開経偈 唱和

 先月の十四日から二十七日まで約二週間にわたりましてイスラエルへ行って仏教の話をしてきましたので、そのことを最初にご報告いたします。

まず、なぜ行ったかということでありますが、私がもう二、三十年前に書いた本だと思いますが、いまアメリカにいるジェフリー・ベイリーという人と書いた本で『ツー・ミート・ザ・リアル・ドラゴン』という本があります。それは「本当の龍に出会うために」という意味でありまして、「本当の龍」というのが坐禅を意味しており、また仏教を意味しているわけであります。その本が海外では意外に評判が良くて、最近この道場に所属しているエリー・クラベッツという人とシャロン・クラベッツという、この二人は夫婦でありますが、それをヘブライ語に翻訳してくれたわけであります。その出版社が出版記念の会合をやりたいので来てくれという話がありまして、それに従って出かけたということが実情であります。

エリー君とシャロン君のほかに、この道場におります泰純君とか、あるいは優君佳さんとか、あるいは大阪の正眼会に所属していて、先日まで京都の妙説庵の坐禅会の世話役をやっていた宮本一郎という人と私と六人で出かけたということが実情であります。

 向こうでは非常に日程が詰まっておりまして、テレアビブ大学で三回とか、あるいはバーイラン大学で一回とかいうふうな形で、そのほかにテレビの対談とか、あるいは新聞記者との対談というふうなことで、毎日二つ、三つの行事が重なるというふうな形であったわけであります。向こうの人は非常に勤勉でありますから、そういうスケジュールもけっして珍しいことではなくて、ごく当たり前のことのような形でそういう行事が進んだということが実情だったわけであります。

 向こうの人は仏教の考え方にやはり非常に熱心であります。ただ、イスラエルという国は八〇%ぐらいがユダヤ教の人で、あと残りの二〇%が仏教その他で分かれているわけでありますが、人数的にそう多いわけではありませんが、仏教に対する取り組み方が非常に熱心だというふうなことがあって、向こうに行ったときにも三ヵ所ぐらいの坐禅をする団体でやはり話をしたり、あるいは実際に坐禅をしたりというふうなことも行なわれたわけであります。

 私の話につきまして、話が終わりますと必ず質問をする時間を取ったわけでありますが、その質問が非常に活発でたくさん出て来た。そしてまた、たとえば「苦しみに出会ったときにどうするのか」というふうな質問が出ましたので、私が「それは我慢する一手だ」という例の話をしますと、みんながワァーと笑って、何回もそういうふうに大きな声で笑うというふうなことがあったわけであります。

 それがどうしてかといいますと、現地の人々は宗教というものは非常に暗いもので、精神的で、また、わりあい消極的な考え方だという通念がありますから、現実の事態に即してありのままの事実を見ながら素直な態度で生きていくというふうな考え方が非常に珍しいという感じを受けたんだということがあったようであります。

 いずれにしましても、世界の情勢からしますと、やはり今後も世界の思想問題についての一つの中心になるというふうな土地柄でありますので、そういうところで仏教が盛んになるならば、仏教の普及のためにも非常に意味があるのではないかというふうな感じを受けてこちらへ戻って来たということが実情であったわけであります。

 

 それではこの本のほうに入ってまいりますと、きょうは「夢中説夢」という巻からになるかと思います。この「夢中説夢」という巻がどういうことを指しているかといいますと、われわれの人生というものが夢のような内容のものだという考え方であります。

 これは、普通はこういう考え方をしませんで、われわれの生活は目がさめていて寝ていないときが人生だという考え方がありますが、道元禅師の思想の中には、夢を見ているときも事実であり現実であるというふうな考え方があるわけであります。

 ところが二十世紀になりまして、ジグムント・フロイトという心理学者がやはり夢というものを克明に研究して、夢というものの中から、われわれが意識をしないけれどもものを考えている内容があって、その意識をしないで考えている内容というものがわれわれの人生にとって重要な真実を含んでいるという主張をしたわけであります。

 そういう考え方からしますと、寝ているときに見る夢とさめているときに生きている人生とが本質的には同じものだという思想がありまして、この考え方が仏教の思想の中では非常に古くからあったということになります。

 この「夢中説夢」という巻は、そういう面で無意識の世界というものとも関係しているわけでありますが、今日、仏教思想が理論的に非常にはっきり理解され始めた一つの原因は、ジグムント・フロイトが無意識の世界を説いたということにあります。そういう無意識の世界というものの存在を無視した場合には仏教思想がわからない。無意識の世界というものがあるということに気がついて、そういうさめている状態と夢を見ている状態と本質的には違わないというふうな考え方から仏教思想が生まれてくるというふうな事情もあるわけでありまして、そういう状況をこの「夢中説夢」の巻では説いているということになります。

 そのことは逆にいうと、目がさめて一所懸命働いているときも、生きているときも夢と同じものではなかろうかというふうな事情があると、こういうふうなことにもなるわけであります。

 

 そこで本文のほうを読んでいきますと、一七三ページのところで、

 「諸仏諸祖出興の道、それ朕兆已前なるゆゑに、旧窠の所論にあらず、これによりて仏祖辺、仏向上等の功徳あり、時節にかかはれざるがゆゑに、寿者命者なほ長遠にあらず、頓息にあらず、はるかに凡界の測度にあらざるべし」、「諸仏」というのはたくさんの真実を得た人々、「初祖」というのはたくさんの伝統的な師匠を指すわけでありますが、そういう人々がこの世の中に出て来て、そこで説かれた教えというものは、「それ朕兆已前なるゆゑに」、「朕」という字も「兆」という字も兆すという意味の字であります、何かが始まるということを意味する言葉でありまして、それ以前ということでありますから、この世の中がまだ生まれない前という意味になるわけで、それは永遠のものを意味するわけであります。「それ朕兆已前なるゆゑに」というのは、真実を得た方々、あるいは伝統的な師匠の方々の説かれた教えというものは、永遠の世界における意味を持っているから、「旧窠の所論にあらず」、昔からいわれている伝統的な固定的な考え方とは違う。

 「これによりて仏祖辺、仏向上等の功徳あり」、そういうふうに時代に制約された真実以外の思想ではないから、そのために、「仏祖辺、仏向上等の功徳あり」、真実を得た方々の周辺においては、また真実を得た方々がさらに現実の生活を続けていくという状況の性質を持っている。「時節にかかはれざるがゆゑに」、それは時間的な制約を受けていないから、「寿者命者なほ長遠にあらず」、それが生命が長く続くというふうな意味の性質のものではなしに、「頓息にあらず」、急に現れて来るとか、それが途中でとまってしまうというふうな性質を持っていない。「はるかに凡界の測度にあらざるべし」、そこで、普通の世間で述べられている思想というふうなものとは違うであろう。

 この文章というものは、今日われわれの周辺には頭の中で考えた思想というものが無数といってもいいくらい積み重なっているわけでありますが、仏道の思想はそういう思想と違う。どう違うかというと、現実そのものだ、真実そのものだ。頭の中で考えられた思想ではなしに、事実そのものであり、宇宙そのものだと、こういう主張を述べているわけであります。

 「法輪転、また朕兆已前の規矩なり、このゆゑに大功不賞千古榜様なり」、そうしてまた、「法輪転」というのは釈尊の教えを説くという意味でありますが、釈尊の教えを説くということについても、「朕兆已前の規矩なり」、「朕兆已前」というのは、最初の行に出て来ておりますが、永遠の基準を持っている。「規矩」というのは基準という意味であります。「このゆゑに大功不賞千古榜様なり」、だからそれがどんな価値があるなんていうことはいう必要がない。それが「大功不賞」という言葉の意味でありまして、「千古榜様なり」、永遠の時間の中における一つの現れである。

 「これを夢中説夢す」、そのような真実を夢の中でも見て、夢として説くということがわれわれの人生の実情である。

 「証中見証なるがゆゑに、夢中説夢なり」、それはわれわれの実際の体験の中で体験がどんなものかということを知ることであるから、それは別の言葉でいうならば、夢の中で夢を説いているのと同じ性質を持っている。だからこの「証中見証なるがゆゑに、夢中説夢なり」というのは、われわれの目がさめているときの体験も夢の中で見る夢も同じような本質的な内容を具えていると、こういうことをまずいわれているわけであります。

 

 そうして一七五ページにいきますと、その夢の中で夢を説明するというふうな事情についてさらに詳しく説かれているわけであります。ここのところは説いている内容が難しい上に、言葉も難しい言葉が使われておりますから、なるべくゆっくりと説明してわかりやすいように述べたいと思います。

 「この夢中説夢処、これ仏祖国なり、仏祖会なり」、このように夢の中で夢を説くような夢の世界と現実の世界とが一つに重なった世界が釈尊のおつくりになった世界である。あるいは、「仏祖会なり」、釈尊が指導された仏教教団である。

 「仏国・仏会、祖道・祖席は、証上而証、夢中説夢なり」、だから釈尊がお説きになった教えというものは、単にわれわれが目のさめているときに考える頭の中の世界ではなしに、釈尊がおつくりになった世界というのは、現実の世界、あるいは真実そのものを基礎にした国であり、また仏教教団であり、伝統的な師匠が説く教えであり、また伝統的な師匠が設けている説法の場所である。そのような仏の国、仏の仏教教団、あるいは伝統的な師匠の教え、あるいは伝統的な師匠の説法の行なわれる場所というものは、「証上而証、夢中説夢なり」、明々白々とした現実の中で自分自身がその経験をしているという場所でもあると同時に、それは夢の中で夢を説いているような性質を持っている。

 「この道取説取にあひながら、仏会にあらずとすべからず」、こういう形でわれわれは目がさめているときにも仏道修行をし、寝て夢を見ているときにもそのような真実を説き、真実を述べているということになるのであるけれども、それが「仏会にあらずとすべからず」、そういう夢の中で見るようなことは、釈尊のお説きになった教えの場所とは違うというふうに考えてはならない。

 だから夢の中で見ている夢も真実にほかならないと、こういうことであります。なぜそういうことがいえるかというと、夢の中には嘘がない。人間は意識があると嘘をつくことが非常に上手でありますから、「これはいっちゃいけない」とか、「こういったほうが人にほめられるだろう」とか、いろいろな思惑があるわけでありますが、夢のときにはその思惑がない。本心が出てしまう。だから、「こんなおかしな夢はおれの心の中にはあるはずがない」というふうにおかしな夢を見ることも、全部自分自身の見た夢だということになるわけでありますから、そういう点では、そういう夢の世界そのものが釈尊の教えの説法を聞いているのと同じことだ。それが「仏会にあらずとすべからず」。

 「これ仏転法輪なり」、これが釈尊がお説きになった教えの実際である。だから釈尊は目のさめたときの事柄だけではなしに、夢の中の事態も含めて真実をお説きになった。このことが二十世紀の心理学者のジグムント・フロイトが主張し始めた無意識の世界というものと関係するわけであります。

 私も若い頃から仏教を勉強しておりまして、無意識の世界というものの理解がつかないうちは仏教思想はわからなかった。ただ、無意識の世界というものを説かれているのを読んだときに、仏教思想はこういう思想と関係しているということに気がついて、それから仏教思想の理解が進んだという事実があるわけであります。

 だから仏教の教えというものは、意識している世界だけの問題ではなしに、つまり理論とか感覚の世界だけではなしに、その奥にある無意識の世界も含めて真実が説かれていると、こういう理解の仕方をする必要があるわけであります。

 「この法輪、十方八面なるがゆゑに、大海・須弥・国土・諸法現成せり」、このような教えというものは、「十方八面」、あらゆる方角に広がっている。「十方」というのは、東西南北、そのほかに東北とか西北とかいう中間の四方がありますから、八方という八つの方角が出て来るわけでありますが、その上に上と下があって、十の方角を「十方」と呼ぶわけでありまして、それは宇宙全体という意味でもあります。「八面」というのも東西南北に、東西南北の中間の四つの方向を足して八つの方向という形で、「十方八面」という形で、あらゆる方角に広がっているという意味を表しているわけであります。

 そこで、「この法輪、十方八面なるがゆゑに」、この宇宙のあらゆる方角に広がっている。そこで、「大海・須弥・国土・諸法現成せり」、太平洋とか大西洋とかいう地球を取り巻いている大きな海も、あるいはわれわれの住んでいる世界の中心にあると想像されていた須弥山という山も、あるいは国家が所有している土地も、あるいは宇宙の全体というものも、現実に眼の前に現れている。

 「これすなはち諸夢已前の夢中説夢なり」、このような形で現実の世界がすでに実在するということは、夢という考え方が生まれる以前からすでに存在した夢の世界である。

 「徧界の弥露は夢なり」、「徧界」というのはすべての世界という意味でありまして、宇宙を指すわけでありますが、宇宙が明々白々としていることも夢ではなかろうかという考え方ができる。それが「徧界の弥露は夢なり」。「弥露」の「弥」という字はいよいよという意味でありまして、「露」というのは現れるという意味であります。だから宇宙全体が明々白々として眼の前にあるということも夢として理解することができる。それが「徧界の弥露は夢なり」。

 「この夢すなはち明明なる百艸なり、擬著せんとする正当なり、紛紜なる正当なり」、その宇宙全体が夢だというふうなとらえ方は、別の表現をすれば、われわれの眼の前にある明々白々としたさまざまの事物である。それは具体的に、この部屋の中でいえば、眼の前の机であり、あるいは畳であり、あるいは白い壁であり、ガラス戸であるというふうな、われわれの生きているこの現実の世界そのものが夢だということがいえる。「擬著せんとする正当なり」、「いやあ、まさかそうではなかろう」と思うことがあるけれども、そういうふうにどうもそういう理論は信じられないというふうな状況の中で、何がなんだかわからないような状況がまさに真実である。「紛紜」というのは、わけがわからなくなっている。そのわけのわからなくなっている現実そのものが真実である。

 われわれは普通頭で問題を考える場合には、こういう考え方をしない。頭で考えて、「ああ、わかった。これが真実だ」という理解の仕方をするわけですが、仏教では無意識の世界、夢の世界というふうなものを思想の対象として含んでおりますから、混沌としてわからないようなものがまさに現実であり、正しい理論であるという主張をするわけであります。

 「このとき夢艸・中艸・説艸等なり」、その状況というものはどういうことかというと、「夢艸」である。「艸」というのは現実のものを指す意味を持っておりますから、現実のさまざまの事物を夢見ていることであり、それはまさにさまざまの事物の中にいることであり、さまざまの事物を説明していることである。それが「このとき夢艸・中艸・説艸等なり」。「夢艸」というのは草を夢見ているという意味でありますし、「中艸」というのは草の中にいるという意味でありますし、「説艸」というのは草を説いている。草というのはさまざまの事物でありますから、さまざまの事物を夢見ていることであり、さまざまの事物の中にわが身を置いていることであり、また、さまざまの事物を説明していることである。

 「これを参学するに、根茎・枝葉・華果・光色、ともに大夢なり、夢然なりとあやまるべからず」、そこで、「これを参学するに」、つまり夢とも考えることのできるような現実の世界を勉強する際に、「根茎・枝葉・華果・光色、ともに大夢なり」、その基礎であるとか茎であるとか、あるいは枝であるとか葉であるとか、あるいは花とか果実とか、あるいは輝かしさとか色彩とか、そういうものはすべて夢であると、そういう理解の仕方ができるし、「夢然なりとあやまるべからず」、夢だからぼんやりとして頼りにならないものだというふうに考えるべきではない。そのような夢というものが非常に貴重な存在であり、実在を意味しているという主張をするわけであります。

 「しかあれば仏道をならはざらんと擬する人は、この夢中説夢にあひながら、いたづらにあるまじき夢艸の、あるにもあらぬを、あらしむるを、いふならしとおもひ、まどひにまどひをかさぬるがごとくにあらんとおもへり」、「しかあれば仏道をならはざらんと擬する人は」、そこで、釈尊の教えなどは頼りにならないから勉強したくないと思う人は、「この夢中説夢にあひながら」、現に自分たちの人生が夢とも考えられるような世界であるにもかかわらず、「いたづらにあるまじき夢艸の、あるにもあらぬを」、本当にはあるはずのない事物を頭で考える状況ではないというふうな様子に見えるけれども、そのように無理に夢だと考えているような状況というものを夢中説夢というのだという理解をするけれども、そのために、「まどひにまどひをかさぬるがごとくにあらんとおもへり」、何がなんだかわからなくなって呆然としてしまっていることが夢中説夢の意味だというふうに理解する。

 「しかにはあらず」、そうではない。

 「たとひ迷中又迷といふとも、まどひのうへのまどひと道取せられゆく、道取の通霄の路、まさに功夫参学すべし」、そうではない。ではどういうことかというと、「たとひ迷中又迷といふとも」、われわれの人生が迷った上にまた迷っているというふうなわけのわからない人生であったとしても、「まどひのうへのまどひと道取せられゆく」、確かに迷ってはいるんだけれども、その迷いそのものがわれわれの生きている現実の世界だというふうな主張をし、「道取の通霄の路、まさに功夫参学すべし」、そのような説明がどういうものかがはっきりするような状況というものをまさに努力をして勉強すべきである。

 「道取の通霄の路」というのは、そのような理論が十分にわかる境地の中でと、こういう意味であります。「通霄」というのは、夜中じゅう明かりが明るくて通行のできる道を指すわけでありまして、そのことは、いっていることが非常にはっきりわかると、そういうふうな状況というものを考えて勉強すべきである。

 「夢中説夢は諸仏なり、諸仏は風雨水火なり、この名号を受持し、かの名号を受持す」、そこで、「夢中説夢は諸仏なり」、夢の中で夢を説いておられるということが真実を得られた方々の実情である。「諸仏は風雨水火なり」、真実を得られた方々は風や雨や水や火のような天然現象と同じ性質を持っている。

 だから先日の東南アジアにおける津波も、現実の世界であり、それは釈尊のお説きになった教えと同じものだという主張であります。で、普通人間社会ではこういう考え方をしない。しかし仏教の教えというのは、宇宙全体が真実だという考え方でありますから、そこで風や雨や水や火がまさに真実であり、釈尊の教えだ、釈尊そのものだと、こういう考え方をするわけであります。

 「この名号を受持し、かの名号を受持す」、だから真実は風が吹くことであったり、雨が降ることであったり、水が流れていることであったり、火が燃えているというふうな、さまざまの呼び方がある。

 「夢中説夢は古仏なり、乗此宝乗、直至道場なり」、そこで、夢の中で夢を説くというふうな表現は、永遠の真実を得た人々の実情である。「古仏」というのは永遠の真実を得た人々という意味でありまして、そのあとの表現は『妙法蓮華経』からの表現でありますが、「此ノ宝乗ニ乗リテ、直ニ道場ニ至ルなり」、「此ノ宝乗」というのは、宝玉で飾り立てられた乗物という意味でありますが、宝玉で飾り立てられた乗物が何を意味するかというと、坐禅を指すわけでありまして、坐禅をすることによって、「直ニ道場ニ至ルなり」、直接真実の世界に到達することである。

 「直至道場は、乗此宝乗中なり」、したがって、真実の世界に到達しているということは、まさに宝玉に散りばめられた乗物に乗っているその状況のときをいうのである。

 だから「乗此宝乗中」というのは、「此ノ宝乗ニ乗ル中」という意味でありまして、坐禅をしているときということを意味するわけであります。だから坐禅をしているときが宝玉に散りばめられた乗物に乗っていることであり、それはすでに真実に到達したことである。

 だから坐禅をして真実を得るというのではなしに、坐禅をしている状態そのものが真実と一体になった状態だと、こういう主張が仏教思想でありまして、坐禅をして悟りを開くという考え方は仏教思想ではない。何かというと、理想主義の考え方、観念論の考え方。観念論では、あるべき理想というものも頭に描いて、それに向かって一所懸命努力するという考え方でありますが、それは釈尊の教えではない。われわれが普通に日常生活で見聞きするところの観念論の思想だということがあるわけであります。だから坐禅をすることによって悟りをひらくという思想は仏教思想ではない。道元禅師がいわれているように、坐禅をしていること自体が真実だというところに仏教哲学の特徴があるということになるわけであります。

 そこで、「直至道場は、乗此宝乗中なり」、そのことは、真実に到達しているということは、現に坐禅をやっているその中身のことをいうのである。

 「夢曲夢直、把定放行、逞風流なり」、したがって、夢が間違っていることもある、夢が正しいこともある。それをしっかりとつかんだり、あるいは手放したりするというふうな自由自在な行動の中で風流をたくましくするのである。「逞風流」というのは、風流をたくましくするという意味でありまして、こだわりのない自由自在の境涯を楽しむことである。

 「正当恁麼の法輪、あるひは大法輪界を転ずること、無量無辺なり」、そのような形で、言葉では表現できない境地の中においてまさに説法をするということは、「あるひは大法輪界を転ずること、無量無辺なり」、別の言葉でいうならば、宇宙全体を説明することであり、その大きさというものは計り知れないものであり、限界のないものである。

 「あるひは一微塵にも転ず、塵中に消息不休なり」、別の表現をすれば、われわれの住んでいる世界の一微粒子の中においても真実を説くということであり、「塵中に消息不休なり」、この微粒子の寄り集まった現実の世界の中で息を吐いたり吸ったりすることが無限に続いていることを意味する。「消息」というのは吸う息、吐く息という意味でありまして、「不休なり」というのはそれがとまらないということ。

 だから人生とは何かというと、空気を吸いました、空気を吐きましたと、こういうことだという表現にもなるわけです。普通はそう考えていないから、「いや、空気を吸ったり吐いたりしているのは人生じゃない」という考え方もあるわけでありますが、ここでは「塵中に消息不休なり」、微塵の寄り集まった物質世界の中で息を吸ったり吐いたりしているだけのことである。

 「この道理、いづれの恁麼事を転法するにも、怨家笑点頭なり」、このような真実というものは、「いづれの恁麼事を転法するにも」、言葉では表現できない現実というものを説法する際にも、「怨家笑点頭なり」、敵といえども笑いながらうなずく内容を持っている。「怨家」というのは敵ということ、それから「笑点頭」というのは笑いながらうなずくということでありますから、「怨家笑点頭なり」というのは、敵といえども笑いながら「うん、そのとおりだ」というふうにうなずくものだ。

 「いづれの処所も、恁麼事を転法するゆゑに、転風流なり」、この世の中の一切の場所が、このように言葉では表現することのできないようなものを常に説いているのであるから、それは何ものにもこだわらない生き方というものが説かれていることを意味する。

 「このゆゑに、尽地みな驀地の無端なる法輪なり、徧界みな不昧の因果なり」、このような状況の中にわれわれは生きているのであるから、この地上のすべてというものも、「みな驀地の無端なる法輪なり」、それはすぐにわれわれに理解することのできる、あるいは聞くことのできる無限の説法である。「徧界みな不昧の因果なり」、われわれの生きている宇宙全体がいずれも明々白々とした因果関係である。「不昧」というのは暗くないという意味でありまして、「不昧の因果」というのは、われわれの生きている世界はすべてが原因・結果の寄り集まりである、少しの疑問の余地もないと、こういう意味であります。

 「諸仏の無上なり」、そのことは、真実を得た方々の教えというものが最高の価値を持っているということである。

 「しるべし、諸仏化道、および説法蘊、ともに無端に建化し、無端に住位せり」、その点では、その実情というものを経験してみると、「諸仏化道」、真実を得た方々の教えというものは、そしてまた宇宙の原則を説くということは、「ともに無端に建化し、無端に住位せり」、そのような教えというものは無限に広がっている。しかも無限にこの世界にその位置を占めている。

 「去来の端をもとむることなかれ、尽従這裏去なり、尽従這裏来なり」、そこで、「去来の端をもとむることなかれ」、この世の中が去って行くものだ、この世の中が来るものだというふうな考え方をすべきではない。

 なぜこのことを主張するかというと、われわれの人生というものの実在は現在の瞬間にしかないということと関係しております。現在の瞬間にしかないのであるから、時間系列の中で去って行ったとか来るとかいうふうな経過の問題ではない。現在の瞬間における事実があるだけだ。そのことを「去来の端をもとむることなかれ」。「尽ク這裏従リ去ルなり、尽ク這裏従リ来ルなり」、われわれの人生というものは現にいるこの場所において消えていったり現れたりしているのである。現在の瞬間にあればこそ去るとか来るとかいうふうな事実がないというふうな理解をせざるを得ないような瞬間である。

 「このゆゑに、葛藤をうゑて葛藤をまつふ、無上菩提の性相なり」、そうしてみると、われわれの生きている世界というものはしょせんは組んずほぐれつした複雑なものである。

 われわれは理論的な考え方を非常に尊敬しますから、何でも理論的に割り切ろうということで努力をするわけでありますし、その割り切ろうする努力は非常に楽しいものであるし、また価値のあるものだということもいえますが、われわれの人生というものはその理論だけですべてを尽くすことができないというふうな性格があって、理論は同じ理論であっても、頭で考えた理論、あるいは感覚的な事実を見たり聞いたりすることを基礎にした理論ではなしに、行ないの世界における理論という問題があって、その行ないの世界における理論というものを「葛藤」という言葉で表現するわけであります。つまり、現実の世界、行ないの世界においては、理論的に割り切れない、現実そのものがあって、その複雑な現実そのものがわれわれの生きている世界だ。それが最高の真実の性質であり外見である。

 そういう意味で、「このゆゑに、葛藤をうゑて葛藤をまつふ」、われわれの生きている世界が現実だということを知り、またその現実が複雑なものであって、言葉で表現することのできない世界だという事実があり、そのような複雑なものが、「無上菩提の性相なり」、最高の真実の本質であり、また外見である。

 「菩提の無端なるがごとく、衆生無端なり、無上なり」、真実がそのように無限に広がっているものであるから、そこに生きている一切の生物も無限に広がっているものであり、また最高のものである。

 「籠蘿無端なりといへども、解説無端なり」、そこでわれわれの人生を考えてみると、鳥を捕まえるような籠とか、魚を捕まえるザルのような道具が無限にあるけれども、その状況というものは完全に自由自在になった状況が無限に続いていることでもある。

 この辺の事情がどういうことを意味するかというと、人間は「この世の中は不自由なものだ。やりたいと思うことがちっともできない。やってはならないことをついついやってしまう。われわれはそういうさまざまな束縛の中で苦しんでいる」という考え方もあるけれども、現在の瞬間において行ないに頼るならば、一切のことが可能である、そういう世界に住んでいるということも疑いようがない。そのことを「籠蘿無端なりといへども、解説無端なり」、われわれの人生は完全に縛られて動きがとれないという状況もあるけれども、また現在の瞬間におけるわれわれの行ないは一切のものから解放されて自由自在である。

 この考え方も仏教哲学の非常に大切な考え方でありまして、「刹那生滅の道理」という考え方がこの『正法眼蔵』の中では「発菩提心」の巻にありますが、そのわれわれの行ないというものが現在の瞬間にあるから、過去・現在・未来と縛られているようには見えるけれども、現在の瞬間においては完全に自由であるという考え方を指すわけでありまして、そのことをここでは一行で「籠蘿無端なりといへども、解説無端なり」、われわれは「この世の中は苦しい。やりたいことがさっぱりできない。やってはいけないと思っていることをついついやってしまう。われわれは自由を楽しむことができない」という悩みがあるかもしれないけれども、現在の瞬間における行ないに徹するならば、われわれは完全に自由な世界を楽しむことができる。そのことを「籠蘿無端なりといへども、解説無端なり」といわれているわけであります。

 「公案現成は放儞三十棒、これ見成の夢中説夢なり」、現にわれわれの生きているこの宇宙が眼の前にある。その宇宙の実情というものは、おまえに対して棒で三十も叩くというふうな厳しい現実であるかもしれないけれども、「これ見成の夢中説夢なり」、それはまた現実の世界の中で夢の中で夢を説いているような内容のものでないとはいえない。だからこのわれわれの人生というものはけっして固定的なものではない。現在の瞬間に生きる限り自由自在に行動する可能性を持っているという主張にもなるわけであります。

 「しかあればすなはち、無根樹・不陰陽地・喚不響谷、すなはち見成の夢中説夢なり」、そこで仏教の世界では、根のない木とか、あるいは陰陽のない土地とか、あるいは大声を出してもそれが谷に響かないような場所というふうな現実には存在しないものを考えるけれども、そのような存在しない環境、場所というものも、「すなはち見成の夢中説夢なり」、現実の世界の中で夢の中で夢を説明しているというふうな性格を持っている。

 「これ人天の境界にあらず、凡夫の測度にあらず」、そのような現実の世界というものは人間界の人々や天上界の神々が住んでいる場所とは違う。「凡夫の測度にあらず」、仏道を勉強しない人々の想像できる範囲ではない。

 「夢の菩提なる、たれか疑著せん、疑著の所管にあらざるがゆゑに」、そこで、夢というものも真実だということについて誰が疑問を持つことができようか。

 このことは、欧米の文化の中では、ジグムント・フロイトが主張するまではわからなかった思想であります。「夢の菩提なる、たれか疑著せん」、夢というものが真実であるということを誰が疑うことができるか。つまり夢というのは無意識のうちに出て来るものでありますから、嘘がつけない。自分の本心が夢として出て来ると、こういう事情があるわけでありまして、そのことを誰が疑うことができるかと。「疑著の所管にあらざるがゆゑに」、そのような無意識の世界に出て来るものが真実であって、それは疑うことのできないものであるから。

 「認著するたれかあらん」、そこで、そういうものだというふうに認めるということがどうしてできるか。「認著の所転にあらざるがゆゑに」、それは疑うことができないと同時に、認識することのできない内容の教えでもある。

 「この無上菩提、これ無上菩提なるがゆゑに、夢これを夢といふ」、そのような最高の真実というものがまさに最高の真実として実在するのであるから、言葉の表現としてはそれを夢というふうに呼ぶということも実際に行なわれている。

 「中夢あり、夢説あり、説夢あり、夢中あるなり」、その点では、夢に適合した事実というものもあれば、説明を夢見ているという状況もあり、夢を説いているという状況もあり、夢の中に生きているという状況もある。

 「中夢あり、夢説あり、説夢あり、夢中あり」というふうな表現については、文字どおりに読んでいくということが一番わかりやすい方法であります。「中夢」というのは夢に適合しているという意味でありますし、「夢説」というのは夢が説明をしている、あるいは説明を夢見ているという意味になりますし、「説夢」というのは夢を見ている、夢を説いている。だから「夢中」というのは、夢が説明しているとか、夢を説いているとか、あるいは夢そのものの中にあるというふうなことが実情である。

 道元禅師はこういう文字を使われて現実の姿を説明されるわけでありますが、その読み方としては文字どおりに読むことによって意味がわかってくる。「中夢」「夢説」「説夢」「夢中」というふうな言葉を、何をいっているのかよくわからないというふうな形で理解を諦めるよりも、「中夢」というのは夢に該当している。あるいは「夢説」というのは夢が説いている。それに対して「説夢」というのは夢を説いている。そうして「夢中」というのはまさに夢の真っただ中である。

 こういう理解をすることによって、『正法眼蔵』の教えがきわめて具体的な内容を説いておられるということがわかってくるわけであります。最初から「いやあ、いっていることがよくわからない。このわからないところは飛ばして次を読もう」という形で読んでいると、何千年かかっても『正法眼蔵』は読めないというようなことがあるわけであります。

 私が「現代語訳」という言葉をこの本の表題につけたのは、そういう意味であります。つまり文字どおり読んでいってわからない本ではないという確信があった。だから克明に文字を読んでいった。普通の読み方は、「文字にこだわってはいけません。大意をつかまなければいけません」というふうなことをいうけれども、道元禅師はそんな不明確な文章はお書きになっていない。一つ一つが文字の意味があり、何をいっているかということをお説きになっているわけだから、逆に文字に忠実に読んでいくことによって道元禅師が何をいわんとしているかがわかってくるという実情があるわけであります。

 「説夢にあらざれば諸仏なし、夢中にあらざれは諸仏出世し転妙法輪することなし」、そこで道元禅師が夢を説明するのでなければ真実を得た人はあり得ないと。そのことは、夢を説明することが真実を説くことだと、こういう意味になるわけであります。「夢中にあらざれは諸仏出世し転妙法輪することなし」、夢のような世界の中に生きているのでなければ、真実を得た人がこの世の中に出て来るということもないし、真実を説法されるということもない。

 だから真実の世界と夢の世界とが同じものであるということを主張するわけであります。このことが「真実というものは無意識のうちにある」という主張にもなるわけであります。

 われわれは意識している世界を尊重しますから、無意識の世界というものを尊重するという考え方が最近までなかった。ジグムント・フロイトが無意識の世界を発見するまではなかった。ただ、欧米の科学思想が発達して、道元禅師が『正法眼蔵』の中で説いている教えと同じものが二十世紀に出会ったということになります。だから二十世紀以降、仏教思想というものは理論的に説ける。仏教思想が理論的に説けなければ人生は絶望だと思う。私はもう生きているかいがない。ただ、二十世紀、二十一世紀の時代においては釈尊の教えを理論的に説くことができるようになった。その大きな理由の一つは、欧米の優れた文化。だから欧米の優れた文化というものをばかにしてはいけない。欧米の文化があればこそわれわれは仏教の教えが何かがわかるようになったというふうな事情も含まれているわけであります。

 そこで、「説夢にあらざれば諸仏なし」、無意識の世界で説くのでなければ真実を得た人というものもあり得ないし、「夢中にあらざれは諸仏出世し転妙法輪することなし」、無意識の世界でなければ、真実を得た人がこの世の中に生まれ、真実を説くということもあり得ない。

 「その法輪は、唯仏与仏なり、夢中説夢なり」、そのような教えというものがどういうものかというならば、真実を得た人と真実を得た人とだけがわかる境地である。

 この「唯仏与仏」という言葉を聞くとがっかりしてしまう。「いやあ、真実を得るなんていうことはたいへんな努力で、何十年もかかるだろう。じゃ私の場合はちょっと難しいからやめておきましょう」ということになるわけだけれども、この「唯仏与仏」の「唯仏」というのが何を意味するかというと、坐禅をしているときの人のこと。だから坐禅の修行がなければ唯仏与仏というようなことはあり得ない。あるとしても諦めなければならない。

 ただ、幸いにして坐禅の修行というものがあるから、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして坐っていることが仏の境地だという事実を体験することができ、そういう人とそういう人とが仏道の世界をつくっているというのが「唯仏与仏」という言葉の意味であります。「その法輪は、唯仏与仏なり」というのは、結局はその教えというものは坐禅をしたことがあればわかると、こういうことになるわけでありまして、そのような状況を「夢中説夢」という言葉で表現しているのである。

 「ただまさに夢中説夢に、無上菩提衆の諸仏諸祖あるのみなり」、そこで、そのような形で無意識の世界でわれわれが生きているという状態の中に、最高の真実を得た人々として、真実を得た人、あるいは伝統的な師匠というものが存在するだけのことである。

 「さらに法身向上事、すなはち夢中説夢なり」、そこでわれわれは宇宙の中における一個の人格としてさらに現実に向かって一所懸命努力をしているけれども、それもまた夢の中で夢を説いているという表現ができる。

 「ここに唯仏与仏の奉覲あり、頭目・髄脳・身肉・手足を愛惜することあたはず」、そのような形で仏道修行をしているときに、あるいは坐禅をしているときに、「頭目・髄脳・身肉・手足を愛惜することあたはず」、まさに真実と出会っているのであるから、頭とか、眼とか、骨髄とか、頭脳とか、体の肉とか、手や足というふうなものを惜しむことはできない。われわれの肉体を使って真実の世界に入るということを避けるわけにいかない。

 「愛惜せられざるがゆゑに、売金須是買金人なるを、玄之玄といひ、妙之妙といひ、証之証といひ、頭上安頭ともいふなり」、「愛惜せられざるがゆゑに」、真実を得るためには、われわれの体というものを惜しんでいるわけにいかないと、そういう事情から、「金ヲ売ル須ク是レ金ヲ買ウ人ナルベシ」、つまり価値のあるものを人に与えることのできる人は、価値のあるものが何かということがわかっている人でしかない。

 「玄之玄といひ」、その状況を奥深い上にも奥深いという表現をする。「玄」という字は黒いという意味の字でありますが、黒いという色で無限の真実を指すわけでありまして、「玄之玄」というのは無限の真実の中でもさらに無限の真実という意味を表しているわけであります。「妙之妙といひ」、言葉では表現できないようなすばらしいものの中でも特にすばらしいものであるといい、「証之証といひ」、それが体験の中における本当の意味の体験であるという表現をとり、また、「頭上安頭ともいふなり」、頭が頭のあるべき場所にいるということを意味する。

 この「頭上安頭」という言葉が『正法眼蔵』にはときどき出てまいりますが、従来からの解説で、頭の上に頭を置くという意味で、余分なものを付け加えるという解釈がありますが、道元禅師はその解釈を否定しておられます。「頭上安頭」というのは、頭があるべき場所に置かれているという意味に使われております。

 「これすなはち仏祖の行履なり」、このような生き方というものが真実を得た方々の行ないである。

 「これを参学するに、頭をいふには、人の頂上とおもふのみなり、さらに 盧の頂上とおもはず、いはんや明明百艸頭とおもはんや、頭 をしらず」、最後に、「これを参学するに」、このような形で夢の中で夢を説くというふうな現実の世界を勉強する場合には、頭というものを考えた場合に、人間の体の上にのっているものというふうな理解をするだけであるけれども、その点では、「さらに 盧の頂上とおもはず」、「 盧」というのは毘盧舎那仏でありまして、毘盧舎那仏が宇宙全体の象徴という理解もできるわけでありますが、毘盧舎那仏の頭を考えるというふうなところまでもいかない場合がある。「いはんや明明百艸頭とおもはんや」、頭というものが何かというならば、われわれが眼の前に見ているさまざまの明々白々とした事物であると、そういう想像を主張する人が非常に少ない。そこで、頭そのものを頭そのものとして見ることができていない。「頭 」の「 」という字はそのものという意味であります。ですから「頭 」というのは頭そのものという意味で、頭そのものが頭であるということがわかっていない。

 そのことは、机が机であるということがわかっていない。畳が畳であるということをわかっていない。つまり現実をしっかりつかんでいないと、こういうことを意味するわけでありまして、したがって仏道の世界というものは、現実を現実と知ることであり、それを夢の中で夢を説くというふうな表現をしているということが仏道の教えにおける実情であると、こういうことを説かれているわけであります。

 ですからこういう文章を読みますと、道元禅師の哲学というものは、ほかの哲学には見られないような現実の哲学を説いておられるわけでありますが、それが釈尊がお説きになった教えであって、その現実を説く教えというものがあまりにも難し過ぎた。だから二千数百年わからなかった、理解がつかなかった。

 欧米の文化と仏教思想とが合流することによって、二十一世紀以降には釈尊の教えを理論でも説くことのできる時代がやっと来た。だから人類は今後、現実主義を中心にして黄金時代を迎える。そのことは、私の超楽観的な思想を持つならば、必ず来る。そういう優れた文化を人類そのものが持っている。

 人類というのはバカでない。第三次世界大戦が心配されたときに、アメリカとソ連が戦争せずに和解したというところに、人類がいかに優れた生物であるかということが歴史的な事実として非常にはっきりしているという面があるように見ているわけであります。

 

 それでは、いつもと同じ時間を少し過ぎましたが、ここで話のほうをとめまして、またご質問を受けるということにしたいと思います。何かありましたらどうぞ。

 

   この「夢中説夢」ですが、いまご老師のご説明を伺いますと、夢を三つのものとしてとらえていますね。一つは無意識、あるいは潜在意識でしょうね。もう一つはこの世の現実といいますか、現実のこの世界。それからもう一つは実際に眠っているときの夢。ということで、われわれはこの三つを別のものととらえて、いろんな理解をするわけです。

 いまのお話を伺っていますと、要はこの三つのものというのは別のものではないんだというとらえ方をして、このいまのお話を理解するということでよろしいんですか。

   そうです。だからもっと具体的にいえば、この井田両国堂の二階の一室でわれわれはいま『正法眼蔵』の講義をし、聞いている。それが現実だ。それが「夢の中で夢を説いている」というふうな表現もできる。しかしそれが真実なんだ。だから現実そのものが真実だということを素直に受け取るということに結論的にはなるわけです。

   わかりました。どうもありがとうございました。

   イスラエルのお話の中で、質問が出たみたいですけど、「苦しいときはどうしたらいいですか」という、まことにストレートな質問なんですが、先生は忍耐力といいますか、我慢すればいいと。当然それはそうですね。仏教でも「忍辱(にんにく)」という言葉がありますから、そのとおりだと思うんですが。

 我慢できないほどの悩みや、あるいは苦しみが襲ってきたらどうなるのかというふうな、ものすごく切実な問題も一生のうちに何べんかあると思うんですね。

 先日西武鉄道の社長さんが自死なさいまして。元運輸省のお役人だったらしいですけど、非常に痛ましいことが起こったんですね。

 きょうの「夢中説夢」の内容に関連しますと、現実というのは現実そのものでもあり、また、夢の中で夢を説いているような内容でもあり、夢、幻のようでもあり、現実でもありという、そういうお話でしたけれども、少なくともそういうことを自分で意識していれば、最後は「もうこれは夢だから」とかって開き直れば、少なくとも自死だけは避けられたのではないかなと思いますが、先生はどんなふうに思われますか。

 答  うん、それはそうだと思いますよ。それはどういうことかというと、ああいう人はとてつもなく頭が良くて、とてつもなく努力家で、真面目、真面目に一所懸命頑張ってきた人です。

 だけども、堤義明さんの世界はそんな世界じゃない。あの人のお父さんは堤康次郎といって衆議院議長もやったような人ですが、若い頃は北海の漁業に関連して、懐にいつもピストルを持ちながら行動した人だといわれています。だからそういう点の、まあ世の中の表も裏もよく知って強引に渡り歩くというふうな教育を、息子さんが腹違いで二人いるけれども、その下のほうの息子さんが義明さんで、だから親父さんのそういう暗い部分を引き継いでいる面があったんじゃないかと思う。だから西武の経営というものは非常にそういう点で強引だった。で、その因果関係が見事に出たというだけのことだと思います。

 だからそういう点では、宇宙の一切は原因・結果の関係で動いている。堤義明さんといえども例外ではなかったというふうなことの中に、この世の中の真実があるというふうに私は見ています。

   はい、ありがとうございました。

   前話のお話で、イスラエルというと八〇%がユダヤ教ですから、いわゆるキリスト教以上の観念論とわれわれは思っているんですけれども、そうすると仏教は、先生の説く仏教とイスラエルの現実の方々の接点といいますか、どんな点で仏教で一番共感を得たのか、それからまた反対のところはどこにあったのか、そのあたりをちょっとお願いします。

   うん、その点はね、イスラエルの人は非常に多くの人が現実主義者です。なぜ現実主義かというと、ユダヤ民族はイスラエルという国家を持っていたけれども、古代にローマ帝国に滅ぼされているんですよ。そこで、ユダヤの民族は民族ではあるけれども国がなかった。そこでよその国に行って経済活動をしていると、しばらくすると経済活動で優位に立ってしまう。そうするとそのユダヤ人を入れていた国は面白くないから追い出せということで追い出した。そうするとよその国へ行ってまた一所懸命生きていると、経済的に優位に立ってしまう。そうするとまた追い出される。そこで何千年もにわたって流浪の生活をしていたんです。そのときの経験が今日のユダヤ民族の文化をつくっているということがあると思います。

 だから、よその国がユダヤ民族があまりにも優秀だから面白くないということで迫害をしたことが、ユダヤ民族を今日のように優秀な民族にしてしまったということが歴史的な事実だと思います。

   仏教も、その中で先生が坐禅とかいろいろな講義をされたと思うんですけど、どの点が一番関心があり、非常に興味を持ったところなんでしょうか。

   うん、向こうの人がやっぱり一番興味を持つのは坐禅です。

   ああ、そうでしょうね。ユダヤ教にはないんですか。

   ユダヤ教にそういうふうな修行法というのは、ただ、実践的な教えというのはあるようです。特に神秘主義という西洋思想があるんです。つまり「頭の中で考える世界以外の世界」という考え方があって、そういう考え方はユダヤ教の中に非常に強くあるようです。

   フランスとかヨーロッパでは坐禅というのが非常に盛んなんですけど、イスラエルの国自身ではそういうグループとかいうのはたくさんあるんでしょうか。坐禅を専門にというのは……。

   それはかなりあります。ただ、やっぱり政治的に力を得ているのはユダヤ教だということですから、その点でそれなりの制約はあると思いますけど。

   わかりました。どうもありがとうございました。

   先生、ちょっと離れてよろしいでしょうか。韓国に行かれたということで、そのときにちょっと関心を持ったのが、仏の教えでは恨みに対して恨みをもってしてはいけないというようなことを聞くんですけれども。韓国の仏教徒の方々というのは、いわゆる日本に対する反日感情というのは、仏の教えとの、現実といいますかね、その辺というのは何かギャップというのはあるんでしょうか。

   私の聞いた話でね、韓国の人々が非常に寂しい状況を味わっているのを寂しいなと思って、いわば諦めるというふうな習慣があるという話は聞いたことがあります。

 そのことがどういうことを意味するかというと、恨みがあるから仕返ししてやろうという考え方と同時に、「恨みがあって残念だなあ」ということで静かに収めてしまうという性格があるというようなことは聞いたことがあります。

 まあ正直いって、われわれの人生そのものがうまくいかないときには諦める以外に手がない。(笑)「残念だ」「残念だ」なんて考えていると、自殺以外に手がなくなる。だからああいう優秀な人は、結局「ここまで努力してきた。ここまで努力してきたのに、この状況に追い込まれたというのは実に残念だ」ということで、恨みが自分に向かって、自分を殺してしまうという面があるんだと思います。

 だから真面目でない人は「まあしようがないや」と思って諦めちゃうんだけど、「しようがないや」という生活態度がないと、思い詰めて自分自身を殺してしまうということがあるんだということで。

 こういう自殺者の心理というのは、私が仏教思想を勉強する上において非常に役に立ったカール・メニンガーというアメリカの心理学者の本の中に書いてあるんです。本の表題は日本語訳では『己に背く者』という本で、自殺者の心理が書いてある。それはどういうことをいっているかというと、真面目な人というのは自律神経のうちの交感神経が強くなる。それをどんどん、どんどんと努力して強くするという形で、頭もいいし、ほかの人には負けないしというふうな状況が出るんだけれども、攻撃精神が非常に強いと、そうして外に向かって攻撃が不成功に終わると、その攻撃精神が自分自身に向かって自分を殺すと、そういう解説がしてあるんだけれども、これはまさに本当だと思う。

 だからそういう点で、その本には自殺をする人はけっして弱い人ではないと書いてある。非常に強い人だ。その強い攻撃力がたまたま外に向かって失敗すると、自分自身に向かって、自分自身を文字どおり殺すんだという説明があるけれども、いや、これはやっぱり自殺というものの現象については実に立派な説明だと思う。私はその理論は正しいと思う。

 だから自律神経が偏ることについては、人間の不幸の原因だ、不健康の原因でもあるわけです。だからそういう点で、二つの極端から離れるということが人間を幸せにするという釈尊の教えそのものが、二十一世紀になって初めて真実だということが理論的にもはっきりし始めた。

 だから私は人類の将来というのは非常に輝かしいものだと思う。恐らく仏教の現実主義が世界に行き渡って、世界全体が現実主義で運営される時代が来ると思う。これは何百年もかかるだろうけれども、そういう時代が来るということは私は疑問の余地がないと思う。

 人類はあまりにもいろいろな思想に振り回されて何千年も苦しんできたということがあるわけです。そのために人類の文化は進歩したけれども、そのために苦労するということも実に多かった。戦争のほとんどがその思想的なギャップの中で生まれているんです。だけども、現実というものが真実だということがわかってくると、人類はもっと豪華な世界に出会うというは私は疑問の余地がないと思う。何百年かかるか知らないけれども、そういう境地に人類がいくということは私は不可避だと思う。そういう非常に優れた世界に到達することを逃げようとしても逃げられないというふうな見方をしています。

 

 それでは、時間がきたようですから、普回向を唱えて終わりにしたいと思います。

普回向 唱和