開経偈 唱和
先日遅刻したばかりでありますが、またまた遅刻をいたしまして、たいへん申しわけないと思っております。
以前に後藤さんお願いして四時に声をかけてくれというお話をしておきましたのですが、もう大丈夫だろうと思ってご辞退したところが、また遅刻してしまうということがありまして、たいへん申しわけないと思っております。今度は女子の秘書の人に頼んで木曜日の四時は声をかけてくれというふうにしておこうと思っております。
やはり私もだいぶ老衰が出て、ボケが始まっているんだというふうに見ております。その点では、最近仕事を始めると、それに夢中になってしまって、前後のことを完全に忘れてしまうという習慣がつきましたので、こういうことが起きるわけでありますが、そういうことのないように大いに努力をしていきたいというふうに考えております。
それではまた本のほうに入っていくわけでありますが、その前にちょっと社会的なことを申し上げますと、先日、ローマ法王が亡くなりまして、その葬儀には何十万という人がバチカン宮殿の前の広場に集まって法王の死を弔ったというニュースをCNNで見まして、カソリック教という宗教は、中世には絶対の権威を持っておりましたが、それが近代に入りますと、地動説が出たり、あるいは科学が発達したりして、かなり衰退しているというふうな事情はあるようであります。
ただ、やはり世界的に非常に大きな勢力を持っておりまして、ローマ法王の葬儀ということになると非常にたくさんの人が集まって来る。これは歴史的事実でありますから、現にわれわれの住んでいる社会にそういう事実があるということは否定してはならないところでありまして、その点で、今後も世界の宗教問題がどう変わっていくかというふうなことは時間の経過とともに少しずつ現れてくるわけでありますが、一ぺんに変化を期待するというようなことは事実には反するというふうな事情もあるように考えております。
それではまたこの本のほうに入ってまいりますと、きょうは二〇九ページの「画餅」という巻からになるかと思います。
この「画餅」というのは、普通の社会でも形だけがあって役に立たないもののことを「画にかいた餅」というふうに表現する例があります。餅というものは食べるものでありますが、画にかいた餅はいかに餅に似たように画がかいてあっても食べるわけにいかないと、そういうところから、姿形はあるんだけれども実際にその本物の役割をしないという事情を「画餅」という形で説いているということが実情であります。
道元禅師もその問題について画餅ということを考えておられるわけでありますが、画餅というものについて道元禅師は、人間が頭の中で考えた思想とか、あるいは人間が眼や耳を使って感覚器官を通して得た外界の刺激、そういう二つのものを「画にかいた餅」という言葉で表現しているということがいえるわけであります。
道元禅師の思想の場合には、頭で考えた思想も、それから感覚的にとらえたものの姿というものも現実そのものではないけれども、それと同時にそれなりの存在意義があるということをこの「画餅」という巻で説いておられるというふうに見ることができます。
そこで本文のほうを読んでいきますと、
「諸仏これ証なるゆゑに、諸物これ証なり」、真実を得たたくさんの方々の実体がどういうものかというと、体験が基礎になっている。われわれの日常生活の中で現実がどういうものかということが体験できることが真実を得た人々の特徴であるから。したがって、「諸仏これ証なるゆゑに」、この世の中にあるさまざまの物質としての実体も、それなりの経験というものと関連した実質を具えている。
「しかあれども一性にあらず、一心にあらず」、しかし、われわれの住んでいるこの世界の客観的なさまざまのものも全部が一つの性質ということではない。そうしてまた全部が一つの精神的なものだということでもない。
「一性にあらず一心にあらざれども、証のとき、証証さまたげず現成するなり」、その点では、たった一つの性質というふうなとらえ方もできないし、たった一つの心というふうにとらえることもできない。そのことは、この世の中を物質的に考えて、物質という一つの性質だというふうなとらえ方もできないし、この世の中を精神主義的に考えて、たった一つの心がこの世の中として現れているという理解の仕方もできない。
ではどう理解するかというと、「証のとき、証証さまたげず現成するなり」、「証」というのは体験でありますが、現在の瞬間においてわれわれは常に体験を続けていく。そういう瞬間瞬間の体験というものが、「さまたげず現成するなり」、瞬間瞬間のものでありますから、それぞれが独立して、ほかのものから邪魔されることなしに現実の事態を示している。
「現成のとき、現現あひ接することなく現成すべし」、したがって、さまざまのこの世の中の事物が具体化するときにも、「現現あひ接することなく現成すべし」、瞬間瞬間が中間が切れているものであるから、瞬間瞬間にこの世の中の現実が現れて、それは二つの現実がお互いに関係を持って切り離せないというふうな形ではなしに、瞬間瞬間に具体的な姿を示している。
「これ祖宗の端的なり、一異の測度を挙して参学の力量とすることなかれ」、このような教えというものが仏道の世界においてたくさんの祖師方によって引き継がれてきたきわめて単純な事実である。「一異の測度を挙して参学の力量とすることなかれ」、それを一つとか、たくさんのものだとかいう頭の働きを使って、仏道を勉強したことにおける力だというふうに考えるべきではない。
「一」というのが何を意味するかというと、われわれはこの世の中を精神的に考えると、一つの精神の現れだというふうな考え方ができるわけであります。それからこの世の中を物の立場から見ると、個々のさまざまのものが並んでいる、だから一つのものではなしにたくさんのものがあると、そういうとらえ方をするわけでありますが、その両方の考え方を取り上げて、仏道を勉強したということの力量と考えるべきではない。仏道というのは、精神的にこの世の中を一つのものだととらえる考え方でもないし、物質的にこの世の中は個々バラバラのものがたくさん寄り集まっているんだという考え方でもない。
「このゆゑにいはく、一法纔通 万法通」、そこで仏道の教えの中では、一つの基本的な原則がほんの少しでもわかってくると、そのもののあり方というものの理解が一切のものに通用する。
そこで、人間が本当のことがわかるためにはどういうことが大切かというと、現在の瞬間において行ないをするというふうなところにわれわれの人生があるという考え方が仏教の考え方であります。したがって、いま何をしているか、いま何をしているかということがわれわれの現実の世界の実情であって、そういう形で現在の瞬間の実情がわずかでもわかってくると、一切のものに関する実情というものがわかってくる。それを「一法纔カニ通ズレバ万法通ズ」。
「いふところの一法通は、一法の従来せる面目を奪却するにあらず、一法を相対せしむるにあらず、一法を無対ならしむるにあらず」、その点では、「一法通」という言葉、一つのことがわかってくると、という意味でありますが、「一法の従来せる面目を奪却するにあらず」、現に眼の前に見えているものの姿というものを取り払って、別のものを期待するということではない。つまり、われわれの眼の前に現れているものが現実であり、真実であると、こういう考え方でありますから、机は物であって真実ではないとか、畳は物であって真実ではないというふうな考え方ではなしに、この世の中の一切のものが真実である。眼に見えるものは真実ではないという考え方をすべきではない。
「一法を相対せしむるにあらず」、その点では、さまざまのものをお互いに並べるということでもない。「一法を無対ならしむるにあらず」、一つの事実があるだけであって、ほかのものと対立している関係ではないというふうな主張でもない。
「無対ならしむるは、これ相礙なり」、その点では、対立するものが何もない、たった一つのものだというふうな考え方は、逆にこの世の中のさまざまのものが邪魔し合っていることを意味する。だからこの世の中はたった一つのものだという主張をするならば、それはお互いに邪魔をし合っていることだ。
精神的なものを大切にする、いわゆる観念論の考え方も、この世の中をすべて心であり、魂であり、精神であるという理解の仕方をするわけであります。それから物を大切にする考え方も、この世の中は物質であるという考え方をするわけでありますが、そういう形でたった一つのものを主張するということは、その二つのものがお互いに邪魔し合っているという実情を示すわけであって、一つのものに考え方を統一すれば、一切が安定するという形のものではない。むしろ一つのことにこだわると、さまざまの対立が生まれてくる。
「通をして通の礙なからしむるに、一通これ万通なり」、その点では、一切のものがわかるということが、一切のものがわかったということの邪魔をする。そのことは、この世の中は二つのものから出来上がっているから、たった一つのものを選んではいけないという基本的な考え方につながるわけであります。ですから、この世の中は精神だ、心だという考え方も正しくないし、また、この世の中は物だけだという考え方も正しくない。実体というものは、これこれの理論がわかったということと同時に、「それが本当かな?」というふうな疑問もついて回るところに本当の見方があるのであって、そのことを「通をして通の礙なからしむるに」。「一通これ万通なり」、そこで本当の意味で現実がわかってくると、一切のものがわかるようになる。
「一通は一法なり、一法通はこれ万法通なり」、そこで、一つのことがわかってくるということは、さまざまの状況が全部わかるということではなしに、そのことに対する本当の現実的な理解ができることである。したがって、「一法通はこれ万法通なり」、たった一つのことについて現実的にとらえることのできるような力がついてくると、この世の中の一切のものがわかると、こういう表現をしておられるわけであります。
ですから、こういうふうな記述というものも、仏教の教えが単に精神だけを中心にした教えではない、単に物質だけを中心にした教えではない。この世の中は心と物とが分離することのできないように溶け合った現実の世界であるから、その状態が体験的にわかってこないと仏教哲学の世界に入ることができない。仏教的な世界に入った場合には、ほんのわずかの事実がわかったということが、この世の中の一切のものがわかったという事実につながると、こういう主張をまずしておられるわけであります。
そうして今度は二一一ページで画にかいた餅という問題に入っていくわけであります。
「古仏言、画餅不充飢」、「古仏」というのは香厳智閑禅師でありますが、香厳智閑禅師は非常に勉強家でたくさんの本を集めて仏教を勉強していた。ところが、師匠の潙山霊祐禅師から「ほかの本から借りてきた言葉ではなしに、おまえ自身の言葉で仏道の中心というものを述べてみろ」と、そういうふうにいわれた。そこで香厳智閑禅師は何とか返事をしようと思って一所懸命努力をしたけれども、どうしても返事が出てこなかった。そこで香厳智閑禅師は、自分はいままで人一倍たくさんの本を読んで勉強してきた。しかし、その勉強してきたことがまったく役に立たないということに気がついて、自分の集めていた本をみんな焼いてしまって、それから修行僧の食事の世話をする仕事を一所懸命やろうという形で、そういう態度に変わっていった。そこでこの「画餅飢ヲ充タサズ」という言葉は香厳智閑禅師の言葉であります。「古仏言ク」、過去の真実を得た人が、「画餅飢ヲ充タサズ」、「画にかいた餅は空腹を満たすことができない」と、こういう言葉を述べた。
「この道を参学する雲衲霞袂、この十方よりきたれる、菩薩・声聞の名位をひとつにせず」、この香厳智閑禅師の言葉を勉強している「雲衲霞袂」、「雲衲霞袂」というのは雲のように旅をして仏道修行をする仏教僧を意味しております。「衲」という字は綴るという意味で、衣を何回も修理しているということを意味しておりますし、「霞袂」というのも旅行するということを霞に譬えているわけでありまして、長い袂をもって仏道修行をしている僧侶のことを指すわけであります。
「この道を参学する雲衲霞袂」、この香厳智閑禅師の言葉を勉強するたくさんの僧侶の人々は、「この十方よりきたれる、菩薩・声聞の名位をひとつにせず」、「十方」というのはあらゆる方角でありますが、あらゆる方角という言葉を使ってわれわれが生きているこの世界、あるいはわれわれが生きているこの宇宙を指すわけであります。「この十方よりきたれる、菩薩・声聞の名位をひとつにせず」、その点では、菩薩という修行もあれば、声聞の修行もあるけれども、菩薩の修行法と声聞の修行法とは、その呼び方も違うし、またその様子も違っている。
「菩薩」というのは実践を通して仏教を勉強していく人々を指すわけであります。それに対して「声聞」というのは主として理論的に仏教を勉強する人々でありまして、実践的に仏道を勉強する菩薩の人々と、理論的に仏教を勉強する声聞の人々とは、その呼び方も違うし、その様子も違っている。
「かの十方よりきたれる、神頭鬼面の皮肉、あつくうすし」、そこで、この世の中の宇宙の中に存在する「神頭鬼面」、「神頭」というのは神のような頭を持った頭の優れた人を指すわけでありますし、「鬼面」というのは鬼のように怖い様子をし、人々から恐れられるような人々の皮や肉も、ある場合には薄い人もいれば、ある場合には厚い人もいる。その点で、この世の中に現れてくるさまざまの人々は、ある人はとてつもなく頭がいいし、ある人は非常に怖い様子をしていて、その皮や肉も薄い場合もあれば厚い場合もある。
「これ古仏今仏の学道なりといへども、樹下艸菴の活計なり」、その点では、過去において真実を得た人々も、いま真実を勉強している人々も、「樹下艸菴の活計なり」、インドのように木の下で坐禅をしたり、あるいは中国や日本のように質素な小さな家の中で仏道修行をするというふうな形での実際の仏道修行の様子である。
「このゆゑに家業を正伝するに、あるひはいはく、経論の学業は、真智を薫修せしめざるゆゑに、しかのごとくいふといひ、あるひは三乗一乗の教学、さらに三菩提のみちにあらずといはんとして、恁麼いふなりと見解せり」、ところが、この「画餅飢ヲ充タサズ」という言葉を、「家業を正伝するに」、釈尊の教えを正しく引き継いだ場合に、ある人々はいう。「経論の学業は、真智を薫修せしめざるゆゑに」、経典を読んだり、経典の注釈を読んだりする勉強というものは、本当の直観的な能力を養うという力を持っていないから、そこでこのようにいうという理解をしている。つまり、経典を読んで頭で問題を考える態度では本当の仏道はわからないということの意味に使っている。
「あるひは三乗一乗の教学、さらに三菩提のみちにあらずといはんとして」、そこで、「三乗一乗の教学」、「三乗」というのは、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗といいまして、声聞乗は理論的に仏教を勉強する人々、それから縁覚乗はさまざまの環境を眺めて外界の世界の様子から仏教を勉強する人々でありますし、三番目のものは菩薩乗といいまして行ないを中心にして仏教を勉強するという態度を「三乗」と呼んでおります。それからその三乗に対して「一仏乗」というのがありまして、坐禅を一所懸命やって仏道の真実を得るというふうな勉強の仕方であります。「三乗一乗の教学、さらに三菩提のみちにあらずといはんとして」、そういう形では、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗という勉強の仕方や、一仏乗ということで坐禅の修行を中心にした勉強の仕方も、本当の意味の真実に到達する道ではないということをいおうとして「画餅飢ヲ充タサズ」という言葉を使っているのである。「恁麼いふなり」というのは、「画餅飢ヲ充タサズ」という言葉を指すわけでありまして、そういう理解の仕方をしている。
「おほよそ仮立なる法は真に用不著なるをいはんとして、恁麼の道取ありと見解する、おほきにあやまるなり」、ところが道元禅師は、一般的にいって、「仮立なる法は真に用不著なるをいはんとして」、仮に立てた教えというものは本当の意味では役に立たないということをいおうとして、「恁麼の道取ありと見解する」、「画餅飢ヲ充タサズ」という表現をしているふうに理解をしているけれども、「おほきにあやまるなり」、道元禅師は世間一般でいわれているように理論的なものを勉強しても仏道の本当の意味はわからないという考え方を表すときに「画餅飢ヲ充タサズ」という表現をするけれども、そういう理解の仕方は大いに誤っている。
「祖宗の功業を正伝せず、仏祖の道取にくらし」、その点では、仏道の世界においてたくさんの祖師方によって代々引き継がれてきた優れた努力というものを正しく伝えていない。そうして仏道の世界で真実を得た人々の言葉について十分に理解するだけの力がない。
「この一言をあきらめざらん、たれか余仏の道取を参究せりと聴許せん」、この「画餅飢ヲ充タサズ」という言葉の本当の意味がわかってこないと、どんな人でもほかの真実を得た人々の言葉を勉強したというふうに認めることができない。だから仏道の勉強に当たって「画餅飢ヲ充タサズ」という言葉の本当の意味を勉強する必要があるということをいっておられるわけであります。
「画餅不能充飢と道取するは、たとへば諸悪莫作、衆善奉行と道取するがごとし、是什麼物恁麼来と道取するがごとし、吾常於是切といふがごとし」、道元禅師のお考えでは、「画餅飢ヲ充タサズ」という言葉を述べるということは、つまり画にかいた餅が空腹を満たすことができないという言葉の意味は、「たとへば諸悪莫作、衆善奉行と道取するがごとし」、さまざまの悪というものはやることができないものである。本来の意味は、「諸悪莫作」というのはさまざまの悪いことをしてはならないという意味でありますし、「衆善奉行」というのはさまざまの善いことをすべきであるという意味でありますから、「諸悪莫作、衆善奉行」という言葉は、善いことをしなければならない、悪いことをしてはいけないという教えにつながるわけであります。
道元禅師はこの「画餅飢ヲ充タサズ」という言葉は、悪いことをしてはいけない、善いことをしなければいけないという主張と同じだと、こういうことをいっておられます。「是レ什麼物カ恁麼来と道取するがごとし」、また、南嶽懐譲禅師が大鑑慧能禅師のもとに弟子入りするためにやって来たときに、大鑑慧能禅師が言葉では表現できない何かがこのようにやってきたと、こういう言葉を述べられた。そのこの世の中は現実の移り変わりだという主張というものと「画餅飢ヲ充タサズ」という言葉とは内容的に同じものだ。そうしてまた洞山良价禅師が、「吾常ニ是ニ於テ切ナリ」という言葉を述べておられるけれども、洞山禅師と同じように自分はいつでもこの現在の瞬間において一所懸命生きている。そういう意味で、「吾常ニ是ニ於テ切ナリ」という言葉と「画餅飢ヲ充タサズ」という言葉とは共通の意味を持っていると、こういう主張をしておられるわけであります。
したがって、「画餅飢ヲ充タサズ」という言葉も、画にかいた餅は空腹を満たすことができないという意味であって、それはこの世の中というものは現実の世界であり、行ないの世界でしかないということを主張していると、こういう解釈につながるわけであります。
なぜかというと、「諸悪莫作、衆善奉行」という言葉も、悪いことをしてはいけない、善いことをしなければいけないということであって、今日のように倫理道徳というものが評価されない時代においては、悪いことをしてはいけない、善いことをしなければいけないという教えそのものがまったくバカにされてしまって、誰も信用しようとしないというふうな世相とつながっていくわけでありますが、仏道では、人間の価値というものは悪いことをしないことによって決まる、善いことをすることによって決まるという主張があって、そのことを道元禅師は「画餅飢ヲ充タサズ」という言葉と悪いことをしてはいけない、善いことをしなければならないという教えとは共通の内容を持っているという主張をしておられます。
また、「是レ什麼物カ恁麼来と道取するがごとし」、大鑑慧能禅師のように言葉では表せない何かがこのようにやって来たという表現。つまり、なぜかというふうな事情というものはわかりにくいものであって、現実の事態が次々に到来しているということがわれわれの生きている現実の世界だという主張になるわけでありますし、「吾常ニ是ニ於テ切ナリ」という言葉も、洞山良价禅師はいろいろ理屈を述べるよりも、いまやらなければならないことに自分はいつも一所懸命でやっている、どうもそれ以外に生きようがないという考え方を述べて、この世の中の一切のものが現在の瞬間における実情であって、きわめて現実的な行ないの世界であるということを表現しておられるわけであります。
「しばらくかくのごとく参学すべし」、この「画餅飢ヲ充タサズ」という言葉は、ここに述べたように、「諸悪莫作、衆善奉行」という言葉とか、「是レ什麼物カ恁麼来」という言葉とか、あるいは「吾常ニ是ニ於テ切ナリ」というふうな言葉のように、すべてが現在の瞬間における行ないというものを述べていると、こういう理解の仕方であります。で、とりあえず「画餅飢ヲ充タサズ」という言葉もこのような意味で理解すべきである。そのことを「しばらくかくのごとく参学すべし」。
「画餅といふ道取、かつて見来せるともがらすくなし、知及せるものまたくあらず」、そうして画にかいた餅という言葉を本当の意味で理解している人々というものは少ない。「知及せるものまたくあらず」、その内容について十分知っているという人はまったくいない。
「なにとしてか恁麼しる」、どうしてそのような事情がわかるかというと、「従来の一枚二枚の臭皮袋を勘過するに、疑著におよばず、親覲におよばず、ただ鄰談に側耳せずして不管なるがごとし」、なぜ道元禅師がそういうことをいわれるかというと、「従来の一枚二枚の臭皮袋」、「臭皮袋」というのは臭いのよくない皮の袋という意味で人間を指すわけでありますが、「一枚二枚」というのは一人、二人という意味に使われておりまして、「従来の一枚二枚の臭皮袋を勘過するに」、過去においてこの「画餅飢ヲ充タサズ」という言葉について述べているところの人々を検討してみると、「疑著におよばず」、言葉の意味を疑うということもしないし、「親覲におよばず」、十分にこの言葉を勉強しようとする態度でもない。「ただ鄰談に側耳せずして不管なるがごとし」、「画餅飢ヲ充タサズ」という言葉も、自分自身の問題ではなしに、ほかの人が議論をしているにすぎないというふうな態度で、その議論に対して耳を近づけようとするような態度もなく、「不管なるがごとし」、まったく関心がないように見える。
こういう形で道元禅師が「画餅飢ヲ充タサズ」という言葉は有名であるけれども、本当の意味がわかっているかどうかということははなはだ疑問だと、こういう主張をしておられるわけであります。
そこで二一四ページにいきますと、
「画餅といふは、しるべし、父母所生の面目あり、父母未生の面目あり」、その点では、画にかいた餅というものにも、「父母所生の面目あり」、父母によって生み出されたところの実体としての姿が見受けられる。「父母未生の面目あり」、父母がまだ生まれてこない遠い昔の実体、つまり永遠の真実と思われるような内容も画にかいた餅という言葉には含まれている。
「米麪をもちゐて作法せしむる正当恁麼、かならずしも生不生にあらざれども、現成道成の時節なり、去来の見聞に拘牽せらるると参学すべからず」、その点では、米とか、あるいは小麦粉というふうなものを使って食物をつくるけれども、そのような具体的な現実というものも、「かならずしも生不生にあらざれども」、生まれてくる、あるいは生まれてこないというふうな議論の問題ではないけれども、「現成道成の時節なり」、米も小麦粉でつくった食物も現に具体的なものとして眼の前に見えているというのが現在の瞬間であり、「去来の見聞に拘牽せらるると参学すべからず」、そういうないものがやって来て、またなくなっていくというふうな時間系列の中で問題を考えるべきではない。「去来の見聞に拘牽せらるると参学すべからず」というのは、この世の中がないものが来、また来たものが去っていくというふうな移り変わりの世界ではないと、こういうことをいっておられます。
「去来の見聞に拘牽せらるると参学すべからず」、だから時間系列の中でわれわれがものを見たり、ものを考えたりするけれども、そういう頭の働き、あるいは感覚器官の働きに縛られるような世界が現実の世界ではない。この「画餅」という言葉もそういう意味の現実の世界を指しているのであって、画にかいた餅といえどもその画はまさに現実のものである。
そこで、「餅を画する丹雘は、山水を画する丹雘とひとしかるべし」、餅の画をかいた場合に、それに使う赤や濃い色の赤というふうなものも、「山水を画する丹雘とひとしかるべし」、山や川を画にかくときに、赤い色を使ったり、さらに濃い赤を使ったりというふうなことをするその絵の具としては、餅の画をかいた場合にも山や川の画をかいた場合にも同じであろう。
「いはゆる山水を画するには青丹をもちゐる、画餅を画するには米麺をもちゐる」、そこで、山や川の画をかくときには、青い色や赤い色の絵の具を使うけれども、画にかいた餅をかくときには、米や小麦粉を原料にして画にかいた餅をつくるというふうな事情が同時にある。
「恁麼なるゆゑに、その所用おなじく、功夫ひとしきなり」、そこで道元禅師は画にかかれたものも現実のものも現実の存在としては区別がないという主張をしておられるわけであります。「恁麼なるゆゑに、その所用おなじく、功夫ひとしきなり」、そういう事情があるところから、画にかいた餅も、あるいはその材料になっている米や小麦粉の粉も現実の存在としては同じような意味を持っているし、どう考えるかということについても大きく違う性質のものではない。つまり画にかかれておろうと、米や小麦粉でつくられてわれわれの食料になろうと、現実の存在であることには変わりがない。したがって、どういう役に立つかとか、どういうふうに考えるべきかというふうな問題も必ずしも違ったものではない。
「しかあればすなはち、いま道著する画餅といふは、一切の糊餅・菜餅・乳餅・焼餅・糍餅等、みなこれ画図より現成するなり」、そうしてみると、ここでいわれている画にかいた餅というふうなものも、すべての米を材料にした餅や、野菜を材料にした餅や、あるいは乳を材料にした餅や、あるいは焼いた餅や、あるいは米やきびの粉を使って蒸した餅等も、「みなこれ画図より現成するなり」、われわれの頭の中に米というふうな考え方がなければ、このような具体的な餅も現れてこない。
だから、一般には実際の餅のほうが価値があって、それを画にかいた餅というものは価値がないというふうに考えるけれども、画にかいた餅と同じような意味を持つ言葉というものもけっして軽く見るべきではない。つまり「餅」という言葉がなければ画にかいた餅というものもあり得ない。そこで具体的な餅というものも、餅という抽象的な観念から具体化してくる。「餅」という言葉がなければ、現実の餅そのものが餅として現れてこないと、こういう主張をしておられます。
ですからこの場合には、人間が言葉を使って問題を考えることを軽く見てはいけないと、こういう趣旨であります。「画餅飢ヲ充タサズ」という言葉について、言葉で現れたものを、理屈というものは本当の現実の実体に比べれば価値がないという考え方をするけれども、言葉は言葉でそれなりの意味を持っているという主張をしておられます。
仏道の世界では言葉は実体ではない、あるいは物質と呼ばれるものも感覚的な刺激であって、本当の実体ではないという考え方があるけれども、道元禅師は逆に「餅」という抽象的な言葉がないと、現実のさまざまの餅というふうなものも具体的なものとしてこの世の中に登場してこないと、そういうことを述べておられるわけであります。
「しるべし、画等・餅等・法等なり」、したがって、画もこの世の中の現実として均衡した状態の中にある、餅もこの世の中の現実として均衡した状態にある、宇宙全体も均衡した状態でわれわれの住んでいる世界としてあると、こういうとらえ方をしております。
「このゆゑにいま現成するところの諸餅、ともに画餅なり」、こういうところから考えてくると、いまわれわれの生活の中で具体的にあるさまざまの餅というものも、本来抽象的な言葉の「餅」という言葉があって、そういう「餅」という言葉そのものがあればこそ現実の餅というものを具体化するという事情があることを忘れてはいけない。
「このほかに画餅をもとむるには、つひにいまだ相逢せず、未拈出なり」、そこで、画にかいた餅というふうなことをどう理解するかということについても、言葉というものをけっして軽視すべきではなくて、画に相当する人間の考え出した言葉というものがあることによって餅という具体的な事実もあり得るのであるから、その点では画にかいた餅というものを無駄なもの、役に立たないものとして低く評価することはできない。そういう態度で画にかいた餅というものは価値のないものだというふうなとらえ方をしていれば、本当の意味の画にかいた餅というものの意味がわかってこない。
こういう考え方からしますと、道元禅師は現実を尊重してはおられましたが、観念論にも観念論のそれなりの意味がある、唯物論にも唯物論なりの価値がある、観念論と唯物論との性格が本当にわかってこないと釈尊のお説きになった現実の世界の意味もわかってこないと、こういう主張を述べておられるわけであります。
画にかいた餅というものも、その点では飢えを満たすことができないから価値がないということではなしに、画にかかれた餅がわれわれが使っている言葉という意味に理解されるならば、画にかいた餅そのものがわれわれの頭になければ本当の具体的な餅というものをとらえることができないはずである。
「一時現なりといへども、一時不現なり」、その点では、一瞬間においてそれが具体化する場合もあれば、一瞬間においてそれが具体化しない場合もある。
「しかあれども老少の相にあらず、去来の跡にあらざるなり」、ただ、そういう形の瞬間瞬間の現れというものは、あるいは瞬間瞬間に現れてこないというふうなとらえ方の意味は、「老少の相にあらず」、年を取ったとか若いとかいうふうな年限の比較の問題ではない。「去来の跡にあらざるなり」、何もないところに向かって現実が去り、また別の現実がやって来るというふうな去ったり来たりという実情がわれわれの生きている世界の実情ではない。与えられた現在の瞬間におけるすべてがこの世の中の実情である。
「しかある這頭に、画餅国土あらはれ成立するなり」、したがって、そのような現在の瞬間の中に画にかいた餅も現れてくれば、一つの国の国土というふうな具体的なものもこの世の中に成立しているのである。
こういう形で、道元禅師は「画餅」という言葉も単に抽象的な理論だから価値がないというとらえ方ではなしに、頭の中で考えた観念の世界、言葉の世界というものも尊重しなければならない、画に描いた餅としてばかにしてはならないというふうな考え方を述べておられるわけであります。
この「画餅」という巻は、背景はかなり哲学的な理論を含んでおりますから、そういう意味で理解していかないと理解がしにくいという面があるわけであります。
それでは、いつもと同じような時間になりましたので、ここで話のほうをとめまして、またご質問を受けるということにしたいと思います。何かありましたらどうぞ。
問 「画餅」の巻は非常に地味なんだけれども、読んでみると非常に難しい。
答 うん、難しい。
問 私自身ですね、前に何で難しいんだろうというふうに考えたときに、つまり香厳智閑さんが師匠の潙山からいわれたのは、「父母未生已前の汝をあきらめてわがために一句を持しきたれ」と、 こういう話ですね。それに対して、さっきお話があったように、一所懸命大変な勉強をしたんだけれども、結局役に立たないということで焼き捨てたと。
そうすると、この香厳智閑さんの場合は、やはりわれわれが一般にいう画にかいた餅は役に立たないというふうにとらえて理解したほうがずっとわかりやすい。
ところが、この道元禅師の理論展開はそれと離れた展開をしているんですね。だからどうもわれわれが読むとわかりにくいというのがあるんじゃないかなと私は思うんですが、その辺はどうですかね。
答 その点はね、観念論哲学がないと仏教哲学が理解できない。つまり画にかいた餅がどういうものかがわからないと現実は読めないんです。そのことを道元禅師はいっておられる。
だから普通は現実が尊いのであって、観念論哲学も唯物論哲学も価値がないという考え方をするけれども、現実がわかるためには観念論哲学もわからなければならないし、唯物論哲学もわからなければならないという主張が道元禅師の思想の根底にある。
それは具体的にいうと、ヘーゲルの思想もわからない、マルクスの思想もわからないということであれば、仏道の哲学はわからないと、そういうことにもなると思います。
ヘーゲルの哲学などは典型的な画餅なんです。だけども、ヘーゲルのいったことがよくわからないとこの世の中の現実をつかむことはできないと、こういう主張なんです。
問 ですから香厳さんの使った意味のこの画餅というものですね、それから道元禅師が展開されたのは、わからないとはいいませんよ、わかるんですよ。ただ道元禅師が香厳さんの話を持って来てこういう論理展開をするから混乱のもとだというふうに、われわれみたいな素人から見ると読めるんですが、その辺はどうなんでしょうねということをお聞きしたんです。
答 だからその点では、結局画にかいた餅は価値がないという考え方があるけれども、画にかいた餅という頭の中の映像がなければ餅そのものがわからないと、こういう主張なんです。
問 ええ、そのことはよくわかります。そうだと思いますね。ただ、なんかちょっと論理がかみ合わないようなので。
よく道元禅師はおやりになるんだけれども、その前提と道元禅師の理論展開というのがどうも矛盾していることが多くてね、それでこれもわかりにくいんだろうなというふうに思ったので。
ご老師なんか何十回とお読みになったというふうにいわれていますが、私は数回しか読んでいないのであれなんですが、そのときに香厳智閑さんの話を持って来なければ、この画餅の話というのは非常にわかるんですね。すみません、それはやめます。
それからもう一つ、二一四ページの前から五行目の一番下の「画等・餅等・法等なり」という言葉なんですけれども、『赴粥飯法』にたしか「法等食等」という言葉があったと思うんですね。私は当時よくわからなくて、食というものは、釈迦牟尼仏の明らかにされた法、つまり宇宙の真実と同等に置かれたと、こういうふうに読みましてね、いたく感激した記憶があるんですね。
ところが、さっきちょっとおっしゃったように、たとえば画餅というのは、画そのものが均衡した状態にあるし、餅もそうだし、法もそうだと。非常に均衡した状態だということは、たとえば「現成公案」なんかで「薪には薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり」とありますね。そういう意味で、画は画として、餅は餅として、法は法として絶対の存在であると、そういう「現成公案」的な説明と同じに取っていいんですか、ちょっと違うんですか。
答 そういう点では、「等」という字は均衡しているという意味なんですよ。だから、画も均衡した現実の実体であるし、餅も均衡した現実の実体である、宇宙も均衡した現実の実体であるという主張なんです。
問 だからそういうことでよろしいわけですね。均衡したそれぞれが絶対の存在であると。
答 そうです。具体的なものは全部均衡している。だから均衡したものが真実そのものだという主張なんです。
問 はい、わかりました。どうもありがとうございました。
問 私たちは普通「画餅(がべい)」とも読むんですが、『正法眼蔵』では「がびょう」というふうに読むんでしょうか。
答 うん、私の選択なんです。
問 ああ、そうですか。
答 仏教用語というのは呉の時代の発音で読む例が普通ですから、そこで「がびょう」という読み方をしているんです。
問 呉の時代ですか。
答 はい。中国の発音には漢音と呉音とありまして、仏教経典の発音は呉音なんです。
問 ああ、そうですか。
答 だからわれわれが漢字として習っている読み方と少し違うわけです。
問 ああ。
それから二一一ページの後ろから三行目の「吾常於是切」、これはすごく有名な言葉で、どなたがおっしゃったんでしたっけ。
答 これは洞山良价禅師です。
問 ああ、そうですか。意味としては、常に……。
答 これはね、仏道の世界というのは現実の世界であり、現在の瞬間に生きる世界ですから、その状況を洞山悟本大師は、自分はいつもこの現在の瞬間において一所懸命だという表現をしたわけです。だから前後を考えて、過去のことを悔やんだり、将来の夢を喜んだりという態度ではなしに、与えられた現在の瞬間で一所懸命生きていることが精一杯だという主張です。
問 ああ。なんかすごくいい言葉ですね。
答 そうですね、やはり仏教の究極のものに触れてこないと、こういう表現はできないということがいえると思います。
問 たったこの五文字で本当に究極を表現されているようですね。
あと、この同じページの前から三行目の「神頭鬼面の皮肉」、これは……。
答 これも、世の中の様子を見てみると、とてつもなく頭のいい人もいるし、怖い顔をした人もいるけれども、そうしてまたその持っている皮や肉も厚い人もあれば薄い人もある。つまり人間のあり方というものは実にさまざまなものだという主張を述べているわけです。
問 ありがとうございました。
問 二〇九ページの一行目に「諸仏これ証なるゆゑに、諸物これ証なり」とありますね。私はいつも不思議に思っているんですが、さっきご老師も体験とおっしゃいましたし、体験というものはご老師の『正法眼蔵』全部を通じて徹していますね。
答 はい。
問 ところが、これもちょっと変なことを質問して悪いんですが、たとえば有名な六祖さんと南嶽さんの「修証はなきにはあらず、染汙せず」とか、それから「弁道話」に出て来る「修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし」とかですね。ということで、妙にこだわらないで、これを「悟り」というふうに表現されたら、この『正法眼蔵』というのはものすごくわかりやすくなる。
それが妙に、これはご老師だけじゃないんですね、曹洞宗の方はみんな遠慮して、ものすごく長いこと修行して立派な方でも、「いや、私は悟りなんか、証は認めません」とか、「考えたこともない」とかいうことで、それはわかるんですよ、私も多少は聞きかじっていますから。
そのために曹洞宗の教団の持つ力を、みずからそういうわかりにくくしているというふうに私は常々思っているんですが、その辺はどうなんでしょうか。
答 これはね、「悟り」という言葉を使うと一切の問題が消えちゃうんです。つまり、悟ればいいという考え方になると、悟らなきゃだめだということで、悟るか悟らないかでこの世の中が分かれてしまうけれども、世の中というのはそんな単純なものじゃないという主張なんです。
だから「悟り」「悟り」という言葉を使わないという態度の中には、もっと拠り所のはっきりした現実の世界のほうが大事なんだ。悟った、悟らないという考え方よりも、体験というものが「証」という言葉の意味だ。修行というのは外見の行ないで、証というのはその体験の内容だ。だからそれを「悟り」という言葉に置き換えてしまうと、意味のわからない言葉に置き換えることになるから、仏教哲学がわからなくなるんです。
問 確かに議論するときは、言葉の定義というのは明確にして議論しないと、一所懸命に議論しても、お互いに違うことをいっているんですね。
答 そうです。
問 それがあるので、私もわかるんですがね。たとえば道元禅師みずからが「修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし」で終わっちゃうし、あまりにも有名な、修証はなきにあらず、ただ染汙しないんだといっているわけですね。それをいま非常に曖昧にしているから、どうもわからないというのがね、われわれのレベルでしゃべっていると。
それからもう一つ実は非常に肝心なことに曹洞宗は触れていないんですね。その二つで非常にすばらしい魅力のある宗門にもかかわらずものすごくみずからの力をそいでいるいうふうに私自身は非常に感じているものですからね、たまたまいまこの字が出て来たのでお聞きしたわけです。
でも、いまご老師のおっしゃることはよくわかります。わかるんですが、しかし、その辺を整理して、いまの時代に合った、けっして変な意味でねじったり、迎合するという意味じゃなくて、この「修」「証」ということははっきりなさったほうが……。
ご老師のいつもおっしゃっている、仏教書を読めるんだ、本当にそれが役に立たなければだめなんだ。また、いよいよそのチャンスが来たというのであれば、いままでそうだからそうなんだじゃなくて、もっとわかりやすい、もっと説得力のある表現というのを考えたほうがいいんじゃないかなと私は常々思っていたものですから。どうも生意気なことをいって申しわけないです。たぶん見当違いなんでしょう。しかし、どうも私はここのところが何か引っかかっているんですよね。
答 そう。だから私がやろうとしたのは、意味のわからない言葉は全部意味のわかるような言葉に置き換えて『正法眼蔵』を理解しようということをずっとやったわけです。だから『現代語訳正法眼蔵』というのもそういう意味なんです。古い言葉というものは全部現代の言葉に置き換えて道元禅師が何をいっておられるか勉強する必要があるという形で『正法眼蔵』を読んできたということになります。
なぜそういう必要があるかというと、意味のわからない言葉を使って西洋では議論しないんです。だから意味のわかる言葉をつなげて何をいっているかという勉強をする考え方が西洋の思想ですから、西洋の思想と仏教哲学とが出会ったときには、仏教の説明も意味のある言葉で説明しなければ価値がないんです。
問 はい、わかりました。すみませんでした。あんまり生意気なことをいって申しわけありませんでした。
答 いえいえ。
問 常々、個人的に非常に疑問を感じていたものですから。すみませんでした。ありがとうございました。
答 だから二十世紀以降の仏道の理解の仕方は、それ以前の仏教の理解の仕方と違わなきゃだめだという見方をしています。
問 いまのお話の中で、言葉はまず定義した上で話すべきだというお話があったんですけど、私も常々そういうふうに思っておりましてね。最近日本語というものが、外来語がどんどん、どんどん入って来て、カタカナを並べてそれが非常に曖昧になっているわけですね。で、曖昧なことを聞いて、それをこんな感じかなということで、聞いた人がまた同じことをいうので、ますますわからなくなってくるというんですけれども、この辺でどういうふうな対処をすればよろしいんでしょうか。
答 これはやっぱり本当の学問がもう一度復活しなきゃだめですよ。理論的にものを考える習慣が消えている。で、むしろわからないほうが楽だと思う。だからもうわからない言葉を使い合って、お互いにわかったような形で満足している、安心しているということがあるけれども、それでは文化というものは滅びますよ。で、文化が滅びるということは国が弱くなる、経済的に弱くなる。
だからそういう点では、日本国民が学問というものがいかに大切かということを真剣に考えて、教育をよくし、学問の世界を立派にして、日本の国をもう一度建て直さなきゃならないという事情があると思います。
いま、「いやあ、そんなややこしいことをいっていたら苦しくてしようがないから、まあそういうのは棚上げしておいて、目先、用が足りればいいじゃないか」という考え方が強いですけれども、それだと日本の国の将来についてはプラスにならないという問題があるように思います。
問 ですから通常私どもが毎日見ている新聞も、よくわからない外来語をふんだんに取り入れて話しているわけですよね。そういう影響もあると思いまして。
私の場合は、へたな英語を使うわけなんですけど、英語をしゃべるときは当然英語になりますが、日本語を話すときには、できるだけ言葉を選んで、別に外来語を使わなくても、カタカナ語を使わなくたって、立派な日本語が存在しているわけですよね。それをやはりできるだけ探して使おうと努めているんですが、それでよろしいわけですか。
答 うん。だからそういう点では、意味のわからないことをいい合ってもぜんぜん価値がないということ。お互いに意味のある言葉を使ってどっちが正しいかという議論をして初めて文化が進むんであって、そういう習慣が消えてしまうと文化そのものが非常に危険にさらされるという心配があると思います。
問 「画餅」というのは、連想的に考えたんですけど、たとえば地図と現実の土地とか地面ですね、地図がないと実際何とか町の何とかとか、銀行がどこにあるというのは地図がないとわからない。それからたとえば家の設計図と実際の家。設計図がないと家はわからないし、家の中で行ったり来たりするのも地図があればわかると。そういうようなことを連想したんですけど、それでいいんですか。
答 うん、そういう問題と関連しているんです。つまりね、地図は実体じゃないという理解の仕方をするけれども、旅行する場合に地図があるとないでは大違い。
だからここで画にかいた餅というものを世間一般では役に立たないものとしてバカにするけれども、画にかいた餅そのものも価値があるんだ。餅というものはどんなものか姿で見せているんだ。そういう点では、画にかいた餅というものにもそれなりの存在価値があって、そのことに気がつかないと本当のものがわかってこないという主張なんです。
問 もっと観念的にいいますと、具象と抽象といいますか、具体的なこととさらに抽象したことと、抽象したことから具象という、このやりとりのことをこの巻ではいっているんですか。
答 そうそう。だからそういう点では、抽象的な説明は役に立たない、現実さえわかっていればいいんだということではないというのが道元禅師の主張なんです。抽象的な言葉を使って議論ができるんだし、そういう議論をすることによって実体の意味がわかってくるという問題もあるから、抽象的な議論は全部だめだ、価値がないという考え方は正しくないという主張をここでは「画餅」という言葉を使って説明しているということになると思います。
問 どうもありがとうございました。
それでは、時間がきたようですから、普回向を唱えて終わりにしたいと思います。
普回向 唱和