開経偈 唱和

 きょうは大切な坐禅と講義に遅れましてたいへん申しわけなかったと深くお詫びを申し上げたいと思います。

 早速前置きの話をはずしまして本文の講義に入っていこうかと思いますが、最近の世界の情勢の中で、やはりイラクの問題を解決し、アフガニスタンの問題を解決したということは世界のために非常によかった、まだまだいろいろと波乱はありますが、少しずついい方向に向かっているのではないかという見方をしております。

 

 それではまたこの本文のほうに入ってまいりますと、きょうは「夢中説夢」という巻の一八二ページのところからになるかと思います。

 この「夢中説夢」という巻はどういうことが書いてあるかといいますと、われわれは目がさめているときと寝ているときと二つの状態が一日のうちにあるわけでありますが、この巻で主張されているのは、われわれが寝ている場合も目がさめている場合もわれわれの人生の一部としてはそう大きな違いがないと、こういう考え方を述べているわけであります。

 その点では、夢のときには何もないんだ、何もわからないんだということではなしに、睡眠を取っている時間もわれわれの人生における非常に大事な時間だという考え方が仏教の教えの中にあって、道元禅師はそのことを主張しておられるということになるわけであります。

 

 そこで本文のところを読んでいきますと、

 「むかしより頭上安頭の一句、つたはれきたれり」、「頭上安頭」と普通読みますが、頭の上に頭をのせているという意味が言葉の意味でありまして、一般にこの言葉は、頭の上に頭をのせるということで必要のない無駄なことをするという意味に理解されておりますが、道元禅師はここでその解釈は正しくないと、「頭上安頭」というのは頭のあるべき場所に頭が置かれているという意味であって、一切のものがごく普通にあるということを表していると、こういう解説をここのところでしておられるわけであります。

 そこで本文のほうを読みますと、

 「むかしより頭上安頭の一句、つたはれきたれり」、昔から頭の上に頭をのせるという言葉が伝えられてきている。

 「愚人これをききて、剰法をいましむる言語とおもふ」、ところが愚かな人々はこの言葉を聞いて、余分なものがあってはならないという意味を持った言葉だと考えている。

 「あるべからずといはんとては、いかでか頭上安頭することあらんといふを、よのつねのならひとせり」、そこで、何かがあってはならない、余分なものだということを主張する場合には、どうして頭の上に頭を置く必要があろうかというふうな使い方をする。

 「まことにそれあやまらざるか」、しかしこの理解の仕方はまさに誤りではあるまいか。

 「説と現成する、凡聖ともにもちゐるに相違あらず」、夢幻を説示するという言葉を使用する場合、それを凡人が用いようと聖者が用いようと、その使用する意味上の違いはない。

 「このゆゑに凡聖ともに夢中説夢なる、きのふにても生ずべし、今日にても長ずべし」、このような理解の仕方をするならば、「凡聖ともに夢中説夢なる」、凡人も聖者も夢の中で夢を説いているような状況がわれわれの人生であるから、「きのふにても生ずべし、今日にても長ずべし」、余分なものが付け加わるというふうなことは、きのうもあったであろうし、きょうもあったであろう。

 「しるべし、きのふの夢中説夢は、夢中説夢を、夢中説夢と認じきたる、如今の夢中説夢は、夢中説夢を、夢中説夢と参ずる、すなはちこれ値仏の慶快なり」、そこで次のようなことを知るべきである。「きのふの夢中説夢は」、きのうのわれわれの生活、つまり夢の中で夢を説いているような生活というものは、「夢中説夢を、夢中説夢と認じきたる」、その点では、仏教の考え方からするならば、われわれの人生というものは夢の中で夢を説いているような性格を持っているというふうな理解の仕方をし、「如今の夢中説夢は」、現にいまわれわれが生きている現在の瞬間というものもやはり夢の中で夢を説いているようなことではあろうけれども、「夢中説夢を、夢中説夢と参ずる」、夢の中で夢を説いているというふうなことを、夢の中で夢を説いているんだというふうに実際に理解するということが、「すなはちこれ値仏の慶快なり」、われわれの人生というものは夢の中で夢を説いているようなものだという理解の仕方をすることが、釈尊ご自身にお会いするきわめて喜ばしい事実である。

 したがって、われわれの人生というものに関連して、そのとらえ方として、夢の中で夢を説明しているような状況だというとらえ方をするということが釈尊の教えに出会ったことを意味する。

 「かなしむべし、仏祖明明百艸の夢あきらかなること、百千の日月よりもあきらかなりといへども、生盲のみざること、あはれむべし」、その点では、「仏祖ノ明明タル百艸の夢」、釈尊ご自身が、この世の中が現実の世界であって、さまざまのものが明々白々として存在していると、そういうような人生というものがわれわれの日常生活の中ではっきりしているにもかかわらず、「百千の日月よりもあきらかなりといへども」、そのような状態というものが太陽や月が百千というふうに照らしている明るさと同じようにきわめてはっきりしている事実であるけれども、「生盲のみざること、あはれむべし」、せっかくわれわれが生きておりながら本当のものが見えないというふうな状況であるならば、それはたいへん哀れなことである。

 「いはゆる頭上安頭といふ、その頭はすなはち百艸頭なり、千種頭なり、万般頭なり、通身頭なり、全界不曽蔵頭なり、尽十方界頭なり、一句合頭なり、百尺竿頭なり」、その頭の上に頭をのせるという言葉の意味は、その頭というものが何を意味するかというと、この世の中のさまざまのものを意味する。「百艸頭」というのはこの世の中にあるさまざまのものを指すわけでありまして、そういうさまざまのものがこの言葉の中では「頭」という言葉で表されている。したがってそれは、「千種頭なり」、この世の中にはさまざまのものがあるけれども、そのことを指しているんだし、「万般頭なり」、さまざまの種類のものがあるけれども、それらもやはり「頭」という言葉でこの世の中のさまざまのものを表している。「通身頭なり」、その点ではわれわれの体全体とそういうものであるし、「全界不曽蔵頭なり」、われわれの生きている世界というものが一切のものを見せている、われわれの生きている世界の中で隠されたものは何もないというふうな状況を意味しており、「尽十方界頭なり」、あらゆる方角に広がっている世界そのものがここでは「頭」という言葉で表現されている。

 われわれの日常生活の中には「一句合頭」という言葉がある。一つの言葉を聞いただけで一切のものがわかるというふうな例があるけれども、そのような状況というものもこの「頭」という言葉の意味として使われているし、また「百尺竿頭」という言葉がある。これは非常に高い百尺もあるような棒の上に立って、しかもそこから足を一歩踏み出せというふうな「百尺竿頭進一歩」という言葉の一部でありますが、そういう言葉の中に含まれている非常に高い竿の上でわれわれがその上にのっていることがわれわれの人生の実情だというふうな意味の「頭」でもある。

 「安も上も頭頭なると参ずべし、究すべし」、そこで、置くという字も、あるいは頭の上という字も、それぞれ個々のもののあり方を意味しているというふうに勉強すべきであるし、理解すべきである。

 「しかあればすなはち、一切諸仏、及諸仏阿耨多羅三藐三菩提、皆従此経出も、頭上安頭しきたれる夢中説夢なり」、このように考えてくると、「一切ノ諸仏」、この世の中において真実を得られたすべての方々や、「諸仏ノ阿耨多羅三藐三菩提ハ」、そのように真実を得られた方々が達成したところの最高の均衡のとれた真実というものは、「皆此ノ経従出ズルも」、われわれが生きているこの世界、それが釈尊の教えを説いているから、仏教経典というふうに考えることができるけれども、その経典から真実というものが出ており、つまりわれわれの生きている現実の世界の中から真実というものが読み取れるということが実情であって、「頭上安頭しきたれる夢中説夢なり」、したがって「夢中説夢」という言葉は、われわれの日常生活の中で頭が頭の置かれている場所にあるというふうな現実そのものを素直に受け入れる態度である。

 「此経すなはち夢中説夢するに、阿耨菩提の諸仏を出興せしむ」、そこで、われわれが生きているこの現実の世界というものは、まさに夢の中で夢を説いているような現実の世界であるけれども、その現実の世界の中で、「阿耨菩提の諸仏を出興せしむ」、最高の真実を得たたくさんの方々がこの世の中に現れてくるという事実がある。

 「菩提の諸仏、さらに此経をとく、さだまれる夢中説夢なり」、その点では、真実を得たたくさんの方々が、「さらに此経をとく」、われわれの生きている世界がどういう世界かということを説明している。「さだまれる夢中説夢なり」、それがわれわれが現に生きているこの現実の世界というものがどんな世界であり、それはあたかも夢の中で夢を説いているような世界であるということが、真実を得られた方々の現実の世界の説明の中で表れてきている。

 「夢因くらからざれば、夢果不昧なり」、その点では、夢の原因というふうなものもはっきりしているし、夢から生まれた結果というものもはっきりしている。このことは、われわれの生きているこの現実の世界においては一切のものが原因・結果の関係に置かれていて、原因もはっきりしていれば、結果もはっきりしているというのがわれわれの生きている世界の実情である。

 「ただまさに一椎千当万当なり、千椎万椎は、一当半当なり」、そこでわれわれの人生というものを考えてみると、一つの行動というものが非常にたくさんの正しい結果を生み出す。「一椎」の「椎」という字は、ものを打つ道具でありまして、それを使って一つ打つことによって、この世の中のさまざまのものがきわめて適当な形で結果を表すということがあるし、「千椎万椎は、一当半当なり」、間違った態度で千、万という行ないをしてみても、そのうち一つ当たるか半分当たるかというふうなこともわれわれの人生にはある。

 だから人間の行ないというものについて、正しい行ないもあれば、誤った行ないもある。正しい行ないについては、一つやっただけですべてのものに適合する性質を持っているけれども、正しくない行ないをする場合には、千回、万回というふうに繰り返してみても、そのうち一つ当たるか半分当たるかというふうなことが実情である。

 「かくのごとくなるによりて、恁麼事なる夢中説夢あり、恁麼人なる夢中説夢あり、不恁麼事なる夢中説夢あり、不恁麼人なる夢中説夢ありとしるべし」、そこで、われわれの人生というものがこういう状況を示しているのであるから、「恁麼事なる夢中説夢あり」、われわれの人生というものが言葉では表せない現実の世界であって、そのような現実の世界の中で夢の中で夢を説くような現実の生活をしている場合もあれば、「恁麼人なる夢中説夢あり」、われわれの人格というものが整って、言葉では表現できないような安定した人間として夢の中で夢を説くというふうな実情もある。また逆に、「不恁麼事なる夢中説夢あり」、そういう言葉では表現できないような現実とは食い違った事実があって、それが夢の中で夢を説いているというふうな実情もあれば、「不恁麼人なる夢中説夢ありとしるべし」、自分自身がまだ十分に落ち着いた状況でなしに、しかも夢のような世界の中で夢を説いているという事情もあるということを知るべきである。

 「しられきたる道理顕赫なり、いはゆるひめもすの夢中説夢、すなはち夢中説夢なり」、そこで、そのような事情を十分にわかった上の言葉がある。それは、「いはゆるひめもすの夢中説夢、すなはち夢中説夢なり」、われわれの日常生活そのものが夢の中で夢を説いているような実情であるという言葉である。

 「このゆゑに古仏いはく、我今為汝夢中説夢、三世諸仏也夢中説夢、六代祖師也夢中説夢、この道あきあらめ学すべし」、そうしてみると、過去において真実を得られた方々の言葉として、この原則を非常にはっきりと伝えている言葉がある。それはどういう言葉かというと、一日中われわれは夢の中で夢を説いている。「すなはち夢中説夢なり」、それがわれわれの本当の人生だ。

 だからわれわれは頭で考えてすべてのものが理屈でわかるというふうな理解の仕方をしておりますが、われわれの生きている現実の世界というものは、単に頭の中だけの理解ですべてがわかるものではない。その点では、現実そのものがなかなかつかみにくい実情を持っていて、そのつかみにくい実情の中でわれわれは生きている。
 したがって、「このゆゑに古仏いはく、我今汝ガ為ニ夢中ニ夢ヲ説ク、三世諸仏モ也夢中ニ夢ヲ説ク、六代ノ祖師モ也夢中ニ夢ヲ説ク、この道あきあらめ学すべし」、このようなところから、過去において真実を得られた方が、自分はいまおまえたちのために夢の中で夢を説いているという言葉を述べ、「三世諸仏モ也タ夢中ニ夢ヲ説ク」、過去・現在・未来にわたって真実を得られた方々も夢の中で夢を説いているということが実情である。「六代ノ祖師モ也タ夢中ニ夢ヲ説ク」、大鑑慧能禅師が六代の祖師でありますが、中国における諸祖である達磨大師から大鑑慧能禅師までの六人の祖師方も夢の中で夢を説いたということが事実であるし、「この道あきあらめ学すべし」、この言葉がわれわれの現実の世界の実情を示しているということを勉強すべきである。

 「いわゆる拈華瞬目、すなはち夢中説夢なり」、そこで、釈尊が霊鷲仙で説法されていたときに、優曇華の花を手に持ってまばたきをされて、この優曇華の花の意味がわかるかという問いかけをされた。その釈尊の優曇華の花を手に持ちながらまばたきをされたという説法も、「すなはち夢中説夢なり」、夢の中で夢を説いているというふうな現実の世界がわかったかということを意味している。

 「礼拝得髄、すなはち夢中説夢なり」、また、達磨大師がそろそろ自分の死期が近づいたということに気がついて、四人の弟子たちにそれぞれ仏道修行の結果を聞いたときに、大祖慧可大師は言葉では何も述べずに達磨大師を礼拝して、それから自分の席に戻って叉手をして立っていた。それに対して達磨大師が「汝我髄ヲ得タリ」という言葉を述べられた。つまり大祖慧可大師が示した動作というものは、われわれの生きている世界の真実というものは、言葉による表現ではなしに、行ないの正しさだということを動作で現した。そのような大祖慧可大師の動作も、「すなはち夢中説夢なり」、夢のような世界の中で夢の話をしているというふうなことの例である。

 「おほよそ道得一句、不会不識、夢中説夢なり」、そこで、真実を得た人が、それを表す一つの言葉を述べるというふうなことも、それは言葉の単なる意味の理解だけではなしに、また一切のものがはっきりとわかっているというふうな立場でもなしに、われわれの人生というものが夢の中で夢を説明しているような現実であるということを意味している。

 「千手千眼用許多作麼なるがゆゑに、見色見声、聞色聞声の功徳具足せり」、この『正法眼蔵』の中にも「観音」という巻がありますが、その「観音」の巻で、中国の祖師方が観世音菩薩とは何かというふうな問答をしていることの説明の行なわれている巻があるわけであります。その中で、「千手千眼用許多作麼」という言葉があって、これが何を意味するかというと、観世音菩薩は千の手、千の眼を持っているといわれておりますが、その千の手や千の眼というものがいったい何をしているんだろうか、つまり観世音菩薩という人がどういう方であり、どういう意味を持っているかというふうな問答が行なわれているわけであります。

 それに対するとらえ方として、「見色見声、聞色聞声の功徳具足せり」、われわれの人生というものを眺めてみれば、あるいはわれわれの日常生活を眺めてみれば、この世の中にはさまざまのものがあって、それを現に見ている、それからまたさまざまの音があり、さまざまの言葉があって、そういう音を聞いたり、言葉を聞いたりすることによって、この世の中の実情がどういうものかを見ることができる。それが「見色見声」という言葉の意味でありますし、「聞色聞声の功徳具足せり」、また逆に、この世の中の様子というものをさまざまの音を聞くことによって聞き分けるという状況がある。そうしてまた、そのように眼に見えるものによってこの世の中の実情がどういうものかということを言葉として、あるいは理論として聞くというふうな性格もわれわれの人生の中には実際に存在する。

 「現身なる踰中説夢あり、説夢説法蘊なる夢中説夢あり、把定放行なる夢中説夢なり」、したがって、われわれの日常生活というものを考えてみるならば、われわれの自分自身の体を使って夢の中で夢を説いているというふうな実情もあれば、夢を説き、あるいはこの現実の宇宙のあり方を説くというふうなことが「夢中説夢」というふうな言葉で表されているということもあるし、「把定放行なる夢中説夢なり」、「把定」というのはしっかりつかむという意味でありまして、「放行」というのは自由自在に振る舞うという意味でありますが、われわれはある場合には非常に消極的に落ち着いた動作をし、ある場合には大胆にさまざまの行ないを自由に実行するというふうな二通りの生き方があるけれども、その両方とも「夢中説夢」である、夢の中で夢を説いているというふうな状況の説明である。

 「直指は説夢なり、的当は説夢なり」、その点では直接何らかの事実を示すということが夢を説いているというふうなことの実情であるし、「的当は説夢なり」、その説明がまさに現実の世界をはっきりと説明している場合でも、またそれが夢を説いているというふうな内容も同時に含んでいる。

 この「夢中説夢」というふうな言葉は現実そのものの説明でありますが、その現実というものは必ずしも言葉だけで説明できるものではない。もっと現実的な実体であって、物と心とが一つに重なったような世界であるけれども、その世界の中に生きているということは夢の中で夢を説いているような状況だという主張が仏教にはあると、そういう主張をしているわけであります。

 「把定しても、放行しても、平常の秤子を学すべし」、そこで、われわれの人生においては、ある場合には自分を控え目にしてやり過ぎることを避けるというふうな態度もある。「把定する」というのはそういう意味であります。それから「放行」というのは、思い切って大胆に行動するということが放行であります。われわれは大いに注意深く慎重な態度をとることもあれば、あるいは大いに自由自在に積極的に行動する場合もあるけれども、その場合にも、「平常の秤子を学すべし」、ここが非常に大切なところでありまして、「平常」というのは、「平」というのは水平、「常」というのは普通ということであります。この「平常」というのは何を意味するかというと、今日の心理学、生理学の関係から説明するならば、自律神経のバランスだということがいえるわけであります。

 そこで、われわれが慎重に行動する場合も、積極的に行動する場合も、その基本は、平になった秤のような自律神経のバランスした状態を勉強すべきである。「秤子」というのは秤ということであります。秤というものは何も載せなければ左右の秤の物を載せる皿と目盛りを載せる皿とが完全に平らな状況で秤のほうから垂れ下がっているわけでありますが、そのような安定した状況を勉強すべきである。慎重に行動する場合も、大胆に行動する場合も、そういう自律神経のバランスからはずれないということが大事だと、こういう主張であります。

 「学得するにかならず目銖機 あらはれて、夢中説夢しいづるなり」、そこで、そのような自律神経のバランスした状態というものを仏道修行の結果自分のものにするならば、「かならず目銖機 あらはれて」、「目銖機 」というのは、「銖」も「 」も中国の物の重さの単位であります。そこで「目銖機 」というのは、物を見ただけでその重さがだいたい想像がつくという能力を指すわけであります。つまり別の言葉でいうならば、直観的な判断能力というふうにも表現することができるわけでありまして、われわれが自律神経のバランスした状況を維持しているならば、われわれの直観的な判断力が現れて、「夢中説夢しいづるなり」、現実の世界というものは夢のような世界で、その中でわれわれが夢を説いているんだというふうな状況を知ることができる。

 「銖 を論ぜず、平にいたらざれば、平の見成なし」、その点では、物が重いか軽いかというふうな議論をするのではなしに、「銖 」というのは物の重さでありますから、「銖 を論ずる」というのは、思いとか軽いとかいう議論をすることになるわけでありますが、「平にいたらざれば、平の見成なし」、秤が本来水平な竿を示しているのでなければ、秤そのものが役に立たない。右が上がっているとか左が上がっているというふうな形では秤そのものが役に立たない。そこで、「銖 を論ぜず、平にいたらざれば、平の見成なし」、物の重さを議論するのではなしに秤が水平かどうかというふうなことが大切であって、もし秤が水平になっていなければ秤として役に立たない。

 「平をうるに平をみるなり」、その点では、人間が自律神経をバランスさせて平静な状態にあるときには、われわれの普通の状態が何かということを見ることができる。

 「すでに平をうるところ、物によらず、秤によらず、機によらず、空にかかれりといへども、平をえざれば、平をみずと参究すべし」、そこで、われわれが仏道修行をして自律神経をバランスさせた状態の中でも、「物によらず、秤によらず、機によらず、空にかかれりといへども、平をえざれば、平をみずと参究すべし」、秤に譬えていうならば、秤の竿が水平になっているというふうな状況というものは、物質に頼ってそういう状況が出るわけではない。秤そのものがそういう状況を常に示しているということでもない。あるいはわれわれが行ないを実行する現在の瞬間というものにそのような水平な性格というものが含まれているというわけではない。あるいはわれわれが生きている空間というものにそういう水平であるというふうな性質が具わっているわけではない。

 しかしながら、「平をえざれば、平をみずと参究すべし」、われわれの身心の状態が水平な状態になっていなければ、つまりわれわれの自律神経が水平な状態になっていなければ、この世の中がさまざまのものが均衡して落ち着いているというふうな状況を見ることができないというふうな理解をすべきである。

 だからこの世の中の実情を本当に見れるかどうかということについては、われわれの自律神経がバランスしているかどうかということが非常に大切だと、こういう意味であります。

 「みづから空にかかれるがごとく、物を接取して空に遊化せしむる夢中説夢なり、空裏に平を現身す」、その点では、「みづから空にかかれるがごとく」、われわれ自身が空間の中に生きている。「物を接取して空に遊化せしむる夢中説夢なり」、さまざまの物を取り上げて、空間の中で自由自在にそれを使いこなすというふうなことも、夢の中で夢を説いているというふうな言葉の表現が当たっているし、「空裏に平を現身す」、われわれの生きている空間の中で均衡のとれた状態を具体的に体の様子として表すということが行なわれる。

 「平は秤子の大道なり、空をかけ物をかく」、水平であるということは秤の基本的な性格である。そこで、秤には空間というものがその置かれている場所であり、また、それに物を載せて物の重さを量るという働きを持っている。

 「たとひ空なりとも、たとひ色なりとも、平にあふ夢中説夢なり」、そこで、われわれが生きている空間であろうと、あるいは「たとひ色なりとも」、「色」というのは物質を意味しておりまして、物であろうと、「平にあふ夢中説夢なり」、空間も均衡が保たれており、一切のものも均衡が保たれており、それが夢の中で夢を説くという言葉の実情である。

 「解脱の夢中説夢にあらずといふことなし」、その点では、われわれが仏道修行の結果、自律神経がバランスして一切の束縛から解放されるというふうな状況も、「夢中説夢にあらずといふことなし」、夢の中で夢を説いているというふうな事実の一例でしかない。

 「夢これ尽大地なり、尽大地は平なり」、夢というものとわれわれの住んでいる地球の全体とが同じものであり、「尽大地は平なり」、われわれの住んでいる地球の全体はいずれも均衡がとれている。

 「このゆゑに囘頭転脳の無窮尽、すなはち夢裏証夢する信受奉行なり」、このような状況があるところから、「頭ヲ囘シテ脳ヲ転ズル」、われわれの頭の向きを変えてまた頭の働きの転換をするということが限りなく行なわれているけれども、そのようにわれわれの日常生活の中で頭の向きを変え、頭の中で考えているものを変化させるということが無限に続いているけれども、そのような実情というものは、「すなはち夢裏証夢する信受奉行なり」、この世の中というものは夢のような世界だといわれているけれども、そのような夢のような世界をまさにそのとおりだという形で実感することが、釈尊の教えを信じ、また行なうべき行ないを実行していることを意味する。

 こういう形で、この「夢中説夢」に関連しては、われわれの心の働きというものが均衡がとれているということが非常に大切であって、その均衡のとれているということがわれわれの人生の基準であると、こういうことをいわれているわけであります。

 この問題に関連しては、先日もこの問題を申し上げましたが、新潟大学の大学院に安保徹さんという教授の方がおられまして、この方はアラバマ大学に五年ほど留学されて免疫学という学問を専攻された。免疫学というのは、人間がどうして病気が治せるのかということに対する研究でありますが、その結果安保教授は、われわれの体の中には自然に病気を治す力がある。その病気を治す力が自律神経のバランスしたときに最も豊かに現れてくる。だから安保教授の説は、薬を使ったり手術をするよりも、われわれの自律神経をバランスさせることが健康を維持し、病気を治し、病気にならないための最大の秘訣だと、こういう主張をしているわけでありますが、この主張が最近医学界でかなり注目を浴びているというのが実情であります。

 その点では、われわれは坐禅をしているわけでありますが、坐禅をするということが何を意味するかというと、われわれの自律神経をバランスさせるということにあるわけでありまして、そういう状態を朝晩坐禅をすることによって日常生活の中でずうっと維持しているならば、病気になれない、したがって健康が続く、長生きしたいと思って焦らなくても自然に長生きしてしまうと、そういうふうな実情があるということを、その安保教授の学説からは、医学的にさまざまの実験を重ねながらはっきりと証明し始めているという事情があります。

 したがって、仏教哲学がどういう哲学かということを考える場合にも、われわれの体の中にある自律神経をバランスさせるということが、本当のことがわかり、健康が維持でき、われわれの行ないが正しくなって、人生を楽しむことができるというふうな基本につながっているという考え方と一致するという事情があるわけであります。

 ですからその点ではわれわれの人生というものは、夢の中で夢を見ているような状況ではあるけれども、自律神経がバランスしていることによって、最高の真実がわかり、きわめて健康な生活の中で、自分のやらなければならないことをやり、やってはならないことをやらずに済まし、われわれの人生を最高に楽しむということが誰にとっても可能だというふうな理論が、二十一世紀の今日では人類の科学的な知識の中に現れ始めた。

 だからそういう点では、こういう理論が医学界に少しずつ広まってくることによって、人間の生命というものはどういうものかというふうなことがはっきりしてくる。今日まで病気を治すためには薬を飲むことが最大の方法だというふうな考え方が人間の自然に自分の体を治すというふうな能力を抑えてしまう、あるいは手術して自分の自然の体の動きというものを傷つける、それが生命の維持には不利な形で現れるというふうな状況がだんだんはっきりしてきて、人間が幸せに長生きするためにはどういう生活態度が必要かというふうなことが二十一世紀には恐らくはっきりし始めるであろうと、こういう状況があるように見ております。

 

 それでは、いつもと同じような時間になりましたので、話のほうをここでとめまして、またご質問を受けるということにしたいと思います。何かありましたらどうぞ。

 

   いま先生のお話の中で、坐禅をすることによって本当のことがわかるというお話が出て来たわけですけれども、その「本当のことがわかる」という意味では、ここ一週間ぐらい企業買収ということでライブドアがフジテレビの株を相当量買収して敵対的買収をいま試みているわけですね。それに対してフジテレビのほうでは新株を発行してそれを阻止しようと。新株発行で敵対的買収を防ぐというのはアメリカでも最近かなり起こっているという話なんですけど。

 結果的には、ライブドアのほうで何とか手に入れるということで、新株発行の阻止を裁判所に訴えて要求したというわけで、今週中ぐらいにその結果が出るだろうというふうに見ておりまして。そういった動きの中で、フジテレビの社員全員がライブドアに対しては非協力、要するに協力しないという全員の声明、決議を出したという話ですけれども、この一件を見て先生はどのように考えられますでしょうか。

 ここでは敵対的買収というものはまあ合法ではあるんだけれども、やはり道義的に見たときにいいのか悪いのか、ビジネスとしても本当のあり方なのかどうかという点なんですけれども。

   その点ではね、正しいということも大事だし、力がどっちが強いかということも大事なんです。世の中というのはそういう両方の原則が絡み合って動いているわけだから。その点では、たまたま片方のほうが膨大な資産を持っていて、全部株式を買えるような力を持っているかどうかというような問題があるし、それと同時に、そういう争いをすることが本当に正しいのかどうかというふうな道義的な問題も含んでいるということで、どっちが勝つかということはそのうちわかるだろうというふうなことでしかないと思います。

   トヨタでは実際にフジテレビの株を持っているということですけれども、トヨタとしてはどっちにも味方しないという結論を出しておりますが、この点では先生はトヨタの判断というのはどう思いますか。

   そのフジテレビの従業員が……。

   いや、そうじゃなくて、トヨタが自分の株はどっちにも売らないと。ライブドアにも売らない、それからフジテレビのほうにも売らないと。まあフジテレビとしてはぜひ売ってくださいということなんでしょうけれども。

   それは正しい態度だと思いますよ。どんどん両方で株を買い上げると値段が高くなるから、トヨタさんは損はしないということだと思いますよ。

   わかりました。

 すみません、いまの続きなんですけれども、ライブドアというのは、最初は堀江社長がインターネット制作の会社を有限会社から立ち上げて、それでどんどん企業を買収していって、最近では会計ソフトで「やよい会計」という会社があるんですけれども、「やよい会計」といったらその分野ではたぶんシェアが一番ぐらい取れているんじゃないかと思うんですけれども、そういう企業を買収して、どんどん買収して大きくなったということなんですね。

 この買収そのものというのは、先ほどのお話ですと、力の関係だというお話なんですけれども、お金という力に任せてどんどん成長していくことが本当にいいのかどうか。

   しかしそれは資本主義社会の原則だから。で、私は正直いうとああいう企業乗っ取りの背景には外国資本も参加しているのではないかという考え方を持っています。その外国資本がなぜ出て来られるかというと、バブル経済というばかげたことをやって日本の資本が大損をしているんですよ。逆に外国の資本は大儲けをしているわけです。その大儲けをした資金がジワジワと日本国内に侵入して来ているのではないかなというふうな想像をしています。

 私はもう最近そういうことをあまり細かく調べないようになったから事実かどうかはわからないけれども、経済社会というのはそういうものですよ。資本が大きいか大きくないかによって、あるいは経営が上手か上手でないか、儲かっているか儲かっていないかによって事実関係として動くわけだから。だからそういうふうな形で経済社会を見ていかなきゃならんというふうな問題も同時にあると思います。

 それと同時に、人間としてやってはいけないような際どい行動をすべきではないということもあると思います。

   わかりました。

   いまのお話と関係しまして、西嶋先生が数年前にお出しになった本で、『人と企業もバランスが命』というタイトルの本がありますけれども、私はそれを読ませていただきました。そこに説かれていることの主に仏教のお話につきましては、いつもここで伺っているお話そのものずばり、それは当たり前の話で、同じ人がやっているわけですから、内容は同じなんですけれども。もう二十年以上前に『サラリーマンのための坐禅入門』という本をお出しになって、そこに書いてある部分と非常に共通しておりましたので、その共通していないことだけいまちょっとお伺いします。

 それは、この井田両国堂さんの坐禅会がそもそもなぜ始まったかということがご著書の中に書いてあったんですね。それによりますと、昭和五十一年、その当時は日本の高度成長がほぼ終わりに近づいて、企業も、あるいは経済も少しずつ伸びが緩やかになってきたというような時期なんですけれども、そのときに井田会長、その当時の井田日出男社長さんが、「命の果てが見えた」ということを実感されたと。そこでどうしたものかということで、西嶋先生がお書きになった『坐禅入門』を読まれて、それから本郷の坐禅会に参加されたということが書かれてありました。

 その「命の果てが見えた」ということは、それはいったいどういうことなんだろうかということなんですが、それは体験した人しかわからないんでしょうけれども、それについてちょっとお話を伺えたらと思いまして。

   その点では、私自身がそういう経験を毎日のようにしているから。つまり、生命がだんだん減少していって、終わりに近づいているということです。

 私なんかも毎朝顔を洗うときに鏡を見て、「ああ、まだ生きてた」「ああ、まだ生きてた」と毎日感じます。もうだんだん体力も衰え、気力も衰えてくるわけだから、いつ終わるかわかりませんという状況があって、人生の最終段階にはそれがあるんです。

 その場合に、「もっと生きていたい」「もっと生きたい」と思っていても、ろうそくが燃え尽きて火が消えるのと似たような形の終末というものはあるわけだから、その終末を気にするよりは、「生きている間は一所懸命働きましょう」というようなことでしかないと。

   昭和五十一年といいますと、田中角栄元総理が捕まったのが昭和五十一年の七月、非常に暑い日だったと記憶していますが、     その少し前に石油ショックがあって、これから日本はどうなるんだろうかというようなことで、何となくうっとうしい世相でもあったわけですね。

 その当時、企業の経営者といいますか、従業員をたくさん抱えて頑張って先頭に立っておられる社長さんというのは、どういうことを考えられていたのか、またどんなことを感じておられたのかなと。

   それでね、人間が生きている場合に、死ぬまでに本当のことがわかるかどうかというのは大事なことだと思います。死ぬまでに本当のことがわからないで、よくわからないけど「ハイ、さようなら」という場合が多いけれども、やっぱり死ぬまでに「ああ、人生というのはこういうものだ。どんな生き方をすればいいんだ」ということのわかるかわからないかというのは大事なことだと思う。

 釈尊はそのことをいわれたんです。人間として生きている以上、人間が生きているということはどういうことなのか、そのことがわかるかわからないかが人生にとって非常に大事だということをいわれた。

   その「わかる」というのは、結局本を読んでわかるということよりも、やはり自分の心の中で、あるいは体で感じると……。

   そうそう。だからそういう点では、自分は毎日瞬間瞬間に生きているんだから、そんなことは気にしなくてもいい、それよりは与えられた時間を一所懸命生きる、働く、勉強することが大事だというようなことがわかってくることも、人生がどういうものか、この世の中がどういうものかわかってくるということが一つの内容だと思います。

   わかりました。

   いまのお話に関連して、命の先が見えたというお話をいま聞いたわけなんですけれども、自分のことにしてみれば、私も還暦を迎えまして、勘定してみると、まあ先が見えたとまではいかないんですけれども、残った時間のほうが少ないというふうなことをここ数年感じてきたわけです。

 で、じゃ自分はこれから何をしたらいいのかなということで考えているんですけれども、ここまできますと、仕事をしてお金を稼ぐということも大事だと思うんですが、それと同時に、やっぱりいままで自分の持ってきたもの、たとえばビジネスならビジネス経験を次の世代の人たちに、ひいては息子たちの時代に、できればそういうものを残していくほうが大事なのかなという考え方なんですけれども、その辺はどうでしょうかね。

   だからそういう点では、人にいろんなことを教えてあげるというようなことも大事なことだと思いますよ。

   むしろ自分が現役でバタバタ動くよりも、そういった経験を後に残していくというのが大事なのかなと。

 そういう意味では、団塊の世代ということで、いま五十五〜五十七の人たちがあと数年後に定年退職の時期を迎えるわけですけれども、その数がだいたい七百万人とかいう話を聞きました。そうすると、いまこの人たちの持っている特に物づくりということで、つくるためにはいろいろ技能がありますね、やっぱりそういう技能というものを私が先ほど述べましたように若い世代にどんどん伝えてやるというような動きが少しずつ出て来ているという話ですね。

   うん、そういうことも大事なことだと思いますよ。

 それでやっぱり私は日本の国にとっては教育というものが非常に大事だと、国家が栄えるのも衰えるのも教育の善し悪しが非常に大きいという見方をしていますから、そのためには、何を教えなきゃならんかという問題があるし、何が正しい教えかというふうな問題もあるということが実情ではないかという見方をしています。

   きょうの朝刊を見ていますと、いまから六十年前の三月十日は東京大空襲だったということですけれども、その頃の記憶というのは、先生なりにいろいろと関係があるわけですが、どんなふうなふうにとらえていましたか。

   私は東京大空襲のときには満州にいたから、直接には経験していないけれども、私の家なんかも焼かれたから、そういう点では無関係ではなかったということはあります。

 それでその点では、戦争の前と先生の後とでは日本の国内におけるものの考え方が百八十度転換したということは事実としてあると思います。だからそういう空襲がある以前には、どんなことがあってもお国のために頑張るんだということで国民が夢中になってやっていたけれども、終戦を迎えて、勝つと思っていたものが負けたという状況が出たときに、今度は国民の考え方が、いままでの考え方は全部だめだった、新しい考え方が大事なんだということで百八十度転換したというのは、非常にはっきりした事実としてあったと思います。

   この巻とはぜんぜん違うんですけど、夜見る夢にちょっと興味があったときがありまして。フロイトとかユングなんかは患者の治療で夢そのものを利用して治療に当たったわけですね。

 それと、日本の坊さんだと、鎌倉時代の道元と同じときに明恵という人が『夢の記』というのを書いていまして、それを河合隼雄さんが書いたものを読んだことがあるんですけど、夢そのものについてちょっと先生のお考えというか、実際先生が夜寝られるときに夢なんかご覧になられるんでしょうか。

   その点ではね、夢というものはどういうものかというと、これはフロイトあたりの心理学からの知識ですけれども、人間というものは嫌なことは思い出したくないと思って心の中に抑え込んでしまう。だから不愉快のことがもう山のように自分たちの心の中に詰まっている。で、夢のときにはその抑えつけている考え方の蓋が取れるから、心の中に抑えつけられた嫌な思いがどんどん、どんどん出て来る、それが夢だというふうな理解の仕方が行なわれています。これは正しいんだと思う。

 それと同時に、そういう形で夢を見ることによって抑えつけている考え方が解放されるから、それだけ気持ちが楽になるという問題もあって、夢を見ること自体が健康のために必要だというふうな性格を持っているというのが一般に受け取られている理論だというふうに見ておりますから、そういう点では、どんな夢を見るかということについては、自分の日常生活から生まれてきた結果でもあるから、そういう意味で夢というものは単に架空のものだという理解の仕方をするよりは、「夢の内容の中にもそれなりの意味があるんだ」というふうなとらえ方をしたほうが正しいということがあると思います。

 そういう形でフロイトという心理学者が夢のことを勉強して、それからは人間の心の中に自分たちの気のつかない心の領域があるということに気がついて、「無意識」というふうな言葉を発見したわけですけれども、そういう考え方自体が人間の心の働き、あるいは体の働きを勉強する上において非常に意味があって、その結果、最近の医学の学説として、自律神経のバランスしていることが人間の健康に絶対必要だというふうな考え方が生まれ始めているというのが実情だと思います。

 だからそういう考え方が出ることによって、人間の文化というものが性質が変わり始めている。いままでは病気というものは薬を使って治すべきものだという考え方で医療が行なわれてきたけれども、そういう単に対症をとらえて薬を使い、あるいは手術をして治すということが本当の意味の人間の健康につながるかどうか、あるいは病気を治すことにつながるかどうかという問題が出始めていて、そういう時代にやっと人類の文化が入って来たということが事情だと思います。

   じゃ、先生は夢などをご覧になられることは時々あるということですか。

   うん、時々あるけれども、そう特別な夢はあまり見ないね。

   ああ、そうですか。じゃ夢そのものは比較的肯定されているわけですね。

   うん、それはもう肯定も否定もできないんであってね。事実だから。だから肯定すべきだとか、否定すべきだとかいう考え方は起きてこない。ついつい見てしまうから仕方がないというだけのことです。

   ああ、そうですか。

   いまのお話に関連して、夢を見る、要するにいままで抑えつけられていたものが解放されて出て来るということですけれども、それによって気持ちが楽になるということがたぶん出て来ると思いますね。

 それと同じような結果として、たとえばストレスとか、これはカウンセリングというような治療があるそうなんですけれども、要するに自分の悩みごとを全部話してしまうと非常に気が楽になるということなんですが、これもやはりそれと同じようなことなんでしょうか。

 答  同じような考え方になると思います。

   話さないと、やはりその中にわだかまりが残っちゃって、どんどんたまっていくということですね。

   そうです、そうです。だからその点では、嘘をつかないということが大事なんです。嘘をつかないで何でもしゃべるということが人間の気持ちを楽にすることで、「これは人に知られちゃ困る」と思って一所懸命抑えつけていると、それなりに苦しくなって自分自身の健康が損なわれるというようなこともあるわけです。

 だからお釈迦さんは何でも正直にいいなさいということを教えたわけです。それが健康法の大事な要素になるということがあると思います。

 

 それでは、時間がきたようですから、普回向を唱えて終わりにしたいと思います。

普回向 唱和