開経偈 唱和

 また政治に関する話で恐縮でありますが、私がなぜ仏教の講義のときに政治の話をするかといいますと、今日の日本の政治というものを考えてみても、全国的に非常に頭のいい人で、しかも非常に直観的な判断力の優れた人で、しかも経済関係その他の力を持っている人が選挙を通して選ばれて集まって来るのが国会でありますから、いい意味でも悪い意味でもこの世の中の実体を現しているという事情があるように見ております。

 ですから、政治の問題を考えることによって、釈尊がお説きになった現実の世界というものが政治の世界の中に映し出されてきていて、それを勉強することが仏教の教えを勉強することに実際的に役立つというふうに理解しているということが事情であります。

 最近二つばかり国会議員の補充の選挙があったわけでありますが、そのときに自由民主党の議員が両方の選挙で選ばれたということがあったわけであります。この二人の自由民主党の所属の人が補欠選挙で当選してきたということは、国民が小泉内閣の政策をひそかに支持しているという面が映し出されているわけであります。

 そこでどういう影響が生まれたかということを考えてみますと、今日まで小泉内閣が主張している郵政事業の民営化に反対している人々は、今度の選挙の結果を見て、「おや、ちょっと様子が違うぞ」という印象を持ったのではないかというふうに見ております。それから小泉内閣の政策と反対する政策との中間で、どっちが勝ちそうかなと思って周囲を眺めている人々は、「いや、どうも小泉内閣の政治力のほうが強そうだ」という判断をしたかもしれないという事情がありますし、小泉内閣のほうでは、郵政事業の民営化を強行してもそう問題は起きない、もし問題が起きて前に進むことができなくなったら解散すればいいというふうな判断が出来上がったのではないかと、そういうふうな見方をしております。

 内閣の最後が近づいてきますと、次は誰がやるかというふうなことで国会議員がその行方について非常に真剣に考えるだろうと思いますが、その意味では今後の補欠選挙がかなり一つの事実を示したというふうなことで、わりあい興味のある事実であったというふうな印象を受けているということが実情であります。

 

 それではまたこの『正法眼蔵』のほうに入ってまいりますと、きょうは第七巻の最初の「正法眼蔵都機」という巻であります。この「都機」という字は、両方とも漢字で書かれておりますが、夜になると大空に見えてくる月を意味しております。日本の古い書物に『万葉集』という書物がありますが、この『万葉集』は漢字を使って日本の平仮名と同じような発音を表して、漢字で書かれているということが事実でありまして、したがってそういう漢字で書かれて平仮名と同じ音として扱う漢字の使い方を万葉仮名といっております。『万葉集』に出て来る仮名という意味であります。この「都機」という字も漢字で書かれておりますが、まさに夜になると大空に上がってくる月を意味しているということがいえるわけであります。

 道元禅師はこの月というものを材料にしてこの世の中のさまざまのものがどんなあり方をしているかというふうなことの説明をこの「都機」という巻でしておられるということになります。

 

 そこで三ページのところを読んでいきますと、

 「諸月の円成すること、前三三のみにあらず、後三三のみにあらず」、「諸月」というのは、いろいろな月ということで、三日月もあれば満月もある。そういうものが具体的な姿を現すということについては、「前三三のみにあらず、後三三のみにあらず」、この「前三三」、「後三三」ということは何を意味するかというと、南方の仏教について僧侶が質問をしたときに、南方に行って仏道修行をした経験のある人が、南方において真実を得た人は自分の前にも二、三人、自分の後にも二、三人というふうな形で真実を得た人がいるということを表現するために「前三三、後三三」という言葉を使った。だからこの「前三三」、「後三三」という言葉は、さまざまのものが固体として、個別的な存在として前にも少しいる、後にも少しいるというふうな意味であります。

 だからここで「諸月の円成すること、前三三のみにあらず、後三三のみにあらず」というのは、たくさんの姿をした月というものも個々バラバラに前にもある、後にもあるというふうな状況だけではない。そのことは何を意味するかというと、「月」という共通の言葉があって、さまざまの月も全部含んで「月」という言葉を使うというところから、「月」という言葉そのものには、具体的な事実を示すだけではなしに、月という共通のものを示す意味も含まれている。つまり、三日月も、半月も、満月も全部「月」という言葉で表されている。だから月というものも具体的にきのうもあった、あしたもあるだろうという具体的な月だけではない。そのことを「諸月の円成すること、前三三のみにあらず、後三三のみにあらず」。

 「円成の諸月なる、前三三のみにあらず、後三三のみにあらず、このゆゑに、釈迦牟尼仏言、仏真法身、猶若虚空、応物現 形如水中月」、「円成の諸月なる」、具体的な月がさまざまの形で大空に輝いている。その具体的な月を見た場合に、確かにきょうの月、きのうの月というふうな具体的な月を表しているという意味もあるけれども、それと同時に、きのうの月も月であった、おとといの月も月であった、きょうの月も月である。「月」という言葉でさまざまの月を全部表すという働きもあるから、個別の月を表す「前三三、後三三」という理解の仕方だけではない。

 「このゆゑに」、こういうふうな事情から、「釈迦牟尼仏言ク」、釈尊が次のようにいわれた。「仏ノ真法身ハ、猶虚空ノ若ク、物ニ応ジテ形ヲ現ズルコト水中ノ月ノ如シ」、釈尊がいわれた言葉は、「仏ノ真法身ハ」、真実を得た人々のこの宇宙の中における具体的な体というものは、ちょうどわれわれが生きている空間のようなものである。われわれは空間という大きな場所の中に生きているわけでありますが、そういうさまざまのものをその中に入れている空間のようなものである。「物ニ応ジテ形ヲ現ズルコト」、そこで月が川の水に映ることもあれば、池の水に映ることもある、あるいはコップの中の水に映ることもある。「物ニ応ジテ形ヲ現ズルコト」、具体的なものに対応してその姿を見せるという様子は、「水中ノ月ノ如シ」、月というものが池の水にも映れば、大きな湖の上にも映る、川の流れの中にも映るであろうし、コップの中の水にも映るであろう。

 そういう形で、「月」というふうな言葉も具体的にさまざまの形で、さまざまの背景の中に姿を現すと、こういう表現をされて、この世の中にあるさまざまのものがどういう形で存在するか。「月」という言葉に共通の内容を表していると同時に、また具体的に川の流れの月、池の表面の月というふうな具体的な姿も表している。
 こういう解説をされた上で道元禅師が、

 「いはゆる如水中月の如如は、水月なるべし、水如・月如・如中・中如なるべし」、ここでいわれているように、水中の月のようなものだということは、この世の中の具体的なもの、現実的なものが、ある場合には水の表面の月であろう。そこで水という現実が月と関係しているということもあれば、月そのものの現実でもある。現実の中の月であるし、現実の中にあるというふうなことが事実である。そういう意味で「水如・月如・如中・中如なるべし」。

 こういうふうに道元禅師がふだん使わないような言葉を使って「水如・月如・如中・中如」というふうな言葉を使われた場合には、漢字の意味をそのまま受け取って素直に読んでいくと意味がわかる。「水如」というのは水に映っている現実の月が月であろう。「月如」というのは月そのものの姿が月であろう。「如中」というのは現実の中における月であろうし、「中如」というのは月というものは現実の中にあるものだと、こういう表現をされたということになります。

 「相似を如と道取するにあらず、如は是なり」、ここで「如」という漢字は、「何々ノ如シ」ということで、似ているという意味に使われるわけでありますが、ここのところでの「如」という字の意味は似ているという意味ではない。そういう意味で「相似を如と道取するにあらず」、似ていることを「如」という字で表しているわけではない。「如は是なり」、「如」というのは「これ」という意味だ。つまり眼の前の現実そのものを「如」という言葉で表すんだ。だから仏教の教えを表す言葉に真実の「真」という字に「如」という字を書きまして「真如」という言葉がありますが、これもまたこの世の中の真実、宇宙全体を表すという意味に使われているわけであります。

 そこで、「仏真法身は虚空の猶若なり」、真実を得た人の宇宙全体と一つになった体というものは、「虚空の猶若なり」、空間の中にある現実そのものであろう。「猶若」という言葉も、漢字の読み方からしますと「猶」という字を「何々ノゴトシ」というふうに読むわけでありますから、「猶若」というのも、われわれが眼の前に見ている物そのものである、現実そのものであると、そういう意味で「仏真法身は虚空の猶若なり」、真実を得た人の宇宙の中における体というものは空間の中における現実そのもの、真実そのものとしての意味を持っている。

 「この虚空は猶若の仏真法身なり」、そこでわれわれの生きている空間というものも、現実のものであり、また真実を得た人の宇宙に関する本当の体である。

 「仏真法身なるがゆゑに、尽地・尽界・尽法・尽現みづから虚空なり」、そうして空間というものも、真実を得た人の宇宙の中の体というものと同じものだ。

 このことはどういうことを意味するかといいますと、仏教の教えの中では、われわれの行ないというものが宇宙そのものと同じだという考え方があるわけであります。つまり、われわれが現在の瞬間において生きている、その現在の瞬間におけるわれわれの行ないと宇宙全体の実情とが同じものだと、こういう考え方をしているわけであります。

 これは『正法眼蔵』の中にも出て来ますが、この考え方が龍樹尊者がお書きになった『中論』という本には非常にはっきり書かれている。だから仏教哲学の考え方の一つとして、われわれが日常生活において現在の瞬間において何かを実行している。その実行している行ないそのものが宇宙の実情だ。宇宙というものが頭の中で考えるように大きな無限の広がりを持ったものであって、われわれはその一部だということよりも、もっと現実的にこの世の中の実情を考えるならば、われわれが現在の瞬間において何をやっているかということと宇宙がどんな動きをしているかということとは同じ事実だと、こういう考え方が仏教の教えの中にあるわけであります。

 そこで、「仏真法身なるがゆゑに、尽地・尽界・尽法・尽現みづから虚空なり」、われわれの住んでいる空間というものも真実を得た人の本当の宇宙の中における体というものと同じものであるから、「尽地」、大地全体も、「尽界」、われわれの生きている世界全体も、あるいは「尽法」、われわれの生きている宇宙全体も、「尽現」、現に眼の前に現れている現在の瞬間の事実も、すべて虚空と同じものだという考え方ができる。

 「現成せる百艸万像の猶若なる、しかしながら仏真法身なり、如水中月なり」、現にわれわれの周囲にはさまざまのものがあり、さまざまの姿がある。そのようなさまざまのもの、さまざまの姿というものが現実の姿を見せているけれども、その現実の姿というものはすべて仏の真法身である、真実を得た人の宇宙の中における本当の体と同じものであるし、それは月がさまざまの水の上に姿を映す水の上の月というものと同じものである。つまり、月というものは大空に一つあるわけでありますが、その月が湖の水にも映れば、川の水にも映る、池の中の水にも映れば、コップの中の水にも映る。一つの月がさまざまのものに姿を現す、そういう状況と似ていると、こういう解説をしておられるわけであります。

 「月のときはかならず夜にあらず、夜かならずしも暗にあらず」、そうして月が大空に見えているときは必ずしも夜ばかりではない。これは普通気がつきませんが、月が日中に白い姿で大空に見えるということがあるわけでありまして、その点では月というのは夜昼にかかわらず天体として動いている。そうして、「夜かならずしも暗にあらず」、夜は普通暗いものとされておりますが、電気が煌々とついているところでは夜も必ずしも暗くはない。また、北欧の国のように一晩中太陽が完全に消えることがないという地域もあるわけでありまして、そういう地域では夜も白夜といいまして薄明かりが一晩中見えているという地域もあるわけでありますから、「夜かならずしも暗にあらず」。道元禅師は仏道の立場からこの世の中をさまざまの角度から見る能力を持っておられたために、月というものも夜だけ輝くものではない、夜というものもいつも真っ暗闇だということでもないと、こういうきわめて相対的な物事のとらえ方をしておられるわけであります。

 二十世紀の近代的な物理学で相対性原理というふうな考え方も生まれたわけでありますが、そういう相対性原理が主張しているようなことと、ここに道元禅師がお書きになっているような理論と内容的には同じものだというふうに考えることができるわけであります。

 「ひとへに人間の小量にかかはることなかれ」、そこで、ただ人間が考え出した小さな考えの中にこだわる必要はない。

 「日月なきところにも昼夜あるべし」、太陽がない、月がないというふうなところにも昼や夜の存在というものは考えられる。

 「日月は昼夜のためにあらず」、太陽や月は昼と夜との区別のためだけにあるわけではない。

 「日月ともに如如なるがゆゑに、一月両月にあらず、千月万月にあらず」、そうして太陽や月というものもそれぞれ現実の存在である。したがって、「一月両月にあらず」、一つの月、二つの月というふうな限定されたものではない。千の月、万の月というふうに限定されたものではない。

 「月の自己、たとひ一月両月の見解を保任すといふとも、これは月の見解なり、かならずしも仏道の道取にあらず、仏道の知見にあらず」、そこで、たまたま自分の見方として月というものは一つの月、二つの月というふうなものだという理解をしていたとしても、「これは月の見解なり」、月が勝手にそう考えているだけのことであって、「かならずしも仏道の道取にあらず」、仏道の立場から、宇宙全体の立場から問題を考えた場合には、月というものも月自身が考えているような狭い限定されたものではない。したがって、そういう限られたものの考え方というものは、釈尊がお説きになったものの考え方と違う。それが「仏道の知見にあらず」。

 「しかあれば昨夜たとひ月ありといふとも、今夜の月は昨月にあらず」、そこで、夕べも月があったということは間違いがないけれども、きょうの月は夕べの月と同じではない。「今夜の月は、初中後ともに今夜の月なりと参究すべし」、今夜の月はまさに今夜の月だ。きのうの月と同じものだと考える必要はない。そういう意味で「初中後ともに今夜の月なりと参究すべし」、九時頃の月も、十二時頃の月も、明け方の三時頃の月も、それぞれ具体的な月としてあるということであって、月というものは常に一つのもので、きょうの月ときのうの月が同じものだというふうなことは頭の中の考えであって、現実の世界における実情と違う。なぜ違うかというと、現実の世界は現在の瞬間にしか現れてこない世界だから、きのうの月と今夜の月と、頭の中で考えれば同じ月だろうという想像はできるけれども、仏道の立場、現実の立場からするならば、きのうの月はきのうの月、きょうの月はきょうの月というふうな考え方をする。

 「月は月に相嗣するがゆゑに、月ありといへども新旧にあらず」、そういうふうな月が現在の瞬間瞬間に存在して、その状態が続いていくのであるから、月というものがあるということははっきりしているけれども、きのうの月ときょうの月と同じものだという考え方をしない。そのことを「月ありといへども新旧にあらず」と、こういう表現をしておられるわけであります。

 こういう表現を読んでいきますと、道元禅師はずいぶん難しい考え方をしたものだという実感を持つわけでありますが、まさにそのとおりでありまして、道元禅師の生きられた時代、十三世紀に物事についてこういう深い考え方を持つことができたということが不思議なくらい、非常に進んだものの考え方だということがいえるわけであります。それは二十世紀になって近代物理学者の間でこういう考え方が生まれてきているわけでありますが、十三世紀にそれと同じような考え方を持っておられた道元禅師の思想の水準というものは非常に高い。それだけ古代インドに生まれた仏教哲学の思想における水準というものは非常に高いということがいえるわけであります。

 だから仏教の勉強をしてもなかなか本当の意味がわからない。そこでわからないままにたくさんの人々が仏道はこういう教えだ、仏道はああいう教えだということでさまざまの説が説かれているから、今日仏教哲学を勉強した場合にどれが本当の仏教かわからないというのが実情であります。

 そういう哀れな状態から抜け出さなければならない。人類はたった一つの真実というものを求めて、「これが本当だ」という確信を持って生きない限り人間として生きていることにならない。だからそういう意味で釈尊がお説きになった教えが細々と何千年も続いて今日まで伝わってきている。それを今日の立場から勉強して、本当の教えを人間社会に広めるということが人類にとって非常に貴重な問題だという事情があるわけであります。

 

 そこでまず最初のところではそのことを理論的にお説きになった上で、これから読むところではもっと具体的な立場で月というものがどんなものかということを解説しておられるわけであります。

 それが六ページのところで、

 「盤山宝積禅師云、心月孤円、光呑万像、光非照境、境亦非存、光境倶亡、復是何物」、盤山宝積禅師という方が次のような詩をつくられた。「心月孤円」、心と月とが一つに重なった月がたった一つ丸い姿を大空に現している。「光万像ヲ呑ム」、その月から光が照っていて、その光の中にこの世の中の一切のものが包まれている、呑み込まれている。「光境ヲ照スニ非ズ」、仏教の立場から物事を相対的に考えるならば、光というものが地球の環境というものを照らしているというふうな一方的な見方はできない。「境モ亦存スルニ非ズ」、地球の表面のさまざまの姿というものも月があるから照らし出されているということであって、それが具体的にあるというふうな考え方は取れない。つまり、月の光と地球上のさまざまの姿とが照らすことによって現れてきているというだけであって、そういう地球上の姿というものが実際にあるということは想像はできるけれども、現にそのようなとらえ方をすることは難しい。「光境倶ニ亡ズ」、そういう立場からすれば、月の姿も地球上のさまざまの風景も共に消えてしまっている。「復是レ何物ゾ」、こういう現実の情景というものはいったい何なのであろうと、こういう詩を盤山宝積禅師がつくられた。

 そこで道元禅師がこの詩を解説されて、

 「いまいふところは、仏祖仏子かならず心月あり」、ここで盤山宝積禅師がいわれている詩の意味は、「仏祖仏子かならず心月あり」、真実を得た人々も、釈尊の教えを勉強している人々も例外なしに心と月とが一つに重なった現実の存在を知っている。人間の心がなければ月というものは見えない、感じ取れない、考えられない。そうかといって、月というものがあるということは、人間が心を持っているということによってのみわかる。そうすると現実の姿というものは、心だけがあるわけではない、月だけがあるわけではない。心と月とが一つに重なったところに「心月」という現実があると、こういう主張になるわけであります。

 これが仏教哲学の基本の考え方として、仏教の教えは観念論でも唯物論でもないという理解があるわけでありますが、仏教の教えが観念論でないということは、この世の中は心だけから生み出された存在ではないということを意味するわけでありまして、観念論哲学が本当に信頼しうるかどうかということについての疑問が説かれているわけであります。そうかといって、心がなしに月だけがあるという考え方は、この世の中は物の存在だという考え方を取るわけであって、心との関係が切れるわけでありますが、そういうとらえ方もこの世の中のとらえ方としては正しくない。この世の中はあくまでも人間の持っている心と客観的な世界のものとが一つに出会ったときに生まれてくるものだという意味で、「心月」という言葉が使われているわけであります。そこで「仏祖仏子かならず心月あり」というのはそういう意味になります。

 「月を心とせるがゆゑに、月にあらざれば心にあらず、心にあらざる月なし」、その関係をさらに丁寧に説明して、「月を心とせるがゆゑに」、月があるということは人間に心があるからだというふうな考え方をするところから、「月にあらざれば心にあらず」、月のような対象がなければ人間の心というふうな働きもない。「心にあらざる月なし」、そうしてみると、心と月とが一つに重なって現実の姿があるだけであって、心なしに月があるというわけではない。

 「孤円といふは、虧闕せざるなり」、たった一つの丸い月が大空に輝いているということを表す意味で「孤円」という言葉が使われているけれども、その「孤円」という言葉は現実のものが欠けることなく姿を現しているという意味である。

 「両三にあらざるを万象といふ」、この世の中のものに関連して、二つ、三つと具体的に数えることだけが物ではない。この世の中の一切も物という表現ができるという意味で、「両三にあらざるを万象といふ」、個々の二つ、三つというもので問題をとらえるのではなしに、宇宙全体という見方でこの世の中をとらえるとらえ方もある。

 「万象これ月光にして万象にあらず、このゆゑに光呑万象なり」、現に大空に輝いている月がこの世の中の一切のものを照らしているという様子を眺めた場合に、「万象これ月光にして万象にあらず」、この世の中のさまざまなものが月の光に照らされて見えているということは、この世の中のさまざまのものが月の光だというふうな表現もできるのであって、その意味では月の光なしにこの世の中のさまざまの風景があるわけではないから、さまざまの風景もさまざまの風景として独立のものではなしに、月の光に照らされていればこそ見えており、この世の中にあるということが感じ取れるだけのことであると、こういう表現をされた上で、「このゆゑに光万象ヲ呑ムなり」、そういう関係を盤山宝積禅師は月の光がこの世の中のすべての姿を呑み込んでいるという表現をされた。

 「万象おのづから月光を呑尽せるがゆゑに、光の光を呑却するを、光呑万象といふなり」、その点では、今度は逆にこの世の中のさまざまの風景というものが自然に月の光を呑み込んでいると、そういうとらえ方もできる。つまり、景色が月に照らされているということは、景色が月の光を呑み込んでいるという理解の仕方もできる。そのことは、光が光を呑み込んでいるというふうな表現にもなるし、光がさまざまの姿を呑み込んでいるという表現にもなっている。

 「たとへば月呑月なるべし、光呑月なるべし」、そうすると、月が月を呑み込んでいるという表現もできるし、光が月を呑み込んでいるという表現もできる。

 「ここをもて光非照境、境亦非存と道取するなり」、そういうところから盤山宝積禅師は、光が環境を単に照らしているというだけではない、光が主体であって環境が照らされているというだけの表現ではない。「境亦存スルニ非ズ」、環境というものも実際にあるという考え方よりは、光に照らされている、光に呑み込まれているというふうな表現ができる。

 「得恁麼なるゆゑに応以仏身得度者のとき、即現仏身而為説法なり」、 「得恁麼なるゆゑに」、「恁麼」というのは「このように」という意味でありまして、「得恁麼」というのは、そのような現実の事情がわかるという意味であります。そこで、「得恁麼なるゆゑに」、こういう現実の姿というものがわかってきたために、「仏身ヲ以テ得度スベキ者のとき」、相手の人が真実を得た人の体を使って法を説くときに救われるという状況があるならば、「即チ仏身ヲ現ジテ為ニ法ヲ説クなり」、その人のために真実を得た人の体というものを現して、その人のためにこの世の中の真実を説くのである。

 「応以普現色身得度者のとき、即現普現色身而為説法なり」、したがって、普賢菩薩の生身の体というものを使ってほかの人を救済することができるとするならば、そのときには、普賢菩薩の生身の体を現して人のために宇宙の真実を説くのである。

 「これ月中の転法輪にあらずといふことなし」、そのような形で、大空に輝く月に照らされているわれわれの実情の中でも、本当の教えを説くということの中にはそういう事情が含まれている。そのことを「これ月中の転法輪にあらずといふことなし」、月の中で行なわれている釈尊の教えに関する説法だというふうにいえないことはない。

 「たとひ陰精陽精の光象するところ、火珠水珠の所成なりとも、即現現成なり」、その点では、中国の思想の中に陰と陽という二つの要素を考える考え方があるけれども、そのように陰と陽との二つの要素に情景が照らされているという場合には、「火珠水珠の所成なりとも」、それが火のような真珠、あるいは水のような真珠、つまり真珠のような火、真珠のような水というふうなものによって出来上がっている場合でも、「即現現成なり」、現在の瞬間においてまさに現れているということが実情である。このような表現というのは現在の瞬間における事実というものがこの世の中の実体だという主張を説いておられるわけであります。

 「この心すなはち月なり、この月おのづから心なり」、そこで、われわれは心というものを持っているといわれているけれども、その心というものも月というものを見たことによって月の存在がわかるのだし、「この月おのづから心なり」、月がわれわれの心に映るということはわれわれが心というものを持っていることの証拠であろう。

 「仏祖仏子の、心を究理究事することかくのごとし」、そこで、真実を得た人や真実を得た人の弟子が心というものを究極的につかむあり方というものはこのとおりである。だから心というものも独立にあるわけではなしに、外界のものと出会ったときに心というものの働きがあり、心というものの存在を想像することができるということが実情である。

 

 その次にいきますと、八ページのところで、

 「古仏いはく、一心一切法、一切法一心」、過去の真実をお説きになった方が、一つの心と一切の宇宙というものとは同じものだし、一切の宇宙と一つの心とは同じものだ、つまり人間の心があればこそ宇宙がある、宇宙があればこそ人間の心があると、こういう主張をされた。

 「しかあれば、心は一切法なり、一切法は心なり」、このように考えてくると、人間の心というものと宇宙の全体とは一つのものだ、また宇宙の全体と人間の心とは一つのものだ。

 「心は月なるがゆゑに、月は月なるべし」、心というものがあればこそ月が見えるということは、月は月として独立の存在だということがいえるであろう。

 「心なる一切法、これことごとく月なるがゆゑに、徧界は徧月なり、通身ことごとく通月なり」、そうして心と宇宙のすべてとが一つに重なった状況というものは、「これことごとく月なるがゆゑに」、すべて現実の月だというとらえ方ができるから、「徧界は徧月なり」、宇宙全体と月全体とが一つのものだという考え方ができるし、「通身ことごとく通月なり」、われわれの体全体と月全体とも別のものではない、一つのものだというふうな理解の仕方にならざるを得ない。

 「たとひ直須万年の前後三三、いづれか月にあらざらん」、「直須万年」というのは、「直ニ万年ニ赴ク」という意味でありまして、「直ニ万年ニ赴ク」ということの意味は、「万年」というのは永遠でありまして、われわれは現在の瞬間において永遠というものを感じ取ることができる。そういうふうな永遠の立場における個々の事物、それを「直須万年の前後三三」。「いづれか月にあらざらん」。そうしてみると、われわれは永遠という時間の中で生きている。その永遠の中で生きている自分たちの具体的なものの一切が月と同じものだというふうにいえないわけがない。その点では、われわれが瞬間瞬間に生きている現実の世界も月も本質的には同じものだ。

 「いまの身心依正なる、日面仏・月面仏、おなじく月中なるべし」、そうしてみると現にわれわれは体を持ち、心を持ち、環境があり、その中における主体としての自分がある。そういう体、心、あるいは環境の状況と、自分自身と、そういうものが現に自分としてこの世の中にあって、それは太陽の姿をした真実であり、月の姿をした真実と同じものであって、「おなじく月中なるべし」、そういうものもすべて月の中に含まれているというふうな理解の仕方ができる。

 「生死去来、ともに月にあり」、そうしてみると、われわれの生き死にの問題、去って行ったり来たりするという現在の瞬間瞬間も月と実情は同じものだというふうなとらえ方ができる。

 「尽十方界は、月中の上下左右なるべし」、宇宙全体も月の上下左右と同じものであろう。

 「いまの日用、すなはち月中の明明百艸頭なり、月中の明明祖師心なり」、そうしてみると、われわれが毎日何らかの仕事をして生活をしている、そのような日常の働きというものも、「すなはち月中の明明タル百艸頭なり」、月というものの中における具体的なさまざまのものにすぎないというふうな理解の仕方もできるし、「月中の明明タル祖師心なり」、月の中に照らされた明々白々とした伝統的な師匠の心だというふうなとらえ方もできるであろう。

 

 そうしてその後でさらに月の説明をしておられるわけでありますが、なぜここを時間が近いのに読むかといいますと、ここに四つの説があるわけでありますが、この四つの説が苦・集・滅・道という四種類の考え方において順々に説かれているという事情があって、いま読みましたところが「四諦の教え」でいうと滅諦の立場、そうしてその次の一〇ページのところが、道諦の立場、現実の立場と、こういうことになるために四つの説をきょう一緒にお話しておこうと思うわけであります。

 一〇ページでは、

 「舒州投子山慈済大師、因僧問、月末円 時如何」、舒州という中国の地域におられた「投子山慈済大師」、投子大同禅師という方でありますが、その投子大同禅師があるとき僧侶から質問された。「月未ダ円カナラザル時如何ン」、「月がまだ満月になっていないときの実情というものはどうでしょうか」と。

 「師云、呑却三箇四箇」、「月の三つ、四つというようなさまざまのものを全部包んで月としてある」と。

 「僧曰、円 後如何」、「その月が満月のときにはどうでしょうか」と聞いた。

 「師云、吐却七箇八箇」、「七つ八つの月を吐き出している」と。このことが何を意味するかというと、最終の道諦の世界では抽象的な説明と現実の事態とが一つに重なっているということ、月が半月であろうと満月であろうと、月が具体的な個々の月を三つ、四つと呑み込んでいる、あるいは七つ八つと吐き出しているというふうな形で、抽象的な言葉の問題と現実的な個々の事実とが一つになった世界がわれわれの生きている世界だということの説明をされているわけであります。

 そこで道元禅師が解説をされまして、

 「いま参究するところは、未円なり、円後なり」、ここで投子山慈済大師が説明しておられるのは、まだ満月になっていない月であり、また満月になった後の月である。

 「ともにそれ月の造次なり」、「造次」というのは短い時間という意味で瞬間を指すわけであります。だから半月のときも満月のときもそれぞれ月の現在の瞬間におけるあり方である。

 「月は三箇四箇あるなかに、未円の一枚あり」、月は三つ、四つといろいろな例の月があるけれども、その中にまだ満月になっていない月というものもある。

 「月に七箇八箇あるなかに、円後の一枚あり」、月にも半月の月、三日月、あるいは満月というふうにいろいろあるけれども、満月になった後の月というものもある。

 「呑却は三箇四箇なり、このとき月未円時の見成なり」、その点では、まだ満月になっていない三日月や半月の月というものもその中に具体的な月というふうなものを三つ、四つと含んでいる。つまり「月」という言葉はさまざまの月を三つ、四つというふうにその中に含んでいる。ただそれが現にまだ満月にならない状態で大空に輝いているということがあり得る。そのことを「呑却は三箇四箇なり」。「このとき月未円時の見成なり」、また月が満月になっていないときでも、その月の中にさまざまの形の月が三つ、四つというふうに含まれている。

 「吐却は七箇八箇なり、このとき円後の見成なり」、また月が満月になった後でも、そこから七個、八個というふうな具体的なさまざまの月が現れてくる。

 「月の月を呑却するに、三箇四箇なり」、月がさまざまの月というものを三つ、四つというふうに含んでいる。

 「呑却に月ありて現成す、月は呑却の見成なり」、そこで、一つの「月」という言葉がさまざまの月をその中に含んでいるということが現実の姿であるし、月はまたさまざまの現実の月をその中に含んでいるという形で具体的な姿を示している。

 「月の月を吐却するに七箇八箇あり」、したがって、現実の月が個々の具体的なさまざまの月を含んでいるという点では、月がさまざまの違った形の月を七個、八個というふうに吐き出すだけの能力というものも同時に持っている。

 「吐却に月ありて現成す、月は吐却の見成なり」、だから一つの月の中にさまざまの姿の月が含まれているということが現実であるし、月はさまざまの具体的な月をその中に含んでいて吐き出すことができるというところに現実の事態がある。

 「このゆゑに呑却尽なり、吐却尽なり、尽地尽天吐却なり、葢天葢地呑却なり」、このような状況から見ると、この世の中の具体的なものが一切のものを呑み込んでいる、また一切のものを吐き出している。「尽地尽天吐却なり」、大地のすべても、大空のすべても、さまざまの具体的な例というものをその中に含んでいて、それを絶えず外に現している。「葢天葢地呑却なり」、大空全体も、大地全体もさまざまの具体的なものを呑み込んでいる。

 「呑自呑佗すべし、吐自吐佗すべし」、そこで、自分自身を呑み込むということもなければならないし、自分以外のものも呑み込むというふうな態度を自分自身が持っているべきであるし、「吐自吐佗すべし」、自分自身というものをあからさまに吐き出す、あるいは自分以外のものを明らかに外に向かって表現するというふうな態度も同時に必要である。

 こういう形で、この世の中というものは具体的なものと抽象的な言葉とか一つに重なった現実であって、そういうふうな現実のあり方というものを坐禅を通じて実感すべきだと、こういう主張が述べられているということになります。

 

 それでは、いつもよりも少し時間が過ぎましたが、ここで話のほうをとめまして、またご質問を受けるということにしたいと思います。何かありましたらどうぞ。

 

 問  だいぶ前の提唱禄にもこの「都機」の巻が入っているわけですけれども、それを拝見しますと、「こういうややこしい勉強をしていって何になるんだろうか」という質問が出ているわけですね。それに対して西嶋先生は「現実というのを勉強するにはここまで微に入り細に入りというか、いろいろな見方をしないと見えてこない」と、そういう回答をなさっていますが、そのことをについて伺えますか。

   そこでね、こういう思想が何から出て来るかというと、坐禅から出て来るんです。なぜ坐禅から出て来るかというと、坐禅をすると人間の自律神経がバランスする。そうすると心の働きと関係のある交感神経と体や感覚と関係のある副交感神経とが同じ力になる。そうすると心と体とがプラス・マイナス・ゼロになって、それが現実の実情なんです。だから坐禅をすることによって自律神経がバランスしてくると、ものを考える習慣から抜け出すことができる、あるいは敏感でいろいろなものを感じ過ぎる世界から抜け出すことができる。そういう落ち着いた状況のときにわれわれがどんな世界に生きているかということを現実の事実として実感できるというのが仏教哲学の基本です。だから坐禅の修行がないと仏教哲学を実際に感ずることができないというのは事実なんです。

 で、坐禅をしていて自律神経のバランスというものを経験すると、仏教を理解するというよりも、仏教そのものと自分とが一つになる。そうすると「なるほど、この世の中は現実だけだな」という形で、現在の瞬間を大切にして一所懸命行動するという日常生活の態度が生まれてくるということが仏道修行の実体だということになります。

   現実を学ぶといっても、新聞とか、雑誌とか、いろんな情報で勉強するわけですけれども、やはり坐禅というものがないとどうしても抽象的というか、頭でとらえがちですよね。

   はい。

   やっぱりそれではいけないということになるわけですね。

 答  はい、そうです。

   わかりました。

   一〇ページのところなんですけれども、月がさまざまの月を含んでいるというご説明がございましたけれども、そこの最後のところで、「吐自吐佗すべし」というのは、この意味というのは自分というものもやはりいろいろな自分を含んでいるという意味なんでしょうか。

   その点では、自分というものが自分の中に含まれているから、それも外に吐き出してどんなものかをつかむ必要がある。で、自分以外の要素というものも自分の中に含まれている、それも外に出してどういうものか観察すべきだと。だから自分を吐は出す、自分以外のものを吐き出すことが必要だと、そういう趣旨が「吐自吐佗すべし」という言葉の意味になるわけです。

   自分を吐き出すというのは具体的にはどういうことなんでしょうか。

   それは結局は自分がどういうものかがわかるということ、自分以外のものがどういうものかがわかるということ。

 人間というのは自分もわからなければならないし、ほかのものもわからなければならない。ところが、人間には傾向がありますから、自分のことだけは十分に考えてよくわかっているけれども、ほかの人のことはぜんぜんわからんという人もいる。ほかの人の気持ちはよーくわかるんだけれども自分のことはぜんぜんわかっていないという人もいる。

 釈尊はその片方に偏ることは正しくない、自分もわからなければならないし、自分以外のものもわからなければならない。そうなってくると、自分と他人とはあまり違わない。そういう平等の世界にわれわれは生きているんだから、自分のことだけに関心を持って、「俺が、俺が、俺が」ということでこだわった形で人生を生きてみても、本当の人生は生きられない。「自分はだめだ、自分はだめだ。ほかの人は偉い、ほかの人は偉い」ということで自分の立場を逃げて回っても、この世の中の実情はわからない。自分もわからなければならないけれども、ほかの人もわからないと一人前でないということをいわれた。

   わかりました。

   それはだいたい何歳ぐらいになるとわかってくるものなんでしょうか。

   これは百になってもわからん人はいるよ。(笑)

 だからそこで大人になるべく成長しなきゃならんという問題があるんです。子供のときは子供らしく理想主義に凝り固まっていていいんですよ。「大人はどうも悪いことばかりする。子供のほうがよっぽど正直だ」と思っておやじの批判をしてもいい。

ところが年頃になると自分自身がおかしくなってくる。何でもやっていいんだということで何でもやると、今度は自分に自信がなくなる。それからまた抜け出すために、壮年の時代があって、そこで多少大人になったという段階がくるわけです。そういう形で、自然の成長する人格か、あるいは子供の魂が百までも残ってしまって子供で一生終わるかというようなところに人間の成長の問題があるわけです。一生子供の立場で生き抜く人もいると思うよ。(笑)

   はい、わかりました。

   苦・集・滅・道で四段階の説明があるのできょうはここまでやりますというお話でしたが、もうちょっとご解説をお願いできますか。

   その点ではですね、この三ページから始まる一つの説は、理論的に自分と他人との相互関係、あるいは自分と宇宙との相互関係、あるいは月と宇宙との相互関係というものを理論的に述べているわけです。

 その次の盤山宝積禅師の表現は、具体的に、この世の中を月が照らしている、月がこの世の中を全部呑み込んでいる、あるいは月の光も環境の姿も両方消えてしまって現実が眼の前にある。そういう形で客観的に月とさまざまの景色というものを使って具体的に心と物との関係を表現している。だからこの表現が集諦の立場からの表現になっている。

 そうして三番目にいきますと、今度は自分の心と宇宙の一切とが同じものだということをいっておられる。だから主観的なものと客観的なものとが一つに重なった世界を述べているから、これが滅諦の立場の表現だ。

 そうして最後のところの一〇ページのところでは、物と心との関係を現実的に、月が具体的な月を吐き出すという表現と、月が具体的な月を呑み込んでいるという両方の形を使って、心と物とが一体になった状況を表現している。だから道諦の立場における表現だと、こういう理解の仕方ができるということになるわけです。

   どうもありがとうございました。

   先ほど前話のお話で、ちょっと俗っぽいお話で政治問題で恐縮なんですけれども、ご老師は現実肯定派の仏道の立場から、いままでいろいろと政治問題をお聞きしていますと、歴代の総理ですね、たとえば細川内閣の時代も細川総理をけなしはしなかったんですよね。意外と最初のほうは買って、非常に前向きなあれで、恐らく現実肯定というところから出発しますと、それは無理からぬことじゃないかと、まあそれもわかるんですけれども。

 今回小泉首相は非常に買っていると。それで特に郵政問題に関連しますと、われわれから見て、何ゆえにかくも小泉さんは郵政に執着するかと。まあ気違いみたいな感じで、それでその郵政を民営化したときの青写真が少しもわからない。「これはやってみなければわからないよ」といえば、それまでですけれども。抽象的な言葉はいろいろ聞きますが、われわれ庶民感覚では、それじゃ郵政を民営化したらどれだけのメリットがあるかというと、ちょっとわかりかねるようなところが多々あるんですね。

 しかし、小泉さんは郵政ということはもう国会議員になったとたんからいい始めて、これが一つの自分の生きがいみたいなものでいるわけですけど。いま関連法案出ましたね。したがって、こういったしゃにむにやるということの国民の眼から見た乖離ですね、そういうところはご老師はどういうふうに見ていますかね。

   これはね、国鉄事業にしても、郵政事業にしても、国防の見地からの制度なんですよ。

   国防?

   つまり、官業の事業を盛んにして、政府が裕福になって、優れた軍隊をつくって、世界を征服しようという考え方と関係していると思う。だからそういう古い時代の考え方が日本の社会の中に影響を残しているということ、それを解きほぐしたいという背景があると私は思う。

   ああ。そういう見方は私は初めて聞きました。なるほど、違った見方もあるんだなといま思いました。

   だから人間社会というのはそれぞれの時代の制度によって縛られているんですよ。だからそういう縛られている状態を解きほぐさないと本当の自由な民主国家はできないんですよ。

   なるほどね。聞くところによりますと新聞業界は過当競争が激しくて、いま配達の人だけでも四十万人ぐらいいるそうですよ。それで郵政民営化しますと、郵便が新聞配達までやると。なんか竹中平蔵あたりもそれは許してくれよといって、いま新聞業界で競合が出るんじゃないか、そうするとこの過当競争の中に今度郵政が入って来るといったいどうなるかというような、労働問題も抱えて、てんやわんやになると。

 それから郵便局のほうから見ると、うちはこれからコンビニにも入れるとか、文房具やなんかはもうすでに入っています。ですからそういうようなところからみると、これがいいのかどうかわかりませんが、まあ心配しているんですけどね。

   それと同時に、社会というのは変わっていくものです。変化に順応していってこそ文化国家なんです。だけど、古い制度は絶対だから、もう一分一厘も動かしちゃいけないという考え方もあるわけです、社会には。そういう考え方を「保守主義」というわけです。

   世の中にはそういう人が多いんですけどね。

   うん、そうそう。それで社会の安定ということも必要だから、急激な変化を好まないということは当然考えなきゃならないけれども、それと同時に進むべきものは進まないと文化が進歩しないし、文化が進歩しないということは、産業はしっかりした力を持たないから、国際競争で負けるんです。

   なるほどね。

 来年の秋に自民党の総裁選がありまして、もしそこまで小泉さんが総理でいると、佐藤栄作から始まりまして、吉田茂、中曽根康弘、史上四番目になっちゃうんですよね。これはまた珍しい。まあ先はちょっとわかりませんが。しかし歴史に残るようなあれなんですけど。

 それで、だいたい自民党の総裁選が近くなりますと一年前から次の候補がちゃんとわかってくるんですよ。それは派閥の親分がいままでこういうふうに動かしていましたから。

 ところが人事については、これはご老師にご意見を伺うんですが、小泉さんは一部独裁的だ、誰にも人事については相談しないと。それで卑近な例では、武部さんを幹事長にした。これは誰も予想しなかったわけです。それでよくよく探ってみますと、狂牛病の事件のときに、武部さんが相当やり合って、あっちこっちから非難があったんだけど非常に辣腕を振るって頑張った、そういうところを見て小泉さんはあえて武部さんを幹事長にしたと。これは誰も予想しなかったということをいわれているんですが、この人事面なんかをご老師はどういうふうに見ていますか。

   私は小泉内閣ができたときに私は「小泉さんを尊敬する」といった。みんな笑ってたけどね。(笑)だけども、私はやっぱり政治的な見識があるし、政治を動かすだけの力があると思います。それがなければ今日までこない。

   次回の総理候補が、まあ三角大福の時代とはまた違いますが、安倍晋三という名前もちらほら、しかし本命とはできないし、それから福田康夫さんも一時は本命で出て来たんですけど、これもあまりパッとしない。そうすると、よくよく考えると派閥の吸引力というか、長老、ボス、それが小泉内閣ができたときからちょっと変わってきたと、そういうことがいえますね。それで見えなくなってきたと……。

   うん、それはあります。

   もうそろそろ次の総裁候補が出て来てもいいし、また事前工作ができてもいいんですけど。あんまりいい質問もないんですが、ズバリ、次期総理候補はどなたを挙げられますか。

 答  これははずれると恥をかくけど、(笑)私は安倍晋三さんだと思う。

   ああ、安倍さんですか。そうすると、いま中二階の連中で麻生とか何とかいますけど、やっぱり浮き上がっちゃいますかね。

   いや、外そうという意図があるんじゃないかな。

   ああ、もうね。それで自分の心の中にはそういうふうにね。

   そうじゃないかと思う。

   どうもすみません。ありがとうございました。

   いやいや、こういうことをいうと恥をかくから。(笑)

   いやいや、これは天下の回りものですからわかりませんよ。ご老師が悪いわけじゃありませんから(笑)。時代、時代の……。

   こういうことはいわないほうがいいんですが、私はそうじゃないかと思っています。

 

 それでは、時間がきたようですから、普回向を唱えて終わりにしたいと思います。

普回向 唱和