開経偈 唱和

 これは前にもお話したことではありますが、人類の歴史というものも釈尊のお説きになった「四諦の教え」に従って時代が移り変わるという理解の仕方をしております。

 それはどういうことかというと、人間の歴史でも、まず理想というものを持って、非常に精神的な努力をする時代というものが一番最初にある。

 ところが、そういう精神主義的な努力というものは現実の事態に合わずに、報われない場合が非常に多い。そこで人々は理想を掲げて一所懸命努力することの虚しさに気がついて、今度は物の面から地上の事実を眺めようとする時代が来る。それが唯物論の時代だ。

 最初に精神主義の時代を経験して、その後で今度は唯物論の時代を経験した後で何が来るかというと、精神主義も物質主義も本当の意味で正しいかどうかという疑問が湧いてくる。そこで、二つのそういう思想に頼るよりは、自分の足元を見詰めて、毎日何をやるかというふうな形で、実際の生活を基準にして問題を考える滅諦の時代が来て、そういう行ないを中心にした努力とわれわれが生きている宇宙の原則とが一つに重なるというふうな最終の段階の考え方に進んで行くと、こういう見方をしております。

 日本の歴史でいいますと、現在の歴史のごく最近の出発点はやはり明治維新でありますが、明治維新のときに、日本の文化はそれまで非常に優れた文化ではあったけれども、欧米の文化に比較すると、科学的な考え方その他でたいへん劣っている面があった。そこで何とか欧米の文化を勉強して、欧米の文化に追いつこうという努力が明治維新以降、非常に真剣に行なわれた。だから日本国民は古いものは全部棚上げしてしまって、何でもかんでもヨーロッパの文化が優れているという形で一所懸命欧米の文化を勉強したために、予想もしないほど速い速度で欧米の文化を自分たちのものにするというふうなことが行なわれた。

 日清戦争や日露戦争に勝ってみると、日本の国は非常に優れた国だというふうな自尊心が強くなって、その結果、今度は逆に、日本の国はいずれ世界を制覇する力を持っているというふうな考え方が生まれて、そういう考え方がだんだん強くなって、第二次世界大戦に突入することを防げなかった。

 そうして実際にやってみたら、最初は非常に勢いがよかったけれども、ほとんど全世界の大部分を相手にして戦うような状態であったから、よくあれまでやれたとは思うけれども、最終的には出るべき結果が出てしまった。そこで日本の国は理想主義の時代、観念論の時代が終わって、今度は物だ、金だというふうな物質を中心にして問題を考える考え方が非常に強くなってきた。

 教育の世界でも、そういう考え方を中心にした日教組というふうな組合が教育界のかなりの部分を自分の手に収めるというふうなことがあったために、学校教育も非常に唯物論的な考え方で教えられるというふうな時代が来た。

 そこで、そういう勉強をして大きくなった若者たちにとっては、昔の古い考え方でこうしなければならん、ああしなければならんというふうな考え方は間違いだ、自分たちのやりたいことをやっていればそれが一番正しいんだというふうな考え方が非常に国民全体に広がって、そういう時代が六十年ぐらい続いている。

 ただ、最近、そういう状況が少しずつ変わるのではなかろうかというふうな期待があるわけであります。もちろん今日とてつもなくおかしな反道徳的なニュースというものは毎日のように新聞に載る。毎日の新聞の情報を見ていると、日本国民はこれほどだらしなくなったかと思って情けなくなるような記事が毎朝出ている。

 で、読むほうもそう大して悪いこととも思っていなくて、これが人間の本当の姿だというふうなことで、あまり直さなければならんというふうな空気も出て来ないというふうなこともいえるわけでありますが、この時代がずうっと続くかというと、私はそう見ていない。日本国民の中では「これでは困る」というふうな考え方が少しずつ出始めるというふうなことを期待していいのではないかという見方をしております。

 非常に卑近な例ではありますが、今日、JRその他の車両には老人や、病人や、妊産婦や、体の一部がうまく動かないというふうな人々のための特別の席があるわけでありますが、あの制度が始まった頃は、まず席を譲られるということはなかった。国民の間に席を譲ろうなんていう気持ちはまずなかったから、当時、席を譲られたという記憶がほとんどない。ところが最近、意外に席を譲られる。若い人がスーッと立ち上がって「どうぞ」という例が非常に増えてきた。こういう理屈ではない事実の変遷というものが歴史の流れ。

 だからそういう点では、気がつかないうちに日本国民のものの考え方も少しずつ変わっているというふうな見方もできないことはない。そうすると、あと十五年も経ったときに、行ないを中心にした現実主義の時代が来るとするならば、もうその十五年前ぐらいから少しずつ変化の現象が出始めても不思議はない。

 そういう点では、私は楽観的過ぎるのではないかという批判はあるかもしれないけれども、もうしばらくすると日本の国に現実を中心にした考え方の時代が到来するだろうという期待を持っていて、そういう形で人類の歴史というものは移り変わっていくものだ。

 だから西洋の歴史を見てみても、こういう四段階の考え方というものは歴史の中に読み取ることができるというふうな事情があると見ておりまして、そういう点では、日本の国がもう一度多少まともな国に戻れる可能性はあるのではないかという期待を持っております。

 その場合に何が必要かというと、正しい原理が必要であって、われわれが勉強していることは、その正しい原理を勉強していることにほかならないというふうな見方ができるのではないかと考えているということが実情であります。

 

 それではまたこの本のほうに入ってまいりますと、きょうは一九ページの「空華」という巻からになるかと思います。

 「空華」というのは何を意味するかというと、空間に浮かんでいる華という意味でありまして、空間に浮かんでいる華が何を意味するかというならば、人間は頭の中で考えて、世の中はこうだ、ああだというふうなたくさんの思想を考える。そのようなものの考え方というものが、仏教の立場からすると、頭の中で考えたことであるから実体ではないというとらえ方をするわけであります。それからまた、この世の中にはさまざまの物があるわけでありますが、そういう物についても、眼に見えただけだ、手に触れるだけだというふうな形で、本当の実体かどうかというふうなことに疑問を持つ考え方があって、仏教にはそういう考え方があるわけでありますが、この「空華」の巻では道元禅師は、仏教にはそういう考え方があるけれども、そういう思想とか、あるいは感覚的な刺激を通じて感じ取れる物質というふうな要素の中にも実体があるというふうな主張をしているということがこの巻の中心思想になるわけであります。

 したがって、いっておられることはなかなか難しい。だからその点では、まず最初に、この巻でどういうことをいっているのかというふうなことを聞いた上で、個々の文章の意味に入って行くことが必要ではないかというふうに見ております。

 

 そこで一九ページのところを読んでいきますと、

 「高祖道、一華開五葉、結果自然成」、「高祖」というのは中国に坐禅の修行をもたらされた菩提達磨大師であります。菩提達磨大師がつくった詩の一節に「一華開五葉」という言葉がある。一つの花と五枚の花びらが開くということとは同じ事実だ。そうして、「結果自然成」、花がやがて実を結ぶということについても、自然の成り行きとしてそういう事実が具体化する。

 この詩で菩提達磨大師はこの世の中というものは非常に安定した形のものとして存在しているというふうな趣旨を説かれたわけであります。

 そこで道元禅師がこの達磨大師の詩に対して解説をされまして、「この華開の時節、および光明色相を参学すべし」、このようにわれわれの生きている世の中がどんなふうに花を咲かせているかというふうな時点、あるいはどのような輝かしさがあり、どのような色彩の姿を示しているかというふうなことを勉強すべきだ。

 だからここの解説の最初は、われわれがどんな世界に生きているかということを勉強すべきだ、それが仏道の勉強であると、こういうことを述べているわけであります。

 ですからこの世の中というものはいろいろな姿があって、大阪で小学校に入って来て何の理由もなしに小学生を傷つけたり殺したりするというふうなおかしな事件もありましたが、あれも地球の上の事実でないということはいえない。現にわれわれが生きている社会の一部でそういう理解することのできないような事実が起きたということは否定できない。そうすると、この世の中というのはまともなようできわめてばかげたこともたくさんある。また、きわめてばかげたことがたくさんあるようには見えるけれども、意外にまともな面もある。

 そのことを、「この華開の時節」、そういう姿がわれわれの周囲にたくさん花を咲かせているときに、それがどんな状況の時点であるかとか、あるいはどんな輝かしさがあるかとか、どんな色彩を具えているかというふうなことを勉強すべきである。つまり、この世の中の現実を勉強すべきである。

 「一華の重は五葉なり、五葉の開は一華なり」、花というものを考えてみても、一つの花というものは五枚の花びらが重さなったものだということができるし、「五葉の開は一華なり」、五枚の花びらが開いているということと一つの花が咲いているということとは同じ事実である。

 「一華の道理の通ずるところ、吾本来此土、伝法救迷情なり」、そこで、一つの花を取ってみても、それが一つの花だというふうな抽象的なとらえ方もできれば、もっと具体的に五枚の花びらの集まりだというとらえ方もできる。そのような一つの花についての理解というものも行き渡ってくると、「吾本此土ニ来リ、法ヲ伝エ迷情ヲ救ウなり」、これは「一華開五葉、結果自然成」という言葉と同じ詩の中に出て来る文句であります。したがって達磨大師の述べられた詩でありまして、「吾本此土ニ来リ、法ヲ伝エ迷情ヲ救ウ」、自分はこの中国にやって来て、釈尊の説かれた教えを伝え、さまざまの問題に迷っている人々を救った。それと、花が五枚の花びらを持っているとか、五枚の花びらの集まりが一つの花であるというふうな事実と同じものであるという主張をして、われわれの生きている世界がどんな世界かをまず直接に勉強すべきであるということをいわれているわけであります。

 「光色の尋処は、この参学なるべきなり」、そこで、この世の中の輝かしさ、あるいは色彩というふうなものがどんなものかということを尋ねる場合に、このように眼の前の現実の姿というものをまず勉強すべきである。

 「結果任儞結果なり、自然成をいふ」、そこで、結果というものはどうあっても構わない。「結果ハ儞ガ結果ニ任ス」というのはそういう意味でありまして、仏教哲学ではこういう思想が一つのかなり重要な思想として説かれているわけであります。

 この考え方は一般の仏教の理解の中ではなかなか出会わない考え方でありますが、龍樹尊者のお書きになった『中論』の中では非常にはっきり述べられている。

 われわれは結果というものを非常に大事にする。途中の過程はどうでも結果がいいか悪いかが問題だという考え方をするわけでありますが、仏教ではそうではない。結果というものは事実ではないと。じゃ何かというと、事実に対する解釈だ。人間が事実について持っている解釈であるから、それを実体と考える必要はない。むしろ大事なのは、現在の時点における経過のほうが問題なんだ。何が生まれたかということは、事実ではなくて、人間の解釈だと、こういう考え方が行なわれているわけであります。

 したがって、そういう考え方がここでも、「結果ハ儞ガ結果ニ任スなり」、結果というものを人間は問題にするけれども、それはどっちでもいいことだ。「自然成をいふ」、その点では、この世の中というものは次々に起こるべき事実が現れてくる。

 だからそういう点では、われわれの生きている世界というものはそのような形からは逃げることができない。だからアメリカがアフガニスタンを攻撃して、それがうまくまとまったけれども、イラクのほうが騒ぎ始めた。そこでイラクのフセイン政権を倒したというところまでが今日の過程でありますが、イラクの国民がそういう措置に対して非常に反対する勢力もあって、新しい政府ができたけれども、果たしてうまく運営できるかどうかというふうなことがいま問題になっている。

 そういうことも事実、現実、宇宙の原則に従った現在の瞬間における事実だ。だから、どういう結果になったというふうなことよりも、いまどういう事実が生まれている、いまどういう事実が生まれてくるという問題のほうが大切であると、こういう趣旨が説かれているわけであります。

 仏教思想の中でもこの結果というものを重要視しない考え方というのは『正蔵眼蔵』で見ることができると同時に、龍樹尊者の『中論』で見ることができる。ほかの仏教書でその結果を現実ではないという主張をしている趣旨を見かけることがあまりなかったというふうに記憶しております。

 だからそういう点では、『正蔵眼蔵』に説かれた仏教哲学と『中論』に説かれた仏教哲学とは非常に共通の内容を持っておりますが、その共通の内容というものは普通の仏教書には見かけないような理論であると、こういう事実があります。

 だから本当の仏教を勉強しようとなると、そういう本当に信頼することのできる文献に従って本当の意味の仏教を勉強するということが非常に大切だと、こういうこともいえるわけであります。

 そうして道元禅師の解説では、「自然成といふは、修因感果なり」、自然に事態が成立するということが何を意味するかというと、原因があって、それに従って結果が生まれるということである。

 「公界の因あり、公界の果あり」、「公界」というのは非常に大きな世界を指すわけでありまして、今日の言葉でいうならば宇宙を指しているというふうに理解することができますが、宇宙にとっても原因があり、またその結果がある。

 「この公界の因果を修し、公界の因果を感ずるなり」、われわれは宇宙の中に生きている。宇宙の中でそういう原因・結果の関係というものを実行し、また宇宙の中で「なるほど、原因・結果の関係というものがあるものだ」ということを実感するのである。

 「自は己なり、己は必定これ儞なり、四大五薀をいふ」、われわれは自分という意識を持っている。自分というのは自分自身にほかならないけど、その自分自身と同じようなものがほかの人間にも当然ある。それが「己は必定これ儞なり」。だから「自分が」「自分が」ということで自分を大切に考えてみても、ほかの人も自分と同じような存在であり、人間である。

 そういう形でこの世の中の実情があって、そのこの世の中の実情を物質を中心とした考え方として「四大五薀」というふうにも呼ぶ。「四大」というのは地・水・火・風といいまして、四種類の物質の要素であります。それから「五薀」というのは色・受・想・行・識といいまして心の世界、物の世界の両方を考えに入れた五種類の集合体を意味するわけでありまして、そういう点では、自分とか、自分でない他人とかいうことを考えているけれども、結局この世の中の物質世界と呼ばれるような実体と同じものでもある。

 「使得無位真人のゆゑに、われにあらず、たれにあらず、このゆゑに不必なるを自といふなり」、自分自身というものを考えてみても、特別の地位を持たない本当の人間をわれわれは使いこなしているのである。

 だから人間のあの方というものがどういうことかというと、地位だけが人間を決めるわけではない。地位は人間の付属物であって、人間の本質ではない。そこで、われわれが日常生活で生きていくということは、地位がどうこうという問題を離れた、本当の人間が動いているということを意味する。「使得無位ノ真人」というのは、特別の地位を持たない本当の人間を使いこなすというのがわれわれの日常生活の実情だ。

 したがって、「われにあらず、たれにあらず」、自分と考えて、毎日ご飯を食べ、仕事をし、夜は寝ている人間というものを考えた場合に、それがどういう人間かというようなことはよくわからない。「たれにあらず」というのはそういう意味であります。自分自身かどうかわからないというのが「われにあらず」。「たれにあらず」というのは、どういう人かよくわからない。「このゆゑに不必なるを自といふなり」、このような事情があるから、どうもはっきりしないものを自分と呼ぶ。

 こういう考え方は普通の哲学書には出て来ない。欧米の哲学書には出て来ない。どういうものかよくわからないものを自分という。だから、「そんないいかげんなことをいわれちゃ困る。自分は自分、他人は他人だ」ということだけれども、確かに私なども自分を振り返ってみて、どういう人間かよくわからない。とにかく生きていることは間違いない。手が二本、足が二本、これも間違いない。だけれども、じゃ西嶋という男はどういう男かというと、これこれでこういう人間だというふうになかなか言い切れない。何でこんな不思議なものが呼吸をしたり、ご飯を食べたりしているんだろうと思うくらいよくわからない。

 そのことを道元禅師は実感として、「このゆゑに不必なるを自といふなり」、「不必」というのは、はっきりしない、わからないという意味であります。どうもはっきりしないものが自分だと。

 「然は聴許なり」、「自然」という言葉でありのままという言葉が使われているけれども、それは一切のものが許されるという意味である。「聴許」というのは許すという意味であります。だから現に眼の前に事実があるということは、それをそのまま認めざるを得ないというのが実情である。

 「自然成、すなはち華開結果の時節なり、伝法救迷の時節なり」、そこで、花が開き、実を結ぶというふうな時点というものがわれわれの生きている人生の実情であり、それが「自然成」という言葉で表されている。達磨大師がはるばるとインドの国から東南アジアの島々を回って三年間の歳月を費やして中国に坐禅の修行を勧めるために到着されたというふうなことも、またわれわれの生きている世界の一つの事実であり、実情である。

 「たとへば優鉢羅華の開敷の時処は、火裏火時なるがごとし」、「優鉢羅華」というのはインドにおける花の名前でありますが、インドにおける優鉢羅華という花が開く、あるいはたくさん広がって咲いている、そういう時間なり場所というものは、「火裏火時なるがごとし」、非常に暑い環境であり、また暑い時節だというふうなことがこの世の中の実情である。

 「鑽火焔火みな優鉢羅華の開敷処なり、開敷時なり」、人間の世界では、「鑽火」というのは火打石から出る火花のことを指すわけであります。それから「焔火」というのは炎であります。火打石から出る火花も、あるいは炎としての火も、「みな優鉢羅華の開敷処なり」、この世の中を「優鉢羅華」という言葉で譬えてみるならば、この世の中の実情が火花の中にも、炎の中にもあるということを意味しているし、また、そういうものが現在の瞬間において事実として存在しているということでもある。

 「もし優鉢羅華の時処にあらざれば、一星火の出生するなし、一星火の活計なきなり」、もし優鉢羅華に譬えられるような何らかの事実が存在する時点、あるいは場所というものがこの世の中でないとするならば、「一星火の出生するなし」、火打石から火花が出るというふうなこともあり得ないし、火花が生き生きとした事実としてこの世の中に存在しているということもあり得ない。

 この辺の記述は、われわれの生きている世界が実在であるというふうな考え方をもとにしないと意味が取れないという事情があります。つまり、ここで述べられていることは、この世の中のさまざまの事実が現実の事態としてあるという主張をしておられるわけであります。

 「しるべし、一星火に百千朶の優鉢羅華ありて、空に開敷し、地に開敷するなり、過去に開敷し、現在に開敷するなり」、その点では、この世の中のあり方というものも、何らかの実体があって、空間にも広がり、地面にも広がっている。過去においてもそのような広がりがあったし、現在でもそのような事態が広範に広がっている。

 「火の現時現処を見聞するは、優鉢羅華を見聞するなり」、そこで、火が現に眼の前にある、その現在の時点、あるいは場所というものを経験するということは、この世の中が優鉢羅華という花に譬えることのできるような実体であるということを経験するのである。

 「優鉢羅華の時処を、すごさず見聞すべきなり」、そこで、この世の中に存在するものは優鉢羅華の花に譬えることのできるような実体であるということを見過ごすことなしによく見るべきであるし、また教えとして聞くべきである。

 こういう形で、まずこの世の中がさまざまの事実がある実体だという主張をしておられるわけであります。

 

 その次に二二ページの最後の行から始まるわけでありますが、

  「古先云、優鉢羅華火裏開」、過去の祖師が次のようにいっている。「優鉢羅華火裏ニ開ク」、現実の事態を象徴する優鉢羅華という花も、夏の暑い時節に開く。つまり、事実というものとその環境というものとが両方重なってこの世の中の事実があるということを、「優鉢羅華火裏ニ開ク」という表現を過去の祖師がされた。

 「しかあれば優鉢羅華は、かならず火裏に開敷するなり」、そうしてみると、現実の事態というものは例外なしにこのわれわれが生きている環境の中で開くものである。

 「火裏をしらんとおもはば、優鉢羅華開敷のところなり」、そこで何かが起きる場所というものがどんなものかということを考えてみると、それは現実の実体が広がっている場所を指すのである。だから現実というものがなければこの世界そのものが存在し得ない。

 こういう点で、『正法眼蔵』を読んでいきますと、最初から最後までこの世の中は実在するという考え方を基礎にして釈尊の教えが説かれているということが実情であります。ただ、仏教哲学をそういう現実の教えとして受け取る力のある祖師方というものが意外に少なかったから、仏教の教えが誤解されて何千年も続いたということもいえるわけであります。

 「人見天見を執して、火裏をならはざるべからず」、人間としての考え方、あるいは天上の神々の考え方を固執して、われわれが現に生きているこの現実の様子がどんなものであるかを勉強しないわけにはいかない。そこで、人間の考え方、神々の考え方というものを固執して、現実の世界がどんなものであるかを勉強しないわけにはいかない。

 「疑著せんことは、水中に蓮華の生ぜるも疑著しつべし、枝条に諸華あるをも疑著しつべし」、何かを疑い出すと、水の中に蓮華が咲いていることも不思議だというふうに考えざるを得ないし、木の枝に大きい枝にも小さい枝にもさまざまの花がついているということも理解できないというふうに疑わざるを得ない。

 「また疑著すべくば、器世間の安立も疑著しつべし、しかあれども疑著せず」、そうして、いろんなことを疑い出すと、われわれの生きているこの器のような世界が本当に安定して存在しているのかどうかというふうなことも疑わないわけにはいかない。「しかあれども疑著せず」、われわれはそういう眼の前にある普通の事実というものには、なかなかそれを疑問に思って見るだけの習慣がない。

 「仏祖にあらざれば、華開世界起をしらず」、仏道修行をして真実を得た祖師方でないと、花が開くということと世界があるということとが同じだということがわからない。

 これはどういうことをいうかというと、山があり、川があり、この部屋でいうと畳があり、机があり、椅子があるからこそ、われわれの生きている世界というものがそこにあるということがわかるわけであって、そういう個々の事物の存在と世界全体、宇宙の存在とは同じものだということが、現実的な見方をしないとわかってこない。そこで、「仏祖にあらざれば、華開世界起をしらず」、この世の中の現象と世界の存在とが一つのものだということがなかなかわかってこない。

 「華開といふは、前三三後三三なり」、花が開くということは、自分の前にも二人三人の仏道をよく知っている人がいるし、自分の後ろにも二人三人というふうな、わずかではあるけれど仏道を知っている人というのがいる。それが実情であるということを主張するわけであります。

 この「前三三後三三」というのは、僧侶が問答をしていて、南方の仏教を勉強してきた人に対して、「南方には祖師がいるか」という質問をしたときに、「自分の前にも二三人おります、自分の後にも二三人おります」というふうな形で、具体的に、数は多くないけれども真実を得た人はおりますという返事をしたときの言葉でありますが、その言葉を使って、「華開といふは、前三三後三三なり」、花が開くということも、前にもそのような事実が少しずつある、後ろにも同じような花が開くという事実が具体的に少数ではあるけれども実際にあるということを意味する。

 「この員数を具足せんために、森羅をあつめて、いよよかにせるなり」、そこで、この世の中にさまざまのものが存在するということのために、「森羅をあつめて、いよよかにせるなり」、この世の中の一切のものを集めて、それが宇宙としての姿を見せているのである。

 「この道理を到来せしめて、春秋をはかりしるべし」、そこで、そういう現実的なものの見方ができる状態を得た上で、春とはどんなものか、秋とはどんなものかを考えてみるべきである。

 「ただ春秋に華果あるにあらず、有時かならず華果あるなり」、そうして、春や秋に当然花が咲き、実が実るというふうな形が実情ではない。ではどういうことが実情かというならば、「有時かならず華果あるなり」、「有時」というのは、存在すると時間、つまり現在の瞬間が「有時」でありますが、現在の瞬間にこそ現象があり、結果がある。

 この辺の記述は全部、われわれの生きている世界が実在だということの主張をしているわけであります。

 「華果ともに時節を保任せり、時節ともに華果を保任せり」、そうして、花に譬えることの現象も、果実に譬えることのできる結果と呼ばれものも、いずれも現在の瞬間における事実である。「時節ともに華果を保任せり」、現在の瞬間そのものと、花が存在する、現象が存在する、結果が存在するということとは同じ事実である。

 「このゆゑに百艸みな華果あり、諸樹みな華果あり、金銀銅鉄   珊瑚頗瓈樹等、みな華果あり、地水火風空樹みな華果あり」、このような事情から、この世の中のすべてものについて、その花として見える外観と、その中身としての両方がある。「諸樹みな華果あり」、さまざまの木にもその外観として見えるという事態と、その中に含まれている実体とがある。「金銀銅鉄珊瑚頗瓈樹等、みな華果あり」、金や銀や銅や鉄や珊瑚とか頗瓈とかいうふうなもので出来上がった木といえども、皆その姿があり、その中身がある。「地水火風空樹みな華果あり」、その点では、大地も、水も、火も、風も、あるいは空間も、それらのものが皆その姿を持っており、その内容を持っている。

 「人樹に華あり、人華に華あり、枯木に華あり」、その点では、人間にもその姿というものがあり、人間の姿にはそれなりの姿が具わっており、枯れたような木にもそれなり姿が具わっている。

 「かくのごとくあるなかに、世尊道虚空華あり」、こういう事態がわれわれの生きている世界であるけれども、そのような状況の中で釈尊は空間の花というものをお説きになった。「世尊道虚空華あり」、釈尊が「虚空華」というものについて話をされた。

 「しかあるを、少聞少見のともがら、空華の彩光葉華、いかなるとしらず、わづかに空華と聞取するのみなり」、ところが、知識を聞くことが少なく、さまざまの見方ができない人々は、「空華の彩光葉華」、空間に咲いている現象の色彩や輝きや、その葉の部分や花の部分というふうなものがどんなものかがわかっていない。「わづかに空華と聞取するのみなり」、空間における花という言葉を聞いただけの経験しか持っていない。

 「しるべし、仏道に空華の談あり、外道に空華の談を知らず、いはんや覚了せんや」、そこで、釈尊の説かれた教えの中には「空華」という言葉がある。「外道に空華の談を知らず」、しかし、仏教を信じていない人々は「空華」という言葉についての意味がわかっていない。「いはんや覚了せんや」、まして「空華」という言葉の実体がどんなものかを十分に理解するということがどうしてできよう。

 「ただし諸仏諸祖、ひとり空華地華の開落をしり、世界華等の開落をしれり、空華・世界華等の、経典なりとしれり」、ところが、真実を得たたくさんの人々、あるいは伝統的な師匠の人々は、「ひとり空華地華の開落をしり」、そういう仏道のわかった方々だけが空間における花とか、地上における花とかいうふうなものがどんな形で咲き、どんな形で散っていくかということを知っている。「世界華等の開落をしれり、空華・地華・世界華等の、経典なりとしれり」、そうして、世界におけるさまざまの現象というものが現れたり消えたりしているという事情がわかっており、空間の花、地上の花、あるいは世界の花というふうなものがわれわれの周囲にたくさんあって、それが釈尊の教えを説いているということがわかっている。

 「これ学仏の規矩なり」、そこで、この世の中の現象を眺めながら、何が真実であり、何が釈尊のお説きになった教えかを勉強するための原則である。

 「仏祖の所乗は空華なるがゆゑに、仏世界、および諸仏の法、すなはちこれ空華なり」、そこで、真実を得られた方々、伝統的な祖師の方々がその乗物として使っているものが空間における花、つまり空間における現象というものを意味しているのであるから、「仏世界、および諸仏の法」、釈尊がお説きになった真実の世界、それからまたたくさんの真実を得られた方々の説いておられる教えというものが、「すなはちこれ空華なり」、空間における花である。

 こういう説明をされて、現実の世界と真実というものとは一つのものだという主張をしておられるということになるわけであります。

 ですからきょうやりましたところでも、「空華」という言葉の意味をとらえることがなかなか難しいという事情があるわけでありますが、その点では「空華」というものが、われわれが普通、思想だ、あるいは感覚的な刺激だということで軽視している存在が、われわれがどんな世界に生きているかということを教えてくれる大事な処り所になっているという趣旨を説いておられるということになります。

 ですからその点では、頭の中で考えたことを、実在ではないという解釈だけでばかにすることはできない。あるいは単なる物質として実在するかどうかわからない。なぜ実在するかどうかわからないかというと、眼に見えた、耳に聞こえたという感覚的な刺激があったというだけのことであるから、その背景に具体的なものが実在するかどうかということは必ずしも断定できないというふうな考え方を仏教では説くわけであります。

 そういう考え方からするならば、この世の中がどんなものかということについて疑問の余地も出て来る可能性があるけれども、仏教的な実在論の立場に立つならば、この世の中の実体が存在するということを素直に認めざるを得ないと、こういう主張がむしろ「空華」という言葉を利用して述べられているということになるわけであります。

 ですからこの「空華」という巻は哲学思想として非常に難しい内容を持っておりますが、道元禅師は『正法眼蔵』の中で「空華」というものを取り上げて、われわれが頭の中で考えている世界、あるいは感覚的に見えた、聞こえたという世界と、仏教が主張する実体とがどういう関係になっているかというふうなことを、この「空華」の巻で説明しようとされたということになるわけであります。

 

 それでは、時間がいつもと同じようなところに近づきましたので、話のほうをとめまして、またご質問を受けるということにしたいと思います。何かありしたらどうぞ。

 

   一九ページの後ろから三行目の「結果任儞結果」ということですが、先生のご説明で、結果というものは人間の解釈で、現実ではないというようなお話があったかと思いますけれども、ここのところがちょっとわかりにくいので、もう一度ご説明いただければと思います。

   それはどういうことかというと、現在の瞬間において事実はあるんです。事実があるということが実体であるけれども、人間はそれをよかったとか悪かったとか解釈する。そういう人間の解釈そのものが実在とはいえないと。

 だから爆破の現象があった、人間が死んだ、あるいは大怪我をしたと、そういう事実があるだけであって、それが結果だという考え方は人間の解釈だ。だから結果そのものが実在するわけではないという主張が仏教思想にあるんです。

 だから「結果ハ儞ガ結果ニ任ス」というのは、そういう事実があるということは否定ができない。だからそのままそれをどうこうと議論するわけにいかない。むしろ起きてしまった事実が大切なんだ。いいとか悪いとかという評価そのものが意味が深いわけではないという主張なんです。

   ただその場合、通常は、何らかの原因によってそういう結果が出たというふうに……。

   そう。だからその点では、二番目の集諦の立場では、物の世界で問題を考えるから、そうすると科学思想が主張しているように、原因・結果という考え方が出て来るわけです。だからそれはあくまでも一つの見方としての解釈だというのが結果に対する仏教の評価です。

   わかりました。

   だから科学思想を否定したり、ばかにするわけではないけれども、科学的な結論だけが絶対の真実だというふうにいえないという考え方が背景にあるわけです。

   いまのお話は、よくわかりましたけど、もう少し別な見方からしますと、仏教の大原則の一つに「因果の法則」というのがございますね。それから見て、つまり因があれば、「三時業」じゃないですけど、時間的なずれその他はあっても、必ず結果が出るということになっていますね。

 そういう意味で、要はもう結果というのは因があれば必ず出るんだから、したがって因が大切なんでね。果というのは、そこから公式みたいに答えが出て来るんじゃなくて、という意味で因を非常に重視して、果というものを軽視はしないけれども、そういう意味でちょっと違う眼でとらえるといいますかね、そういう解釈のほうが私は自然のような気がしますけど、どうなんでしょうね。

   その点ではね、原因も結果も人間の理解だという主張なんです。だから科学というものについて、科学の立場からすると絶対視する考え方があるけれども、科学の原因・結果といえども前提を設けて理解をしているというふうなことが内容だから、それそのものが実体だと理解するわけにいかなというのがここの主張であるし、また結果というものについて実体的な解釈をしないということの根拠になると思います。

 だから科学的な理論というものが正確にあることはあるんだけれども、科学の前提に立った解釈でしかないという主張なんです。だからこの世の中の事実そのものと科学の原因・結果の理論とは次元が違うという考え方です。

   はい、わかりました。

   先生、これは、事実というのは、人間が入り込む余地がなくて、結果というのは人間の考えが入り込む余地があるというふうに考えればいいわけですか。

   そのとおり。そういうこと。

   そうすると、現在の瞬間の事実がすべてということになりますと、「諦める」という言葉がありますね。物事を諦めるということは、明らかにするというは、そのやって来た事実は、もうそれは認めざるを得ないといって、よく中国の方は「メーファーズ」とかいって、「仕方がない」ということで、それを受け入れるということがありますけど、それ以外に方法はないというふうに考えてよろしいんですか。

   うん。事実を尊重するということだから、そういう態度なんです。結果というものを考えると、「こんなはずじゃなかった。これは間違いだ」というような感想が出て来るけど、出てしまったものは、そのままの事実なんだから、それを素直に受け入れざるを得ない。

 だからそれはまた逆に結果というものに解釈して、説明する以前に厳然たる事実があって、われわれの生きている人生はそういう現在の瞬間の事実の連続でしかないという主張なんです。

 だからイラクで自殺テロがあったと。まあ正直いうと、「しようがないな」ということだ。「いやあ、これは間違いだ」と、イラクの国民が間違っているとか、アメリカの国民が間違っているとかいうふうな解説以前に、事実が起きたと、「しようがないな」ということが現実のとらえ方ということでもあるわけです。

   そうすると、受け入れるというか、それを認める以外に…。

   まず認めざるを得ない。

   はい、わかりました。

   だから、ブッシュ政権の攻撃的な態度はよろしくないといってみても、現に歴史的に起きてしまっているんだから、いいとか悪いとかいうふうな領域を乗りこえて事実が毎日進んでいるということです。

 問  そうすると、そのやってきた事実というものをいろいろ分析して四つに分けたりして考えるということも、次に来る現実というものに意味がないわけではないけれども、同じものがやって来るわけではないということですか。

   だからそういう点では、原因・結果の関係で解釈が行なわれるけれども、それはあくまでも解釈であって、もっと現実というものは疑問の余地のない事実だ、どうにも動かすことのできない事実だ。そのどうにも動かすことのできない事実がわれわれの生きている世界なんだから、それを基準にして生きるべきだ。

 そういう態度をとらないと、実際に起きたけれども、これは間違いだからあるべき姿でないというような解釈をしてみても、現実の事態は変わらないということ。

   二三ページの六行目に「華果ともに時節を保任せり、時節ともに華果を保任せり」とありまして、これを読むとすぐ思い出すのは、「有時」の巻というのがございますね、これは非常に難しい巻でして、私らの頭だと何回チャレンジしてもはじき飛ばされるんですが、しかし非常に面白いので何回も読んでいるんですけどね。

 そこで何も覚えていないんですが、ただ一つ覚えているのは、この中に「時は有なり、有はみなこれ時なり」という言葉があるんですね。非常にいい言葉だと思うんですが。

 この六行目のところは、まさしく「時は有なり、有はみなこれ時なり」ということと同じことをいっているのかなあと思ってさっきお聞きしたんですが、そうじゃないんですか。そう取れないこともないような気がしますが。

   だからその点では、「有時」というのが何を意味するかというと、現実なんですよ。

   先ほど「現在の瞬間」とおっしゃいましたね。

   そうそう。だから現実そのものがあって、それを人間は花とか果実とかいうふうに解釈をするというのが「有時かならず華果あるなり」という言葉の意味なんです。

   そうすると、さっきの「時は有なり」というのも、時というのは現在の瞬間だと取れば、まさしくご老師がよくいわれるように、現在の瞬間こそすべてなんだと。「有なり」ですね。で、また「有」というものは「みなこれ時なり」というのは、いまの瞬間なんだということで、ズバリいっているのかなあと思って、ここのところがたいへん気になったんです。

   いや、そのとおりです。人生というのは現在の瞬間しかないという考え方です。ところが、普通は常識的にはそう考えないです。「あの人は一所懸命勉強したから偉くなった」とか、「あの人は酒を飲んでいたから家が傾いた」とか、そういうことをよく感じるけれども、もっと直接の人生というのは、将来どうなるかわからないけれども、いまアルコールを楽しんで飲んでいる人もいる、それから一所懸命自分の仕事をやっている人もいれば、一所懸命勉強している人もいる。いろいろな現象があっちこっちに事実としてあるということを主張しているわけです。

 だから「いま何をするか」のほうが大事なんだと。

   はい、わかりました。どうもありがとうございました。

   一九ページの「本巻の大義」のところを読みますと、「空華の空は、色即是空などという場合の空と同義である」と。で、「色即是空」の「空」は、これはありのままじゃなかったですよね。

  うん、そうそう。だから「空」という意味を道元禅師は精神的なものと物質的なものという使い分けをしていて、「色即是空」の場合には、物質的なものが精神的なものだ、精神的なものが物質的なものだという「物心一如」の思想を表しているから、普通に「空」と呼ばれると、プラス・マイナス・ゼロのような意味を表しているけれども、「色即是空」の場合の「空」という字と意味が違うという主張を道元禅師は持っているわけです。

   はい。それでここでプラス・マイナス・ゼロのほうじゃなくて、精神的なものというふうにしてとらえるということは、じゃ「空華」はどういうふうに……。

   だから「空華」というものについても、人間の解釈があり、また人間の感覚的な受け取り方があって、それは普通「空華」と呼ばれて軽く見られているんだけれども、仏教哲学の立場からすると、世間で軽く見る、あるいは仏教の普通の考え方で軽く見る考え方ではなしに、そういう「空華」と呼ばれるような思想とか、あるいは感覚的な刺激とかいうもの、そのものが実体だという主張をこの巻では説いている。

 だから結局、思想や感覚的な刺激というものを普通は仏教では「空華」と称して軽く見るわけです。だけどこの巻の趣旨は、そういうものもまた実体の一部だという主張をしているわけです。

   いまのところの説明ということで、感覚的なものと精神的なものと、両方から見るべきだということなんですか。

   というよりも、両方が実体ではないという理解が普通なんです。だけど道元禅師は、そういう実体ではないと思われているような「空華」というふうなものについても、実体としての実情があるという主張をこの巻でしているということになるわけです。

   いまのお話だと、それは四諦でいえば、一番目と二番目は軽く見られるけれども、やっぱり全体から見てみたら、それも大事なことだということですか。

   そのとおり、そのとおり。それはどういうことをいうかというと、西洋哲学の観念論と唯物論がなかったら、私自身の立場としては『正法眼蔵』は読めない、仏教哲学がわからない。

 だから今日仏教哲学がはっきりし始めているのは、欧米の観念論と唯物論があって、その後にどうなるかということを理解の基礎にすると、仏教哲学か初めてわかるんです。だから本当の意味の仏教がわかり始めたということが二十世紀から始まっているというのは、そういうことと関係しています。私自身が多少とも西洋哲学の理論を勉強していなかったら『正法眼蔵』は絶対に読めなかった。

 だからそういう論理的な世界と仏道の世界との間の両方があって、それを一つにつなぎ合わすというのが仏教哲学の努力の対象だということになると思います。

 だから『正法眼蔵』なり仏教思想がなぜ意味があるかというと、欧米の文化と仏教哲学とをつなぐ掛け橋になっているんです。その掛け橋がなければ欧米の文化と仏教とがつながらないという心配があるわけだけれども、それをつなぎ合わせる論理的な説明が『正法眼蔵』の中にあるから、そこで『正法眼蔵』の意味が貴重だということが出て来るわけです。

 だから私の正直な実感をいえば、『正法眼蔵』を読んでいなかったら私は仏教はぜんぜん理解できなかったと思う。『正法眼蔵』を読んで、欧米の哲学はこういう考え方で、仏教の哲学はこういう考え方で、二つを橋でつなぐという考え方が仏教の理解の仕方だということがまともに読んでいけば出て来るわけだけれども、それに気がつくためには欧米の文化というものの多少の考え方が基礎にないとわからないということがあると思います。

 それでこれはね、仏教哲学の中でも古くからあることはあるんです。仏教哲学では「常見外道」と「断見外見」という言葉を使う。「常見外道」というのは永遠のものを基礎に置く哲学だから観念論なんです。「断見外道」というのはもう断ち切られているという物質的な世界を基礎にするから唯物論なんです。

 で、仏教哲学の中にも「常見外道」と「断見外見」という考え方があって、観念論も仏教哲学じゃない、唯物論も仏教哲学じゃないという、はっきりした理解が仏教哲学そのものの中にあるんです。

 これはもう明治維新直前にはあった。だから西有穆山禅師が「常見も断見も仏法の敵だ」ということを書いているんです。これはもう観念論と唯物論と仏教哲学とが違うということの認識がはっきりあったわけです。

 だから明治維新以前にはそういう基本的な仏教哲学にのっとった理解があったんです。明治維新以降、とりあえず仏教も欧米の勉強の仕方で勉強すべきだということで、たくさんの優秀な学生がヨーロッパ諸国へ行って仏教哲学を勉強してきたから、そこで「常見外道」、「断見外道」というふうな基本的な哲学体系の区分というものに対する認識がなくなってしまった。そうして欧米の仏教哲学の研究の仕方に従って、理論的に頭で問題を考えたから、仏教哲学の実践的な側面が消えてしまったというのが、明治維新以降の日本の仏教学の基本的な性格だと思います。

   そうするといまのお話で、常見だけでもだめ、断見だけでもだめという、「だけではだめだ」ということで、その両方がなければ仏教はわからないということが、この「空華」ということの意味ですか。

   うん、そういうふうな意味が含まれています。

   明治時代、ヨーロッパに行かれた学者の名前はわかりますか。先生は前に何人か名前を挙げられたんですけど。

   高楠順次郎さんという人は『南伝大蔵経』を説いた人です。それで、そういう仏教学者の中で実在論を主張した方がいるわけです。

   木村泰賢さんですか。

   そう、木村泰賢さん。それであの方は仏教の実践的な哲学の立場がわかっていたから、あの方の仏教哲学というのは非常にわかりやすいんです。基本は実在論。だからあの方がもう少し長生きして日本の仏教学界に影響を与えていれば、今日説かれている仏教と少し違う仏教が残ったと思います。だけど残念なことに五十前で亡くなったのかな。

 だからその後今度は宇井伯寿先生の時代が来てしまったから、実践的な実在論というものはそこで残念ながら消えちゃったというのが実情だと思います。

   宇井伯寿さんもヨーロッパへ行かれたんですか。

   恐らく当時の制度ですから行かれたことは行かれたと思います。ただ、宇井伯寿さんの場合にはむしろ漢訳経典を中心にして勉強されるという態度が強かったわけです。あの方はたしか曹洞宗の僧侶だったと思います。

   先生、確認させていただきたいんですけど、道元禅師の「空華」という言葉の意味は、言葉の遊びみたいで申しわけないんですけど、現象の中に実質が入っているよと、それから実質をつかんでいれば実質というのは現象であるよという、そういう相互のやりとりをしていくような現実把握を「空華」というふうにいっているんですか。

   「空華」というのは、普通は現実とかけ離れたものだという解釈が行なわれているけれども、実質的な意味を考えると、そういう現実と離れた「空華」と呼ばれるようなものにも実質的な意味があるというのがここでは説かれているわけです。

 だから本来、実質的な意味とかけ離れていると考えられている「空華」というふうなものについて、やはり現実的な意味があるんだという主張がこの巻ではされているということになります。

   現象というのは唯物論で、実質というのは理想といいますか精神的なものと、そういうふうにも取られるんじゃないですか。

   というよりも、観念論と唯物論はあくまでも頭で考えた哲学なんです。で、仏教哲学というのは日常生活の行ないを基準にした哲学だから、頭で考えた哲学と質が違うわけです。で、欧米の文化では頭の中で考えた哲学しかないというのが実情だけれども、古代インドでは実践を中心にした哲学が出来上がって、それと頭で考えた哲学との対比が行なわれていた。ヨーロッパでは頭で考えた哲学だけがあったから、それが非常に発達したけれども、仏教ではそれ以外に実践の世界があるんだという主張をして、それが仏教哲学の特徴だから、仏教哲学を理解しようと思えば、欧米の考え方を理解した上で、それから抜け出して、実践の世界で行ないの哲学を勉強しなければならないという事情になっているということがいえるわけです。

 問  きょう勉強したところも、何だかよくわからないんですけど、私が思うには、何しろわからないなりに毎日坐禅をすること。こういうことを聞いていても、ほんとによくわからないんですよ。でも、坐禅をすることで、まあ何となく、行ないをやっていればいいんじゃないかなって。ほんとに難しくてわからないんですよね。

 答  うん。だからその考え方が正しいですよ。だから道元禅師なり釈尊なりがなぜ坐禅を残されたかというと、理屈ではわからなくても、やれば自分の体そのものに仏道が具体化してくるから、自分の体の中に仏道が具体化していればそれで十分だという考え方にもなるわけです。

   じゃ、こういうのがあまりよく理解できなくても、何しろ毎日坐禅をするということでまあいいんですかね。

   そうそう。そのとおり。だから、本を読んで、いろんな本の知識があるよりも、坐禅を毎日やっているほうがはるかに仏道がわかるんですよ。

   ありがどうございました。

   そうしますと、この空というのは、精神的なものも大事であるということは、「夢中説夢」というのがありますが、私たちの潜在意識も実体であるということとつながりますか。

   だからそういう点では、理論的な世界と実践的な世界をつなげるための説明だというふうに見ていいです。

 だからこの「空華」というのも、普通は実体ではないと考えられている理論や感覚的な刺激が現実的な意味を持っているという説明がこの「空華」の巻では行なわれている。だから理論的なものと実践的なものを結びつけるという工夫がこの「空華」の巻でも行なわれているというふうに見ていいです。

 「空華」という言葉だけの意味を考えれば、実践をかけ離れた理論的な面と感覚的な面というものの意味になるわけだけど、普通そういうふうに抽象的に考えられているものが現実の意味を持っているんだという主張がこの「空華」の巻では説かれているというのが趣旨になると思います。

   ありがとうございました。

 

 それでは、時間がきたようですから、普回向を唱えて終わりにしたいと思います。

普回向 唱和