開経偈 唱和

 先日来、中国におきまして日本の商店、その他が攻撃を受けまして、排日運動、あるいは抗日運動が始まるのではないかというおそれがあるわけでありますが、そういう小売業、その他の関係だけでなしに、日本と中国は非常に大きな経済関係がありますから、そういう問題が急激に全般に広がって日本の経済に大きな打撃を与えるというところまではまだ考えなくていいのではないかという見方をしております。

 ただ、むしろそういう中国、日本との間の貿易関係よりは、排日、抗日の運動が日本の国内の政治に影響を与えるのではないかと、そういう見方をしております。

 なぜそういうことを考えるかといいますと、日本の経済がそういう形で不利な状況になる可能性が出て来ますと、財界のほうからもそういう経済的な不利な状況を避けなければならないという事情が出てまいりますから、小泉内閣の存続が問題になってくるという事情が起きる可能性があるような見方をしております。

 かつて中曽根内閣が内閣を何回か続けまして最終段階になったときに、任期の終わりまで維持できたということの一つは、次に強くなってくる政権といわば協調的な政策をとったという事情がありますが、小泉内閣の場合にはむしろその反対であって、自分の主張をあくまでも貫いていく、自分の主張が通らなければそれでやむを得ないというふうな姿勢が非常に強く見えますから、そういう政治問題が日本の国内で起きるという心配が出て来たように見ております。

 一つの政権がもう終期が見えてきたということになりますと、反対派の人々はその倒れかけている政権に対して反抗することが怖くなくなる。だからいわば寄ってたかっていじめようという考え方もありますし、それに対する対抗勢力がそれを維持するだけの力を持っているかどうかというようなことが具体的に出て来るわけでありますから、小泉内閣の任期が終わる以前にどちらが強いかということを力で決めようという必要性も出て来るのではないかなあというふうな考え方を持っております。

 そういう点では、外国の一つの動きが日本の政権を左右するというふうなことはたいへん残念なことではありますが、軍隊を持っていない国家というのはそういう目に遭うことが避けられない。軍隊を持っていないということは、日本のために非常にいいことではありますが、今日の世界情勢の中では、やはり武力をはっきり持っていないと国際的な問題の解決が非常に難しくなる。

 そういう一つの例として竹島の帰属なんていうことも出て来ているわけでありますが、そういう点では、今日の世界はまだそれぞれの武力を持っていないと国際関係においてはしばしば泣き寝入りをしなければならないという事情に置かれているように思います。

 「いやあ、泣き寝入り結構じゃないか。平和が守れればこれにこしたことはない」という考え方もあるかもしれませんが、そういうふうな現実の問題が起こりつつあるということは事実としていえるのではないかと、そういうふうな見方をしているわけであります。

 

 それではまたこの「正法眼蔵画餅」の巻に入っていきますと、きょうは二一六ページの「不充飢といふは」というところからになるかと思います。「不充飢」というのは「飢ヲ充タサズ」ということでありまして、「画餅飢ヲ充タサズ」という言葉が少し前に出て来ているわけでありますが、その言葉の意味は、画にかいた餅はひもじさを防ぐ役に立たないと、こういう意味であります。

 その点では、画に譬えることのできるような理論的な側面がわれわれの現実の生活における必要性を満たすだけの力がないと、こういう意味が本来の意味でありますが、道元禅師はその考え方をさらに一歩深く進めて、画にかいた餅がなければ現実の世界もわれわれが認識することができないという考え方も議論の対象として、いわゆる理論的な側面が現実の生活において必ずしも架空なものではない、言葉を使ってさまざまの理論を考える努力が人間社会にないならばこの世の中の本当の事情がわからないという状況もあり得るというふうな主張が行なわれているわけであります。

 そこで二一六ページのところを読んでいきますと、

 「不充飢といふは、飢は十二時使にあらざれども、画餅に相見する便宜あらず、画餅を喫著するに、つひに飢をやむる功なし」、画にかいた餅がひもじさを防ぐことには役立たないという言葉の意味は、「飢は十二時使にあらざれども」、ひもじさというものは二十四時間いつも起こっているわけではない。つまり食事をすれば飢えは解消する。だから飢えというものが二十四時間いつもわれわれを悩ましているということではないけれども、「画餅に相見する便宜あらず」、画に描いた餅を眺めてみただけでは飢えを防ぐことはできない。「画餅を喫著するに、つひに飢をやむる功なし」、画にかいた餅を実際に食べてみても、紙を食べるだけのことであって、ひもじさをとめるだけの力はない。

 「飢に相待せらるる餅なし」、だから画にかいた餅でひもじさを満たすだけの力を持っている画にかいた餅はない。

 「餅に相待せらるる餅あらざるがゆゑに、活計つたはれず、家風つたはれず」、そうして画にかいた餅、つまり抽象的な議論とちょうど見合うような現実の餅というものはこの世の中に存在し得ないから、したがって現実の餅の生き生きとした内容というものは画にかいた餅では伝わってこない。そのことは、現実を中心にした仏教の生活態度も画にかいた餅からは伝わってこないという意味である。

 「飢も一条拄杖なり、横担豎担千変万化なり」、そうして、飢えというものも一本の杖と同じような現実の事態であるけれども、その現実の飢えというものは、「横担豎担千変万化なり」、「担」という字は担ぐという意味であります。したがって一本の杖であっても横に担ぐ場合もあれば縦に担ぐ場合もある。その取り扱いの要素はさまざまの性質を含んでいる。

 「餅も一身心現なり、青黄赤白・長短方円なり」、それと同じように、現実の餅というものは、「身」は体、その次の「心」が心、体と心とが一つに重なった現実のものである。「一身心現」というのは、餅といえどもその持っている意味と食料としてのエネルギーとが一つに重なった現実のものである。そのような現実の餅というものは青、黄色、赤、白というふうなさまざまの色の餅があり得るし、その姿形も長いもの、短いもの、四角いもの、丸いものというふうにさまざまのものが現実の餅としてある。

 「いま山水を画するには、青緑丹雘をもちゐ、奇巌怪石をもちゐ、七宝四宝をもちゐる」、それと同時に、特に山や川のような自然の画をかく場合には、「青緑丹雘をもちゐ」、青や緑や赤やさらに濃い赤や、あるいは非常に珍しい形をした岩、あるいは非常に不思議な形をした石というふうなものを使い、「七宝四宝をもちゐる」、さまざまの宝玉に類するような材料も使うし、それから「四宝」を使う。「四宝」というのは何かといいますと、中国では字を書いたり、画をかいたりするときに筆と墨と硯と紙と四種類のものを使うわけでありまして、その筆と墨と硯と紙が「四宝」であります。だから画をかく場合にも筆、墨、硯、紙を使うということも当然行なわれている。

 「餅を画する経営もまたかくのごとし」、その点では、画をかく場合の努力もそのような実際にさまざまの材料を使って画をかくということが事実である。

 「人を画するには四大五蘊をもちゐる」、また、人間というものを画にかこうとするならば、地・水・火・風というふうな物質的なものが材料になるし、それから色・受・想・行・識というふうにこの世の中を物質と、感覚的な能力と、ものを考える頭の働きと、実際に行なう行動と、それから生まれてくる人間の心というふうなものを材料にして人間とはどんなものかということを描写する。

 「仏を画するには泥龕土塊をもちゐるのみにあらず、三十二相をもちゐる、一茎艸をもちゐる、三祇百劫の熏修をももちゐる」、そこで、今度は真実を得た人、仏というものを画にかく場合には、「泥龕土塊」、「泥龕」というのは泥でできた壁に四角い仏像、その他を置くような穴を掘ったものであります。それから仏像をつくる場合に土の塊を使う場合もある。それだけではなしに、釈尊が持っておられたといわれている三十二の体や表情の特徴というものを使うということも行なわれるし、あるいは一本の草を仏に見立ててそれを礼拝した子供の話も伝わっている。「三祇百劫の熏修をももちゐる」、「三祇」も「百劫」も非常に長い時間でありますが、非常に長い時間仏道修行をするというふうなことも実際に行なわれている。

 「かくのごとくして一軸の画仏を図しきたれるゆゑに、一切諸仏はみな画仏なり、一切画仏はみな諸仏なり」、このようにさまざまの材料を使って仏というものが出来上がっているんだから、そういう意味で真実を得たすべての仏と呼ばれるものは、いずれも仏という概念、仏という言葉を使って表現されている面がある。

 「画仏」というのは、そういう意味で仏という言葉があるから、われわれは仏とはどんなものであるかを考えることができる。そういう意味では、仏というものも現実の存在ではあるけれども、その現実の存在をとらえるためには、われわれが頭の中で考える抽象的な概念も必要である。

 「一切画仏はみな諸仏なり」、そういう形で人間の頭の中で考えられた仏というものもすべて現実の仏と違うものではない。

 「画仏と画餅と検点すべし」、そこで、仏というものが仏という言葉と切り離せない関係があるというのと同じように、画にかいた餅も実際の餅と切り離すことができないという点をよく調べてみるべきである。

 「いづれか石烏亀、いづれか鉄拄杖なる、いづれか色法、いづれか心法なると、審細に功夫参究すべきなり」、そこで、「石烏亀」というのは石でできた真っ黒の亀という意味であります。石でできた真っ黒の亀というものがどういうものを意味するかというと、言葉では想像することのできないような存在を指すわけであります。それから、「いづれか鉄挂杖なる」、また、われわれの生きている世界を一本の鉄の杖に譬える表現の仕方もあるけれども、その表現がどういうことを意味するのかということも検討しなければならないし、それと同じように、「いづれか色法」、「色」というのは物質を指しておりまして、「法」というのは釈尊の教えという意味がありますから、この世の中は物質の世界であるけれども、それと同時に釈尊の教えに満ちあふれた存在でもあるという意味から、われわれの現実の世界というものは物質もあれば理論的な教えでもあるという意味で、その「色法」というものはいったいどういうものか。「いづれか心法なると」、また人間には優秀な頭脳があって、心の働きというものがあるけれども、その心の働きとわれわれが生きている宇宙とも一つのものであって、別々に切り離すことができない。その「心法」と呼ばれるものはいったいどういうものであるか。「審細に功夫参究すべきなり」、十分にその辺の物と意味との様子を考えてみるべきである。

 「恁麼功夫するとき、生起去来は、ことごとく画図なり」、こういう形で事態を現実の事態として考えていくと、われわれが生き死にの問題、去って行ったり、また到来するというふうな現実の事態というものが、すべてが抽象的な概念という性格を持っているということも否定できない。「恁麼功夫するとき」というのは、このように物と心とが一つだという考え方を持つならば、われわれの日常生活の生き死にも、さまざまのものが去り、またさまざまのものが到来するという現実の流れも、全部がわれわれの頭で考えた抽象的な言葉だというふうに考えられないこともない。それが「生起去来は、ことごとく画図なり」。

 「無上菩提、すなはち画図なり」、そうしてみると、釈尊がお説きになった最高の真実というものも、やはり画と同じように抽象的な概念であるというふうな性格も同時に持っている。

 「おほよそ法界虚空、いづれも画図にあらざるなし」、そうしてみると、一般的にわれわれが住んでいるこの宇宙も、宇宙と同じ大きさのある空間というものも、すべてわれわれの頭の中で考えた抽象概念でないとはいえない。

 こういう形で、画にかいた餅という言葉を使って、それは飢えを満たすことができないから実質的な価値がないという考え方があるけれども、道元禅師はその考え方が正しいかどうかは疑問だ。人間が脳細胞で考える内容というものが人類にとっていかに貴重であるかというふうなことも事実として存在する。だから理論的なものは実際でないから価値がないという考え方が果たしてとれるのかどうかたいへん疑問だと、こういう主張を述べているわけであります。

 このことは、画にかいた餅はひもじさを満たすことができないという言葉を考えて、だから抽象概念の価値というものは存在しないというふうな考え方があるけれども、道元禅師はそういう単純な考え方でわれわれの生きている実際の世界を割り切ることができるのかどうかと、こういう疑問を述べておられるわけであります。

 そうしてその後、そういう問題を取り上げることのできるような過去の祖師方の言葉を引用して、さらに抽象概念と、物質の世界と、その二つを重ねた現実の世界との関係を述べておられるということになります。

 それが二一九ページから始まるわけでありまして、

 「古仏言、道成白雪千扁去、画得青山数軸来」、過去の祖師方がいわれた。これは中国の祖師の言葉でありまして、「道ハ成ジテ白雪千扁シ去リ」、仏道修行の結果、自分は仏道修行の目的を達成した。つまり現実の世界が見えてきた。現実の世界を肌身で感ずることができるようになった。その状況の中で、いま現に眼の前で白い雪が無数に降ってきている。そのことを「道ハ成ジテ白雪千扁シ去リ」、これは、雪が降るような形で一切の問題が消えたという表現にもなりますが、真実を得たとはいっても眼の前に白い雪が無数に降っているという姿そのものが現実だという事情もある。

 そこで、「画キ得テ青山数軸来ル」、そういう形で眼の前に青々とした山が見えている。そういう青々とした山の姿というものが自分にとっては画のような形で見えてきている。それを「画キ得テ青山数軸来ル」、この言葉も、仏道の究極に達し、現実の世界がどんなものかということが現に見えてきている、自分自身の問題としてとらえることができるようになっていると、こういうことの表現であります。

 そこで道元禅師がこの言葉の解説をされて、

 「これ大悟話なり、弁道功夫の現成せし道底なり」、これはまさに釈尊のお説きになった真実がわかった人の表現である。「弁道功夫の現成せし道底なり」、坐禅をして努力をした結果、現実の世界が具体化してきたという状態の中から述べられた言葉である。

 「しかあれば得道の正当恁麼時は、青山白雪を数軸となづく、画図しきたれるなり」、この表現から考えてみると、真実を得た人のまさにその瞬間における状況というものは、眼の前の青い山も、現に降っている白い雪も幾つかの画のように見えるといわれているのであるし、その点では現実の世界を今度は逆に画のような姿形として、あるいは抽象的な言葉で表現できるものとして感じ取っておられるということも同時にある。

 「一動一静、しかしながら画図にあらざるなし」、したがってわれわれの日常生活におけるほんのわずかの動き、あるいはほんのわずかの動かない状態、そういうものも、「しかしながら画図にあらざるなし」、すべて画のような姿を持っているということを否定できない。だから画にかいた餅は飢えを満たすに足りないといって抽象的な概念を軽く見るということは、本当の現実が見えていないということがいえるのかもしれないと、そういう主張であります。つまりわれわれの日常生活のすべてが画のような性質を同時に持っている。

 「われらがいまの功夫、ただ画よりえたるなり」、われわれが現に仏道修行をして何らかの実体に触れることができているということも、なぜそういうことが得られたかというならば、われわれが仏という言葉を持ち、修行という言葉を持ち、努力という言葉を持っているというふうな言葉があればこそ、その実体が経験できたというふうな事情も同時にある。

 「十号・三明、これ一軸の画なり」、釈尊の名前を呼ぶ場合に十の呼び方がある。それは漢訳経典でいくと、如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏世尊という十の名前でありますが、そのような釈尊を呼ぶ場合に使われる十の呼び方も、あるいは「三明」という言葉で表されるように人間が過去のことを知ることができる。つまり、人間に歴史という考え方があり、その研究が非常に進んでいるというふうなことと、「宿命通」、過去の事実がよくわかるというふうなこととは密接に関係しているわけであります。それから「天眼通」というのもこの世の中の現実がよく見えるという意味でありまして、眼の前に見えている世界が単に眼に入ってくる感覚的な刺激だというふうなとらえ方ではなしに、あるいは眼の前の世界が神のような精神的な意味を持っているというふうなとらえ方ではなしに、現実の事態がよく見えるというふうな能力が「天眼通」であります。それから「漏尽通」というのは、われわれの体、心が均衡した状態になって、人間を悩ますさまざまのものから解放された状態という、三つの人間のあり方が「三明」と呼ばれるわけであります。

 そしてそういう優れた人間の状態というものも、「これ一軸の画なり」、考えによっては、人間が「十号」という釈尊の呼び方を持っている、あるいは「三明」と呼ばれる三種類の能力を持っているという考え方そのものが、釈尊の様子がどんな様子か、あるいは真実を得た人の能力がどういう内容のものかというふうなことを示してくれている。

 「根・力・覚・道、これ一軸の画なり」、仏道の世界では、五根とか、五力とか、七等覚支とか、八正道というふうにさまざまの項目を挙げて仏道の世界の説明をしているけれども、そういう五種類の素質、あるいは五種類の力、あるいは七種類の真実の現れ方、あるいは八種類の正しい教えというふうなものも、またそういう五根とか、五力とか、七等覚支とか、八正道というふうな言葉によって表された面があって、その点では一種の画だというふうなとらえ方も同時にあり得る。

 「もし画は実にあらずといはば、万法みな実にあらず」、そこで、画というものは真実ではないというとらえ方をするならば、この世の中の一切のものがすべて真実ではなくなる。

 「万法みな実にあらずば、仏法も実にあらず」、われわれの生きているこの宇宙が真実でないならば、釈尊の教えも真実ではあり得ない。

 だからこういう表現の中に仏教哲学がきわめて明快な現実主義であるという考え方が含まれているわけであります。こういう仏教が現実主義であるというとらえ方が今日までの仏教の世界では非常に少ないところから釈尊の教えがはっきりしなくなっている。そこで、この『正法眼蔵』に書かれたような現実主義の立場で仏教を理解することがいかに大切かということがあるわけでありますが、不幸にして今日の仏教界では道元禅師のように釈尊の教えが現実主義であるという考え方をとる例が非常に少ない、ほとんどないということがあるわけであります。

 だからわれわれがなぜ『正法眼蔵』を読むかというと、『正法眼蔵』を読むことによってほかの仏教書には書いていない本当の仏教が勉強できるという点があるわけであります。そういうところにこの『正法眼蔵』の意味がある。

 『正法眼蔵』というのは難しい本だ、幾ら読んでもよくわからない、こういう難しい教えでは救いにならないと、こういう立場もあるわけでありますが、仏教を勉強する上においては本当のことの書かれている本を読むということが非常に大切で、本当の仏教かどうか疑わしいような理論が非常に美しく書いてあったとしても、それは仏教の勉強には何の役にも立たない。仏教を誤解させるためにだけ役立つというふうな奇妙な状態があるわけであります。

 そこで、「万法みな実にあらずば、仏法も実にあらず」、宇宙全体が真実でなければ、釈尊の教えも真実ではあり得ない。こういう道元禅師の表現が仏教を理解する上においていかに貴重な意味を持っているかということになるわけであります。

 「仏法もし実なるには、画餅すなはち実なるべし」、仮に釈尊の教えが真実であるとするならば、画にかいた餅といえども真実であって、それなりの実在であると、こういう主張をしておられるわけであります。

 

 その次に二二〇ページのところにいきますと、

 「雲門匡真大師、ちなみに僧とふ、いかにあらんかこれ超仏越祖之談。師いはく、糊餅」、雲門匡真大師という方は雲門文偃禅師と呼ばれた人でありますが、あるとき僧侶が質問した。「いかにあらんかこれ超仏越祖之談」、「仏道の世界では仏を超越する、祖師を超越するというふうな主張がありますが、その仏を超越し、祖師を超越するという言葉の意味はどういうことでしょうか」という質問をした。そうすると雲門文偃禅師が「米の粉でつくった餅だ」ということをいわれた。これは、米の粉でつくった現実の餅、それがこの世の中の実体であると。仏を乗りこえる、祖師を乗りこえるといってみても、そういう仏や祖師の境遇を超越して現実に触れること、実際に米の粉でつくった餅そのものが「超仏越祖之談」だと。仏というものを乗りこえ、祖師というものを乗りこえて現実に出会った姿だと、こういう主張をしておられるわけであります。

 そこで道元禅師がこの言葉に解説をされて、

 「この道取、しづかに功夫すべし」、この言葉をゆっくりと考えてみるべきである。「功夫」という字には努力するという意味と考えるという意味がありまして、ここでは「しづかに功夫すべし」というのは、この雲門文偃禅師の言葉を十分に考えてみるべきである。

 「糊餅すでに現成するには、超仏越祖の談を説著する祖師あり、聞著せざる鉄漢あり、体得する学人あるべし」、そこで、この雲門文偃禅師がいわれた米の粉でつくった餅というものが現実の内容そのものであり、それが仏の境地をこえ、祖師の境地をこえる主張を説明している。

 そのことは、仏といえども、祖師といえども、本当のことがわかってきたときには、現実そのものがどういうものかわかっていることを意味する。現に現実を体験しているということが「超仏越祖」という言葉の意味である。その点では、現実の米の粉でつくった餅が「超仏越祖」の主張だということがいえると同時に、そういう言葉はぜんぜん耳に入らないで、聞くことのできないような熱心な仏道修行者もいる。またそれを坐禅の修行を通じて体で実感することのできる仏道修行者もあるであろう。

 「現成する道著あり」、その点では、単に架空な抽象的な議論ではなしに、現実の事態として現れてくる主張というものもあり得る。

 「いま糊餅の展事投機、かならずこれ画餅の二枚三枚なり、超仏越祖の談あり、入仏入魔の分あり」、このような形で、米の粉でつくった餅が現実のものであるということがわかってくると。「展事投機」というのは、事実が眼の前に展開している。「機」というのは現在の瞬間でありまして、現在の瞬間にわが身を投ずるというのが「投機」という言葉の意味であります。そこで、眼の前に現実があり、その中で自分が瞬間瞬間に生きているというふうな「展事投機」という言葉についても、「かならずこれ画餅の二枚三枚なり」、架空のものではなしに、二つ三つの餅であり、その二つ三つの餅は画餅と呼ばれるような抽象概念の性質も同時に含んでいる。

 そのことが「いま糊餅の展事投機」、米の粉でつくった餅というものの現実の姿というものは、「かならずこれ画餅の二枚三枚なり」、例外なしに画にかいた餅が二つある、画にかいた餅が三つあるというのと事実は変わらない。餅という概念があり、その餅という概念が二つ三つのものとして表されているというふうな事実を否定できない。したがって、そういう現実の米の粉でつくった餅といえども、真実を得た人以上の教えを説いているし、歴代の祖師方以上の教えを説いている。それが「超仏越祖の談あり」。

 「入仏入魔の分あり」、仏の境地に入れるだけの力量もあれば、悪魔の世界に入って行けるような力量もある。それが「入仏入魔の分あり」という言葉の意味であります。

 この言葉を読みますと、仏に入って行くというのはわかる、悪魔に入って行くというのは困るじゃないかという問題が出て来るわけでありますが、仏道の世界は現実がよくわかるということが実情でありますから、この世の中においてもとてつもなく正しい人格もあれば、とてつもなく悪い人格もある。その両方があるということがわかってこないと現実の世界はわからない。

 だから世の中をきれいごとだけに見て、「あいつらは汚い。ああいう悪い奴はこの世からなくしたほうがいい」というふうな考え方もあり得るわけでありますが、逆に「悪いことをすれば悪いことをするほど得だ。俺はそっちの道を選ぶ」という考え方もある。釈尊の教えはそういう二つのものを乗りこえたところに真実がある、仏がいると。

 だから真実がわかってくるということは、この世の中がいかに中身が悪い面もあるというふうなことがわかってくることも大事なことで、自分の眼の入るところはみんなきれいなことだけに限定して、悪いことは見ない努力をしているというふうな生き方もありますが、釈尊はそういうことをいわれていない。この世の中の現実がどういうものかをいいも悪いも全部知らなきゃだめだと。そういう意味で「入仏入魔の分あり」ということをいわれているわけであります。

 

 そうして二二二ページのところにいきますと、

 「先師道、修竹芭蕉入画図」、「先師」というのは道元禅師の亡くなった師匠である天童如浄禅師でありますが、その天童如浄禅師が「長い竹も芭蕉も画として見える」ということをいわれた。つまり現実の世界が画として見えるというふうなことが、現実がよく見えているということの一つの表現に使われているわけであります。

 そこで道元禅師が解説をされて、

 「この道取は、長短を超越せるものの、ともに画図の参学ある道取なり」、この言葉は長い、短いというふうな眼に見える違いというものを乗りこえた立場で、しかもこの世の中を一つのまとまった画として眺める勉強から生まれた言葉である。

 「修竹は長竹なり」、「修竹」という言葉は長い竹という意味である。

 「陰陽の運なりといへども、陰陽をして運ならしむるに、修竹の年月あり」、そこで、竹といえども陰と陽との二つの要素から出来上がっているということはいえるけれども、「陰陽をして運ならしむるに、修竹の年月あり」、その陰陽というふうな二つの要素が実際に動いている現実の世界の中では、長い竹というものも具体的に存在して、それが年月を経ている。

 「その年月陰陽、はかることうべからざるなり」、こういう年月にわたってわれわれの周囲にある陰陽の現実というものは想像することができない。それは無限の内容を持っている。非常に複雑な内容を持っている。

 「大聖は陰陽を覰見すといへども、大聖、陰陽を測度することあたはず。陰陽ともに法等なり、測度等なり、道等なるがゆゑに、いま外道二乗等の心目にかかはる陰陽にはあらず」、「大聖は陰陽を覰見すといへども」、偉大な聖者、釈尊のような真実を得られた方々は、「陰陽を覰見すといへども」、この世の中が陰と陽との関係で出来上がっているというふうなことをわずかにのぞき見るということはできたけれども、「大聖、陰陽を測度することあたはず」、どんな優れた真実を得た人といえどもその陰陽の内容がどんなものかということを頭で考えて考え尽くすことはできない。それほど現実というものは複雑なもので無限な内容を持っている。

 「陰陽ともに法等なり、測度等なり、道等なるがゆゑに」、なぜかというと、陰と陽との要素で表現されているこの現実の世界というものも、宇宙全体が均衡している。「等」というのは等しいという字で均衡しているということであります。「測度」というのはものを考えること。ものを考えることも均衡がとれている。「道等なるがゆゑに」、真実そのものも均衡がとれている。だから仏教思想ではこの世の中の一切が均衡がとれているという主張をしておりまして、そのことが陰陽というふうな問題についての実体である。

 この陰陽というものをどう理解するかということについて、私が絶えず述べております自律神経のバランスというものと密接な関係がある。交感神経の働きを陰と考えるならば、副交感神経の働きが陽というふうにとらえることができて、その二つの要素、これは人間の体だけではなしに、宇宙の一切にみなぎっていて、その両方が等しい関係に均衡しているのがこの宇宙の実情だ。

 こういうところから考えていくならば、宇宙全体を支配している陰と陽との二つも、宇宙が均衡している、頭の働きが均衡している、真実が均衡しているというふうな状況と同じ事実であって、「いま外道二乗等の心目にかかはる陰陽にはあらず」、仏教を信じていない人々、あるいは声聞、縁覚と呼ばれるような人々が考え、見ているような陰陽とは違う。

 「これは修竹の陰陽なり、修竹の歩暦なり、修竹の世界なり」、その点では、この天童如浄禅師の言葉の中で長い竹という言葉が出てくるけれども、その長い竹が現実に持っている内容が陰陽であり、それが長い竹のどんな過去があるかというふうなことの歴史的な意味を持っており、「修竹の世界なり」、長い竹のような現実のものの寄り集まりの世界である。

 「修竹の眷属として十方諸仏あり」、そういう意味で、現実の長い竹の一属としてあらゆる方角に広がった真実を得た人々の存在もある。

 「しるべし、天地乾坤は修竹の根茎枝葉なり」、「乾坤」というのは方角の名前でありますが、そういう二つの方角の名前を使って宇宙全体を表すという意味があるわけであります。そうしてみると、大空も、大地も、乾坤と呼ばれるような宇宙全体も、長い竹の根であり、茎であり、枝であり、葉であるにすぎない。

 「このゆゑに天地乾坤をして長久ならしむ、大海・須弥・尽十方界をして堅牢ならしむ、拄杖・竹箆をして一老一不老ならしむ」、その点では、「天地乾坤をして長久ならしむ」、宇宙全体というものが永遠のものであるというふうな実情が現れてきているし、「大海・須弥・尽十方界をして堅牢ならしむ」、大海も、世界の中心にある須弥山も、あるいはあらゆる方角というものも非常に堅固な世界であり、「拄杖・竹箆をして一老一不老ならしむ」、具体的な杖や、具体的な竹の仏教僧を指導するときに使う道具でありますが、それが古くなっているものもあれば、古くなっていないものもあるというふうな現実の実情そのものである。

 「芭蕉は、地水火風空・心意識智恵を、根茎・枝葉・華果・光色とせるゆゑに、秋風を帯して秋風にやぶる、のこる一塵なし、浄潔といひぬべし」、そうしてみると、いま現に庭の中に生えている芭蕉といえども、「地水火風空」という物質的な要素、あるいは「心意識智恵」というふうな精神的な要素、その両方を根とし、茎とし、枝とし葉とし、花とし、果実とし、輝かしさとし、また物質としているところから、「秋風を帯して秋風にやぶる」、そういう現実の芭蕉であるから秋風に吹かれて破れている。「のこる一塵なし」、芭蕉は芭蕉そのものとして現実の存在としてそこにあるのであって、芭蕉以外のものではない。「浄潔といひぬべし」、実に清らかなあり方である。この現実の世界というのは一切が清らかな世界であると、こういう主張であります。

 「眼裏に筋骨なし、色裏に膠 あらず、当処の解脱あり」、その点では、眼の中に筋肉や骨があるわけではない。物質の世界の中に、「膠 」というのは体に出る脂を意味するわけでありますが、そのような余分なものは存在しない。「当処の解脱あり」、現に現在の瞬間においてありのままの姿を示している。

 「なほ速疾に拘牽せられざれば、須叟刹那等の論におよばず」、そのような現実の芭蕉のあり方というものは、速いというふうなことに縛られていない。現在の瞬間の事実である。「須叟刹那等の論におよばず」、しかも現在の瞬間とか短い時間というふうな須叟刹那等の議論を超越している。

 「この力量を挙して、地水火風を活計ならしめ、心意識智を大死ならしむ」、そのように現実をとらえる力を取り上げて、「地水火風を活計ならしめ」、われわれの住んでいる宇宙を形成している大地とか、水とか、火とか、風を生き生きとしたものにさせる。「地」というのは固体を指しておりますし、「水」というのは液体を指しております。それから「火」というのは今日の言葉でいえば酸化現象でありまして、「風」というのは気体を指しております。そういう物質的な世界も生き生きと活躍している。「心意識智を大死ならしむ」、その点では、心や意識や直観的な能力というものを、ありのままの姿で働いており、その点では動揺したり、変化したりするような形のものではなしに、きわめてゆったりとした本来の状態で存在している。

 「かるがゆゑにこの家業に、春秋冬夏を調度として受業しきたる」、このようなところから、仏道の世界においては、「春秋冬夏を調度として受業しきたる」、春や秋や冬や夏も人間生活の道具としてその中で行ないが行なわれている。

 「いま修竹芭蕉の全消息、これ画図なり」、その点では、長い竹も、芭蕉も、そのすべての様子が何かというと、画に譬えられるような抽象概念というものも否定できない。

 「これによりて竹声を聞著して大悟せんものは、龍蛇ともに画図なるべし、凡聖の情量と疑著すべからず」、その点では、風に竹の葉が吹かれて聞こえてくる音も、それが原因になってこの世の中の真実を知るというふうなことも、「龍蛇ともに画図なるべし」、画の立場で考えてみれば、龍の画も蛇の画も画であることには変わりがない。「凡聖の情量と疑著すべからず」、その点では、龍とか蛇とかいうものの画は現実のものと無関係だというふうな考え方をして物事を疑うべきではない。「情量」というのは感情的な考えという意味であります。

 「那竿得恁麼長なり、這竿得恁麼短なり、這竿得恁麼長なり、那竿得恁麼短なり」、その点では、中国の祖師がいわれたように、あの竹はあんなふうに長い、この竹はこんなふうに短い、あるいはこの竹はこのような長さを持っており、あの竹はこのような短さを持っているというふうな表現のいずれもが、この現実の世界の具体的な姿を表している。

 「これみな画図なるがゆゑに、長短の図かならず相符するなり、長画あれば短画なきにあらず。この道理あきらかに参究すべし」、こういう世の中で見えるものというものは画としての性格を持っている。そこで、長い竹も短い竹もそれぞれの現実に適合しているのであって、「長画あれば短画なきにあらず」、長い竹の画もあれば短い竹の画もある。「この道理あきらかに参究すべし」、このような基本原則をはっきりと勉強すべきである。

 「ただまさに尽界尽法は画図なるがゆゑに、人法は画より現じ、仏祖は画より成ずるなり」、このような形で、「尽界尽法」、このすべての世界も、その世界にみなぎっている原則も、見方によっては画である。したがって、「人法は画より現じ、仏祖は画より成ずるなり」、人間の実体というものも、画に譬えることのできるような抽象概念がなければ表すことができないし、真実を得られた方々も抽象概念があればこそどんなものかがわかるのである。

 「しかあればすなはち、画餅にあらざれば充飢の薬なし」、そうしてみると、画にかいた餅がなければ飢えを満たすことができるようなものはあり得ない。

 「画飢にあらざれば人に相逢せず、画充にあらざれば力量あらざるなり」、その点では、飢えという抽象概念があり、腹が満ちたというふうな抽象概念があるからこそ、人間の文化についてもその力があるのである。

 「おほよそ飢に充し不飢に充し、飢を充せず不飢を充せざること、画飢にあらざれば不得なり、不道なるなり」、その点では、飢えを満たすとか、飢えを満たさないとかいうふうな具体的な事例、あるいは飢えを満たさないとか、飢えを満たさないことを満たさないというふうな現実の姿というものも、「画飢にあらざれば不得なり」、抽象概念としての飢えというものがないと実体をつかむことができない、言葉で表現することができない。

 「しばらく這箇は画餅なることを参学すべし」、そうしてみると、現実のこの場所そのものが画にかいた餅であるということを勉強すべきである。

 「この宗旨を参学するとき、いささか転物物転の功徳を身心に究尽するなり」、このような教えを勉強することによって、物を動かしたり物が動いたりする性質というものがわれわれの体や心の中に十分にあふれてくるのである。つまり、現実のものが見えてくると物質を動かすことができるし、また物質が自分の力で動くという成果も現れてくる。

 「この功徳いまだ現前せざるがごときは、学道の力量いまだ現成せざるなり」、だから現実のものがよくわかって事態をどう動かせるかというふうな状況が出て来ないと、仏道を勉強した力がまだ具体化していないというふうにいえる。

 「この功徳を現成せしむる、証画現成なり」、したがって、現実がよく見えて、その事態をどう処理することができるかというふうな力を具体化させるのが、「証画現成なり」、画というものの本当の意味がわかったことを意味する。

 「正法眼蔵画餅」

 「爾時、仁治三年壬寅十一月初五日、在于観音導利興聖宝林寺示衆」、これが西洋の紀元でいきますと一二四二年の旧暦の十一月の初旬の五日であった。観音導利興聖宝林寺においてたくさんの人々にこの説法をした。

 以上が「画餅」という巻の全体であります。ここで説いていることが何を意味するかというならば、仏道の世界では、抽象概念、抽象概念といってばかにする考え方があるけれども、実は逆に抽象概念がないとこの世の中の本当のものはつかめないと、そういう事情が同時にあるんだということを道元禅師が説いておられるということになります。

 

 きょうは最後までやろうと思いましたので少し時間が足りなくなりましたが、ここで話のほうをとめてご質問を受けるということにしたいと思います。何かありましたらどうぞ。

 

   ある人物を評価するに当たりまして、直接つき合って観察すればこの人はどういう人かということがある程度わかるんですけれども、画餅というのはたとえば履歴書のようなものだと考えれば、履歴書を見せていただいてそこのデータをよく観察すれば、それによってもだいたいどういう人かある程度わかりますね。だからやはり直接おつき合いするということも大事だし、履歴書を見るということもそれなりに役に立つと、両方あると思うんですけど、やはり道元禅師は具体的にものを考える能力がかなり高い方だなあというふうに感じますが、そういうことでよろしいわけですか。

   うん。それと同時に、この巻はね、抽象概念をばかにしちゃいかんという教えなんです。つまり仏法の世界からいうと、言葉の説明は実体と違う、言葉の説明は役に立たないという思想があるけれども、道元禅師はさらにそれから一歩進んで、言葉の説明がなければ現実はわからないと、そういう主張をしておられるというのが基本的な意味だということになります。

   二一六ページですけれども、一番おしまいのほうで、「生起去来」も、「無上菩提」も、「法界虚空」もすべて「画図」だと、つまり先生の解釈では、表象、あるいは抽象概念というふうに解釈されていますけれども、こういうふうなものの考え方もできるということですか。

   うん。それと同時に、西洋哲学の歴史でいえば、プラトンも、アリストテレスも、キリスト教神学も、カントも、ヘーゲルも人類にとってそれなりの意味があるという主張なんです。だから、それは観念論だから意味がないということよりは、観念論と唯物論と両方発達したから欧米の偉大な文明があるんだし、それを勉強している日本も勉強するだけの価値があるんです。だから仏教の立場からすると抽象理論は意味がない、唯物論は意味がないといってすましていられないと、こういうことなんです。欧米の観念論、唯物論が人類にとっていかに貴重な存在であるかというようなことをよく知らないとこの世の中の実体は見えてこない。

   二二三ページの後ろから四行目に「転物物転の功徳を身心に究尽するなり」とございますね。「身心に究尽する」というこの表現は、いまの時代のように頭でっかちの時代では道元禅師の発想とはだいぶ違うなと思うんですけれども。要するに頭でも考え、体でも感じる、両方大事だということですね。

 答  そうです。

   この中にはやはり鎌倉時代に出た発想と、いまみたいに頭ばっかりで、データばっかりで生きているような時代と、だいぶ世の中が変わってしまったなというふうに思いますね。

   うん、うん。

   はい、ありがとうございました。

   だからそういう時代を早く乗りこえて現実を見れる時代が日本にも来ないと、日本の国そのものはよくならないという事実があると思います。

 いまの時代はもう「本当のもの」というような考え方から離れてしまっているから、「本当のもの」なんていうと、まあだいたい世間の人はせせら笑う。「あのバカはまだ本当のものがあると思い込んでいる。この世の中はでたらめだらけだよ」という考え方のほうがいまの日本に多いんじゃないかな。だから、少しでも頭をよくして、どうしたら得をするかを考えるべきだというふうな世相がいまの日本の社会だと思う。

 で、それも一種の勉強だと思う。私は日本の国は敗戦後唯物論を徹底的に勉強していると思う。だからいまは唯物論の最盛期だといってもいい。ただ、この時期がどこかで終わりを告げて、本当の考え方が生まれてこないと、日本の文化はもう一度価値のあるものにならない。このまま日本が滅びていくのも日本国民の自由だし、どこかで考え方を変えてもう一度いい国にしようという考え方が生まれてくるのも日本国民の自由だから、どっちの道を選ぶかというのはわれわれの責任だと思う。

 だから私が『正法眼蔵』、『正法眼蔵』といっているのは、そういう面でこの世の中の基準というものを日本社会が回復しないと、日本の文化がもう一度再興できるという可能性が消えてしまう。私は日本の国民は優秀だから、どこかで気がついて転換があると思う。その転換がくるまでには、とてつもなく徹底した唯物論の社会がないと転換ができないという皮肉な事情もあるのかもしれない。いずれにしてもこのままでは日本の国というのはあまりにも惨めな国になってしまうということが避けられないように思います。

   よくこの『正法眼蔵』を皮肉って、いろんな方が「不立文字」といいながら、何でこんな膨大な九十五巻もの『正法眼蔵』かとよくいいますよね。それに対して私はご老師の『永平広録』を読ませていただいて、初めのほうに「いうことなかれ、わが宗に文字なしと」と。いや、わが宗には文字があるんだということを明確にいわれていますよね、私はほかはみんな忘れてしまったんですが、そこだけ覚えています。

 そうするとこの「画餅」の巻というのは、短いですけれども非常に難しい巻で、何回読んでもわからないんですが、まあそれはそれとして。その「いうことなかれ、わが宗に文字なしと」という延長線上といいますか、そういう範疇で、文字、あるいは抽象概念、そういうものも現実主義、現実主義といいながら、実は本質に触れる、文字そのものなんですよというようなとらえ方でいいんですかね。

   うん、そのとおりです。この「画餅」の巻がいっているのはそのことなんです。

   大きくとらえますと、そういう認識でよろしいんですか。

   うん、そういう意味です。

   はい、わかりました。

   だから「不立文字」なんていっているのはのんきな話で、現実というのはそういう浅はかなものじゃないけれども、「不立文字」「不立文字」といってすましていれば、偉そうに見えるんだよ。正直いうと。

 まあ私の表現はあんまり品がよくないから、あまり聞きいい話ではないかもしれないけれども、真実というものはたった一つあるんです。だから右か左に偏ったところで「これが真実だ」といってみても、真実は違う。「真実が真ん中にある」という主張が釈尊の教えだということになります。

   ちょっと細かいところで文字の話なんですけれども、二二二ページの一行目の「修竹」の「修」という字ですが、通常修めるという字なんですけれども、こちらに書いてあるのは、先生の注釈を見ますと、別の文字で表しているんですが、これはまったく同じものと考えてよろしいんですか。

   字は同じです。

 

 それでは、時間がきたようですから、話のほうをここでとめまして、普回向を唱えて終わりにしたいと思います。

普回向 唱和