開経偈 唱和

 先日来、ライブドアという会社の堀江貴文という人がニッポン放送の株を買い占めまして、さらにフジテレビの株式を買うというふうな動きがあったわけであります。

 私はその堀江という人の書いた本を一冊読んでみましたが、その本の内容を読んでみますと、人間でこのくらい忙しい仕事を続けていける人がいるのかと思うくらい毎日の日程が詰まっていて、人に会ったり、会議に出たり、講演をしたり、テレビに出たりというふうな、非常に多忙な生活をしている人だということを知ったわけであります。

 ただ、そういう形の人が何らかの難関にぶつかったときに、自分の力に自信を持って、とうてい解決のつかないような場面に立ち至ったときに現実をよく眺めて自分を抑えて適当に処理する性格の人か、あるいはもう何でも前へ進むんだということで仕事がうまくいかなくなるというふうな形の人か、どちらの人かよくわかりませんで、結果がどうなるかということを眺めていたわけでありますが、最近のニュースによりますと、フジテレビと和解が成立して、堀江という人にかなり有利な条件で問題が片づいたというふうなことがあったわけであります。そういう点では堀江という人は難関にぶつかったときによく状況の判断ができて途中でとまることのできる人だったなという印象を受けております。

 一時、ソフトバンクの孫正義という、これも非常な事業家でありますが、その人が問題に介入してくるという話がありましたけれども、そのことがなくて、堀江という人とフジテレビとの間で和解が成立したということがあったわけであります。

 その点では、堀江という人は意外に現実をよく見る人で、事態がうまくいかないと思うときに、自分で自分をとめることができ、またできるだけいい解決に持って行くことのできる人かなという印象を受けております。

 そういう点では、まだ堀江という人は三十代そこそこの人のようでありますが、その年代の若い日本の人々にはそういう現実を見て対処するという考え方なり姿勢なりがそろそろ出始めているのかなという印象を受けております。

 仏教の教えというのは、われわれが生きている現実を非常に大切にする考え方でありますから、頭で考えて「こうやるべきだ」というふうな考え方の生き方でもないし、現実はどうにもならないんだからあんまり頑張っても仕方がないという考え方でもないし、現実をよく見ながらどうしたら解決が行なわれるかというようなことを考える性格の人かなという印象を受けております。

 恐らく孫正義という人が出て来たときに孫という人と堀江という人とがどう対処するかについて話し合いをしたのではないか。そのことは、孫という人が急にこの事件から手を引くような形が出まして、そこで今回の和解があったというふうなことでありますから、そういう点ではそういう背景の動きもあったのかなというふうな見方をしております。

 いずれにしても放送事業というのは国家的に非常に大事な事業でありますから、あまり大きな問題にならずに、いちおう前向きの方向で問題が解決したというのは日本の国のためにもたいへんよかったと、そういう印象を受けております。

 

 それではまたこの本のほうに入ってまいりますと、きょうは二二九ページの「全機」という巻からになるかと思います。この「全機」という巻は、「全機」という言葉の意味を申しますと、完全な機能の働きという意味でありまして、われわれが生き死の問題を考える場合にも、生きるということも全機能の発現である、死ぬということも全機能の発現である。生きようと死のうとわれわれの人生というものはすべての機能を完全に発揮するところにあるんだという考え方でありまして、そういう考え方で生き死の問題を眺めていくと、生きるということがいつも望ましいとか、死ぬということがいつも好ましくないとかいう態度ではなしに、生きる場合も死ぬ場合も全力を尽くして生き、全力を尽くして死ぬというふうな態度が仏教的な考え方であって、そういう考え方を円悟克勤禅師がいわれた言葉を引用しながら説かれているということになります。

 われわれが人生を考えた場合に、生きるということがどういうことか、死ぬということがどういうことかということが問題になるわけでありますが、仏教ではそういう生きるとか死ぬとかいうことについて意味を考えてみてもあまり役には立たない。それよりも与えられた瞬間を一所懸命に生きていくことが生き死にの問題を解決する現実的な態度だという主張が述べられているということになります。

 そこで本文のほうを読んでいきますと、

 「諸仏の大道、その究尽するところ、透脱なり、現成なり」、「諸仏」というのは真実を得られたたくさんの方々でありますが、そういうたくさんの方々が持っておられた偉大な道、つまり人生をどう生きるかという態度は、「その究尽するところ」、それの最終の段階を考えてみると、「透脱」である、通り過ぎて抜け出すことだ。そのことは、われわれを悩ます考えからも抜け出す。われわれを悩ますさまざまの感覚的な刺激からも抜け出す。そうして、「現成なり」、現実の事態をしっかりとつかむことなんだ。そういう意味で「諸仏の大道、その究尽するところ、透脱なり、現成なり」。

 「その透脱といふは、あるひは生も生を透脱し、死も死を透脱するなり」、そこで問題を通り抜けてしまうということがどういうことを意味するかというと、「あるひは生も生を透脱し」、生きるという問題も問題にしなくなることだ。「死も死を透脱するなり」、死ぬということについても素直にその事実を受け入れて問題を残さないことだ。

 「このゆゑに、出生死あり、入生死あり、ともに究尽の大道なり」、そういう態度で問題を考えてくると、生き死にの問題を抜け出してしまうということも可能だし、また生き死にの問題の中に深入りしていくということも可能だ。そうして、「ともに究尽の大道なり」、生き死にの問題を問題にしなくなる状況も、あるいは生き死にの問題を怖がらずにその中に飛び込んでいくというふうな両方の生き方が、最終の段階における偉大な真実の教えである。

 「捨生死あり、度生死あり、ともに究尽の大道なり」、したがって、われわれの人生においても生き死にの問題を問題にしなくなるという状況もある。それが生死を捨てるという言葉の意味であります。「度生死なり」というのは、生き死にの問題を助けるという意味でありまして、生き死にの問題にしっかりとどう対処したらいいかがわかって、その問題を解決してしまうということでもある。そのように生き死にの問題を離れたり、あるいは生き死にの問題を解決するという態度は、両方とも、「究尽の大道なり」、究極の境地に至った偉大な真実である。

 「現成これ生なり、生これ現成なり」、現にわれわれの周囲に現実があるということも生きるという事実の実体であるし、「生これ現成なり」、生きるということも何かというならば、現に眼の前にある事実である。だから生きるということが単に言葉の問題ではない、あるいはご飯を食べました、寝ましたという問題だけではない。現実の事実そのものが生きるという事実だと、こういう表現であります。

 「その現成のとき、生の全現成にあらずといふことなし、死の全現成にあらずといふことなし」、このような形で現実の事態がどうなっているかということを眺める立場からは、「生の全現成にあらずといふことなし」、生きるということもすべての事実が具体化していることであるし、「死の全現成にあらずといふことなし」、死ぬという事実もあらゆる現実が具体化しているということを意味している。

 「この機関、よく生ならしめよく死ならしむ」、生きるということにも、死ぬということにも、このようにそれらが現在の瞬間におけるあらゆる機能の発現であるという事実があるから、そういうとらえ方をした場合に、現実の生きるということがどういうものであるか、現実の死ぬということがどういうものであるか、それを理屈ではなしに自分の生活事実として実感することができる。それが「この機関、よく生ならしめよく死ならしむ」、つまり生きるということも現実だ、死ぬということも現実だ、そういう大切な理論がはっきりしてくると、生きるということがどういうものか、死というものがどういうものかということが現実に現れてくる。

 「この機関の現成する正当恁麼時、かならずしも大にあらず、かならずしも小にあらず、遍界にあらず、局量にあらず、長遠にあらず、短促にあらず」、そうして、このような大切な働きが現に事実として現れてくるまさにその瞬間においては、「正当恁麼時」というのはまさにこの現実の瞬間という意味でありまして、まさにその現実の瞬間というものは、「かならずしも大にあらず、かならずしも小にあらず」、大きいとか小さいとかいう表現が当てはまらない。「遍界にあらず、局量にあらず」、宇宙全体だという説明も当てはまらないし、きわめて小さなものだ、非常に狭い考えの問題だという表現も当てはまらない。「長遠にあらず、短促にあらず」、長い時間永遠だというふうな抽象的なこともいえないし、非常に短い時間だというふうな説明も当たらない。

 「いまの生はこの機関にあり、この機関はいまの生にあり」、現にわれわれが現在の瞬間において体験している生きるという事実はこのように非常に大切な状況の中にある。「この機関はいまの生にあり」、このような大切な事実が現にいま生きているわれわれの人生の中にある。

 「生は来にあらず、生は去にあらず、生は現にあらず、生は成にあらざるなり」、生きるということは現在の瞬間における現実の事実であって、それがよそからやって来るというものではない。また生きるという事実はどこかへ消え去って行くという性質のものでもない。常に現在の瞬間における事実だ。そこで、「生は現にあらず、生は成にあらざるなり」、生きるという事実がないものが現れてくるという形のものではないし、生きるという事実がまだ完成していなかったものが完成するというふうな時間系列の中で起きる事実でもない。

 「しかあれども生は全機現なり、死は全機現なり」、しかしながら、われわれの現実の瞬間における生きるという事実を考えてみるならば、それはあらゆる機能の発現である。死ぬというものを考えてみると、それもまたあらゆる機能の発現である。生きるという事実、あるいは死ぬという事実が厳然として存在しているというだけのことである。

 「しるべし、自己に無量の法あるなかに、生あり死あるなり」、そこで自分自身を反省してみると、自分自身の中にも限界のない非常に大きな現実という事実があるけれども、その現実の中に生きるという事実があり、死ぬという事実がある。

 「しづかに思量すべし、いまこの生、および生と同生せるところの衆法は、生にともなりとやせん、生にともならずとやせん」、そこで次のようなことを考えてみるべきである。「いまこの生」、現に現在の瞬間において受けているこの生という事実は、並びに生と同時に生まれてくるこの世の中のたくさんのものは、「生にともなりとやせん、生にともならずとやせん」、生きるということと一緒なのか、あるいは生きるということとは別なのかということを考えてみる必要がある。

 そうして、「一時一法としても、生にともならざることなし」、ほんの一つの瞬間、あるいはほんの一つの瞬間における宇宙というものも、生きるということと無関係なものは一つもない。「一事一心としても、生にともならざるなし」、ほんのわずかの事実、あるいはほんの一瞬間における心といえども、生きるということと同時に現れてこないものはない。

 だからそういう点では、われわれの人生を考えてみると、現在の瞬間において生きているという事実があるだけだというとらえ方ができる。したがって、ある瞬間においては死という事実が現れてくるというだけのことである。

 こういう形で、生き死にの問題を現在の瞬間における事実だと、こういうとらえ方をするのが仏教的な生き死にの問題の解決であります。したがって、この世の中には浄土というふうなものがあって、そこに行くから心配はないというふうな考え方は本当の意味の仏教思想ではないのかもしれないというおそれがあるわけであります。そうかといって、どうせ死ぬのだからあまり問題を真面目に考える必要がないというふうなとらえ方でもない。素直に現在の瞬間がどういうものかということを味わうべきであるという趣旨が述べられているわけであります。

 

 そこで二三二ページのところにいきますと、

 「生といふは、たとへば人のふねにのれるときのごとし」、生きるということの説明をしてみると、それはちょうど人が舟に乗っているときのような様子をしている。

 「このふねは、われ帆をつかひ、われかぢをとれり、われさほをさすといへども、ふねわれをのせて、ふねのほかにわれなし、われふねにのりて、このふねをもふねならしむ、この正当恁麼時を功夫参学すべし」、そこで生きるということを譬えてみると、人間が舟の上に乗っているときのような様子がある。そのわれわれが乗っている舟は、「われ帆をつかひ、われかぢをとれり」、自分が帆を使って舟を進ませ、あるいは自分自身が梶をとってその舟の行き先を決めている。「われさほをさすといへども、ふねわれをのせて、ふねのほかにわれなし」、自分が棹を使って舟を動かしているときもあるけれども、舟というものは自分を乗せて、舟は自分を乗せているということは自分自身が舟の上に乗ってしまって舟の動くとおりに動かざるを得ない状況でもある。

 「われふねにのりて、このふねをもふねならしむ」、ところが今度は逆に、自分が舟に乗っているから、その舟がどこに行くかということで自分の役に立つかどうかというふうな関係も舟と自分との間には同時に含まれている。つまり、自分が舟に乗せられて舟の行くままに行くというふうな事実もあるけれども、それと同時に自分が舟に自主的に乗っているんだから、その舟をどこに進めて行くかということについて自分がそれを左右する状況というものもある。「この正当恁麼時を功夫参学すべし」、このように舟に乗っている自分の様子、舟が自分を乗せてくれているのか、自分が舟を動かしているのか、そういう両方の要素が含まれた現在の瞬間というものをよく考えて勉強してみるべきである。

 「この正当恁麼時は、舟の世界にあらざることなし、天も水も岸も、みな舟の時節となれり、さらに舟にあらざる時節とおなじからず」、そのような現在の瞬間というものは、一切のものが舟のような世界に乗せられている。「天も水も岸も、みな舟の時節となれり」、舟の上に広がっている大空も、あるいは舟を乗せている水も、あるいは舟の向こう側にある岸も、「みな舟の時節となれり」、すべてが現に自分が乗っている舟を中心にして動いている。「さらに舟にあらざる時節とおなじからず」、その点では、舟に乗らない、舟と無関係のときと舟に乗っているときとでは様子が違う。

 「このゆゑに生はわが生ぜしむるなり、われをば生のわれならしむるなり」、このように考えてくると、自分たちが生きているという事実が自分自身がこの世の中で活動しているということと同じ事実であるということがわかってくる。だからわれわれが生きているということとわれわれが人間として働いているということとは同じ一つの事実であり、「われをば生のわれならしむるなり」、自分自身が生きていればこそ自分自身であり、人間であり得る。

 「舟にのれるには、身心・依正、ともに舟の機関なり、尽大地・尽虚空、ともに舟の機関なり」、そこで、われわれが舟に乗っているときには、体も心も、あるいは客観的な世界も、その中で生きている自分自身も、「依正」の「依」というのは客観世界を指しておりまして、「正」というのはその中で動いている自分自身を指しております。そこで「身心・依正」というのは、体も、心も、環境も、自分自身も、「ともに舟の機関なり」、自分が乗っている舟の働きと同じ意味を持っている。「尽大地・尽虚空、ともに舟の機関なり」、大地全体も、大空全体も、いずれも自分が乗っている舟というものを中心にしてそれぞれ働いている。

 「生なるわれ、われなる生、それかくのごとし」、その点では、生きるということと自分自身との関係を考えてみると、生きるという事実が自分がこの世の中にいるという事実を表しているし、自分自身がいればこそこの世の中も生き生きとして活躍しているという状況があって、われわれの人生というものは自分自身と周囲の環境とが一つに重なった現実の事態であると、そういう主張をしておられるわけであります。

 ですからここでどういうことをいわれているかというと、仏道の世界、仏道の考え方というものは、行ないを中心にした考え方だという事実がありまして、行ないを中心にして問題を考えると、自分がいま現在の瞬間において何をやっているかということがわれわれの人生だという理解の仕方になるわけであります。

 そういう理解の仕方は、自分が頭を使って人生とはどういうものかということを考えている状況と様子が違う。自分自身が生きるという現在の瞬間の中に入り込んで現実の世界に生きているわけでありますから、頭の中で生きるとはどういうことかと考える状況とは違う。

 それからまた、生きるというふうな難しい問題は考えずに、おいしいものを食べ、十分に寝て、この人生を楽しもうという考え方もありますが、そういう態度で人間が本当に満足できるかというと、どうも人間はなぜ生きているのかというふうな問題を考える宿命を持っている。そこで、生きるということと自分自身とが一つに重なった現在の瞬間がわれわれの人生であって、そういう立場から仏教では行ないというものを中心にしてわれわれの人生のすべてを考え直した。

 だから仏教哲学の内容というものは、欧米の世界で非常に発達したものを考える立場からの哲学と感覚的な立場からの哲学の両方とは違う、現実の哲学を発見されたということになるわけであります。

そういう立場で、自分自身と生きているという現在の瞬間における事実がわれわれの人生の実体であるという考え方が説かれているということになります。

 

 そこで二三三ページのところにいきますと、

 「円悟禅師克勤和尚云、生也全機現、死也全機現」、円悟禅師克勤和尚という方は円悟克勤禅師といわれた方でありますが、その円悟克勤禅師が次のようなことを述べておられる。「生也全機ノ現、死也全機ノ現」、生きるということも全機能の発現である、死ぬということも全機能の発現である。この言葉は、やはり仏教哲学の立場から現在の瞬間に生きているということにわれわれのすべてが含まれているし、いよいよ死を迎えたという現在の瞬間においてもわれわれのすべての働きが含まれていると、こういうとらえ方を表しているわけであります。

 そこで道元禅師がこの言葉の解説をされて、

 「この道取あきらめ参究すべし」、このような主張というものをはっきりと体験的につかむべきである。

 「参究すといふは、生也全機現の道理、はじめをはりにかかはれず、尽大地・尽虚空なりといへども、生也全機現をあひ罣礙せざるのみにあらず、死也全機現をも罣礙せざるなり」、そこで、「参究すといふは」、この言葉を実際に体験的につかむということがどういうことを意味するかというと、「生也全機現の道理」、生きるということも全機能の発現であるという原則は、「はじめをはりにかかはれず」、始めとか終わりとかいうふうに長い時間の系列の中で考える問題ではなしに、「尽大地・尽虚空なりといへども」、一切の大地、一切の空間といえども、「生也全機現をあひ罣礙せざるのみにあらず」、現在の瞬間において生きているということがすべての機能の発現であるということの邪魔をすることがないだけでなしに、「死也全機現をも罣礙せざるなり」、死ぬということも全機能の発現であるという事実の邪魔をするということがない。そこで、われわれは大地の上に生きている、あるいは大きな宇宙という空間の中に生きているけれども、そのような状況の中でも、現在の瞬間において生きているということがすべての機能の発現であって、それを邪魔するものは何もない。

 これもまた行ないの哲学の一つの表現でありまして、自分自身がいま何をするかが人生のすべてだ。したがってそういう立場で現在の瞬間における自分の行ないを大切に考えるということが釈尊のお説きになった教えだと、こういう主張につながるわけであります。

 「死也全機現のとき、尽大地・尽虚空なりといへども、死也全機現をあひ罣礙せざるのみにあらず、生也全機現をも罣礙せざるなり」、その点では、「死也全機現」という言葉がある。死ぬということも全機能の発現であるということをいわれている。その死ぬということも全機能の発現であるという、その死を迎えた現在の瞬間においては、「尽大地・尽虚空なりといへども、死也全機現をあひ罣礙せざるのみにあらず」、大地のすべても、空間のすべても、現在の瞬間において死ということが全機能の発現であるという事実の邪魔をしないばかりでなく、「生也全機現をも罣礙せざるなり」、生きるということが全機能の発現であるということも現在の瞬間における厳然たる事実であって、大地も、すべての空間もそれを邪魔するということはない。

 「このゆゑに、生は死を罣礙せず、死は生を罣礙せざるなり」、このように考えてくると、生も現在の瞬間における事実である、死も現在の瞬間における事実である。そこで、生きるという現在の瞬間が死という別の現在の瞬間を邪魔するということはない。死ぬという現在の瞬間が生きるという別の現在の瞬間における事実を邪魔することがない。生きるということも現在の瞬間における事実であるし、死ということも生きるという瞬間を邪魔することはない。そのことは、生も死も現在の瞬間の単純な事実であって、生が死の邪魔をするとか死が生の邪魔をするというふうなことはない。そのことを「生は死を罣礙せず、死は生を罣礙せざるなり」、生きるときは生きるとき、死ぬときは死ぬときだと、そういう理解の仕方になるわけであります。

 「尽大地・尽虚空、ともに生にもあり、死にもあり」、そこで、われわれが生きているときにも大地があり、空間がある。われわれが死を迎えるときも大地があり、空間がある。

 「しかあれども一枚の尽大地、一枚の尽虚空を、生にも全機し、死にも全機するにはあらざるなり」、ただ、一つの大きな大地があって、それが生きる場合にも全機能の働きをし、死ぬ場合にも全機能の働きをするというふうな関係ではない。また一つの虚空というものがあって、その虚空が生きるという場合にもすべての機能を果たし、死ぬ場合にもすべての機能を果たすということではない。

 そのことは、大地というものも現在の瞬間瞬間における事実であって、過去・現在・未来というふうに長く続いている大地というものはない。すべての空間についても、現在の瞬間においてそれぞれ現在の空間があるだけのことであって、空間というものが実在して、過去・現在・未来というふうに時間系列を通じて存在しているものではない。

 このことは、大地も、虚空も、生も、死もすべて現在の瞬間における事実だと、そういう主張をしているわけであります。それが「しかあれども一枚の尽大地、一枚の尽虚空を、生にも全機し、死にも全機するにはあらざるなり」、一つの大地というものがあって、それが生きる場合にも、死ぬ場合にも全機能を発現しているという状況ではない。

 これはわれわれの常識的な考え方と違うわけであります。われわれが現に生きているこの地球も、過去・現在・未来とずうっと存在し続けているという考え方がわれわれの常識的な考え方でありますが、仏教では、本当の実在は現在の瞬間に生まれては消え生まれては消えするものだという主張を持っておりますから、大地というものについても過去・現在・未来という長い時間にわたって存続する大地はない、空間についても過去・現在・未来と長い時間にわたって存在する空間はない、大地も空間もすべて現在の瞬間において生まれては消え生まれては消えしていることが事実であると、こういう主張をするわけであります。

 この考え方というのはわれわれの常識的な考え方とは違うわけでありまして、この考え方を聞いた場合にたいていの人が「まさか」と思う。われわれはオギャーと生まれた過去からご飯を食べて寝てご飯を食べて何十年も生きてきた、それが実体だというふうに考えるわけでありますが、仏教では現在の瞬間を基準にして、つまり行ないを基準にして一切の哲学を考えるということは、現在の瞬間を基準にして一切の問題を考えるということになりますから、われわれの人生も現在の瞬間しかない、過去と現在とは切れている、現在と未来も切れている、われわれはそういう孤立したきわめて短い瞬間を次々に生きているということが実情であると、こういう考え方をするわけであります。

 ですから仏教哲学というのは哲学に不明確なさまざまの考え方を信じるということではけっしてない。釈尊の教えは明快な一つの思想体系。その思想体系をつかむということが釈尊の教えを勉強するということ。こういう態度は今日の仏教界にはほとんどない。「釈尊の教えはありがたい教えである。よくわからないけどありがたい。難しいことを考えちゃいけない」というふうな主張になるわけでありますが、そういう浅薄な哲学であれば西洋文明と対立してそれを救済するだけの力はない。

 今日の『正法眼蔵』が示している仏教哲学は欧米のあらゆる哲学を全部包み込んで救済するだけの力を持っている。そういう真実が地球上にあるということ。二千数百年前に釈尊という方がそういう思想体系を発見されたということ。それが何千年にもわたって引き継がれていま非常に偉大な西洋の文明と出会おうとしている。それがわれわれの生きている時代の実態だと、こういうとらえ方になるわけであります。

 そこで、「一にあらざれども異にあらず」、そのような現在の瞬間というものは全部が一つだというふうな状況にはなっていない。そうかといってそれが個々バラバラに分かれているというわけでもない。「異にあらざれども即にあらず」、そうして、違っているというわけではないけれども、一つに重なっているというわけでもない。「即にあらざれども多にあらず」、一つに重なっているというわけでもないけれども、そうかといって多いものでもない。

 こういう形で、現在の瞬間、現実というものが、一つといっても正しい表現にならないし、多数の寄り集まりだという表現をしても実体にそぐわないという事情を述べておられるわけであります。

 「このゆゑに、生にも全機現の衆法あり、死にも全機現の衆法あり、生にあらず死にあらざるにも全機現あり」、このような事情から、生きているということについても、あらゆる機能の発現であるたくさんのこの世の中のさまざまのものがある。それが「このゆゑに、生にも全機現の衆法あり」、このようにわれわれの生きている現実の世界が一つだとか多数だとかいうふうに区別して考えられる世界ではないから、生きるということについても、さまざまのものが現在の瞬間において実際にあるということを否定できない。死ぬという事実についても、非常にたくさんのものが現在の瞬間において機能を発揮しているという事実と一つのものである。「生にあらず死にあらざるにも全機ノ現あり」、生きるということ、死ぬということとはぜんぜん無関係のものについても全機能の発現という事実がある。

 「全機現に、生あり死あり」、全機ノ現というものがわれわれの宇宙の原則としてあって、その一つの現れとして生きるという事実があり、死ぬという事実がある。

 「このゆゑに、生死の全機は、壮士の臂を屈伸するがごとくにもあるべし」、このように考えてくると、生き死にの問題がすべての機能の発現であるという事実は、立派な男子が腕を縮めたり伸ばしたりするのと同じことであるであろう。立派な男子が腕を縮めたり伸ばしたりするということが何を意味するかというと、行ないを指しているわけであります。だから生き死ににおけるすべての働きというものも、一人の男子が自分の腕を縮めたり伸ばしたりしているような行ないと同じものであると、こういう主張であります。

 「如人夜間背 手模枕子にてもあるべし」、それは、この『正法眼蔵』の中にも「観音」という巻がありまして、観世音菩薩の働きというものは、人間が夜寝ていて枕がはずれてしまった、本人が目を覚ますわけではないけれども、無意識のうちに手を背中に回して枕がどこか見つけるというふうな本能的な事実と同じものであろう。

 「これ許多の神通光明ありて現成するなり」、このような無意識の動作というものは、この世の中には、あるいはわれわれの生命の本質の中には、神秘的な働き、不思議な輝かしさというものがあって、それが具体化しているのである。

 そのことは、われわれ人間の働きについても、単に智慧の働き、あるいは感覚的な物事の刺激を受け入れる働きというものだけがわれわれ人間の働きではなしに、われわれ自身にもどうしてこういう優れた才能があるかと思われるほどの自然に与えれた能力というものが含まれており、また人間自身が非常に優れた明るさを持っている存在であるということとも関係していると、こういう主張であります。それが「これ許多の神通光明ありて現成するなり」、人間も無数といってもいいくらい神秘的な働きを持っており、またそれが輝かしさを持っている。それがわれわれの日常生活の中で具体化するのである。

 「正当現成のときは、現成に全機せらるるによりて、現成よりさきに現成あらざりつると見解するなり」、そうして、まさにそのような働きが具体化している瞬間というものは、「現成に全機せらるるによりて」、現に事実が現れているということの中にあらゆる機能が含まれているのであるから、「現成よりさきに現成あらざりつると見解するなり」、そういう具体的な事実というものは、現在の瞬間における事実であって、それがないものが現れてきたというふうな性質のものではないという理解の仕方をするのである。

 「しかあれども、この現成よりさきは、さきの全機現なり」、そのように現在の瞬間において事柄が起きるけれども、その直前の瞬間においてもやはりあらゆる機能の発言というものはある。

 「さきの全機現ありといへども、いまの全機現を罣礙せざるなり」、現在の瞬間の直前においてもあらゆる機能の発言はあった。そのようなあらゆる機能の発現が現在の瞬間の直前においてあったけれども、現在の瞬間においてもやはり同じようなあらゆる機能の発現が実際にあって、それを前の瞬間が邪魔をするということはないのである。

 「このゆゑに、しかのごとくの見解、きほひ現成するなり」、このような状況がわれわれの生きている現実の世界であるから、このようなものの見方というものが仏教哲学の中では競争のように具体化してくるのである。

 したがいまして、仏教哲学というのはわけのわからない理屈ではない。わけのわからない言葉の羅列ではない。釈尊が世界最終の哲学を二千数百年前に樹立された。それが幸いにして今日まで伝わっている。だからそれを勉強することによって人間社会というものは本当の真実がたった一つあるということに気がついて人類の世界をもう少しましな世界にする可能性がある。だからそういう点で仏教哲学というものがいかに偉大な力を持っているかということを『正法眼蔵』という本があればこそ知ることができるというふうな問題があるわけであります。

 だから「仏教哲学はありがいものだけどよくわからない。よくわからないけどありがたい」というふうな態度で仏教を勉強するという態度は二十一世紀以前の仏教の勉強の仕方。二十一世紀に入ったならばそういう安易な勉強の仕方はできない。本当のものは何かということを人間自身が究明するだけの可能性を持っている。その真実を究明するということに最大の努力をするということがけっしてわれわれの人生を無駄にすることにはならないというふうな問題があろうかと思うわけであります。

 「正法眼蔵全機」

 「爾時、仁治三年壬寅十二月十七日、在雍州六波羅蜜寺側雲州刺史幕下示衆」、そのときが、西洋の紀元でいいますと一二四二年の旧暦の十二月十七日であったわけでありますが、京都の六波羅蜜寺という寺のそばに、「雲州刺史」というのは道元禅師を非常に応援されました波多野義重という人が鎌倉幕府から派遣されまして六波羅蜜で京都を初め全国を管理する役所の長官をしていたわけでありますが、その波多野義重という人の下に働いている人々のためにこの「全機現」という巻を道元禅師がお説きになったという後書きが残されているわけであります。

 そうして二三四ページのところで、

 「同四年癸卯正月十九日、書写之 懐弉」、当時道元禅師の侍者をしておられた孤雲懐奘禅師が同じく仁治四年の正月十九日にこの「全機現」の巻を書き写したという奥書が残されております。

 

 それでは、一つの巻が終わりましたので、ここで話のほうをとめまして、またご質問を受けるということにしたいと思います。何かありましたらどうぞ。

 

 問  前に読んだんですけれども、ある企業人が『正法眼蔵』にどこかで魅かれて夜寝る前に毎日少しずつ読んでいた。どうしてもなんかよくわからない。それであるお坊様に「どうしてなんでしょう」と聞いたら、「おまえさん、どうやって読んでいるんだ」というから、「黙って読んでいる」といったら、「だからわからないんだ。声を出して読めばわかるよ」といわれたんで、そうしてみた。そしたら本当にわかるようになったというわけですね。しか、し私は幾ら声を出して読んでもわからないものはわからないんですが。

 私はこの「全機」の巻というのはわからないなりに読んでみると、非常に言葉の響きに力があって、道元禅師が非常に若いときに本当に渾身の力で説法されたというのが伝わってきますね。

 それでちょっとつまらない質問をして申しわけないんですけれども、たとえばこの次の七巻に「古仏心」の巻がありまして、波多野義重公の部下の方、義重公も含めてだと思いますが、説法されていますね。そのとき私が非常に不思議に思うのは、まご老師がわれわれに懇切丁寧にご提唱いただいたように、この話をしながら、解説をしながらやっているのか、それともここに書いてあるように、これとあまり違わないような形で話されたのか。もしそうであればこれはすばらしいことですよね。

 その辺が、つまらない質問で申しわけないですが、これは実際どういうふうに……。このすばらしい文章を読んで、しかもその相手が鎌倉武士ですよね。鎌倉武士というのは非常にすばらしいというのはわかるんですが、これは果たして理解できたんですかね。この辺が、妙なことを聞いて申しわけないんですけど、前から非常に興味があるんですね。

   恐らくそのとき聞いている人のほとんどの人はわからなかったと思う。道元禅師がなぜこれを説かれたかというと、数百年後にはわかる人間が出るかもしれないという「期待」ですよ。道元禅師の思想というのは非常に高い水準だから、中途半端な思想力ではつかめない。それはもう世界唯一の哲学を残されたわけです。そういう意味でこの本というのは非常に難しい。だから波多野義重という人が道元禅師を尊敬してたくさんの家来の武士たちも一緒に聞いたであろうと思うけれども、その中で聞いている人がわかったというふうにはちょっと想像しにくい。

   ということは、やっぱりあんまり余計なコメントなんかしないで、これはやはりこれに近い形で説法なさったと、そういうふうに理解してよろしいわけですね。で、わからなければそれはしようがないと。

   うん。だからもうしようがないから、わかる、わからないは度外視して、本当のことをいっておくというだけのことだったと思いますよ。

   はい、わかりました。どうもありがとうございました。

   「生也全機現、死也全機現」ということで、通常一般的な考え方では、「生也全機ノ現」、「全機能の発現」という言葉を先生から教えていただいたわけですけれども、生きているということはそうだろうということはわかるんですが、「死也全機ノ現」となると、むしろ一般的な考え方としては、全機能を発現するんじゃなくて、すべての機能がとまってしまったというように、まあ非常に浅い考え方なんでしょうけれども、どうもそういう印象が強いわけですね。そこで、この「発現」という、「現ニ発スル」というふうな字が書いてありますけれども、この「発現」という意味をもう少し教えていただければと思います。

   その点ではね、亡くなるということもその方がもう全生命を費やして最期を迎えたということだから、その点では、ご本人にとってももうそれ以上の努力の可能性はない。だから残った人はご「苦労さまでございました。ご苦労が終わりになっておめでとうございました」というふうな感想を持ってもおかしくない事実なんです。世間では死ぬことはもう常に悲しいと思うから、「ご愁傷さまでございました」といってお悔みをいうわけだけれども、やっぱり一人の人間が全力を尽くして、もうこれ以上はやれませんということで終わりになったわけだから、誰の死にとっても非常に立派な出来事ですよ。

 だからそういうふうな形で悔いのない人生を生きるべきだというのが釈尊の教え。だからそういう意味で死というものも全機能の発現だと、そういう理解になるわけです。

   はい、わかりました。

   私先月来なかったので、前に戻ってちょっと聞きたいんですけど、「画餅」のことを聞いていいですか。

   はい、どうぞ、いいですよ。

   二一一ページの一行目に「古仏言、画餅不充飢」、画餅は飢えの足しにならないと書いてあるんですよ。それで、実際に本当の餅を食べても二、三時間もすればやっぱり腹が減ってくるわけですよね。やっぱり飢えの足しにはならないわけですよね、実際に食べたとしても。画餅はもちろん食べられないから足しにならないけれども、実際の餅も食べても時間が経てば腹が減ってきて飢えの足しにならないというふうに。そうすると何でこんなことをいったのかなというのがちょっとわからないんです。

 答  食料というものはないと、とてつもなく貴重なものになるんですよ。だから軍隊で戦場にいて食料が切れちゃった、食べるものなしに戦わなければならないと。そばにある草でも少しは腹の足しになるかと思って食べるというようなこともあるだろうし、そういう点では、画にかいた餅は役に立たないけれども、ほんの一かけらのパンでもあるとないとは大違いですよ、天地の差がある。生きるか死ぬかの分かれ目になる。だからそういう点では食料というものは実に人間にとって貴重なんです。

 だからそういう意味で、画にかいた餅はいかに立派にかいてあってもひもじさを助ける力がないということは、ひもじさをしのぐものはやっぱり口に入って食べて栄養になるものがどうしても必要だということが事実としてあるわけです。

   それをここでいっているんですか。

   そう、そういうことです。

 問  はい。すみません。

   この「全機現」というのは、「あらゆる機能の発現」というふうに解釈されまして、私たちが生きているというのはそれほど偉大だということになるんだと思いますけれども。

 「ふてくされる」なんていう言葉がありますよね。ふてくされている人というのはいっぱいいると思いますけれども、ああいう態度というか、ああいう生活習慣というのはどういうところから出て来ると思われますか。

   それはやっぱり本当のことがわかっていないから。どうしていいのかよくわからないから。わかろうとしてもわからないから、「もうしようがないや」と思って諦めているということですよ。

   それから生も、あるいは死も、あるいは尽十方世界も全機能の発現だと、あらゆる機能の発現だということは、やはり坐禅をしながら感じているということなんですか。

   うん、それが基礎になっているわけです。

   そうしますと、当然道元禅師もそうでしょうし、円悟禅師もそうだと思うんですけれども、こういうことを感じながら生きている人にとって、たとえば孤独という考え方ね、この辺はあんまり縁がなかったんじゃないかなとも思うんですけれども、孤独という概念ときょうお勉強した内容とはまったく別のことなんだと思いますけど、どうなんでしょうね。

   ただね、私は道元禅師なんかも孤独ということはよく感じられたんじゃないかと思う。

   ああ、そうですか。

   うん。というのはね、人生というのはしょせん孤独だということが事実なんじゃないかという気が私はする。それはもうたくさんの人が寄り集まって助け合って生きているんだからけっして孤独ではないという見方もあるけれども、生きるということはやはりたった一人で生きるという面があって、そういう点では各人の人生はきわめて孤独なものだという見方も同時にできると思う。

   たとえば沢木老師のご提唱の中で「天地一杯」という言葉がよく出て来ておりますけれども、ああいう方でも孤独という面もやっぱりあるわけですか。

 答  うん。それはやっぱり沢木老師もあっただろうと思うよ。特に戦争が厳しくなって学童疎開で大中寺が使えなくなって、それから数人の弟子を引き連れて食糧事情の悪いとき旅行して歩いた、丹波の山奥に行かれてそこに落ち着かれたというふうな生き方というものは、やっぱり並たいていの苦労じゃなかったと思う。

 問  それから前置きのお話で、ホリエモンこと堀江貴文さんのお話がありましたけれども、たしか三十二歳だったと記憶しております。先生の堀江さんに対する評価がわりと高かったわけですが、やはりああいうふうに活躍ができる人というのはほんの一握りの人で、ああなりたいけどなれないという人がウジャウジャいるのが世の中の現実として仕方がないことなんですけれども。

 二週間前ぐらい前でしたか、ああいうふうに活躍できる人とできない人とどこで分れるかというふうな話も雑誌に出ていましたけれども、いまの日本が努力をして報われる社会であればだれもかれも一所懸命やるわけだけれども、やはりこういう不景気というご時世ですから努力してもあんまり報われないんじゃないかと、そういうふうな気分が世の中に結構広がっているんですね。

 たとえばある会社に勤めて十年間ほど働けば五千万ぐらい貯金ができて一千万ぐらいの車が買えるというような経済発展のすさまじい時代だったら誰だって目の色変えて頑張るわけですけれども、いまのこういうご時世では何をどう頑張ったらいいのかということで、それこそふてくされている人というのはやっぱりたくさんいると思うんですね。こういうことにつきまして先生はどのようにお考えになりますか。

   私はね、報酬を求める考え方自身が本当かという考え方。それが仏教思想なんです。だから道元禅師が『学道用心集』の中で「働けば禄そのうちにあり」という表現をしておられる。働くこと自体が報酬だ、それ以外に幾ら報酬をもらうかというようなことは二の次、三の次だという考え方があるんです。これは本当だと思う。人間というのは楽しいから働くのであって、自分が人生で生きがいを感ずるから働くのであって、月給が多ければ働きます、月給が少なければ働きませんということが本当の考え方かどうかということにやっぱり疑問を持つという立場があると思う。

 だから月給が高かろうと安かろうと仕事が好きだから、働いていることが楽しいから働きますという態度のほうが本当の人間の生活じゃないかと思う。

   それから、努力をしたら報われるという社会ですが、まあそうありたいわけですけれども、先生からご覧になっていまの日本社会というのはそうなっているかなっていないか、どんなものでしょうか。

   というよりもね、人間がちょっとでも勝とうと思って競争し過ぎている。そういう社会ではほかの人に勝つのが人生目的であって、「あいつに勝った」「あいつに負けた」なんていうことを毎日考えているようでは健全な文化はできませんよ。

 だから文化が堕落して、そういう報酬の多い少ないだけで問題を考える価値観が戦後日本に広がっているから、そこでいまの日本の文化も惨めなんです。文化というのはもう少し高尚なところでないと発生しない、発達しないんだと思います。

 だから基本的なものの考え方をもう一度考え直す必要があるんじゃないかというのが私の見方です。

   はい。

   二三二ページの一行目に「生といふは、たとへば人のふねにのれるときのごとし」から四行目の「みな舟の時節となれり」、ここまではわかるんですが、ある提唱で私がその次の「さらに舟にあらざる時節とおなじからず」とありますね。それで仏教的考えからいうと、前の三行と少しですべてが言い尽くされていて、「さらに舟にあらざる時節」なんてないんじゃないかと。この「さらに舟にあらざる時節」は何ですかと聞いたら、ポカンとした顔をされて何も返事をしてもらえなかったんですが、これはどういうことで……、死を指しているわけじゃないですよね。そういうことではないと思うんですが。

   だからその点ではね、舟に乗っているという現状認識がないような場合と同じではないと。だからわれわれは「俺は自分で生きているんだ。舟に乗っているわけじゃない」という考え方もあるけれども、環境なしにわれわれの生活はないんですよ。そうすると人間は誰でもいつも船に乗っているという事実があるというふうなことがあるわけです。それが現実の世界だけれども、そういう考え方が出て来ない場合と様子が違うと、こういうことです。

   そうするとこれは意識の問題ですか。

   うん、そうそう。だからその舟に乗せられているという環境を理解するだけの力のない場合というわけです。

   ああ、意識、認識の問題で、こういう時節というのがあり得るよと。

   そう。だから誰の人生も環境があっての人生だ、環境なしの人生というのを考える場合と様子が違うと、こういう趣旨なんです。

   はい、わかりました。

   この舟というのは、どんなぼろ舟でも自分の舟は自分の舟ということでしょうか。

   うん、そう。だからいい舟とか悪い舟とかいう感覚でなしに、誰でも環境の中で生きている。だから父親であったり、人の子供であったり、誰それの友達であったりという、さまざまの舟に乗っているということです。

   はい。

   先週質問できなかった部分ですけど、二一九ページの後ろから二行目の「もし画は実にあらずといはば、万法みな実にあらず。万法みな実にあらずば、仏法も実にあらず。仏法もし実なるには、画餅すなはち実なるべし」というところで、先生は画ということで「五根」というんですか、その意味合いだということをいわれて、説明があって、仏法は現実、実在主義なんだというふうなお話があったんですが、そこのところで論理的なことをちょっとお聞きしたいんですけど。なんか背理法みたいなことがいまいったところに書いてあるように思うんですが、最後の部分の「仏法もし実なるには、画餅すなはち実なるべし」というところと前の二つの部分とはちょっと飛躍というか、開きがあるような感じがしたんですけど。

   ここはどういう意味かというと、「万法みな実にあらずば」というのは、「万法」というのはこの世の中のすべてのものですよ。だから地球も、太陽も、井田両国堂の坐禅道場も、畳も、電気も全部実際に存在している。そういう考え方を否定するならば、釈尊の教えというものも実在ではないと、こういう主張なんです。

 だからここのところの「万法みな実にあらずば、仏法も実にあらず」ということは、釈尊の教えというのはあくまでもこの世の中が実際に存在するという考え方を基礎にして出来上がっているというのがその前の文章の意味です。その考え方を正しいとするならば、「仏法もし実なるには」、釈尊のお説きになった教えが真実であり、この世の中が実在するということが真実だというふうな考え方をとるならば、たとえば画にかいた餅といえども紙があり、筆があり、墨があり、それを書く人がおりということで出来上がっている。だからそういう意味で画にかいた餅も真実の一部にほかならないと、こういう主張です。

 だからこの世の中が全部実在だということは、画にかいた餅といえども、書く人がいて、紙があって、筆があって、墨があって書いたものだから、この世の中に実際にあるものでないということはいえないと、こういう主張なんです。画にかいた餅でお腹の足しになるかならないかということの問題よりも、画にかいた餅が事実であるということも否定できないと。

   最後の部分の「仏法もし実なるには、画餅すなはち実なるべし」というところは、すごく道元禅師が仏法というのは実在であってほしいと、そういうような叫びというか、そのような気持ちが強く込められているように読めたんですけど、そういう意味ではないんですか。

   いや、そういう意味じゃなくてね、釈尊の教えが仮に真実だとするならば、画にかいた餅といえども、画にかいた餅ではなしに、紙であり、墨で書かれたものであり、書いた人がいるし、現実の実在だという点では変わりがないという主張です。

   じゃ画も、現象も、万法も、仏法も皆同じ「実」であると、そういうふうに読めばよろしいということですか。

   そういう意味です。だからこの世の中に真実でないものは何もないという主張です。

 仏教思想をそういう意味で理解している思想というものが今日ではほとんど見当たらない。「釈尊はこの世の中が架空の世界だということを主張された。普通の人間はそのことがわからない。仏教がよくわかってくるとこの世の中は架空であるということがわかってくる」というような考え方で仏教の説明が行なわれているけれども、そういう説明では釈尊の教えが人類の救いにならないんです。釈尊が何をお説きになったかというと、この世の中というのは実在の世界だ。その実在の世界でわれわれは生きている。そういう態度でこの世の中の実体を勉強しないと本当のことがわからないということをいわれた。

   先ほどご質問の中で先生がお答えになった「働けば禄そのうちにあり」という、そういうことが現実を表していると、そういうふうな……。

   うん、私はそうだと思う。それはもう月給がとてつもなく安くて苦しくても、働くこと自体の中に意味があるんです。だから私はビルの清掃をやっている人もそれなりに優れた仕事をしていると思いますよ。ビルの清掃をやる人がいなかったら、廊下が汚れてどうにもしようがない。従業員がやってもいいんだけれども、従業員の労力はそういうことに使わないから、そこで床を掃除する専門の会社ができて、そういうところで働いている人は床を清掃することが人生だし、それが人々の役に立っているという意味で、「働いている」ということに意味があるんです。

   どうもありがとうございました。

 

 それでは、時間がきたようですから、普回向を唱えて終わりにしたいと思います。

普回向 唱和