開経偈 唱和

  それでは、この『正法眼蔵』の講義に入っていきたいと思います。『正法眼蔵』のほうは一九三ページの「正法眼蔵道得」という巻であります。

 「道得」という言葉が何を意味するかというと、この「道得」という言葉の「道」という字はものをいうという意味に使われておりまして、それから「得」というのはそれができる。だから「道得」というのは真実を説明することができると、こういう意味であります。

 仏教では、仏道というものは言葉で表現できるものではない、だから言葉の説明をすることは間違いだという考え方もあるわけでありますが、道元禅師は仏道というのは実践の教えではあるけれども、それと同時にその内容を言葉で表現できないと意味がないと、こういう考え方をお持ちでありましたから、そういう点で、仏道の世界においても仏道を言葉で説明できるということが非常に大切だという考え方があって、その考え方をこの「道得」の巻ではお説きになっているということになるわけであります。

 

 そこで一九三ページのところを読んでいきますと、

 「諸仏諸祖は道得なり」、たくさんの真実を得た方々、あるいはたくさんの伝統的な師匠というものは誰でも、言葉で仏道が何であるかということをいうことができるものである。したがって、真実が何であるかということを言葉で表現できる人が仏であり、祖師であると、こういう趣旨であります。

 「このゆゑに仏祖の仏祖を選するには、かならず道得也未 と問取するなり」、そこで仏道の世界では、真実を得た人がほかの真実を得た人を判定して選ぶという場合には、例外なしに言葉で説明することができたかどうかという質問をするのである。

 「この問取、こころにても問取す、身にても問取す、拄杖払子にても問取す、露柱燈籠にても問取するなり」、このように「真実を得たか」というふうな質問に関しては、人間の心を使って頭で考えた問題として質問する場合もある。あるいは肉体的な条件というものを考えて、本当に仏の体になっているかどうかという質問をするということもある。「拄杖払子にても問取す」、僧侶が持つ杖、あるいは払子といいまして短い棒の先に白い動物の長い毛がたくさんついている仏教儀式に使う道具でありますが、そういう具体的なものを通じてでも仏道を表現することができるかという質問をする。さらに、「露柱燈籠にても問取するなり」、「露柱」というのは戸外に立っている柱でありまして、それから「燈籠」というのは道を照らすために置かれている明かりでありますが、そういう戸外の柱とか、道に置かれている明かりというふうな具体的なものを使っても同じような質問が行なわれる。

 「仏祖にあらざれば問取なし、道得なし、そのところなきがゆゑに」、そうして真実を得た人でないとこのような質問をするということがない。そしてまた真実を得た人でないと仏道とはこういうものだということを言葉で説明することができない。なぜそうかというと、真実を得ていない人はそういう質問をしたり、あるいは自分の意見を述べたりというふうな可能性がないから。そういう意味で「仏祖にあらざれば問取なし、道得なし」。「そのところなきがゆゑに」、本当のことがわかっていない、どこでどういうことを質問していいのかがわからないということが事実であるから。

 「その道得は、佗人にしたがひてうるにあらず、わがちからの能にあらず、ただまさに仏祖の究弁あれば、仏祖の道得あるなり」、そのように釈尊の教えを言葉で表現できるかどうかということが何で可能になるかというと、ほかの人の教えに従っていうべきことがわかるわけではない。

 仏道の勉強については、師匠の教えを聞いて、それを理解するというふうなことが中心でありますが、師匠の教えというのは言葉だけでありますから、本人が自分の意見を述べるためには、本人自身が自分の経験として釈尊の教えがどういうものかがわかっていなければならない。そこで、「その道得は、佗人にしたがひてうるにあらず」、師匠とか、その他の人々に従ってその内容がわかるというものではない。「わがちからの能にあらず」、本人が能力があるから、その能力によって何が真実かということがいえるわけではない。「ただまさに仏祖の究弁あれば、仏祖の道得あるなり」、仏道修行者が真実を得た人と同じような参究をすることによって、初めて真実を得た人としての意見の表明が可能になるのである。

 「かの道得のなかに、むかしも修行し証究す、いまも功夫し弁道す」、そのように釈尊の教えが何であるかということを言葉で表現できた内容の中で、「むかしも修行し証究す」、過去における祖師方も日常生活を実行し、またそれを徹底的に体験してきた。「いまも功夫し弁道す」、現在においてもそういう形の努力が行なわれ、真実が何かということを坐禅の修行を通じて追求することが行なわれている。

 「仏祖の仏祖を功夫して、仏祖の道得を弁肯するとき、この道得おのづから三年・八年・三十年・四十年の功夫となりて、尽力道得するなり」、その点では、「仏祖の仏祖を功夫して」、真実を得た人々が真実を得た人としての努力をして、「仏祖の道得を弁肯するとき」、釈尊初め真実を得た方々の述べておられる言葉というものを理解し、それを自分のものとして受け取るときに、「この道得おのづから三年・八年・三十年・四十年の功夫となりて」、そういうふうな真実を得たというふうな表現が、三年、八年、三十年、四十年というふうな長い期間における努力となって、「尽力道得するなり」、自分自身の全力を尽くして、何が真実であるかということを表現することができるようになるのである。

 小さい字で、「裏書云、三十年二十年は、道徳のなれる年月なり」、ここで三十年、二十年というふうな年月が使われているけれども、その三十年、二十年という年月は、真実を述べることのできるようになったために使われた年月を意味している。「この年月、ちからをあわせて道得せしむるなり」、そのように三十年、二十年というふうな長い期間の努力が力を尽くして修行者自身に対して真実が何であるかをいわせるのである。

 「このときは、そのなん十年のあひだも道得の間隙なかりけるなり」、このような仏道修行というものについては、その仏道修行の全期間にわたって真実を述べ続けるというふうな状態があって、その真実を述べ続けている日常生活の時間の中には、中間の隙間というものはあり得ないのである。

 「しかあればすなはち、証究のときの見得、それまことなるべし」、このように考えてくると、「証究のときの見得、それまことなるべし」、その点では、仏道の体験を実感しているときというものが思想的にわかったことを意味する。

 「証究のときの見得」、それはどういうことをいうかといいますと、われわれが足を組み、手を組み、背骨を伸ばして坐っているときが「証究」でありますが、その状態そのものが真実がわかったときである。だから坐禅をすることによって真実というものがすでに具体化している。坐禅を何十年やったら本当のことがわかったという形のものではなしに、きょう初めて坐禅をした場合でも、その初めての坐禅が真実そのものを具体化していると、こういう考え方で、「しかあればすなはち、証究のときの見得、それまことなるべし」、だからそういう形で、坐禅をしているときのものの見方というものが真実であろう。

 「かのときの見得をまこととするがゆゑに、いまの道得なることは不疑なり」、坐禅をしているときにものの考え方がわかってくる。その坐禅をしているときに現れてくる考え方というものが真実であるから、「いまの道得なることは不疑なり」、そこで、現在真実とは何かということについて言葉で述べることができるけれども、それは疑問を持つ必要がまったくない。

 「ゆゑにいまの道得、かのときの見得をそなへたるなり」、そこで、現にいま真実を述べることができるとするならば、その真実を述べることができるということは、「かのときの見得をそなへたるなり」、坐禅をしているときにとらえたものの見方というものの中に含まれているのである。だからいま真実がいえるということは、その中にかつて行なった坐禅をやっているときの体験というものが含まれているのである。

 「かのときの見得、いまの道得をそなへたり、このゆゑにいま道得あり、いま見得あり」、そのような形で、坐禅をやっているときに得られた考え方というものが、「いまの道得をそなへたり」、現在それを言葉で表現できるというふうな内容をすでに持っている。「このゆゑにいま道得あり、いま見得あり」、したがって現在の瞬間において真実が何かを述べることもできれば、正しい見方というものを事実持っているというふうな状態もあり得るのである。

 「いまの道得と、かのときの見得と一条なり、万里なり」、そこで、「いまの道得」というのは、現に仏道の内容を言葉で説明できるという事実と、「かのときの見得」、坐禅をしているときに得たものの見方というものとは、一つのものとしてつながっている。そのことが「いまの道得と、かのときの見得と一条なり」。「万里なり」、それは一つであると同時に、とてつもなく離れているというふうな性格を同時に持っている。非常に違ったものではあるけれども、まったく同じだという性格を同時に持っている。

 「いまの功夫、すなはち道得と見得とに功夫せられゆくなり」、現にいま坐禅をやって一所懸命努力している、そのときの言葉による表現と、ものの見方を現に持っているというふうな状況とによって努力を続けることができるのである。「功夫」というのは努力という意味でありまして、「功夫せられゆくなり」というのは、努力を続けることができている。

 「この功夫の把定の月ふかく、年おほくかさなりて、さらに従来の年月の功夫を脱落するなり」、このような努力をつかむというふうな月の流れというものがたくさん重なり、「年おほくかさなり」、それが一年、二年と重なっていって、「さらに従来の年月の功夫を脱落するなり」、長いこと考えていた考え方というものから抜け出すことが事実としてあるのである。

 「脱落せんとするとき、皮肉骨髄おなじく脱落を弁肯す」、そうして、さまざまの束縛から抜け出すというふうな状況のときには、人間の体である皮・肉・骨・髄というものが同じように自由になるのである。

 だから仏道修行というものと体のこだわりがなくなって自由になるということとが同じ事実として起きるわけであります。われわれは心と体とを別々にして、体は健康だけれども心の働きが弱いとか、あるいは頭はいいんだけれども体がどうも調子が悪いというふうなことは仏道の世界では認めないという事実があります。

 だから仏道の修行をして真実がわかったときには、体も健康な状態になって自由に行動することができると、そういう事実があるというところから、「脱落せんとするとき、皮肉骨髄おなじく脱落を弁肯す」、仏道の真実を得るという事実は、単に精神的な問題だけではない、体自身が完全な健康になるということと密接に関係していると、こういう趣旨であります。

 「国土山河、ともに脱落を弁肯するなり」、そこで、国家に所属する土地も山も河も、自分自身が完全な自由を得たときに国土も山河も完全な自由を得るのである。

 「このとき、脱落を究竟の宝所として、いたらんと擬しゆくところに、この擬到はすなはち現出にてあるゆゑに、正当脱落のとき、またざるに現成する道得あり」、「このとき、脱落を究竟の宝所として」、そこで、仏道修行をやるために、「脱落」というのは完全な自由でありますが、自由自在の境涯というものを究極の価値のある場所として、「いたらんと擬しゆくところに」、そこに到達しようという努力をしていくところに、「この擬到はすなはち現出にてあるゆゑに」、そのように一所懸命努力をしているということが、すでに自由自在の境涯が具体的に現れているということを意味するから、「正当脱落のとき、またざるに現成する道得あり」、まさに自由自在になった境地の瞬間において真実を得るというふうなことが、期待をしないにもかかわらず具体的なものとして眼の前に現れ、自分の口を使って自由自在に真実とは何かを表現することができるようになるのである。

 「心のちからにあらず、身のちからにあらずといへども、おのづから道得あり」、それは人間が頭の中で考えて、その意味がわかったという性質のものではない。そうかといって、体の状態が非常によくなったから、本能的に真実を述べることができるようになったということでもない。「おのづから道得あり」、われわれの日常生活の中でごく自然に真実を表すことのできるという状態があるのである。

 「すでに道得せらるるに、めづらしく、あやしくおぼえざるなり」、そこで、日常生活の中で自由に真実とは何かということをしゃべることができる場合には、それは珍しいことでもなしに、不思議なことでもない。

 「しかあれどもこの道得を道得するとき、不道得を不道するなり」、そのように真実を言葉で述べることができるときには、真実を述べないということを口に出していわないということがある。

 このことは何を意味するかというと、言葉で説明するだけがすべてではない。何もいわずに黙っていること自体も真実を述べたことにつながるということが実情である。だからおかしな形で他人が非難をした場合でも、黙ってそんなものを問題にしないという態度もあり得るわけでありまして、そういう状況を、「不道得を不道するなり」、何もいわないという状況さえ述べずに沈黙を守っているという状態がある。

 「道得に道得すると認得せるも、いまだ不道得底を不道得底と証究せざるは、なほ仏祖の面目にあらず、仏祖の骨髄にあらず」、「道得に道得すると認得せるも」、真実を述べたということについて、それが真実を述べたことであるということを認めることができることは、「いまだ不道得底を不道得底と証究せざるは、なほ仏祖の面目にあらず」、その点では、言葉では真実を述べることができないという境地を、言葉では表現できないという境地を体験しない場合には。だから仏道の世界では真実を言葉で述べるということも尊重されているわけでありますが、それと同時に言葉では何もいわないというふうな境地も同時にある。そういうふうに言葉で何もいわない境地というものを体験していない場合には、「なほ仏祖の面目にあらず」、真実を得た方々が持っている様子ではない。「仏祖の骨髄にあらず」、真実を得た方々が持っている骨や髄の状況、つまり体の状態ではない。

 「しかあれば三拝依位而立の道得底、いかにしてか皮肉骨髄のやからの道得底とひとしからん」、この「三拝依位而立」というのは、大祖慧可大師のやった動作を指すわけでありまして、達磨大師が自分の死期が近づいたことに気がついて、四人の弟子たちにそれぞれ仏道の修行の結果得た境地というものを述べさせた。四人のうち三人は言葉を使って自分の境地はこういう状況ですということを述べて、達磨大師がその三人の人たちにも肯定的な返事をしたわけであります。しかし、四人のうちの一人の大祖慧可大師は、言葉では何も述べずに、達磨大師に対して五体投地の礼拝を三回して、それから何もいわずに自分の席に戻って行って自分の席に立っていた。このことは、大祖慧可大師が自分の得た仏道の境地というものは言葉ではなしに行ないだということを表現したわけでありますが、そういう動作によって表現された境地が「道得底」でありますが、「いかにしてか皮肉骨髄のやからの道得底とひとしからん」、皮や肉や骨や髄のような体だけのことを問題にしている人々の述べている真実と同じではない。

 「皮肉骨髄のやからの道得底、さらに三拝依位而立の道得に接するにあらず、そなはれるにあらず」、「皮肉骨髄のやからの道得底」、皮や肉や骨や髄のような体だけを問題にするような人々の述べている真実というものは、「さらに三拝シテ位ニ依リテ而立ツの道得に接するにあらず」、大祖慧可大師が実行されたように、達磨大師に対して五体投地の礼拝を三回して、それから自分の場所に戻って行って立っているというふうな真実の表現に、同じような境地に達しているというわけにはいかない。その点では、大祖慧可大師の境地に達していないというふうな人も幾らもあり得る。

 「いまわれと佗と異類中行と相見するは、いまかれと佗と異類中行と相見するなり」、現にわれわれと、それから大祖慧可大師のような境地の人々とが、「異類中行と相見する」、仏教の真実を得ていない人々の間に挟まれながら、その中で独立独歩に仏道の行ないを実行していくというふうな人同士が出会う場合には、「いまかれと佗と異類中行と相見するなり」、その点では、大祖慧可大師と大祖慧可大師以外の人とが同じように仏教徒ではない人々の世界の中で仏道修行者として出会うのである。

 「われに道得底あり、不道得底あり」、その点では、われわれ仏道修行者の境地の中には、真実を述べるというふうな境地もあるけれども、真実を口に出さないというふうな境地も同時にある。だから言葉で説明するだけが尊いということではなしに、言葉で説明しないという境地もあって、その両方の実体のわかってくることが現実がわかってくることだと、こういう主張であります。

 「かれに道得底あり、不道得底あり、道底に自佗あり、不道底に自佗あり」、その点では、真実を得た人々については、「道得底あり」、真実を言葉で述べることのできる境地もある。それと同時に真実を言葉では述べない形の境地も同時に持っている。「道底に自佗あり」、そこで、言葉を述べるというふうな境地のときにも自分とほかの人との両方があるし、「不道底に自佗あり」、言葉では真実を述べないというふうな境地の場合にも自分もいれば自分以外の人もいる。

 こういう形で、まず道得というものがどういう形のものかということをお説きになっているわけであります。

 

 そうして一九八ページのところにいきますと、趙州禅師の物語が出て来るわけであります。一九八ページのところを読みますと、

 「趙州真際大師示衆云、儞若一生不離叢林、兀坐不 道、十年五載、 無人喚作 儞啞漢、已後諸仏也不及儞哉」、趙州従諗禅師がたくさんの僧侶に対して次のようなことをいわれた。「儞若シ一生叢林ヲ離レズ」、「叢林」というのは、たくさんの修行者が集まっている場所という意味で、寺院とか道場を指すわけであります。おまえ方が一生仏道修行の道場から離れずに、「兀坐シテ道ワザルコト、十年五載ナリトモ」、ただ坐禅だけをして言葉では何もいわないことが十年経ち、五年経ったとしても、「人ノ喚ビテ儞ヲ啞漢ト作スコト無ラン」、その人々に対してほかの人がおまえのことをものをいうことのできない人間だというふうに決めつけることはないであろう。「已後諸仏モ也タ儞ニ及バザル哉ト」、その点では、十年、五年の歳月仏道修行を続けていて、しかも何もいわなかったとしても、おまえ方がおしだというふうに真実を得た人々はいわないであろうと、こういう言葉を述べられた。

 そこで道元禅師がこの言葉について解説をされまして、

 「しかあれば十年五載の在叢林、しばしば霜華を経歴するに、一生不離叢林の功夫弁道をおもふに、坐断せし兀坐は、いくばくの道得なり」、このような事情から、十年、五年というふうに仏道修行の道場にいた場合に、「しばしば霜華を経歴するに」、何年となく霜が降って冬を迎え、花が咲いて春、夏を迎えるというふうなことを経過していく際に、「一生不離叢林の功夫弁道をおもふに」、一生涯仏道修行の場所を離れないというふうな努力をし、真実を求めるということを考えた場合に、「坐断せし兀坐は、いくばくの道得なり」、坐禅をして一切のものから超越した態度というものは、言葉は何もいわなくても非常に大きな真実を述べているということにつながる。

 したがって、われわれが向こうの部屋でやりました坐禅というものも、何もいわないけれども真実を具体的に表していると、こういう趣旨であります。

 「不離叢林の経行坐臥、そこばくの無人喚作儞啞漢なるべし」、そこで、仏道修行の場所から一生離れずに経行をしたり、あるいは坐禅をしたり、寝たりというふうな生活というものは、「そこばくの人喚デ儞ヲ啞漢ト作スコト無ランなるべし」、そういう生活をしていて、言葉では何もいわなくても、ほかの人々がおまえのことを口を使ってものをしゃべることのできない人だというふうにはいわないであろう。

 「一生は所従来をしらずといへども、不離叢林ならしむれば、不離叢林なり」、そこで、人間の一生の間、どこから自分の生涯が到来したかというようなことはわからなくても、「不離叢林ならしむれば」、とにかく自分の一生を仏道修行の環境の中で過ごして、それから離れないとするならば、「不離叢林なり」、仏道の道場から離れたことを意味しない。

 「一生と叢林の、いかなる通霄路かある」、人間の一生と仏道修行の場所とがどのようにお互いに通じ合っているという関係があるのであろうか。「通霄路」というのは、非常に人通りが多くて夜じゅう明かりが絶えないような通りをいうわけでありますが、「一生と叢林の、いかなる通霄路かある」というのは、われわれ人間と仏道修行の場所との関係がどんなものであるか。

 「ただ兀坐を弁肯すべし、不道をいとふことなかれ」、その点では、ジーッと動かずに坐禅をしているということの意味をとらえるべきであって、言葉をいうことができないというふうなことを嫌う必要はない。つまり、口でものをいわなくても、坐禅をしていれば、その坐禅と真実というものが一体になっているから、言葉でそれを表現する必要はない。

 「不道は道得の頭正尾正なり、兀坐は一生二生なり、一時二時にあらず」、そこで言葉を述べないということが、言葉で本当のことを述べるということの最初であり、最後である。「兀坐は一生二生なり」、ジーッと坐禅をして坐っているということは、人生のさまざまの生涯を意味するのであり、それはまた一つの瞬間、二つの瞬間というふうな瞬間における事実でもある。それが「兀坐は一生二生なり、一時二時にあらず」、坐禅をジーッとしているということは、一生続くことである、さまざまの生涯に続くことであって、たった一つの瞬間、あるいは二つの瞬間というふうな短い時間のものではない。

 「兀坐して不道なる十年五載あれば、諸仏も儞をないがしろにせんことあるべからず」、そこで、ジーッと動かずに坐禅をするということをし、言葉を口で表すというふうなことをせずに、十年、五年という歳月が経つならば、「諸仏も儞をないがしろにせんことあるべからず」、真実を得た方々もおまえのことを軽く見るということはないであろう。

 「まことにこの兀坐不道は、仏眼也覰不見なり、仏力也牽不及なり、諸仏也不奈儞何 なるがゆゑに」、実際問題として、このジーッと動かずに坐っていて、何も言葉を口に出して述べないというふうな状況は、「仏眼モ也タ覰不見なり」、真実を得た人々のものの見方からしてもそれをのぞき見ることができない。それから、「仏力モ也牽不及なり」、釈尊の力、あるいは真実を得た人々の力をもってしてもそれを引っ張ることができない。「諸仏モ也タ儞ヲ何ントモ奈ズなるがゆゑに」、その点では、真実を得た人といえども、坐禅をして言葉を述べない人々をどう動かすこともできないということが実情であるから。

 「趙州のいふところは、兀坐不道の道取は、諸仏もこれを啞漢といふにおよばず、不啞漢といふにおよばず」、趙州禅師がいったところはどういうことを意味するかというならば、ジーッと動かずに坐禅をしていて言葉では何もいわないというふうな仏道の表現が、「諸仏もこれを啞漢といふにおよばず」、真実を得た人々も、そういう態度で生きている人を、何もいうことのできない人だというふうにいうことはないし、「不啞漢といふにおよばず」、そうかといって、おしではないというふうにいうことも必要ではない。だから仏道の現実がわかってくると、それを言葉で表せる、表せないというふうなことが問題でなくなる。

 「しかあれば一生不離叢林は、一生不離道得なり」、そうしてみると、現実に一生涯仏道修行の場所から離れないということは、一生涯仏道修行の場所から離れないという厳然たる事実である。そのことを「しかあれば一生不離叢林は、一生不離道得なり」、仏道修行の場所を離れないということは、一生を通じて真実を述べ続けているということを意味する。

 「兀坐不道十年五載は、道得十年五載なり、一生不離不道得なり、道不得十年五載なり、坐断百千諸仏なり、百千諸仏坐断儞なり」、そのような事情から、「一生不離叢林は、一生不離道得なり」、一生涯仏道修行の道場から離れないということは、事実として、現実として仏道修行の場所から一生離れないという事実そのものを意味している。「兀坐不道十年五載は、道得十年五載なり」、坐禅を十年、五年という歳月を実行し、言葉では何も述べないということは、「道得十年五載なり」、十年、五年というふうな歳月がどういう意味を持っているかということを表しているのであり、「一生不離不道得なり」、生涯を通じて仏道修行の場所から離れず、また言葉でいろいろ議論をすることをやらないということを意味すると同時に、「道不得十年五載なり」、その点では、ものをいうことができないということが十年、五年と続いているということを意味すると同時に、「坐断百千諸仏なり」、坐禅をすることによって百人、千人というふうな真実を得た人々を坐禅を通じて乗りこえることである。「百千諸仏儞ヲ坐断なり」、その点では、このわれわれの住んでいる世界におられる百人、千人という神仏を、真実を得た人々が、おまえ自身を坐禅を通じて乗りこえてしまうということを意味する。

 「しかあればすなはち、仏祖の道得底は一生不離叢林なり」、このように考えてくると、真実を得た人々が真実を述べることのできるという境地は、別の言葉でいうならば、一生涯の間仏道修行の場所から離れないことである。

 「たとひ啞漢なりとも道得底あるべし」、その点では、口では何もいえない人といえども、真実を述べるだけの境地は持っている。

 「啞漢は道得なかるべしと学することなかれ」、口で何もいえない人がいうことを持っていないというふうに考えるべきではない。

 「道得あるもの、かならずしも啞漢にあらざるにあらず、啞漢また道得あるなり」、その点では、言葉で真実を述べることのできる人も、それがおしではないということは必ずしもない。だから言葉を述べている人が何もいえないのと同じような状況の場合もあり得る。「啞漢また道得あるなり」、何もいえない人が真実を述べるというふうなことも現実の問題として妥当である。

 「啞声きこゆべし、啞語きくべし」、言葉を述べることのできない人の声を聞くべきであるし、言葉を述べることのできない人の意見を聞くべきである。

 「啞にあらずば、いかでか啞と相見せん、いかでか啞と相談せん」、自分自身が言葉を述べるということをしないような境地になっていなければ、言葉を述べることをしない人々と本当の意味で出会うということが難しい。「いかでか啞と相談せん」、その点では、言葉を述べることのできない人とお互いに話し合うということもあり得るのであるけれども、そういう状況があるということがわからなければ、言葉を述べることのできない人とお互いに話し合うことがあり得るということに気がつかないであろう。

 「すでにこれ啞漢なり、作麼生相見、作麼生相談、かくのごとく参学して、啞漢を弁究すべし」、われわれの日常生活というものは、絶えず口で何かをしゃべっているというわけではないから、何もいわずに生きているというふうな状況もある。「作麼生カ相見シ、作麼生カ相談セン」、そのように言葉では何もいわない人々とどうしたら出会うことができるであろうか、あるいはどうしたらお互いに話すことができるであろうか。「かくのごとく参学して、啞漢を弁究すべし」、このように問題を考えて、言葉を外には出さない人がどういう実情の人かということを究明すべきである。
 こういう表現をして、一番最初のところでは、何かをいうことのできることが大切だという考え方を述べたわけでありますが、次の節では、何も述べないことが実は真実を語っているという内容を持っているという、二つの対立する解説をされているということになります。

 

 それでは、いつもの時間を少し過ぎましたが、ここで話のほうをとめまして、ご質問を受けるということにしたいと思います。

 

   健康のことに関して、以前ご老師がご提唱されていたことに関連しましてお聞きしたいんですが、以前の提唱録を拝読させていただいた中で、ご老師がまだ若い頃にご病気をされた際に、薬を継続して飲んでいたことが一つ原因かもしれないということで、その薬を飲むことをやめた後に非常に体の調子がよくなったというようなご提唱を読ませていただきました。

 そのことと、あと最近私自身の健康に関してですけれども、三月になりましてから私自身インフルエンザにかかりまして、三月の約一週間ぐらい非常に体調が悪くて、一週間ぐらいで病院からいただいた薬で治ったんです。しかし、その後また一週間から十日ぐらいですけれども、インフルエンザは治ったんですが体調があんまり思わしくない状況が続きました。

 それで自分として何でそうなのかなと考えた際に、花粉症の薬を継続してこの一月ぐらいから、今年は花粉が非常に多くなるといった状況で継続して飲んでいたことと、併せて尿酸値を下げる薬もここ何年か継続して飲んでいたことがありまして、たまたまご老師の提唱録を拝読させていただいたことも一つ自分の頭の中にあって、あと、昨年新潟大学の安保先生の免疫革命のお話も何度も承った中で、もしかしたら薬を継続して飲んでいることで体が調子悪くなったのかなと最近ちょっと改めて思いまして、実はここ何日かなんですがやめているんですよ。まだお医者さんにはご相談していないんですけれども。

 そうすることが自分の健康上いいことなのか、あるいはご老師が以前ご提唱でされていたように、要するに薬を飲むこと自体やめたほうがいいんだと断定されていた記述もありまして、薬に関してどうすればいいのかなと、最近ちょっと自分として悩むところがありまして。まあ健康相談の質問じゃないんですけれども、いわゆる薬を飲み続けることに関してご老師の現時点でのお考えを改めてお聞かせ願えればと思いまして。

   私の考えはね、西洋医薬を使うということは慎重にしなきゃいかんという問題があると思います。それは、西洋医薬というのは非常に効果的なんです。ただ、それが何を意味するかというと、病気を治すと同時に、人間の体に自然の治癒力というものがあるんですが、それを殺してしまう、壊してしまうんです。だから次に同じ病気にかかったときに、前の状況よりもよほど高度の薬を飲まないと間に合わないという事態が出て来て、それが人間の自然の治癒力をどんどん、どんどん破壊していくから、そういう形の病気の治し方というものが生命現象を傷つけて終わらせてしまうと、そういう性格を持っているという考え方が最近免疫学を基礎にして非常に盛んになってきているし、医学界全体がそれを認めざるを得ないような状況がだんだん出て来ているというのが事実です。

 だから私も薬に関しては、そういう弊害のない薬しか飲まない。私が薬で飲んでいるのはビオフェルミン。このビオフェルミンというのは薬の様子をしているけれども、薬じゃなくて、あれは腸内の有効菌なんです。だから腸内の調整に役立つということでそれを飲んでいます。それからかぜをひいた場合には、あんまりひどくならないうちにカネボウの葛根湯を飲むんですが、これも漢方薬ですから、西洋医薬のように自然の治癒力を破壊するということがないという事情があります。したがって私が薬として使っているのは、だいたいその二種類ぐらいで、いわゆる化学薬品による治療は私はやらないというのが事実です。

 なぜそんなことを始めたかといえば、痛風の病気にかかっておりまして、尿酸値を下げるためにプロベネシッドという薬を飲みまして、これはもうとてつもなく効く薬でした。というのは、医者から薬をもらいまして、それを飲んで二、三時間経ったらもう想像もできないような大量の尿を排出しまして、いやあ、この薬は効くなと思ったんです。

 それを五、六年使って完全に治ったところでやめればよかった。私はバカッ正直ですから、医者が「この薬は一生飲んでいてください」といっていたから、十三年半飲んでいた。そしたら今度は白血球がどんどん、どんどん壊されまして、どうしてこんなに白血球が減っていくのかということで、もう死の一歩手前まで白血球が減ったんです。それで坐禅をしながら「私は特別にこんな白血球の減るようなことはやっていないはずだけど」と思って考えていたときに、ひょっとしたら薬だなということに気がついたんです。

 それで医者に電話をかけて、「いままでの量を半分にしていいですか」といったら、医者が「ああ、いいですよ、いいですよ」と二つ返事で賛成してくれたんです。それから今度は自分がそれをやめようと思って、医者にやめるといったら反対されるだろうと思ったから、自分の責任でやめたんです。

 自分の責任でやめたら、薬がいかに効くかということが非常にはっきり出たんです。それはどういうことかというと、息切れして地下鉄の階段を上りながら途中の踊場で一休みしないと上に上がれなくなったんです。ただ、それをそのまま続けていたら、だんだんに白血球がどんどん増えてき始めた。だから薬というもの、西洋の医薬品がいかに怖いかということは非常にはっきりあると思います。

 だから安保先生なんかが主張している免疫学の理論から出発した新しい医療の仕方というものが私は真実だと思う。だからあの考え方が一般に広がってくると、医薬業界の態度が変わると思います。恐らく古い医薬の方法に頼っている医者や製薬業者にとっては重大問題ですから、いろいろ反対の空気も起きるだろうとは思いますけれども、やはり免疫学から生まれた自然の治癒力というものを重要視した考え方が病気を治す上においては絶対の力があるというふうに見ています。

 だからその状況が年々進んでいって、いずれは医薬業界の態度が完全に変わると思います。

 問  ありがとうございました。

   先生、それに関連してなんですが、私の知っている日本の料理人が、「医食同源」という言葉を出しましたら、「それは反対だろう。食医同源だろう。食が上にくる」ということで、そんな話がちょっとあったんですけれども、その話の中で、先生は食事のほうについてはどういうふうにお考えになりますか。

   私は食事というのは最高の薬だという見方です。だから体が必要としているものを食事を通じて食べるということが、健康を維持する最大の課題だと思います。

   だいたいどのようなものを食されることが多いんでしょうか。

   私の考え方は、みんなは賛成しないかもしれないけれども、おいしいものを食べる。おいしいものは体に向いているんです。だから「良薬口に苦し」といって、苦いもの、まずいものを食べていると健康になるという意見があるけれども、それは事実じゃないです。本当においしいなと思うものを食べるということで、ぜいたくなものを食べるということじゃない。ただ、自分の生活の実情に合わせて、「ああ、おいしいな」と思うものを食べるということが正しい食事のやり方だというふうに見ています。

 問  四本足でも二本足でも食べられますか。

   うん、私は肉も食べますけれども、その代わり、そんなものにこだわってたくさん食べるなんてことはしない。ちょっと出て来れば、おいしいから食べているというだけのことです。

   あまり量は多く食べられないですか。

   その点は、おなかがいっぱいになるまで食べる。おなかがいっぱいになってもおいしいからもっと食べるなんていうことはやらない。(笑)

   いまのお話ですけれども、私も以前に自分が癌じゃないかと思って、いろいろ食事のことで相談して、その昔、森下敬一先生ということで、前にもお話したと思うんですけれども、要するに血液そのものが変じて、赤血球が変じて細胞になって、その赤血球自体が健康でないと癌になる。癌というものは転移するものじゃなくて、要するに血液そのものから発展していくものだという説なんですね。安保先生と同じように、非常に奇異な、通常の医学界から見ますと特別な見方をしているので、何度が叩かれたということがあります。

 それと同時に、最近のお話でも一つ勉強になったことは、いまわれわれが食べているものはほとんど添加物が入っているもので。

 聞いた話では、最近動物園の猿にどんどん奇形児が生まれてくるんだそうです。手の指のない猿とか、それから眼が三つある猿とか、まあ果たして本当かどうかわかりませんけれども。

 それはどういうことかというと、動物園に行って子供たちがスナック菓子を与えたり、それからコンビニで買ったおにぎりとか、サンドイッチを上げるとか、これがかなり頻繁にやられているという話なんです。

 コンビニで買うおにぎりとか、サンドイッチとか、そういうものの中には、要するに腐らないようにする添加物がたくさん入っているらしいんです。どのぐらい入れるのを目安にしているかというと、コンビニで売るものというのは、全国一斉におにぎり、サンドイッチは十五日間持たないといけないらしいんです。それはもう人間の健康よりも何よりも、そうではなくて、そうしないとコンビニで売ってはいけませんよという条例があるらしいんですね。

 ですからコンビニで売っているものは、サンドイッチ、おにぎりというものはふんだんに添加物が入っているわけです。こんなものを毎日毎日食べていたら必ず体に悪いと、そういう見方をしているところがあるらしいです。

 その大もとはNPOなんですけれども、医食研(医療食品健康研究所)というところがありまして、これがたしか五年か七年前にできまして、そこで食品に関するものを非常に研究していて、すべていまの病気というのはもう大半は食べ物からつくられている。

 いまはトマトとか野菜とか季節を問わずあるわけですけれども、要するに旬のものは健康にいい。なぜかというと、トマトとかキュウリというのは夏の野菜ですから、これを冬食べれば逆に体が冷やされて、寒いときに体が冷やされますから体によくない。またその逆もいえるわけですね。冬のものを今度は夏に食べるというようなこともありますので。食べ物がすべてだというふうな見方をしているところがありますね。

   だから「五観偈」の中で「食事は薬品だ」という表現があるけれども、薬の中で一番大事なのは食事ですよ。

   本文の一九八ページに趙州従諗禅師のお話がございますね。私たちは『正法眼蔵』をずうっと読んでおりますから、ここの文章をそのとおり受け取っているわけですけれども、やはり言葉を大事にする西洋人の人たちからすれば、どうもこういうのは受けつけないんじゃないかなという気がしたんです。

 というのは、いま民主党の国会議員になっている人で岩國哲人さんという人がいらっしゃいますけれども、あの人はもとメルリリンチという会社に勤めていて、この人が初めて役員会に出たときに、自分はペイペイだから役員会の隅のほうで坐って黙って聞いていたんです、何もしゃべらないで。そしたら突然メルリリンチの会長が「君は何もしゃべらないんなら、この会議室から出て行ってくれ」といわれて、びっくり仰天したというんですね。そのときにやはり日本人のサラリーマンの考え方とアメリカ人のサラリーマンの考え方の文化の違いというのをまざまざと感じたという思い出話を書いておられましたが、やはり相当違うみたいですけれども……。

   うん。それはね、哲学に二種類ある。哲学の一つは頭で考えた哲学、もう一つの哲学は人間の行ないから生まれた哲学。この二種類があるというのが仏教主張なんです。欧米の文化というのは頭で考えた文化なんです。だから行ないを中心にした哲学というようなものは存在しない。ところが、行ないを中心にした哲学が仏教には含まれていて、仏教では頭で考えた哲学と行ないを通じて考えた哲学との両方を主張しているわけです。
 「四諦の教え」でいえば、苦諦と集諦とが頭で考えた哲学で、滅諦と道諦とが実践を基礎にした哲学で、両方がないと哲学は不完全だという主張が仏教にあるんです。

   それから前置きの話ですけれども、多少デリケートなお話ですから微妙なんですが、私はもし自分だったらどうなのかなということを考えました。こうなるともう非常にデリケートで、人生の機微に属する問題ですけれども、やっぱり人ごとでもないし。

 大きくいえば、「危機管理」という言葉がありますけれども、やはりそういうことと関連したお話だなということで私は伺ったんですね。

 たとえばきのうの朝刊を見ていましても、仙台の東北大学の四十代の助教授がセクハラ疑惑をかけられて、遺書に自分は潔白だと書いて自殺なさったんですね。これは本人が自殺してしまっているわけですから、真相は藪の中で永久にわからない。

 先生はすべてお話なさいましたから、やはり先生がおっしゃったとおりだろうというふうに確信して聞いておりましたけれども。こういうデリケートな問題というのは、「もしこれが自分のことだったらどうなのかな」ということを考えますと、非常に難しい問題で、貴重なお話を伺ったなという気がいたしました。

   それで私の信条は、「秘密を持つな」ということ。何でもかんでもしゃべれと。自分の心の中に実におかしな考え方があったとしても、自分はこういうことを感じますというようなことは人にしゃべれという考え方です。一切の情報をあからさまにすると、真実の世界が出て来るんです。情報を隠して、お互いに体裁のいいことをいい合っていれば、真実の世界は生まれないんです。だから釈尊が「嘘をついてはいけない」という教えを述べられたのは、そういうことと関係していると思います。

   実はきのう私の知人が会社の中で若い人物がどうもお金に関する不正をしたらしいということで辞めさせたという話を聞きましてね。たまたま「じゃ君ならどうする」ということをいわれたもので、雑談の中で私がいったことは、もし私がお金を不正に扱って自分の懐に入れて、それで「おまえが盗ったんだろう」ともしいわれたら、そのときは、「はい、盗りました」といって、お金を返してあっさり会社を辞めると。まあそれしかないわけですね。だからん結局盗ったなら「盗った」といって辞めるだろうというふうなことをいったら、相手は、なんとまあ単純というか、素朴なというか、笑っていましたけれども。やはりそれしかないと思うんですね。

 答  うん、うん。だからそれが仏教の態度なんです。世間では「これを知られちゃいけない」と思って苦労に苦労を重ねて隠すものだから、精神的にゆがんじゃうんですよ。それが人生のつまずきの一因になって、人生が生きにくくなるということは事実なんです。

 だから何でもかんでも、どんな悪いことだと思っても、自分のやったことは、「やりました」といえばいいんです。そうすると問題が解決しちゃう。

   ありがとうございました。

 それから、約三十年ぐらい前になりますけれども、ある新興宗教と称するところへ私は少し入ったことがあるんですが、やはり新興宗教というのは、教祖さんがいて、そこに信者さんが集まって来るわけですね。若い、まあ若くなくてもいいんだけれども女性の信者もいるわけですから、どうしてもあらぬ噂が立ちまして、「どうもあの教祖とあの人はできているんじゃないか」なんていう噂もあるわけです。教祖さんはもちろん妻帯者でしたから気にもしていなかったみたいですけど。

 ただ、五年、十年という年月が経ちますと、やはり悪評を立てた人は必ずおかしくなっているんですね。やはりどうも世の中はそういう摂理で動いていまして。ということを眺めますと、やはり世の中というのはある程度倫理的にできているということもいえると思うんですが、どうでしょうか。

   そのとおりです。宇宙が真実なんです。だから宇宙に逆らったことで人間がサル智慧を働かして嘘をいったりしていても、宇宙の原則というのはそういうものでないから、年限が経てば本当のことが出て来るんです。だから世の中を悲観的に考える必要はないので、「本当のことをやっていれば、いつかよくなる」ということでいいんですよ。

   ありがとうございました。

 

 それでは、時間がきたようですから、普回向を唱えて終わりにしたいと思います。

普回向 唱和