開経偈 唱和

 先週も申し上げましたが、今回、この道場にいた三人の女性の人がわずか五日間の間に次々にこの道場を出るということがありまして、それぞれあまり直接の関係はないわけでありますが、偶然そういうことが起きたということが実情であります。

 二十九日に泰純君が埼玉県の武蔵野寺に行きまして、それからあしたイギリスの女性で聖心女子大の先生がいたわけでありますが、この人も出て行きたいということで出て行くということで、それから優君佳さんもこの三日ぐらいの間に出て行くということになりましたので、わずか五日間の間に三人の女性が出て行って、この道場には女性が一人もいないことになります。

 もちろん、今後も希望者があれば断るということは考えておりませんが、ただ、仏教教団において女性の存在というのは非常に珍しかっただけに、今後はどうなるかちょっと予測がつかないというふうな感じでおります。

 釈尊の時代にも、男子の僧侶と、女子の僧侶と、男子の在家の人と、女子の在家の人と、四種類の人がいたわけでありますから、仏教教団で女性を入れないという習慣は、日本においてはそういう風習が古い時代にありましたが、必ずしもどの仏教教団にもあるという形のものではないということがいえると思います。

 偶然ではありますが、三人の人が一斉に出るということに関連して、何か特別の性格というものが女性と男性との間の違いにあるのかなあという気もいたしますし、それから女性がいるときには道場の中が非常に和やかで住みやすかったということはあると思いますが、今後は男子だけになりますからかなり生活が厳しくなってくるのかなというふうな感じも持っているということが実情であります。

 

 それではまたこの本のほうに入ってまいりますと、きょうは「道得」という巻の途中からになるかと思います。ページ数でいいますと二〇一ページになるわけであります。本文のほうを読みますと、

 「雪峰の真覚大師の会に、一僧ありて、山のほとりにゆきて、艸をむすびて菴を卓す」、「雪峰の真覚大師」という方は雪峰義存禅師と呼ばれた方でありますが、その教団に、「一僧ありて」、一人の僧侶がいて、「山のほとりにゆきて、艸をむすびて菴を卓す」、山の近くに行って草のような粗末な材料を使って小さな家を建てていた。

 「としつもりぬれども、かみをそらざりけり」、長年そういう僧侶の生活をしていたけれども、どういうわけか頭の髪を剃るということをしなかった。

 「菴裏の活計たれかしらん、山中の消息悄然なり」、そこで、その小さな庵の中でどんな生活をしているのか外からは誰もわからなかったし、「山中の消息悄然なり」、山の中で一人で坐っている様子というものは非常にしょんぼりとした寂しいものであったであろう。

 「みづから一柄の木杓をつくりて、谿のほとりにゆきて水をくみてのむ」、自分自身で一つの大きな柄の木の柄杓をつくって、「谿のほとりにゆきて水をくみてのむ」、谷が深いためにその長い柄の柄杓で川の水を汲んで飲んでいた。

 「まことにこれ飲谿のたぐひなるべし」、まさにその様子というものは谷川の水を飲んで生活するというふうな例であったであろう。

 「かくて日往月来するほどに、家風ひそかに漏泄せりけるによりて、あるとき僧きたりて菴王にとふ、いかにあらんかこれ祖師西来意」、そのような形でその僧侶は長いこと生活をして一日一日が過ぎ、 一月、二月が過ぎというふうな生活をしていたわけでありますが、「家風ひそかに漏泄せりけるによりて」、その生活態度が非常に優れているということがいつの間にか人に知られたために、「あるとき僧きたりて菴王にとふ」、あるとき一人の僧侶がやって来て、その小屋の主人に質問した。「いかにあらんかこれ祖師西来ノ意」、「祖師西来ノ意」というのは、達磨大師が西のほうのインドから中国に坐禅の修行を持って来られたということでありますが、その意図というものはどういうものかというのが、「いかにあらんかこれ祖師西来ノ意」という言葉の意味であります。

  「菴主いはく、谿深 杓柄長といふ」、そうするとその庵の主人が、「谷が深いために柄杓の柄が長い」という返事をした。

 「僧おくことあらず、礼拝せず、請益せず、山にのぼりて雪峰に挙似す」、「いかにあらんかこれ祖師再来ノ意」という僧侶の質問に対して、その小さな家の主人が「谷が深いから柄杓の柄が長い」という返事をした。その返事を聞いて僧侶はびっくりして、礼拝をすることもせず、説法をお願いすることもせず、山に上って行って雪峰禅師にこれこれでしたという報告をした。

 「雪峰ちなみに挙をききていはく、也甚奇怪、雖然如是、老僧自去勘過始 得」、雪峰禅師がたまたまその小さな家に住んでいる僧侶の述べたところを聞いて次のようにいった。「挙」というのはその僧侶が述べた言葉という意味であります。「也タ甚ダ奇怪ナリ」、非常に不思議なことだ。そのように僧侶の返事というものは非常に意味の深い、仏道がよくわかっているような様子には見えるけれども、「老僧自ラ去ツテ勘過セバ始ニシテ得ン」、「自分が直接行ってその僧侶の力量を検討したならば、すぐにわかるであろう」というふうに述べた。

 「雪峰のいふこころは、よさはすなはちあやしきまでによし、しかあれども老僧みづからゆきてかんがえへみるべしとなり」、その雪峰禅師の言葉はどういう意味かというならば、その僧侶の返事が優れているという点では不思議なほど優れている。しかし、自分自身がそこへ行ってその老僧を試したならば、本当のことがわかるだろと、こういうふうに述べた。

 

 そうして二〇三ページのところで、

 「かくてあるにある日、雪峰たちまちに侍者に剃刀をもたせて卒じゆく」、そのような形で日数が経ったけれども、雪峰禅師がある日突然自分の身の回りを世話している僧侶にかみそりを持たせてそこの庵に出かけた。

 「直に菴にいたりぬ」、そうしてすぐその庵のところにやって来た。

 「わづかに庵主をみるにすなはちとふ、道得ならばなんぢが頭をそらじ」、ほんのわずかその庵の主人を眺めて、すぐに質問した。「道得ならばなんぢが頭をそらじ」、「本当のことがいえるならば、つまり真実を言葉で表現することができるならば、おまえの頭を剃らないでおこう」と、こういう言葉を述べた。

 「この問こころうべし」、道元禅師がこの質問に対してどんな意味かを勉強する必要があると。

 「道得不剃汝頭とは、不剃頭は道得なりときこゆ、いかん」、雪峰禅師が本当のことを述べる力があるならば、おまえの頭を剃らないでおこうということを述べたけれども、その頭を剃らないということは、本当のことがわかっているということを示すように聞こえる。

 「この道得もし道得ならんには、畢竟じて不剃ならん」、そこで、言葉による表現が本当の意味で仏道の真実を説いているとするならば、最終的に頭を剃らないという意味であろう。

 「この道得きくちからありてきくべし、きくべきちからあるもののために開演すべし」、この言葉というものは、その意味を聞く力量のある人にその意味を聞くべきである。「きくべきちからあるもののために開演すべし」、その言葉の意味を説明した場合に、それを聞いて納得することのできるような力のあるもののために説くべき言葉である。

 「ときに庵主かしらをあらひて、雪峰のまへにきたれり」、ところがその庵の主人公がどういう動作をしたかというと、頭を洗って雪峰禅師の前に来て、どうか髪を剃っていただきたいという態度を示した。

 「これも道得にてきたれるか、不道得にてきたれるか。雪峰すなはち菴主のかみをそる」、その僧侶が髪を洗って頭を剃ってもらうために戻って来たということは、本当のことをいう力があったからそういう形で戻って来たのか、本当のことをいう力が必要がないということがわかっていたから頭を剃って来たのか。そういう点では、その僧侶の態度というものも、本当のことがわかっていたということが事実なのか、あるいは本当のことはわからないけれども、とにかく頭を剃ってやって来たのか。

 そういう問題を提起された後で、「雪峰すなはち菴主のかみをそる」、雪峰禅師は僧侶が頭を洗って髪を剃ってほしいという態度で出て来たから、そのままその僧侶の頭を剃ってやった。

 

 こういう物語が中国の仏教に残っているわけですが、それに対して道元禅師が二〇四ページのところで解説をしておられるわけであります。

 「この一段の因縁、まことに優曇の一現のごとし、あひがたきのみにあらず、ききがたかるべし」、道元禅師は「因縁」という言葉で物語という意味に使われている場合が多いわけでありまして、ここのところも、「この一段の因縁」、この一くだりの物語というものは、「まことに優曇の一現のごとし」、実に優曇華の花が一回咲くというふうな珍しい出来事である。「優曇」というのは優曇華でありますが、優曇華の木は桑の種類、あるいはいちじくの種類に属しておりますから、いちじくと同じように優曇華の花は皮のようなものに包まれて、あたかも実のように見えて、花のように見えないわけであります。そこでインドの人々は優曇華という木は花が咲かなくて三千年に一ぺん咲くんだという言い伝えがありまして、優曇華というのは非常に咲くことの珍しい三千年に一回花が咲く木だというふうに考えられていたわけであります。そこで、「まことに優曇の一現のごとし、あひがたきのみにあらず、ききがたかるべし」、そういう点では、優曇華の花が三千年に一ぺん咲くといわれているけれども、それと同じように、なかなかこのような物語には出会うことができないし、また聞くことさえできないであろう。

 「七聖十聖の境界にあらず、三賢七賢の覰見にあらず」、「七聖十聖」とか、あるいは「三賢七賢」というふうな言葉は、仏道修行者が経過していくさまざまの境地を表しているわけでありますが、そのような菩薩の修行法をしている人々もその内容をわずかでも見ることが難しいであろう。

 「経師論師のやから、神通変化のやから、いかにもはかるべからざるなり」、そこで、経典だけを読んで説法している師匠や経典の注釈を説法している人々は、「神通変化のやから」、それからまた特別な神秘的な能力があって、普通の人ができないようなことができるという自慢をしているような人々は、「いかにもはかるべからざるなり」、この雪峰義存禅師と僧侶との間にやりとりされた動作というものは、本当の意味でまったく想像がつかないところであろう。

 「仏出世にあふといふは、かくのごとくの因縁をきくをいふなり」、釈尊がこの世の中に出られたと同じような事実に出会ったということの意味は、このように雪峰義存禅師と庵の主人公との間に行なわれた物語を聞くことをいうのであろう。

 「しばらく雪峰のいふ道得不剃汝頭、いかにあるべきぞ」、そこでとりあえず雪峰禅師がいわれた「本当のことがいえるならば、おまえの頭を剃らないでやろう」という言葉の意味はいったいどういう意味であろうか。

 「未道得の人これをききて、ちからあらんは驚疑すべし、ちからあらざらんは茫然ならん」、そうして、まだ真実を述べることのできないような人であっても、この言葉を聞いた場合に、力量のある人は、その内容のすばらしさにびっくりして、「本当か」というふうに疑うような態度をとるであろう。「ちからあらざらんは茫然ならん」、仏道においてまだ力量が備わっていない人は意味がわからなくて茫然としているであろう。

 「仏と問著せず、道といはず、三昧と問著せず、陀羅尼といはず」、その点では、真実を得た人とはどういう人かというふうな質問と様子が違うし、真実とはどういうものかという質問とも違う。「三昧と問著せず」、坐禅をしたときの自律神経のバランスした状態はどんなものかという質問とも違うし、陀羅尼という身近な神秘的な力のあるといわれている言葉とも違う。

 「かくのごとく問著する、問に相似なりといへども道に相似なり、審細に参学すべきなり」、このような質問というものは、「問に相似なりといへども道に相似なり」というのはどういう意味かといいますと、形の上では質問のように見えるけれども実際は真実を述べているんだと、そういう意味で、「仏と問著せず、道といはず、三昧と問著せず、陀羅尼といはず」というふうな言葉で表されているように、雪峰禅師の言葉、「真実を述べることができるならば、おまえの頭を剃らないでいてやろう」というふうにいわれた言葉の内容というものは、質問のようには聞こえるけれども、実は真実そのものである。そのことを細かく勉強してみるべきである。

 「しかあるに菴主まことあるによりて、道得に助発せられて茫然ならざるなり」、ところがこの庵の主人公は本当のことがわかっていたから、あるいは本当の状態の中にわが身を置いていたから、「道得に助発せられて茫然ならざるなり」、真実を表すことのできるというふうな状態に助けられて、ぼんやりとしていることがなかった。

 「家風かくれず洗頭してきたる」、その点では、釈尊の教えのやり方に従って、頭を洗って雪峰義存禅師の前に来た。

 「これ仏自智慧、不得其辺の法度なり、現身なるべし、説法なるべし、度生なるべし、洗頭来なるべし」、「これ仏自ラノ智慧モ、其ノ辺リヲ得ズの法度なり」、これは釈尊ご自身の直観的な能力といえどもこの境地はなかなかわかるということがないというふうな、きわめて重要な宇宙の原則である。「法度」というのは宇宙の原則という意味であります。そうしてまた現実の体を眼の前に現していることである。そうして、「説法なるべし」、宇宙の原則がどういうものかを説いているのであり、「度生なるべし」、たくさんの人々を救済することであろう。「度」というのは、助ける、救済するという意味であります。そうしてもっと具体的に現実に即していうならば、庵の主人公が頭を洗ってやって来たという現実の事実である。

 「ときに雪峰もしその人にあらずば」、そのときに雪峰禅師が本当の真実のわかった人でないならば、「剃刀を放下して呵呵大笑せん」、かみそりをその場に投げ出して大声で笑ったであろうと。これは道元禅師が、本当のことがわかっていなければ、そういう芝居気のある動作をしたであろうと、こういう意味であります。だから人間が芝居気のある動作をするなんていうことは、本当のことがわかっていないからという意味が含まれているわけであります。

 宗教家の中でも演技が上手で偉そうに見える人というのはたくさんいる。だけど、そういうものは本当の真実の世界ではないということを道元禅師がいわれているわけであって、雪峰禅師がもしも本当のことのわかっている人でなければ、たとえばかみそりを投げ出して大声で笑うというふうな芝居気たっぷりの動作をしたであろう。

 「しかあれども、雪峰そのちからあり、その人なるによりて、すなはち菴主のかみをそる」、ところが雪峰禅師はそういう芝居気のある、演技をするような人物でなかったから、本当の力があったから、あるいは真実を知った人であったから、早速庵の主人公の髪を剃った。

 「まことにこれ雪峰と菴主と、唯仏与仏にあらずよりは、かくのごとくならじ」、その点では、雪峰禅師も仏であった、庵の主人公も仏であった。そこで、「唯仏与仏」、「ただ仏と仏と」というふうな関係が雪峰禅師と庵の主人公との間にあって、雪峰禅師が頭を剃ったということが行なわれたわけだけれども、その雪峰禅師と庵の主人公との様子は、「ただ仏と仏と」というふうな言葉で表されるように、二人とも真実を得た人同士であった。もしそうでないならば、このような僧侶が頭を洗って雪峰禅師の前に出て来る、雪峰禅師が特別なことがない形で頭を剃るというふうなことが行なわれにくかったであろう。

 「一仏二仏にあらずよりは、かくのごとくならじ」、そこで、一人の具体的な真実を得た人、あるいは二人の具体的な真実を得た人というふうな実情でないならば、このように僧侶が頭を洗って出て来る、雪峰禅師がそのままその僧侶の頭を剃るというふうなことは行なわれなかったであろう。

 「龍と龍とにあらずよりは、かくのごとくならじ」、お互いに真実を得た龍のような存在であったから、このような情景が現れたのである。

 「驪珠は驪龍のをしむところ、懈倦なしといへども、おのづから解収の人の手にいるなり」、「驪珠」の「驪」というのは黒い龍を指すわけでありまして、黒い龍の顎の下には非常に貴重な真珠の珠が隠されているという言い伝えがありまして、その黒い龍のあごの下にあるところの真珠が「驪珠」でありますが、「驪珠は驪龍のをしむところ」、自分の顎の下にある真珠の珠は黒い龍が非常に大切にするところであり、「懈倦なしといへども」、それを粗末にしたり嫌がったりするということはないけれども、「おのづから解収の人の手にいるなり」、そのように貴重な黒龍の顎の下にあるという真珠は、自然に仏道のわかった人が自分のものにする。仏道がわかり、それを手にすることのできるような人の手に自然に入るものである。

 「しるべし、雪峰は菴主を勘過す、菴主は雪峰をみる、道得、不道得、かみをそられ、かみをそる」、その点では、その情景というものは、「雪峰は菴主を勘過す」、雪峰禅師は庵の主人公がどんな人物の人であるかということを検討したし、「菴主は雪峰をみる」、庵の主人公は雪峰禅師の姿を見ることができた。「道得、不道得、かみをそられ、かみをそる」、そこで、真実を得た人も、それから真実を得るなどということを超越した人も。「道得、不道得」の「不道得」という言葉には、真実を述べることができるようになったということを超越したという意味が含まれております。そこで、「道得、不道得、かみをそられ、かみをそる」、真実を表すことのできる人も、真実を表すことを問題にしなくなった人も、庵の主人公は髪を剃られ、雪峰禅師は髪を剃った。

 「しあかればすなはち、道得の良友は期せざるにとぶらふみちあり」、このような物語からわかるところは、真実を言葉で述べることのできる優れた友達というものは、まったく期待していないにもかかわらず突然訪ねることのできるような事実があるものである。

 「道不得のとも、またざれども知己のところありき」、そこで、真実を述べることのできる人も、真実を述べることを乗りこえてしまう人も、「またざれども知己のところありき」、特に期待したわけではないけれども、自分のことのわかってくれる人に出会うということができた。

 「知己の参学あれば、道得の現成あるなり」、「知己」というのは自分を知るということであります。ですから自分がわかってくると本当のことを言葉で述べることができるようになると、こういう意味であります。

 その点では、われわれが自分というものが本当にわかっているかというと、なかなかそういう状況にはない場合が多いということがあるように思います。自分がわかるということは、知識として自分はこういう人間だということがわかるという意味ではなしに、自分がどんなものかということをしっかりつかんで、自信を持って生きていくことのできる人を「知己」というわけでありますが、そういう勉強をしているならば、「道得の現成あるなり」、言葉で真実を述べることができるものであると、こういう表現をされているわけであります。

 「正法眼蔵道得」

 「仁治三年壬寅十月五日、書于観音導利興聖宝林寺示衆」、これが西洋の紀元でいきますと一二四二年で旧暦の十月五日、観音導利興聖宝林寺においてこれを書き写して衆に示した、説法をしたと、こういう意味であります。

 ですからこの『正法眼蔵』の記載からしますと、道元禅師は説法の前にその話の内容を書面に書きつけられたのではないかという可能性があるわけであります。そういう草稿を侍者の人が清書をして後世に残したということがあったのではないかという想像ができるわけであります。

 

 いちおう一つの巻が終わりましたので、ここで話をとめまして、またご質問を受けるということにしたいと思います。何かありましたらどうぞ。

 

   二〇四ページの一行目から二〇五ページの一行目までなんですが、これはいわゆる雪峰義存禅師と庵主さんのやりとりを述べているわけですね。最大限の言葉でこれをほめられていますね。たとえば一行目の「優曇の一現のごとし」とか、三行目の「仏出世にあふ」とか、その他ですね。

 私もこれを前にもちょっと読んだことがありまして、要は何を意味しているのか、言葉の一つ一つはわかるんですが、この節全体がいったい何を示しているのか。

 たとえばこの前の二〇一ページで、庵主さんに「祖師西来ノ意は何だ」と。そうすると谷が深いから「杓柄長シ」と。これはさすがにわかりますね。わかりますというと偉そうですが、まあわかります。

 ただ、この文章は、いったい何をそれほど道元禅師がほめられているのか、どうもいまのご老師のお話を伺っていても、わかるところはわかるんですが、全体として、つまり何がそんなにすばらしいのかというのがよくわかりませんので、その辺をちょっと……。

   これは一口でいうとね、本当のことのわかっている人は芝居をしないということ。世間でも芝居が上手で人々を感心させて生きている人はたくさんいるけれども、本当にわかっている人は芝居をしないということ。生のままの事実が真実であり、そういうことの出せる人が本当のことのわかった人だと、そういう意味に理解すべきだと思います。

   それは別段こういう道元禅師がお書きになるような世界ではなくて、われわれのような日常生活をしていても確かにそういうことはありますし、ビジネスの世界なんかだと、芝居というか、非常にそういうふうに上手に、アクションも上手だし、実力もあると、こういうすばらしい人は幾らでもいますから、必ずしもどっちがどうだということは私はいいませんが。もちろんここでいっていることはそういうあれじゃないんですけれどもね。

 それはすばらしいことですよ。しかしそのことが、ここで道元禅師が口を極めて絶賛されているようなすばらしい言葉……。それはわかりますよ。よく禅のお坊さんというのは非常にあれですよね、確かに芝居をなさったり、オーバーアクションといいますか、芝居気のある人が非常に多いですから、それはわかるんですが、ここまで口を極めてこれをほめられているんですが、私はなんかここがよくわからないですね、感覚的に。

   これはね、きわめて普通のことが真実であって、芝居の世界、物真似の世界は真実でないという主張なんです。だから仏道の理解の仕方についても、大げさな動作をして、「ああ、あの和尚さんは偉い」と思われるようなことが真実ではないということ。ごく普通の日常生活ができるかできないかのほうが、本当のことがわかっていて、本当の教えに従って人生を生きているかどうかということの分かれ目になるという趣旨なんです。

 問  どうも私はここがよく……。文章はわかるんですよね。ただ、何がこんなにすばらしくて絶賛されているのか。

 たとえば二〇四ページの七行目で「仏自智慧、不得其辺」、そこまで口を極めて絶賛されているわけです、その内容をね。

 答  これはね、臨済宗と曹洞宗の違いがあると思います。「臨済将軍・曹洞百姓」という言葉がある。

   はい、「土民」とかいいますよね。

   うん。で、道元禅師はごく普通の人であることがいかに大事なことであるかということを説いておられる。

 問  わかりました。どうもありがとうございました。

   いまのご質問の人にちょっと関連しますけれども、いわゆる政治家でも、それからまた一般の社会人でも、会社員でも、いわゆる自己主張といいますか、パフォーマンスといいますか、そういったものを要求される時代になっているわけですね。環境が、いわゆる名誉と利得にも関連するんですけれども、自分でも地位が上がる、給料が上がる、それにはやはり自分の存在価値を高めなくちゃいけないと。そういうような意味からして、特に政治家なんかはそうですけれども、パフォーマンスといいますか、演技といいますか、それも見過ごせないようなあれになるわけですね。

 したがって、仏道も現実ということを重視しますから、そういう意味では、道元禅師のおっしゃる意味も十分わかるんですけど、現代の社会をやっていく上においては、やはりパフォーマンスというか、そういうものも不可欠じゃないんでしょうかね。

   うん。だからその点で、そういうこともあるから、社会が乱れて、おかしなことばかりやっているということになるんです。元へ戻れば問題なんかぜんぜんないんだけれども、いろいろ芝居気たっぷりに行動するから、さまざまのズレが山のようにたまっているというだけのことです。

 問  それからまた本当のことも見えなくなるということもいえますから。

   まあそういうことです。

   そうすると道元禅師の生き方というのは、あくまでもやはり仏道というか、いわゆる淡々としている生き方ですけど、現代の社会のあれから見ると、なかなかそれもまた大変なんですけど。

 よくご老師は「ばかっ正直」という言葉をお使いになるわけですけど、そのばかっ正直は損だよという、また一つのアンチテーゼもあるんですが、本当の真実を生きていくには、成功はやはりばかっ正直なんでしょうね。

   うん、そうですよ。だからこの世の中で偉い仕事を残した人はみんなばかっ正直の性格がありますよ。

 問  結局はそうなってくるんでしょうね。最後にはね。

   うん、うん。日経新聞の私の履歴書でごく最近まで免疫学の先生の話が出ていたけれども、あの方の生き方なんていうのもまさにばかっ正直です。だけど、ああいう性格で生きないと本当のことはわかってこないという事情がどうもあるんだと思う。

   それが仏道修行ということなんでしょうね。

   うん。だからね、仏教思想というのは徹底した現実主義ですよ。現実に戻ることが本当の人間の生き方だという主張なんです。

   そうでよね。わかりました。どうもありがとうございました。

   二〇三ページの二行目で雪峰禅師が「道得ならばなんぢが頭をそらじ」というふうにおっしゃっていますね。やはりとりあえず相手の庵主さんを肯定するといいますか、相手の主張をいちおうは聞いてあげると、そういう雪峰禅師の気持ちが読み取れるわけですけれども、それはそれでよろしいわけですか。

   うん。だからここのところはね、本当のことがいえるようなら、頭を剃っても剃らなくても同じことだと、そういう趣旨が含まれていると思います。

   この庵主というのは、やはり雪峰禅師からそういうことをいわれたので、この人は信頼するに値する人だということを直観的に感じたと……。

   うん。だから、「おまえ頭剃らなきゃだめじゃないか」というふうな野暮をいわない人が偉いということなんです。

   ああ、そうですね、それは確かに野暮な話ですね。

   うん。

   なるほど。こういうとっさの応答といいますかね、なかなか難しいといえば難しいと思いますけど。

   そうそう。だから『正法眼蔵』の難しさは、そういう非常に深い仏教の究極というものを言葉で表現しようとされておられるから、表現が難しいし、その意味を取ることが難しいという実情があるわけです。だからそれをつかむためには、坐禅の修行のあるなしで決まるということにもなるわけです。

   たとえば去年でしたか、天皇主催の園遊会である将棋の名人が、まあその人は東京都の教育委員もしている人ですけれども、「私は日本中の学校に日の丸を掲げることを一所懸命頑張ります」と今上天皇にいったら、「あまり強制的にならないようにしてください」とおっしゃったということがありました。やはり天皇というのは、そういう突然の反応にもそれなりにきちんと冷静に対処できるということで、ちょっと見直しましたけど、先生はどうでしょうかね。

   いや、やっぱりそういう点で偉さがあったんだと思いますよ。

 問  ああ。ありがとうございました。

   先ほどの先生のお話で、偉そうに見せる人が世の中にはたくさんいるという話も出て来ましたが、今回、例のライブドアがフジテレビを敵対買収するということで、まあいま頓挫していますけれども。その頓挫した理由は、ソフトバンク・インベストメントという会社が出て来て、要するにフジテレビが株を貸したということで、たしか一八%のように思いましたが、それによってライブドアのほうがいま躊躇しているということなんですけれども。

 そのときにそのソフトバンク・インベストメントの社長が「フジテレビの社長も、それからライブドアのホリエモンも、みんなピーピー、ピーピーいいたいことをいっている。みんな子供だ」というような表現をしまして、「私は長いことM&Aをやってきて本当のことを知っている」ということをぬけぬけと記者の前でいったわけです。これを見て私は「この人、本当のことをいっているのかな」という気がしたんですけど、先生はどうでしょうか。

   う〜ん、ただまああれだね、堀江という人が戦ってはいけないという判断をしたのは、やっぱり力が違い過ぎるからだということがあったと思う。

   それとですね、そのソフトバンク・インベストメントの社長がいったことは、「私は解決の策を持っている」といったんですね。まあどういう策かわかりませんけれども、本当にあるのかなと私は疑問に思ったんですが、どうでしょうか、その点は。

   だからその点では、そういう力量の違いがあって、堀江という人も利口だから、これは戦っちゃいけないなということを直感してやめたんですよ。それができるということが偉いことで、自分の力量がわからずに、流れに従って対抗して、結果が悪くなるというような道を選ばなかったというのはやっぱり偉いと思いますよ。

   二〇一ページの四行目で、先ほど質問がありましたが、「いかにあらんかこれ祖師西来意」、「谿深 杓柄長といふ」という、この意味がどういうことなのかちょっと……。

   これはね、自分の庵のあるそばの谷川は深いから、その水を汲むには長い柄の柄杓が要ると、こういうことです。だから実情を述べているわけです。それが実情だと。そういう実情をつかむということが仏教的な立場だ。

   ありがとうございました。

   先ほど、臨済百姓、曹洞何とおっしゃったんでしょうか。

   「臨済将軍・曹洞百姓」。

   それは昔からいわれていることなんでしょうか。

   昔からいわれているようだね。

   ああ、そうですか。具体的には臨済のほうが偉い人向けということですか。

   臨済宗のほうは偉いように見える、曹洞宗のほうはあんまり偉いように見えないと、そういう意味です。

   ああ、そうなんですか。それはどういうことを取っていわれたんでしょうか。表面的に……。

   歴史的にも臨済宗の人は京都とか鎌倉とかいう、ああいう天皇家の近くにいて、高い階級の人々と密接な交渉があったわけです。曹洞宗のほうは、たとえば道元禅師のように越前のほうに行っていたから、地方の人々と接触して、地方に仏道を広めたという歴史的な状況を意味しているということになります。

 ただそれと同時に、臨済宗の人は偉そうに見える、曹洞宗の人はあんまり偉そうに見えないと、そういうことでもあるわけです。

   どうもありがとうございました。

   先ほどの「知己」ということで、自分を知ることだ、自分を知れば本当のことがいえるようになるというお話がございましたね。

 その自分を知るということでは、たとえば大学の学生が就職課に行きますと、やり方として、当然企業を訪問するわけですが、企業訪問は、それはどういう企業かということを見極めて、それが本当に自分に合っているかどうかというのはなかなかわからないと思うんですよね。ただそれが自分としてそういう企業に入っていいものかどうかという見極めの一つの手段になるわけです。それと同時に、やっぱり大学側では自分自身をよく知りなさいということで分析するということなんですけれども。

 そういう話もある中で、中高年の人が再就職する場合に、これはテレビで放映された話なんですけれども、コンサルタントがいまして、自分自身を分析する方法として、一つの手法として、たとえば自分が二十から六十まで仕事をして退職をした、それで自分に一番合っていることは何かということを探すことが大事なんですよということなんですね。

 それはどういう方法でやるかというと、たとえば三十歳のときにどういう成功をしたとか、四十歳のときに失敗したとか、そういう成功と失敗をグラフに書いていって、それでもって自分を知るという方法をやっているんですが、こういう方法というのは先生はどういうふうに思われますか。

   それはね、頭で考えた自分と、実感としての自分との違いですよ。だからそういう知識でこういう事実があったというようなことで判断しようとすることは、頭で考えて判断するわけです。事実を知るということ。

 本当に自分を知るというのは、足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジーッと坐っていることを長年やって、「ああ、自分とはこういうもんだな」ということが体験としてつかめるということです。

   ということは、その方法というのは、理に適っていると見てよろしいわけですか。

   うん。だから自分が本当にわかるためには、結構時間がかかるということでもあります。

   それから適性検査というのもありますけれども、あれはどんなものでしょうか。

   適性検査というのは私は知らないな。

   私、この間ちょっと機会があって出てみたんですよね。やったことは、たとえば一つの検査項目の中では、いわゆる簡単な算数ですね、いわゆる二けたぐらいの足したり、引いたり、割ったりということで。ごく簡単なんですけれども、設問が非常に多いんですね。たとえば五十問を十分以内でやりなさいとか。で、結局慌てるわけですよね。何かプレッシャーをかけられてやるんで、当然間違ってくる。一つの例として、そういうものがあるんですけれども……。

   だからそういう形で頭で考えて何でもわかるというのは普通の思想ですけれども、そういう思想が本当ではないよという主張をしたのが仏教なんです。だから人生というのは、生きることなんだ、行動することなんだ、考えたり、知識をためたりすることではないという主張なんです。

 これは文明の本質というものを考える場合に非常に大事な基準で、今日われわれが恩恵を受けている文明というのは、頭で考えてよくわかるか、あるいは感覚が鋭くて事実がよく見えるかというふうな二つの基準があるわけですが、本当のものはそういう頭で考えたり、見たり聞いたりということの中にはなくて、自分がどういう行動をするか、自分の状態がどうなっているかというようなことが本当のことのわかる根本的な基礎だと、こういう主張があるわけです。

 その自分がわかるような状況が何かといえば、自律神経のバランスなんです。だから自律神経のバランスということが仏教哲学の基本にあるということがわかってくると、仏教思想の理解というのは非常に簡単なものになる。だからこの教えを説明することによって仏教思想というのはそう難しいものではなくなる。二十一世紀になってやっとそういう時代がきつつあるというのが実情です。だからそういう考え方を人様に説明することがいかに大事なことかということになるわけです。

   自分はどういう人間かということの問題ですけど、相手を見て、「この人はどういう人だろう」というのも同じぐらい大事なことが多いですね。

 たとえばある方が、その人は外交官をした人でしたけど、やはり私心があるかないかということでかなり人を見ているということを文章に書いていました。

 なぜかというと、その人が若い頃の外務次官が、いま度忘れしてしまいましたが、「君たちは将来全員大使になって、辞めた後は年金もらえるんだから、後は私心を捨ててお国のために尽くしなさい」ということをいっていたらしいんですね。

 だから私心があるかないかというのを見れば、かなり相手の人間性というのは見抜けるんじゃないかなと思いますが、これはこれで難しいことではあるんですけれども、先生はどうですか。

   これはね、まあ私のいうことは全部一つの理論に頼るけれども、自信があるということは自律神経がバランスしているということ。

   あ、自信ではなくて、私心がないという……。

   だから自信があるということは、自律神経がバランスしているということ。自信がないということは、自律神経がバランスしていないということ。

 そうすると、頭が先に立っていろいろものを考えることは上手だけれども、頭の働きだけで、しっかりとした安定した状況がないという人もあれば、感覚が敏感だけれども、やはり安定している状況がないという人がいるわけですが、二つの神経が同じ力になっているときには、安定した状態があるから、そのことを自信として感ずるということになると思います。

   いまその名前を思い出しましたけれども、外務次官をやって駐米大使をした下田武三さんという人で、その人が私心、いわゆるわたくしごころということなんですが、それを持たないようにというお話ですね。

   そう。だから私心ということも、やはり自律神経と関係しているんです。交感神経が強いと、頭がいいから、どうやって得するかということで夢中になるわけです。また逆に副交感神経のほうが強いと、自分の中心がないから、いつも不安を抱えてウロウロしているということになるわけです。

 だからちょうど両方の力がバランスしたときに、公の価値と自分の個人の価値とが同じ力になってプラス・マイナス・ゼロになる、そのときが私心のない状態というふうに見ていいです。

 私の説明はいつも自律神経のバランスに行っちゃうけど、どうも自律神経のバランスということを基礎にした場合に仏教哲学のすべてが説けるということが実情だと思います。

   それからこれはまた別の方がいっていましたけれども、昔「軍人勅諭」というものがあったらしいですけれども……。

   ああ、あった。

   その際に「至誠に悖(もと)るなかりしか」、それをいつも自分の心の中で反芻しながらいっていると。そういうのはあんまり体育会系みたいで流行らないんですけれども、それはそれなりにいい面もあるわけですね。

   うん、うん。だからその点では、観念論時代の特徴ですよ。「一つ、軍人は忠節を旨とすべき」かな。

   ああ。

   項目がずうっと並んでいるんですよ。それをこう読まされた。

   自律神経のバランスということをおっしゃいまして、そうすると坐禅がいかに大切かということになりますね。

 私もそういうことでやって不思議に思うのは、私は朝の坐禅は必ず坐った途端にピターッと、幻覚かもしれませんけれども、私は怒りっぽい、照れ屋、短気、もうムチャクチャな人間なんですが、そのときだけはまことに心豊かで静かで、三十、四十分ですかね、もう少し長いときもありますけれども、もう坐を離れたくないという、このペコペコの狭いプレハブの住宅の家でやっているんですけれどもね。

 ところが、それは一日それだけで、後は、たとえばここでやるのも申しわけないですが、イマイチそれに及ばない。ましてほかのときにも。それで私は何個所もお寺に行ったりしますが、それはいずれもどうも朝一の一〇〇%必ずそうなるのには及ばない。

 まだ浅い経験ですけれども、坐禅にもやはりいろんなランクといっては言葉が悪いんですが、やっぱり内容の違いはあるんだろうな。しかしそれは違うんだ。たとえば「最初の坐禅は最初の坐仏なり」ということで、ベテランも初心者も同じだよということを、特に曹洞宗ではいいますね。しかし実際そういうことはないというか、  やっぱり深い、浅いはあるだろうなと。

 ところが恐ろしいのは、いまの話で、じゃ朝一番確実に私はその静かなあれになれる。だけども、たとえば原田祖岳という方がおられますね、実は私が最初にご指導いただいたお坊様というのはそのお弟子だったんですね。たいへん惚れ込んでいましてね、「俺は原田祖岳だ」といつもいってましたけれども、確かにすばらしかったですね。その方が、私のいま申し上げた坐禅をして非常に心豊かで一日一回だけなんですけれども、それについてはそれは本当にまだ序の口の序の口で、そんなのにあまりとらわれて、自律神経のバランスとは祖岳さんはいいませんけれども、というようなことで、本当はそんなものにとらわれないで、もっともっと、どんどん、どんどん一直線に行けということをいわれているんですがね。

 どうもそういう点で、ご老師のおっしゃる自律神経のバランスは、本当に坐れば誰でも、まあ私は明白に自分の坐禅にそういう差があるんですが、自律神経がバランスした状態になっているというふうにお考えですか。やっぱりそれは人によって、時によって違うんじゃないかと……。

   その点ではね、『正法眼蔵』の「三昧大三昧」に「心の打坐すべし、体の打坐すべし、身心脱落の打坐すべし」と、こう書いてあるんです。

 それはどういうことかというと、坐禅のときに頭で問題を考えることもある。坐禅のときに「足が痛いなあ」「眠いなあ」というふうな感覚的な問題を感ずるときもある。ある場合には、そういう考えも、感覚的なものも消えて、ただ坐っている場合がある。

 道元禅師の場合はその三種類を「すべし」と書いてあるんです。ですから最初の二つはだめで、最後の一つだけがいいというお考えじゃない。どんな状態であっても、坐禅することには絶対の価値があると、こういう主張です。

   自律神経のバランスという観点に立ちますと、やはり一回一回の坐禅によって内容に差はあると。ただ宗教的に考えてですよ。坐禅の絶対の価値は、これはいかに私が中途半端に、まことに申しわけないけれども私はどちらかというと興味本位で、道元禅師の美的なところに惚れて実はやっていて、ぜんぜん私の場合は宗教ではないんですね。まことに申しわけないです、こういうところに出していただきながらね。

 実は私はたとえば絵が好きであったり、モーツアルトが好きですけど、それとちょっと近いところがありましてね、道元禅師というのは非常に美しいから私は好きなので、この文章、生き方、すべてが非常に純粋で、気品があって、美しいから私は好きなんです。そういうことで宗教心ではないんで申しわけないですが。

 どうもそういうあれからしますと、宗教的に坐禅に絶対の価値を置くと、これはわかるけれども、ご老師が非常にいわれる精神のバランスとか、交感神経・副交感神経のバランスということからいうと、やはり自分の率直な体験からして差はあるなあと。

 常に私が朝一回しか、しかしそれは原田祖岳にいわせれば、そんなものにとらわれないで、もっと一直線に抜けていけということなんですが、いかに坐れば確実におっしゃる神経のバランスのとれた状態というものをあれするか。やはりそこに進歩もあれば、目標も出て来るんじゃないかと思うんですがね。

   その点ではね、坐禅のときに、感神経が強い場合もある、副交感神経が強い場合もある、両方がバランスしているときもある。どれも坐禅だよということ。自律神経がバランスしたときが坐禅というわけじゃないよ。どうもいろんなことを考えて困ると思いながら坐っているのも坐禅だ。眠くてしようがない場合も坐禅だ。そういう意味です。たまにはすっきりした坐禅もあるけれども、それ以外の坐禅も全部含めて、ばかっ正直に坐禅をやることがすべてだと、そういう主張です。

 そこまでいかないと救いにならない。きょうはうまくいったとか、きょうはまずかったとかいうふうなことを考えていたのでは救いにならない。どんな坐禅のやり方であっても、自分が全力を尽くしていれば、それがすべてだという考え方です。それが人生なんです。だから人生哲学と密接に関係しているわけです。

   これはごく当たり前のことで、自分ももう坐禅をし始めて二十年近くなりますが、それと同時に私はスポーツが好きなのでテニスとかゴルフとかやるんですけれども、最近はジョギングをして、ゴルフ練習を少し、毎日これをやるんですね。もちろんその後、仕事を始める前に坐禅をするんですけれども。

 坐禅とスポーツの練習というのは非常に共通の面がありましてね。いま先生がいわれたように、自律神経がバランスしているときもあるし、若干ずれているときもあるというお話でしたけれども、やはりこれも同じように、私も坐っていて、我を忘れるときもありますけれども、どっちかというと何かを頭の中で考えているときが多いんですね。それはそれとしてやっているんですが。

 スポーツに話を戻しますと、ボールを打っても、きょうはうまくいった、きょうはすごく感じがいいな、それからどうもうまくいかないという日がありますね。

 やはりそこで大事なことは、うまくいってもいかなくても、とにかく毎日続けると。「行持」という巻がありますけれども、一つの行ないを毎日やめることなく続けるということが非常に大事じゃないかなというふうに私は考えているわけですが、先生もやはりそういうふうに思われますか。

   そう。それでね、仏教哲学の中心は「行ないの哲学」なんです。人類の文明の価値観の中で、頭のいいことを絶対視する考え方もある、感覚的に鋭いことを絶対視する考え方もあるけれども、仏道は頭のいいことも、感覚的に敏感であることも本当の基準ではない。本当の基準は何かというならば、行ないが正しくないか正しいかだけのことだと、そういう主張が仏教にはあります。これはもう文明に起こる価値観の百八十度の転換なんです。だから欧米の文化が今後本当の文化になるためには、その価値観の転換がなきゃだめなんです。だから仏道が世界に広まることによって、人類の本当の文化が具体化してくるというふうにいって間違いないと思います。

 だから欧米の文化と仏教哲学と結び付く時期というのが人類にとっての黄金時代ですよ。で、その時代はそう遠くないと思う。

 まあいまは惨めだけどね。本当のことがわからなくて、ごちゃごちゃ、ごちゃごちゃしていて、あまりにも惨めな社会情勢ではあるけれども、行ないの哲学というものが哲学の中心だという考え方が生まれたときに、人類の文化というものはとてつもない黄金時代を迎えると思います。

   この巻の内容が二つあるのではないかなというふうに思ったんです。「諸仏諸祖は道得なり」ということが一つと、それから二〇四ページの最後の段落のところの「唯仏与仏」、仏と仏との間のやりとりが道得であると、その二つのことが入っていると思ったんですけど、それでよろしいんでしょうか。

   前のほうにいわれたのはどういうこと?

   仏というのは、諸仏諸祖は真実がいえるということ。

   仏とは……。

   諸仏諸祖は道得であるということと、それから唯仏与仏が道得であるということ、このに二つのことが書いてあったように思ったんですが、それでよろしいんでしょうか。

   うん、まあそういうことにはなります。

   ああ、そうですか。

 それで、仏と仏との間では、言葉のやりとりや真実が行き交うことができているけれども、仏と仏でないものとか、仏でないものと仏との間とか、仏でないものと仏でないものとの、一般人とのやりとりとか、いろいろな場合があって、唯仏与仏以外にあと三つほどあると思うんです。そういう言葉のやりとりというものは、真実であるとか、真実でないとか、どういうふうにとらえたらいいんでしょうか。頭の中で考えていることをいっているような感じがするんですけれども。

   その点ではね、真実とは何かといえば、バランスですよ。だから自分がバランスしていると、本当のものが見えるわけです。自分がバランスしていないと本当のものがとうてい見えないんです。仏というのは自律神経がバランスして、一切のものが事実としてありのままに見えるということです。

 問  それはわかるんですけど、私なんか普通誰かと話をしているとき、自分でいっていることが本当のことなのか本当のことでないのかよくわからないでいっているときもあるし、相手からいわれるとき、これが本当なのか本当でないのかよくわからないこともあるし、考えてみたら本当だったなあということもあるし、いろいろあるんですけれども。

 「唯仏与仏」ということだけが真実の言葉のやりとりだとすると、なんかふだんの日常会話の言葉は真実が含まれていないほうが多いんじゃないかなというふうに感じるんですけれども……。

   うん、それはそうです。坐禅が盛んになっていないから。

   ふだんの言葉がすごくなんか虚しいというか……。

   ああ、それはそうですよ。だいたい暇つぶしで人生を送っているんだから。(笑)

   ええ。いっている言葉がなんか虚しくて、何もいえなくなっちゃうというか……。

   うん、そういうことはあります。というのは、言葉の頼りなさというものに気がつくということはあります。言葉というのは頼りないんですよ。いかに立派に聞こえても、本当かどうかということの問題は残るわけです。

   コーヒーショップなんかでコーヒーを飲みながら隣の人の雑談なんかを聞いていますと、自分のことを棚に上げて、人の噂ばっかりいっている人が男も女もいるんだけど、ああいうのはもうぜんぜん真実じゃなくて、世間話に花が咲いているということだろうと思いますね。男の人でも人間関係と取引関係とごっちゃにしてしゃべっている人がわりと多いんですね。

 だからやっぱり真実をつかんでいない人のほうが圧倒的に多いんじゃないかと思いますけどね。

   うん、それはそうです。坐禅をやっている人と坐禅をやっていない人と比較したら、坐禅をやっていない人のほうが圧倒的に多い、(笑)いまのところは。

   はい、わかりました。

   仕事のことですけどね、本当のことが見えていると見えないということになるわけなんですが、いま自分の仕事で市場調査ということがちょっと始まりまして、テーマは、今度筑波エキスプレスというのを土浦、柏を通って、流山を通って秋葉原に行くわけで、これは五〇キロ近くありまして、それを四十五分で行けるということで、もうすでに鉄道は出来上がっているんですね。

 そうしますと、いま常磐線というのがありまして、だいたい東京に行く通勤、通学の利用者というのは、これを全部使っているわけです。そうすると柏の例ですと五キロぐらい西側寄りにこれが走るわけなんですね。いま柏駅に一日当たりの乗り降りの客というのが二十万人近くあるわけなんです。そうしますと第二常磐線ができますと、恐らく半分ぐらいのところを境にして、向こうにかなり流れて行くという可能性が考えられるわけですね。たぶんそうなると私は見ているんですけれども、誰が考えてもそうなると思うんです。

 そこで、柏市内の商圏、いわゆる市場がたぶん分断されるんじゃないか。たとえばいま十四万人の乗り降りの客がいるんですけれども、それが恐らく何十%か減るんじゃないかというふうに仮説を立てて私がちょっと試算をしてみたところ、それなりの数が出て来たわけです。それをベースにしていま商工会議所と話をしているんですけれども。

 実際にきのう柏駅で二、三の店をインタビューしたんですね。キヨスクとか、それからハンバーグ屋さんとかが駅の中にあるわけですね。「第二常磐線が八月二十四日に開通しますけれども、これでお客さんは変わりますか」と聞いたら、「たぶん変わらないです」といったんですね。「変わらないです」といったのは、そこだけじゃなくて、あと数軒聞いてみたんですけど、皆さん「変わらないです」といっているんです。たぶんこれは危機感もないということと同時に、やっぱりわかっていないのかなという気がしたんですけど、先生、どうでしょう、これは。

   それでね、「希望的な判断」というのがあるよ。(笑)減ってもらっちゃ困る、減ってもらっちゃ困る、減ってもらっちゃ困ると考えているうちに、「減らないよ」ということになっちゃう。(笑)それは人間の弱さですよ。

   一つのお店は、婦人物の靴下とかなんか売っているお店なんですが、そこの店長さんがすごい剣幕で「うちは変わりませんよ。ターゲットがぜんぜん違います」とかいってね。ターゲットが違ったってお客さんは必ず利用するはずなんです。そこは私は出しませんで、「ああ、そうですか」と帰って来たんですけれども、いま先生がいわれたとおり、変わることを嫌がっているんじゃないかと……。

   それはそうだよ。痛いところをつかれるから、「そんなこと聞いてくれるな」ということだ。(笑)

   ありがとうございました。

 

 それでは、時間がきたようですから、普回向を唱えて終わりにしたいと思います。

普回向 唱和