験がすべて夢として見ることができる。だから何が何だかよくわからないんだけれども夢中に生きた人生が本当のことを教えてくれるということもあり得る。そういう意味で「夢裏の発心・修行・菩提・涅槃あり」。

 「夢覚おのおの実相なり、大小せず、勝劣せず」、夢も、目ざめているときも、両方が本当の姿である。どちらが大きくてどちらが小さいというふうな区別はない、どちらが優れていてどちらが劣っているというふうな区別はないと、こういう考え方が仏教の思想の中にあって、われわれの人生がすべて真実だ。だから昼間起きて働いているときが真実だというわけではない。寝ているときも真実であるということには違いがないと、こういう主張であります。

 「しかあるを、又夢作国王等の前後の道著を見聞する、古今おもはくは、説是第一法のちからによりて、夜夢のかくのごとくなると錯会せり」、この「夢覚おのおの実相なり」という言葉について、「又夢作国王等の前後の道著を見聞する」、この『法華経』の中に出て来る、「夢ムラク国王ト作リテ」というふうな説明というものを見聞きした場合に、「古今おもはくは」、昔から今日に至るまで人々が考える内容というものは、「説是第一法のちからによりて」、この最も優れた教えを説明することによって、「夜夢のかくのごとくなると錯会せり」、夜の夢もこのようにすばらしい内容になるんだと誤解している。

 「かくのごとく会取するは、いまだ仏説を暁了せざるなり」、このような理解をするということは、まだ釈尊のお説きになった教えをはっきりと理解していないということを意味する。

 「夢覚もとより如一なり、実相なり」、夢も本当のことであるし、めざめているときも本当のことである。夢というものが、釈尊のような偉い方であれば本当のものになるというようなことではなしに、一切の人々の見る夢も、日常生活における経験も、すべてが実相であり、真実である。そのことを「夢覚もとより如一なり、実相なり」。こういう表現の中に、現実主義というものがいかに人類にとって大切かというふうな基本的な原則が含まれているわけであります。

 「仏法はたとひ譬諭なりとも実相なるべし」、釈尊の教えの中では、仮に譬え話が出来上がっているけれども、その譬え話も本当の姿を描写しているのである。

 「すでに譬諭にあらず、夢作これ仏法の真実なり」、その点では、夢のような状態、つまり譬え話ではないというふうなことに関連しても、「夢作これ仏法の真実なり」、夢の中で見る姿そのものが釈尊の教えの真実である。

 この思想が二十世紀において近代的な心理学を設立したジグムント・フロイトという人の説に一致してくるという面があります。ですから二十世紀以降に生きているわれわれは非常に幸せな人生を生きている。二十世紀以前であれば、こういう理論というものはわかっていなかったから、釈尊の教えも本当の意味でわかるということが難しかったという事情があるわけであります。

 「夢作これ仏法の真実なり」というのは、われわれがごく普通に夜夢の中で見ることも、宇宙の中の原則であり、真実である。

 「釈迦牟尼仏、および一切の諸仏諸祖、みな夢中に発心修行し、成等正覚するなり」、その点では、釈尊も、それから釈尊とともに一切の真実を得た人々、伝統的な師匠の人々は、「みな夢中に発心修行し」、何もわからないような夢のような人生の中で、どういうわけか真実を知りたいという気持ちを起こし、その努力をし、「成等正覚するなり」、「等正覚」を達成するのである。「等」というのは等しいという意味で、バランスしているということ。バランスした正しい実感というものを達成するのである。

 だから「成等正覚」といってみても、けっして難しいことではない。坐禅をして自律神経がバランスしたとき、それは等正覚が具体化したときと、こういうふうに二十世紀以降は理解できるようになった。こういう基本的な仏教の原理というものも二十世紀以前には本当の意味がわからなかっただろうと思う。熱心な信者は事実はつかんだかもしれないけれども、理論的にそれが本当に肯定できるのかどうかというふうな問題は、二十世紀以降生きているわれわれ自身の幸せな状況ということでしかないということがあるわけであります。

 「しかあるゆゑに、而今の娑婆世界の一化の仏道、すなはち夢作なり」、そうしてみると、現にいま、「娑婆世界」というのはこの人間が住んでいる地球でありますが、その中でたった一つの事柄について説法をするというふうな釈尊の教えというものも、「すなはち夢作なり」、夢のような現実の世界の中で夢のような内容を説いているというふうなことにほかならない。

 「いや、それでは困るじゃないか。目ざめたときの状況がなぜ出て来ないんだ」ということになるわけでありますが、現実というものは説明できないもの。一所懸命やるしかない瞬間の行ないが現実であり、宇宙でありますから、そういう宇宙の実体のわかってくるということを「夢」という言葉で表現しているということになるわけであります。そこで「而今の娑婆世界の一化の仏道、すなはち夢作なり」。

 「七日といふは、得仏智の量なり」、七日という日数が書かれているけれども、それは釈尊がお説きになった直観的な能力を得る長さと同じである。

 「転法輪、度衆生、すでに逕千万億劫といふ、夢中の消息たどるべからず」、そうして、釈尊の教えを説くことも、あるいはたくさんの人々を救済することも、「すでに千万億劫ヲ逕」という表現がされている。「劫」というのは無限といってもいいぐらい長い期間でありますから、それが千、万、億と重なれば、永遠といってもいいような長い時間を経過するという表現が使われているけれども、「夢中の消息たどるべからず」、現実の実体というものはなかなかわれわれの頭の働きや感覚ではつかむことが難しい。現実というものはそういうものだ。だからそういう現実の瞬間瞬間をいま生きています、いま生きていますということで、十歳の人は十年生きた、二十歳の人は二十年生きた、七十歳の人は七十年生きた、八十歳の人は八十年生きたというのがわれわれの人生だ。われわれの人生というのはそういう性格のものだ。そのことを、「夢中の消息たどるべからず」、われわれの人生というのは夢のようなものだというふうにいわれているけれども、まさにその内容がどんなものかということをつかむことはなかなか難しい。

 「諸仏身金色、百福相荘厳、聞法為人説、常有是好夢といふ」、『妙法蓮華経』の中の表現では、真実を得られた方々の体というものは金色に輝いていて、さまざまの幸せというものがその真実を得た人を飾っており、釈尊の教えを聞いて、その教えを人のために説くということは、「常ニ是ノ好夢有といふ」、そのような非常にすばらしい夢のような人生がわれわれの生活の中にあるということを主張しておられる。

 「あきらかにしりぬ、好夢は諸仏なりと証明せらるるなり」、この考え方から、すばらしい夢というものは真実を得た人々そのものの実体だということをはっきりと知ることができる。

 「常有の如来道あり、百年の夢のみにあらず」、その点では、釈尊の教えというものは常にある、永遠の教えである。たいていの真実を説く人は、この教えは永遠の教えだというから、真実というものは永遠の教えに限られているわけだけれども、本当に永遠の教えというものをつかむことはなかなか時間がかかるということが実情だということがあるわけでありまして、「常有の如来道あり」、その点では、永遠に真実であるところの釈尊の教えがある。「百年の夢のみにあらず」、人生わずかに五十年とか、一生を百年に譬えるような考え方があるけれども、永遠に続いている釈尊の説かれた真実は、百年のような短い間の夢ではない。

 「為人説は現身なり」、人のために説くということは、自分の体をこの世の中に現して、行ないをすることであり、活動することである。だから人生の価値というものは働くことによって決まる。どういう努力をするかによって決まる。名誉を得ました、金を得ましたというふうな粗末な価値ではない。本当のことを知って生きましたというところに釈尊の教えの中身があるわけでありますから、その点では、人のために釈尊の教えを説くということが体を現実のものにすることである。自分の人生を現実の価値あるものにすることである。

 「聞法は眼処聞声なり、心処聞声なり、旧巣処聞声なり、空劫已前聞声なり」、そうしてみると、釈尊の教えを聞くということも、眼で声を聞くというふうな事情がある。眼で声を聞くというふうなことが、頭で考えた世界ではない。眼というものは物を見る感覚器官であって声を聞くことはありませんと、こういうことだけれども、悲しい状況に出会って本当に悲しい状態で泣いている人を眺めたときに、その人がどんなに悲しいかということがわかる。本人は悲しい、悲しいとはいってないけど、声を聞かなくても様子を見ればその人がどんなに悲しいかがわかる。そのことを「眼処ニ聞声なり」という表現をされるわけで、眼でその人の様子を見て、本当に悲しいなということがわかる。

 「心処聞声なり」、その点では、悲しいということは声で普通は聞けるものだけれども、われわれの心の中に悲しいという思いがないわけではない。「旧巣処聞声なり」、その点では、自分の過去に経験した内容の中にも、それなりの声にはならない表現が含まれている。

 「空劫已前聞声なり」、この世の中というものは無限の過去から真実を説き続けている。「空劫已前」というのは無限の過去という意味でありますが、無限の過去から何が本当かということは聞こえてきていると、そういう表現をされているわけであります。

 「諸仏身金色、百福相荘厳といふ」、そこで、真実を得た方々の体は金色に輝いて、さまざまの幸せな様子というものがその人々を飾っているという表現が行なわれている。

 「好夢は諸仏身なりといふこと、直至如今更不疑なり」、すばらしい夢、つまりすばらしい人生というものは、「諸仏身なりといふこと」、仏道修行をして自分の体が真実と一体になったことをいうのであり、その表現は、「直ニ如今ニ至リテ更ニ疑ワズ」という言葉が表している。この「直ニ如今ニ至リテ更ニ疑ワズ」という言葉は、この『正法眼蔵』にも出てまいりますが、中国の祖師がこの世の中はどんなものであるかということを実感したときに、その表現として、直接現在の瞬間に触れてまったく疑問がなくなることだと、こういわれている。「如今」というのは現在の瞬間ということ。だから日常生活の瞬間を生きて疑問のなくなることが釈尊の教えがわかったこと。

 そういう表現が『正法眼蔵』の中にありまして、これは「谿声山色」という巻にあるわけで、霊雲志勤禅師が山歩きをして桃の花を見た。そうしてその桃の花を見た経験を詩に書かれたときに、その最後のところに、「直至如今更不疑」、現在の瞬間に生きて疑問の余地がまったくなくなったという表現をされているわけであります。

 「覚中に仏化やまざる道理ありといへども、仏祖現成の道理、かならず夢作夢中なり」、その点では、目ざめているときに釈尊の教えを聞いて、その教えによって教えられるということは当然の原則としてあるけれども、「仏祖現成の道理、かならず夢作夢中なり」、真実を得た人が具体化するという基本的な原則は、何が何だかよくわからないような世界の中で夢中に生きていることを意味する。

 「莫謗仏法の参学すべし」、釈尊の教えというのは絶対の真実である。だから釈尊の教えに疑問を持つような態度をとるべきではない。

 だけれども、普通の常識ではそうはいわない。「この世の中にはいろんな真実といわれるものがあって、釈尊の教えもその一つだから、この世の中に完全な教えなんていうのはあり得ないんだ」というふうな考え方のほうが普通の常識的な優れた見方ということになるわけでありますが、道元禅師は釈尊の教えというのはそういうつまらない教えではない。だから釈尊の教えを誤解して、釈尊の教えと違う教えを説くならば、それは釈尊の教えを誹謗することになるから、それはやらないようにすべきだというのが、「仏法ヲ謗スル莫レの参学すべし」。

 「莫謗法の参学するとき、而今の如来道、たちまちに現成するなり」、「法」というのは宇宙でありますが、宇宙の原則を非難しないというふうな勉強をすることによって、現在の瞬間における釈尊の教えというものが眼の前に現れてくるのである。

 だからその点では、今日われわれが生きている宇宙というものに対して誹謗をしないということが、釈尊の教えであり、その釈尊の教えというものは現在の瞬間において具体的な事実として現れてくるのであると、こういう表現をしておられるわけであります。

 この「夢中説夢」という巻も仏教の究極の立場を説いたような内容の教えでありますから、説かれていることは非常に難しいわけでありますが、こういう表現をしないと釈尊の教えは言葉では説けない。釈尊の教えの説き方として「四諦の教え」というものがありますが、その「四諦の教え」というものが何を意味するかというと、釈尊の教えというものはたった一つの哲学では説けないということ。

 世界には二つの非常に代表的な哲学があって、一つは観念論と呼ばれ、一つは唯物論と呼ばれている考え方でありますが、この二つはいずれも頭の思想の中から生まれた哲学だから、現実そのものを完全に説明することができない。釈尊はそのことにお気づきになったから、その問題をどう解決するかということで、われわれの人生というものは頭で考えた理論ではない、感覚的にとらえることのできるこの客観世界でもない。何がわれわれの人生かというと、現在の瞬間において何をやっているかだけのことだ。

 だからそういう点で、行ないを整えて生きていくということが唯一の真実の世界に生きることであって、そのことをお説きになった思想が釈尊の教えでありますから、「法ヲ謗スル莫レの参学するとき」、つまりこの宇宙全体が貴重なものである。それはアフガニスタンにおける麻薬の栽培も現実だし、その中に含まれているテロリズムの動きに対して戦争をしかけて消滅させたのも現実の世界の動きだし、フセインという人間がイラクを独裁的に支配していたのを、武力を使ってその政府を倒し、曲がりなりにも民主主義の国家をつくりつつあるというふうなところに釈尊のお説きになった真実がある。

 だから「平和、平和」と騒いで、「戦争することはいけません。間違いです」というふうなことだけが真実かどうか、たいへん疑問。そういう現実の歴史というものが何千年も昔から延々と続いて今日の人類の社会がある。

 だからそういう点では、過去の方々が努力をして、ある場合には亡くなっていったというようなことも、今日のわれわれの社会をつくるための重要な要素だということがいえるわけで、そういうふうな形で、この世の中をあくまでも現実の立場で見ていかないと、本当のものは見えない、本当のものはわからない。

 そういうふうな形で、今日まで人類の最大の思想内容であるとされてきた観念論と唯物論とを乗りこえて、現実をいかに直視するかという教えが釈尊の教えであり、その現実を基礎にした釈尊の教えが人類にとっていかに貴重かということが、今日われわれが生きている社会の実情であります。

 こういう思想は『正法眼蔵』の中、あるいは『中論』の教えの中にしかない。だからそういう貴重な文献を勉強して、釈尊の教えが何であるかをはっきりと理解して、それを世界の人々に知らせてやることが人類にとっていかに貴重かというふうな問題を含んでいるということになるわけであります。

 「正法眼蔵夢中説夢」

 「爾時、仁治三年壬寅秋九月二十一日、在雍州宇治郡観音導利興聖宝林寺示衆」

 そのときが、西洋の紀元でいきますと、一二四二年の旧暦の秋の九月二十一日に、今日の京都府でありますが、山城国の宇治郡の観音導利興聖宝林寺においてたくさんの人々に対してこの「夢中説夢」という巻を説いた。

 この「夢中説夢」という巻はなかなか難しい巻だということがいえますが、一口でいえば、われわれの生きている現実の人生そのものが夢のようなものだというふうな内容を含んでいる。夢と現実とを二つに分けて、どっちが本当でどっちが嘘だというようなことはあり得ない。宇宙全体が真実だと、そういうふうな主張が含まれているというふうに見ることができるわけであります。

 ですから、非常に難しい巻ではありますが、こういう文章は道元禅師でないとお書きになれない。この本が残っているということは人類における非常に大きな宝。この『正法眼蔵』がなければ私自身が釈尊の教えはわからなかったと思う。釈尊の教えがわからなければ、結局何もわからないで、「ハイ、さようなら」になったと思う。だからそういう点では、釈尊の教えがいかに偉大であるかということを感ずると同時に、その偉大な教えを言葉で説明することのできた道元禅師という方の偉大な業績というものには頭が下がる。道元禅師がおられなければ、われわれは仏教を理論的に知ることができなかった。そのことは、仏教がぜんぜんわからずに、「ハイ、さようなら」という運命に置かれていたということがいえるわけであります。

 その点では、道元禅師が人類の中に誕生されて努力をされて真実をつかまれたということがいかに貴重かということがあると同時に、それと同じ結論を持たれた二世紀から三世紀に生きた龍樹尊者の仏教哲学に対する理解というものもいかに大きな意味を持っているかというふうなことがあるわけでありまして、その二人の方の思想を徹底的に勉強することによって、われわれは仏教哲学というものを理論的にはっきりつかむことができる。

 欧米の文化というものは徹底的な理論の文化でありますから、理論的な説明をしなければ欧米の人々に仏教を理解させることはできない。だから『正法眼蔵』がなければ、『中論』がなければ、われわれは欧米の人々に対して仏教を理論的に説明することができない。幸いにしてこの本があり、また『中論』という本があればこそ、われわれは仏教を理論的に世界の人々に説明できるという事情があるということが実情ではなかろうかというふうな見方をしているわけであります。

 

 それでは、一つの巻が終わりましたので、ここで話のほうをとめまして、またご質問を受けるということにしたいと思います。何かありましたらどうぞ。

 

   たびたび聞くお言葉ですけれども、人間というものは宇宙と一体だと。で、自分が笑っているときは宇宙も笑っている、泣いているときは宇宙も泣いているというお話。なんかわかるような気もするんですけれども、わからないところがありまして、一つ疑問の最大の点といいますのは、生きている間は確かに自分が宇宙の中に存在しているということは、これは誰でもはっきり認識するわけですけれども、自分の生命が終わって、要するに死んでしまったと。この後はどういうふうに考えればよろしいんですか。

   それはもう何もなくなる。本人にとっては何もなくなる。 そこで、一番最初の、自分自身があることがはっきりしているというのが問題なんです。自分自身があるということがはっきりしているのかどうか。われわれは脳細胞が発達しているから、自分はあると思っている。思っているということと、それがわれわれが頭で考えているように「ある」ということなのかどうかというふうなことに疑問があるわけです。

   というと、なんか観念の世界というふうに感じるんですが……。

   というよりも、現在の瞬間の移り変わりだけなんです。だからいま生きています、いま生きています、いま仏教の講義をしています、いま仏教を聞いていますというだけの現在の瞬間が次々に映画のフィルムのように速い速度でバーッと走っているのがわれわれの人生ですよ。

 だからその場合に、われわれは生きているんだなんていえるかどうか。頭で考えれば確かに生きているんだということだけれども、そういうふうに頭の中で考えたことが本当かどうかというようなことについての疑問が仏教にはあるわけです。

 欧米の文化ではそんなことはいわない。自分が頭で考えるんだからあることに間違いはない。だからデカルトという人は「我思う故に我あり」といったわけです。自分は頭で問題を考える、だから自分はいるということをいったわけだけれども、自分の頭で考えたことが本当かどうかということが言い切れるのかどうかということになるわけです。

 釈尊はその先の理論を勉強したわけです。言葉でいうことも一面の意味はあるけれども、それだけで現実のすべては説けないということに気がついた。だから釈尊の教えが始まって、その教えが二十一世紀になったときに欧米の文化を救うだけの力を持っているということが事実だと思います。

   なんか話がこんがらがってきたような印象なんですけれども。結論としては、要するに自分がそこにいるかどうかもわからないというお話が先ほどもありましたよね。でも、ここにいるわけですから、それはやはり現実として私は考えるんですが……。

   うん、それは頭で考えている。

   それでも頭で考えている?

   頭で考えている。「自分はここにいますよ」と頭が働いているから、「ああ、そのとおりですよ」といっているだけです。

   いやあ、これは困ったなあ。(笑)

   で、自分が生きているということがはっきり自覚できるのはいつかというと、坐禅をやっているとき。姿勢を正してジーッと坐っているときに、これが真実でないということを疑うことはできないと、そういう実感があって、そういう行ないの世界における体験が仏教哲学の出発点なんです。だから坐禅がなければ仏教哲学はない。仏教哲学が難しくてわからないといった場合には、ただ坐禅しているだけで十分だというのが釈尊の教え。

   はい、わかりました。

   『正法眼蔵』に説かれている教えが唯一の真実であるというお話。これはずっと前から伺っているわけですけれども。それと関連しまして一点ですが、昭和二十年代に東大の経済学部で勉強なさった方と会う機会がありまして、お話を伺ったことがありますけれども、その当時、大内兵衛先生という経済学部の非常に実力のあった教授がおられまして、専攻は財政学だということを伺いました。非常に影響力が強かったらしいですね。結局この大内教授の思想というのは、マルクス、エンゲルスという人たちの思想をもとにして財政学の講義を東大でしていたようですけれども、後に日本社会党の社会主義協会なんていうのがありまして、それから東京都の美濃部都知事という方もいましたけれども、こういう人が影響をかなり受けたようですね。

 いまになってみますと、その考えはまったく評価されないわけですよね。先生はもう長いことそういうことをご覧になってこられましたよね。先生は法学部でいらっしゃったわけですけれども、どんなことをお考えになりますか。

   その点ではね、カントの思想とマルクスの思想と両方なければ本当のことはわからない。だからカントだけわかっていても、夢のようなことしかわからない。マルクスだけわかっていると、この世の中の物の動きはわかるけれども、本当の現実の世界はわからない。釈尊はそのことに気がついた。だから、カントの思想も嘘ではないけれどもそれだけではだめだよ、マルクスの教えも嘘ではないけれどもそれだけではだめだよと、二人の教えが両方一つに重なったところに現実の世界があるんだから、その世界を勉強しなさいというのが釈尊の教えです。

 だから欧米の哲学の偉大さは、頭で考えた哲学もとてつもなく徹底的に発達した。それからエネルギーで問題を考える場合でもとてつもない発達をしたわけです。だから二つのとてつもなく優れた発達した哲学があるんだけれども、その両方はある場合には人類社会に真実を与えるけれども、ある場合には弊害も与えるということが事実です。だからその二つの哲学というものから次元を変えた世界に出て行って、そこで発達したものが釈尊の教えです。

   結局その当時の一般的な経済に対する考えとして、資本主義がだんだん発達していって、やがて崩壊をして、その次は共産主義の世の中になるんだということを、しかもアカデミズムの権威ある学者がいうわけですから、それを信じた人というのはかなり多かったみたいですね。

   うん。その当時は三番目の世界が来るということに気がついていない。だから一年生もありました、二年生もありました、三年生はありませんというのが西洋の哲学です。釈尊は三年も四年もあるよといった。だけど一年生、二年生の人には、三年生、四年生の勉強の内容はわからない。

 だから当時の日本では、一年生の思想が正しいとか、二年生の思想が正しいとかいっていて、ある場合には、戦争前は一年生の思想が社会に大きな支配力を与えたから、二年生の思想を持っている人は全部追い出された。戦争に負けたら今度は二年生の天下になって、一年生は全部追い出された。それだけのことですよ。だからその一年生と二年生の思想のどっちかが真実だと考えていたら、本当の真実には出会えない。

   余談ですけれども、その当時永平寺の住職をなさっていた方が、お名前は聞きませんでしたが、東大に講義に来られて『正法眼蔵』の授業をしていたらしいです。その人は「しょうぼうがんぞう」といっていましたけれども。私がそれを聞いて多少感動したのは、やっぱり日本が戦争に負けた後、これから人材を育てるために国の政策としてそういうふうなことに税金を使って若者を育てようとしたということは事実なんですね。それはなかなかすごいことだなあと思いまして多少感動しました。

 それからもう一つ前置きのお話で堀江社長のお話が出ていましたけれども、私がいろんな人と話題を交換したときに、年配者はフジテレビの日枝会長とか、こういった人の味方で、若者はやはり堀江社長の味方が多かったですね。

 ところが先生は、ご年齢からいくと年配者だと思いますけれども、どうも堀江社長のほうに肩を持っているような雰囲気、印象をちょっと受けたんですけど、必ずしもどっちの味方とかって、そういうことをおっしゃっているわけじゃないですね。

   そうじゃない。事実がどう動いているかということをいっているわけです。私は堀江という人をぜんぜん知らないから、だからどういう人かもわからない。

 だから今度出た『ホリエモン』という変な名前の本を読んだらわかるかなあと思っているけれども。(笑)

   東大の文学部に行かれた方ですが、ベンチャー企業といいますか、要するにITで大儲けをしたというか、波に乗った人ではあるんですけどね。

   いまのお話の続きなんですけれども、たしか堀江貴文という名前だと思いますが、それでホリエモンという名前で呼んでいるらしいんですけれども。

 それで最終的には高裁のほうで法的には決定が下されるという話なんですけれども、いまの成り行きとしては、まあ株の話はさておいて、堀江社長が折よくばニッポン放送の経営権を握って社長になり得ることもあるというシナリオが書けるわけなんですね。そのときに、フジテレビの社員があの人のやり方にはとてもついて行けないという総決起という声明文を発表したといういきさつもありましてね、そのほかの動きでもそういう動きがあるわけです。

 そのときに実際に仮にそのホリエモンがニッポン放送、フジテレビの経営権を握ったとしたときに、本当に彼自身がその会社を動かしていけるかどうかというのが非常に疑問なところを持っているわけですね。結局俺はついて行かないという人が大半らしいです。先生、その辺はどういうふうに見たらいいですか。

   いや、ついて行けないのは失業して苦労するだけだよ。(笑)それはもう現実というのは真実だから、どうなっていくかで決まる。だから頭で考えて、何とかしてフジテレビを助けたいというふうな、いわゆる判官びいきというのはあるわけです。源義経は気の毒だったから源義経を大事にする思想というのは日本の思想の中にあるんですよ。

 だけども、そういうセンチメンタルなものじゃないんだよ、真実というのは。この世の中の現実だから、ご飯を食べたり、寝たりということは真実なんです。だから私は食物とか健康とかいうものを非常に大事にするのは、釈尊の教えにはそういうものが含まれているという見方です。

   結論としてわかりやすくいうと、ホリエモンの会社になった場合は、経営権を握った場合は、俺のやり方について来ない者はどんどん辞めてくれと、そういうことになるわけですよね。

   いや、そういう人かどうかわからないよ。おまえたちも悪くしないからついて来いという人かもしれない。現実は非常に複雑だから、一面的にこうだ、ああだと決めつけることはできない。

   いまの話ですが、結局仏教というのは現実主義だと。そのとおりですね。ただ、たとえば経済とか政治の現象は、そのときの非常に力のある権力者の影響が非常に強く出るわけです。まあご老師みたいな方はご心配ないでしょうがね。そうするとそれを、いや、これは現実なんだよと。

 ただ非常に危ないのは、結局そのときそのときの権力を肯定する、それからもう一つは権力にこびる。そうするとそれはある種の偏りであって、いわゆるお釈迦様の説かれている中庸とか、中道とかいうことをはずれるおそれがある。つまり教えに背く結果となることが、ご老師のような方は心配ないとしても、われわれが思うには、しかもこれは毒薬的なところがありますのでね、この辺についてはよほど注意が必要だと思いますが、いかがでしょうか。

   うん、釈尊はね、権力についてはいけないということをはっきりいっておられる。道元禅師が名利を捨てろといわれたのは、権力にくっついたり、経済的に利益に魅かれたりするなということ。真実というのはそういうところにある。

 だからそういう点で、権力に魅かれたり、利得に魅かれない真実を勉強しなさいというのが釈尊の教え。だから権力に魅かれるようなのは、釈尊の教えを勉強していないということだから。

   まあご老師はそうなんですがね。もちろん私も長いこと生きてきましたし、戦後の混乱期、全部ずうっと、私も年が年ですから六十年安保に参加していろいろあれしたときに、いわゆる平和主義者とか、いわゆる野党側の方もいかに無責任で、本当のことをぎりぎり考えていないか、何でも反対ということで、それでええ格好したがる、目立ちたがるというようなことがいっぱいあったんですよ。

 だから、私もぜんぜんそんなものがいいとは思わないし、自分はどっちかというと体制の中で大したことはできませんでしたけれどもやってきて、やっとやれやれ解放という気がしますのでね。別段どっちがいいとは思いませんけど、どうもいまのあれを聞いていますとね、ご老師はもちろんそんなことはいわれていないだろうけれども、また今夜はそう若い方がおられないからあまり心配しなくてもいいのかもしれませんが、ひとつ間違えるとその辺が非常に懸念されるなあというのが、ご老師を懸念しているんじゃないですよ、  聞く側の人間というのが非常に気になりましたので。

   うん、だからそういう見方を乗りこえるのが釈尊の教え。そういう立場でいい悪いをいっているうちは本当の釈尊の教えはわからないということ。

   はい、わかりました。

 それからもう一つですが、結局その「夢中説夢」というのは、いわゆる現実といっても、それは夢のような面がありますよと、これはわかりますね。

 しかし、たとえば私たちが見る夢というのは、現実だって大したことをやっていないじゃないかといわれると、一言もないんですけどね。実際の夢は、どうも非常に荒唐無稽であったり、まことに非現実的なナンセンスなものというのは非常にありますよね。夢というのは、確かにそれも現実といえば現実で、荒唐無稽でちょっと現実ではあり得ないような、空を飛んだり、あるいはその他諸々絶対あり得ないこと、それからどこからこんなものが出て来たんだろうというような、とんでもないことが夢の中には出て来たりね。

 そういうものも現実の一部だよということであれば、そうなんですが、すべての夢というものも要は現実なんだという説かれ方ですね。この辺もちょっと、たとえば非常に無我夢中でやっているというようなことは非常によくわかりますね。それから無意識の中でのというのは、これもよくわかりますね。

 ただ、自分が実際に見ている夢、私が特にひどいのかもしれませんけれども、そういうものも十把一からげに非常に現実で価値のあるもので、夢も実相なんだといわれても、ちょっとそうでもないのもあるのではないかという気がしますが、この辺はどうなんでしょうね。

   それはね、夢を見た人に対して、「あんたの夢はあんたが見たんだよ」ということなんです。

 つまりそれはどういうことをいうかというと、本人は「いや、こんな変な話は俺の見た夢じゃない。こんな夢を見ることはあり得ない。恐らくでたらめだろう」という考え方が先に立つけれども、どの夢だって本人が見ている。本人が見ているということは、責任を持たなきゃならんということ、責任があるぞということ。「いや、俺はこんなおかしな性格じゃない。こんな変な夢を見るのは間違いだ」といえないということなんです。

 普通人間は常識的には「いや、こんな変な夢を見るのは俺じゃない。だから俺の責任じゃない」と思うかもしれないけれども、科学的にいうと、「夢を見たのはあなたですよ」といわれている。

   まあそれはそうですけどね。

   だからそういう点で、夢にはそういう真実そのものが含まれているという主張がこの「夢中説夢」の中の主張でもあるわけです。

 フロイトがなぜ近代心理学をつくり上げたかというと、もう無数に夢の実例を人から聞いて記録に取って、それがどういう原因で生まれたかということを体系的に調べていったというのが彼の心理学の出発点ですから。

 だからそういう点では、どんな夢も各人が責任があるんです。「いやあ、こんな変な夢はおかし過ぎるから俺のせいじゃないよ」といえないということ。それほど人間は複雑で神秘的なものなんですよ。だから無意識の世界を広げてみれば、こんなものはあり得ないというようなことが幾らもあるんです。

 だからフロイトの偉さというのはそういうところから生まれてきている。私は正直いうと、フロイトの心理学がなかったら、私は仏教哲学は理解できなかった。彼の思想があったから、なるほど人間の心理というのはこういうものだなあというところから、世間でいわれているいろいろな思想がどういう意味を持ってくるかというようなことがわかってきて、釈尊のお説きになっている教えのほうが本当だなということがわかってきたということ。

 第一、無意識の世界というものをフロイトが主張し始めなければ、仏教哲学の半分はわかりませんよ。無意識の世界の中にいかに大きな影響力があるかということを釈尊の教えは含んでいるわけです。だから近代的な心理学の理解がなかったら釈尊の教えは本当の意味で理解できないというふうに見ていいです。

 だからそういう点で、二十世紀以降に生きているわれわれがいかにありがたい時代に生きているかということになるわけです。

   はい、わかりました。ありがとうございました。

   本文に戻って、一八九ページの一行目ですが、『法華経』の引用文を道元禅師が引用されて、「これ譬諭にあらず」というふうにおっしゃっていますね。

 道元禅師は仏教者でいらっしゃいますから自分の思ったことをそのまま書いていらっしゃるし、西嶋先生もそうだし、この場は仏教を体で勉強するところですから、そのとおり受け取るわけですけれども、いわゆる仏教学者とか宗教学者という立場になれば、「これ譬諭にあらず」、これは本当なんですよということはなかなかいいにくいんじゃないかなということはちょっと思ったんですね。

 やはり学者というのは客観的ですから、『法華経』に書いてあることは本当なんですよ、事実なんですよというと、学者なのか、宗教家なのか、なんか一線をこえるといいますか、そんなことをちょっと感じましたので、いまちょっと先生のご意見をお伺いしたいと思いまして。

   その点ではね、欧米の科学というものは全部思考の世界です。もとの事実は、心の問題をとるか、あるいは肉体の問題をとるかという違いはありますけれども、頭で考えてつくり上げた思想ということが本質的にあるわけです。だから欧米の科学の世界では脳細胞の発達と関係のない理論を全部否定して無視するんです。だからそういう点で、学問の世界では理論的に正しいかどうかが最大の基準になっていますから、仏教哲学のような哲学というものの中には入り込めないというのが事実です。

 だから今日いわゆる科学の立場での仏教の理解というものが、道元禅師がお説きになっているような仏教と次元が違うというのは当然です。だからその点で、科学的な仏教の研究がさらに実践的なところに入って行くかどうかというようなところに非常に大きな関門があるわけです。

  「科学的に」というのは、文献を中心としたという……。

   うん。その点では、坐禅をしたのでは仏道はわからないよということです。坐禅なんかしてそんなものに頼っていたら仏道はわからないよというのが科学的な思想です。

 だから学者たるものは、そういう民間で通用するようなおかしな修行は学問の邪魔になる。そういうものを使わずに理論的に哲学を築き上げていくのが学問だという基本原則がありますから。

 だから明治維新以降、日本の仏教が非常に優れたものを失って、骨のような空虚なものになったということの一つの原因は、欧米の科学が論理的なものだけを基準にして学問を組み立てているから、その学問研究の方法論に従って忠実に考えていけば、今日の仏教学というふうなものしか出来上がらなかったということは事実です。

   そのあたりの話は、かつて宇井伯壽先生という方がそういうふうなかじ取りをなさったということを伺いましたけれども、またそれはいつか改めてお伺いしたいと思います。

   前に老荘思想と仏教は違うということをいろいろな場面で教えを伺いましたけれども、荘子に「胡蝶の夢」という有名なお話がありますよね。蝶になったのが夢なのかと。そういう荘子の夢のとらえ方と、いまここでお話のありました「夢中説夢」の道元の夢との対比をちょっと説明していただきたいんですけど。

   その点はね、譬え話で説明すると、富士山のてっぺんにある石も富士山の麓にあるのも石ですよということ。そのことは、同じような思想を説いているけれども、富士山のてっぺんにある石と富士山の麓にある石とは違いますよということ。

 それはどういうことかというと、釈尊のお説きになった教えは富士山のてっぺんの石なんですよ。老荘の説いているのは富士山の麓の石に譬えることができる。同じ石だから同じだといえば、まさにそのとおりだけれども、富士山の高い山の上にある石と麓にある石とは質的に違いますよ、あそこまで担がれて行くには労力が要りますよというふうな違いがありますよということ。

 だからその点では、同じ系統の思想だからといって、釈尊の教えのように徹底的に最後まで理論的に詰めてある教えと、理論的なものがはっきりしなくて似たような教えが説かれているというのを、同一視するのは間違いだというのが道元禅師の教えです。

 釈尊の教えのほうは、とてつもなく精緻な哲学によって組み立てられている。老子、荘子も似たようなことをいっているかもしれないけれども、その理論の積み上げ方といったら、月とスッポンだ。まあ最近は月とスッポンなんていう表現はとらないけれども、うんとものの違うときに月とスッポンだといいますが、釈尊の教えは月なんです、老荘の教えはスッポンなんです。だから月とスッポンと同じ方向の哲学だから価値は同じだといえないということ。

 つまりどういうことかいうと、老荘の思想を西洋哲学の中に持っていった場合に、役に立たないんです。釈尊の教えは西洋哲学の上を行っているから、西洋哲学を十分に勉強した人が釈尊の教えを勉強するならば、「ああ、なるほど、これが本当だな」という可能性があるんです。それだけの思想の深さの違いがあるんです。

 だから道元禅師が三教一致という説を非常に否定しておられるのは、儒教と道教と仏教とが同じ系統の哲学だからといって同じだと見るのは間違いだという主張を非常に強くしておられるということになります。

   老荘の思想というのは現実と夢を相対的に考えるというふうにとらえて、それから仏教の夢とかというのは、行ないとか、先生がよくおっしゃっている自律神経がバランスしている、そういう現実と……。

   そう。だからその点では、老荘の教えのほうが夢を夢として扱っているけれども、仏教のほうでは夢、夢といって現実と区別しちゃいけない、夢の内容にも責任があるよということ。

   どうもありがとうございました。

   ちょっとだけよろしいでしょうか。簡単なことなんですけれども。因果の関係で、「三時業」というのがございますね。すぐ結果が出るものと、それから少し生きてから、それからしばらく経ってということで、その「三時業」というのを説いたのは、これは道元禅師だけなんですか、それとも仏教全体のお話なんでしょうか。

   うん、仏教全体にそういう主張があるから、「三時業」の説明のところでも、昔の経典からの引用があって、それに対する説明になっています。だから仏教思想に本来そういう理解の仕方があったというふうに見ていいです。

   はい、わかりました。

 

 それでは、時間がきたようですから、普回向を唱えて終わりにしたいと思います。

普回向 唱和