開経偈 唱和
けさの朝刊に出ていたかと思いますが、小泉内閣が東南アジアの諸国と会議を持って、日本を含む東南アジアの諸国の今後の問題について話し合おうという会議があるようでありますが、私はその情報を読みまして、やはり小泉という人は政治家として非常に優れていると、そういう印象を受けております。
それはどういうことをいうかというと、いま中国の問題として、靖国神社というものに総理が参拝するというようなことについて非常に好ましくないということで、中国の副首相が予定を変更して急に帰国したというふうな問題がありますが、恐らく外交的に考えると非常に小さい問題。
それはどういうことをいうかといいますと、きょうの記事にも出ておりますが、小泉首相がいっているのは、「中国とベトナムはわれわれの国家体制と国家体制が違う。だからその問題を抜きにして国際的な話はできない」と、こういうことをいっております。
これはまさに世界の政治については非常に大事なことであって、国家体制が違った国が同じベースで話ができるかどうかという点に非常に疑問があって、そこで小泉内閣が東南アジアの諸国と話し合いをしようと。そのときに、中国とベトナムは国家体制が違うから正式に参加できないという考え方を述べると同時に、オブザーバーとしてアメリカの副国務長官に出席してもらうと、こういう話をしているわけでありますが、そういう態度の中に、私は日本の国の立場を非常によく知った政策ではないかというふうに見ております。
靖国神社に参拝する、参拝しないは、あくまでも国内問題で、外交問題とは次元が違うという問題があります。
ただ一つ非常にまずいことは、靖国神社の意志でいわゆる戦犯と呼ばれる人々を合祀したと。これはやはり従来の日本のアジアにおけるさまざまの動きとの関係ではけっして妥当ではなかった。だからそういうことが行なわれている以上、それに対する修正は日本として必要だということがあると同時に、そのことが日本の国政全般に関わるというふうな考え方はむしろ外交の立場では一種の内政干渉に属する。国家の総理大臣が無名戦士の墓に参拝をしてなぜ悪いんだと。無名戦士の墓としての意味を戦犯と呼ばれる人々の合祀によって傷つけたとするならば、戦犯の人々に対してそれなりの慰霊の建物を別に建てるということのほうが国民の問題の処理としては必要だというような事情があるように見ております。
ですから中国では単なる内政干渉的な問題を国交の問題として取り上げようとした。その一つの動きとして今度の副首相の突然の帰国ということがあったわけでありますが、それを東南アジアの国々の親善ということに関連をさせて、中国とベトナムとが国家体制が違うということの指摘をしたというふうなところに小泉という人の政治なり外交なりについての一つの立場がうかがわれるわけでありまして、一般の批評というものは必ずしも小泉という人に有利だとは見えませんが、政治家としての実力というものは私は非常に優れていると。
国民がそのことに気がつくか気がつかないかが日本の態度をどう決めるかにとってかなり大事な問題であって、国民がそういうものの見方ができないと日本の国政というものは実情よりも低い形でしか活動できないという可能性があるのではないかと、そういうふうな見方をしているわけであります。
それではまたこの本のほうに入ってまいりますと、二六ページの「しかあるに」というところからになるかと思います。
この「空華」の巻というのは、前回にも申し上げましたが、仏教の世界では頭で考えた思想というもの、あるいは眼に見える、手に触れるというふうな物質の世界、これを両方とも空間に浮かんだ花のような、実際の存在が確認できない性格のものという形で、必ずしも信頼性が高くないという見方があるわけでありますが、道元禅師は逆に、思想というものも、感覚的な刺激をもとにした物質と呼ばれるものの存在も、現実というものの世界が実際にわかった場合には、逆にそれなりに優れた役割を持ち、働きをするという考え方を述べているということになります。
ですから仏教の世界では、頭で考えたことは実在でない、あるいは眼に見える、手に触れるものは実在ではないという考え方があるけれども、実在というものが本当にわかってくるし、思想そのものも価値を持ち、また物質と呼ばれているような世界というものもそれなりの価値を持ってくると、こういう主張をこの「空華」という巻では述べているということになるわけであります。
ですから普通の常識的な世界から一次元こえた立体的な世界を説明しているという事情がありますので、そういう面でこの巻も理解するのがなかなか難しい巻だという点はありますが、そういうふうな立体的な、次元の違う哲学を積み上げたところに仏教哲学の特徴があるわけでありますから、この「空華」の巻に表現されているような思想というものも、仏教思想をつかむためにはどうしても理解しておかなければならない問題を含んでいるということがいえようかと思うわけであります。
それでは二六ページのところを読んでいきますと、
「しかあるに、如来道の瞖眼所見は空華とあるを、伝聞する凡愚おもはくは、瞖眼といふは、衆生の顚倒のまなこをいふ、病眼すでに顚倒なるゆゑに、浄虚空に空華を見聞するなりと消息す」、ところが、「如来道の瞖眼所見は空華とあるを」、釈尊のお言葉の中で、「瞖」というのは眼のかげりであります。ですからかげりを持った眼というのが「瞖眼」でありますが、そういうかげりを持った眼、あるいは欠陥のあるものの見方というものから見たとらえ方が「空華」だと呼ばれている。
この言葉を、「伝聞する凡愚おもはくは」、伝え聞いたところの必ずしも優れた思考能力を持っていない人々が考えるには、「瞖眼といふは、衆生の顚倒のまなこをいふ」、かげりのある眼というのは、ごく一般の人々が本当の考え方を逆転させた形で物事を見ている。それが「衆生の顚倒のまなこ」という言葉の意味でありますが、それを指している。「病眼すでに顚倒なるゆゑに」、そういう点では、欠陥のある眼というものが逆の見方をしているところから、「浄虚空に空華を見聞するなりと消息す」、非常に清らかな空間というものにありもしないような花があるというふうな見方をしていると、そういう意味だという理解をしている。
「この理致を執するによりて、三界・六道・有仏・無仏、みなあらざるを、ありと妄見するとおもへり」、そういうふうにあるはずのないものをあるというふうに間違って見ていて、その考え方というものを固執するところから、「三界・六道・有仏・無仏、みなあらざるを」、欲界・色界・無色界という三種類の世界も、あるいは地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上という六種類の世界も、あるいは「有仏」と呼ばれる仏の性質を人間が持っているとか、「無仏」という仏の性質を人間が持っていないというふうな考え方は、全部実際の問題ではないけれども、それが実際の問題であるというふうに間違って見るということが「空華」という言葉の意味だと、こういうふうに理解している。
「この迷妄の眼瞖、もしやみなば、この空華みゆべからず、このゆゑに空本無華と道取すると活計するなり」、そこで、「眼瞖」というのは眼に現れるかげりを指しておりますが、そういう間違った考え方で物事を見ているけれども、「もしやみなば」、もしその間違った考え方がやむならば、「この空華みゆべからず」、そういう実際にはないような思想とか、物事の姿とかいうものが見えるはずがない。「このゆゑに」、そういう意味から、「空本無華と道取すると活計するなり」、われわれの生きている空間には本来そのような思想とか、あるいは物の世界とかいうものは存在しないんだというふうに主張することが本当の意味だというふうに理解している。
「あはれむべし、かくのごとくのやから、如来道の空華の時節始終をしらず」、非常に気の毒なことではあるけれども、そのような考え方をしている人々は、「如来道の」、つまり釈尊のいわれた、「空華の時節始終をしらず」、「空間における花」という言葉で表現されている実体がどういう瞬間に生まれ、どういう様子をしているかということがわかっていない。
「諸仏道の瞖眼空華の道理、いまだ凡夫外道の所見にあらざるなり」、ところが、仏道修行をして真実を得た人々の考え方の中における、「瞖眼空華」、眼にかげりがあるというふうなとらえ方、あるいは空間に浮かんでいる花というふうな言葉の意味が、「いまだ凡夫外道の所見にあらざるなり」、本当のその意味の内容というものは、一般の人々や、仏道を信じない人々のものの見方とは違うのである。
「諸仏如来、この空華を修行して、衣座室をうるなり、得道得果するなり」、ところが、仏道修行をして真実を得たたくさんの方々や釈尊は、「この空華を修行して」、一般には「空間の花」という表現をされている思想とか、あるいは眼に見える、耳に聞こえるというふうな外界の世界というものがどんなものであるかということを実際に体験して、「衣座室をうるなり」、仏教僧の象徴であるお袈裟を得、またその坐る席を得、また自分の生活する部屋というものを得ているのである。そうして、「得道得果するなり」、釈尊のお説きになった教えの内容がわかり、その成果を得るということが実際に行なわれているのである。
「拈華し瞬目する、みな瞖眼空華の現成する公案なり」、そこで、釈尊が優曇華の花を手に持たれながら、この花の意味がわかるかということでまばたきをされたというふうな説法の仕方も、「みな瞖眼空華の現成する公案なり」、われわれのものの見方が間違ってはいないかというふうな自覚が生まれること。「瞖眼」というのはかげりのある眼ということでありますが、この「空華」の巻では、人間のものの見方についても、自分のものの見方が間違っていないかなと気がつくことが、本当のものが見えてくる非常に重大な原因である。
各人は自分のものの見方が間違っていないという確信を持っているから、本当のものに突き当たるということが稀であるけれども、自分のものの見方が間違ってはいないかなという考え方を持つことによって、逆に本当のものが見えてくる。
だからこの「空華」という言葉に関連していうならば、自分の頭の中で考えたことが本当かどうかはっきりしないぞというふうな見方ができてくると、という意味でもありますし、自分の目に見えた、耳に聞こえたというものも、それが本当の実体を表しているかどうかというふうな反省を持つということが、自分の眼にかげりがあるのではないかというふうな反省の言葉を表しているわけでありまして、そういう形で、われわれが普通に「空華」と考えている思想、あるいは外界の世界というものがどんなものであるかということのわかってくることが、われわれが生きている宇宙がどんな性格のものであるかということがわかってくるということを意味する。
「公案」というのは、われわれの住んでおる世界、法を指すわけでありますが、現実にわれわれの周囲に具体化している宇宙というものも、自分のものの見方が間違ってはいないかという考え方から本当のものが見えてくるし、人間が何千年、何万年の歳月を費やし築き上げた思想とか、あるいは科学的な知識とか、そういう「空華」と呼ばれるようなものが宇宙の実体を表しているという形で臭体化するということがあるのである。
「正法眼蔵涅槃妙心、いまに正伝して断絶せざるを、瞖眼空華といふなり」、そこで、正法眼蔵と呼ばれる坐禅の修行があり、その坐禅の修行を通じてきわめて落ち着いた心境というものが得られるということがあるけれども、それを、「いまに正伝して断絶せざるを」、今日まで正しく伝えて、その教えがいまだに絶えていないということが、「瞖眼空華といふなり」、理論的にさまざまの教えが積み上げられ、あるいは科学的な見方で現実の世界というものが解明されてきたということと同じものを意味する。
「菩提・涅槃・法身・自性等は、空華の開五葉の両三葉なり」、そこで仏教哲学の世界では「菩提」ということをいう、真実ということをいう、あるいは自律神経がバランスして非常に静かな境地、「涅槃」というものを主張する、あるいは「法身」、われわれの体というものも宇宙の中の存在でしかないという見方から、われわれの体そのものと宇宙全体とが同一のものだという見方をするけれども、そういう見方も仏教哲学の一つのとらえ方であり、また現に生きている自分自身の本性というふうなものも仏教哲学の世界では非常に大切なものとして理解されている。そして、そういう理解というものが、思想とか、物質的な世界という形で、真実の存在ではないと考えられている「空華」という言葉が五枚の花びらを開かせ、その五枚の葉びらというものは二枚の葉びらと三枚の葉びらとの具体的な姿であるというふうな主張と重なっていると、こういうことをいわれているわけであります。
ですからここで述べようとしていることは、仏教の立場からすると、人間の脳細胞で築き上げられた思想というものは現実と違う、あるいは眼で見た、耳で聞いたという外界の世界そのものは単なる感覚的な刺激であって、この世の中の実体とは違うという考え方があるけれども、それと同時に、仏道の立場から述べられた真実とか、涅槃とか、宇宙の中における自分の体とか、あるいは自分が持っている本性とかいうふうな仏教哲学の大切な考え方というものも、思想や科学の理解の中で生まれてくる、いわゆる「空華」と呼ばれるものにしても、五枚の葉びらが開いたという現実を意味しているし、五枚の葉びらは何を意味するかというならば、二枚の葉びらと三枚の葉びらとの実体だというふうなとらえ方もできる。
こういう形で、仏教の世界では一般に実在と考えてはならないと呼れている思想や物質世界についても、仏教の実体的な考え方がわかってくると、逆に思想の本当の意味がわかり、科学の知識の本当の意味がわかってくると、こういう主張をしておられるわけであります。
その次にいきますと、二九ページのところで、
「釈迦牟尼仏言、亦如瞖人、見空中華、瞖病若除、華於空滅」、釈尊が次のような言葉を述べておられる。どういう言葉かというと、「亦瞖人ノ空中ノ華ヲ見ルニ」、眼が本当の意味でよく見えない、眼にかげりがあるという人が空間に存在する花というものを眺めた場合に、それが単なる思想であり、単なる感覚器官の刺激であるというふうな理解で見る場合もあるけれども、「瞖病若シ除ケバ」、ものの見方というものがなくなってくると、「華ハ空ニ於イテ滅スルガ如シト」、そこで、自分自身のものの見方が変わって、本当の見方ができるようになると、いままで空間における花と呼ばれていたようなものはすべて消えて、現実の世界が眼の前に現れてくると、こういうことを釈尊が述べられている。
そういう言葉を引用されながら、道元禅師が解説をしておられるわけであります。
「この道著あきらむる学者、いまだあらず」、この釈尊がいっておられる言葉を本当の意味で理解している仏教を勉強している人々がいまだに現れていない。
「空をしらざるがゆゑに、空華をしらず」、空間というものの意味がわかっていないから、空間に浮かんでいる花という言葉の意味がわかっていない。
「空華をしらざるがゆゑに、賢人をしらず、瞖人をみず、瞖人にあはず、瞖人ならざるなり」、そうして、「空華をしらざるがゆゑに」、空間における花というものの実体がどういうものかがわかっていないから、「眼にかげりを持っている人」という言葉の意味がわからない。したがって、眼にかげりを持った人に出会っていない。眼にかげりを持った人に出会っていないから、眼にかげりのある人に自分自身がなっていない。
ここで「瞖人」というのは何を意味するかというと、自分の見方は間違っていないだろうかということを感じ取る人のことを「瞖人」という。各人はたいていがとてつもない強い自信を持っている。だから「俺の考えたことには間違いない。俺の見方には間違いない」ということで各人が生きているわけでありますが、ここでいわれていることは、自分の見方がひょっとしたら間違いかもしれないぞということに気がつく人のことを「瞖人」と呼んでいるわけであります。だから、「空華」という言葉の本当の意味がわかっていないと、自分の眼にかげりがあるということに気がついている人にはならない。そういう人に出会うこともないし、自分自身が自分の見方がひょっとすると間違っているかもしれないぞというふうに気がつくだけの力を持っていない。
「瞖人と相見して、空華をもしり、空華をもみるべし」、そこで、自分の見方が間違っているかもしれないというふうな見方のできる人に出会って、空間における花というものの本当の意味を知り、属間における花というものを自分自身で見るということをすべきである。
「空華をみてのちに、華於空滅をもみるべきなり」、そこで、空間における花というものの意味がどういうものかということがわかってくると、思想というものが本当の実在ではないということもわかってくるし、科学的に説かれた物質世界が本当の意味の現実の世界と違うということもわかってくる。
「ひとたび空華やみなば、さらにあるべからずとおもふは、小乗の見解なり」、そこで、空間にある花というふうなものがなくなった場合に、そういうものはないと見ることが正しいんだというふうに考えるとするならば、それは次元の低い仏教的な考え方である。頭で考えた思想が真実だというとらえ方をしたり、あるいは眼に見える、耳に聞こえる環境というものが真実の世界だというふうな見方をする声聞乗、縁覚乗と呼ばれるような、いわゆる小乗仏教と呼ばれる仏教の考え方である。
「空華みえざらんときは、なににてあるべきぞ」、その点では、われわれがごく普通の立場で頭で考えた理論の問題も起きてこない、あるいは眼に見えた、耳に聞こえたという感覚的な世界も見えてこない。その場合にはいったいどういう状況が現れているのであろうか。
「ただ空華は所捨となるべしとのみしりて、空華ののちの大事をしらず、空華の種熟脱をしらず」、その点では、空間に生まれた花というものが捨てるべきものだということだけがわかっていて、「空華ののちの大事をしらず」、われわれが思想というものは実際の実在ではない、あるいは感覚的にとらえれる世界が実際の実在とは違うということがわかってきた後に、何が出て来るかがわからない。
ここで「何が出て来るか」ということの結論を述べてしまえば、現実の世界が出て来る。だから思想の否定、あるいは客観的な世界の否定というものが、何もないということを意味しない。思想の持っている限界、あるいは科学思想の持っている限界がわかったときに、われわれの生きている現実の世界が浮かび上がってくると、そういう趣旨を述べておられるわけであります。
そこで、思想とか、科学的な知識というものは捨てるべきだというふうにばかり理解している人々は、思想とか、科学的な知識等のほかに何が出て来るかという場合に、現実が出て来るという大切な事実を知らない。
「空華の種熟脱をしらず」、人間の頭で考えた思想とか、科学的な知識というものは、現実そのものではないということがわかっていても、それらがどういうものであるかということに十分な理解が行った場合に、そういう二つの空華と呼ばれるものから抜け出して、現実の実体に触れるということがわかっていない。それが「空華の種熟脱をしらず」、空華というものの考え方があると、それに対する十分な理解が進んでくると、それから抜け出すことができて、われわれが現実の世界に生きているということを実感できるんだけれども、そこまでの実感を持つということがない。
「いま凡夫の学者、おほくは陽気のすめるところ、これ空ならんとおもひ、月日星辰のかかれるところを、空ならんとおもへるによりて、仮令すらくは、空華といはんは、この清気のなかに浮雲のごとくして、飛華の風にふかれて東西し、および昇降するがごとくなる彩色の、いできたらんとずるを、空華といはんずるとおもへり」、そこで、「いま凡夫の学者」、現にごく普通の学問をしている人々は、「おほくは陽気のすめるところ」、たいていの場合には、このわれわれが生きている世界の中で、「これ空ならんとおもひ、月日星辰のかかれるところを」、われわれの生きている世界が空間である、太陽や月や星や星座が存在しているところが空間であるというふうに考えるところから、譬えていうならば、「空華といはんは」、空間の中における花というものは、「この清気のなかに浮雲のごとくして」、われわれが生きているこの澄み切ったこの空気の中に浮き雲のように浮かんでいるものを指すのであって、「飛華の風にふかれて東西し」、風に吹かれて飛んでいる花が風に吹かれて東に行ったり西に行ったり移動し、「および昇降するがごとくなる彩色の」、ときには空に高く舞い上がり、ときには空から降りて来るというふうな形のさまざまの色彩を持ったものが、「いできたらんとずるを、空華といはんずるとおもへり」、現れてくることを「空華」というのであろうというふうに考えている。
「能造所造の四大、あはせて器世間の諸法、ならびに本覚・本性等を、空華といふとは、ことにしらざるなり」、そうして、「能造」の「能」という字は主体を指しておりまして、何かをつくるという意味であります。「所造」というのは受け身の意味を持っておりまして、つくられるものという意味であります。だから、さまざまのものをつくったり、さまざまのものがつくられたりする、「四大」というのは地・水・火・風という物質を表した言葉でありますが、そういう物質というもの、それと同時に、「器世間の諸法」、「器世間」というのは、われわれの住んでいる世界を何か物を入れる器、容れ物のように理解する考え方でありまして、そういう世界があって、その中にさまざまのものが含まれているというふうな考え方、「ならびに本覚・本性等を」、それからわれわれの心、体の中には、本来の真実があるとか、本来の性質があるとかいうふうな考え方を、「空華といふとは、ことにしらざるなり」、われわれの生きているこの世界の実体というものが空間の中における花だというふうな意味を持っているということまでは知っていない。
「また諸法によりて能造の四大等ありとしらず」、そうしてまたこの世の中にはさまざまの宇宙というものがあるから、そこでつくる主体とか、つくられる客体とかいうふうな四種類の物質世界があるというふうなことがわかっていないし、「諸法によりて器世間は住法位なりとしらず」、この世の中にはたくさんの物があり、現象がある。そういうさまざまの物事があるということと器のような世界というものがあるということは同じ事実の裏表である。この世の中に物があるから世界もあるんだ。物があるから世界という容れ物があるのであって、そういう点では、この世の中に物がなければ世界もあり得ないと、そういう状況がわれわれの生きている世界の実体だという主張であります。「器世間によりて諸法ありとばかり知見するなり」、ただ普通は、物のあるということが世界があるという考え方をせずに、世界というものが別にあって、世界があればこそ、この世の中のものがあるというふうな理解ばかりをしている。
われわれ自身が常識的にはこういう考え方をするわけでありまして、世界というものがあるから地球もあり、日本もある。だから世界という容れ物があって、そこに物があり、人がいるという考え方をするわけでありますが、仏教の立場からすると、物があるということと世界があるということとは同じ事実の裏表だという考え方をするわけであります。だから仏教では容れ物としての世界を考えることをしないで、容れ物と物があるということとは一つの事実の裏表だという理解の仕方をしているということがあって、そのことがここにも出て来てきているわけであります。
「眼瞖によりて空華ありとのみ覚了して、空華によりて眼瞖あらしむる道理を覚了せざるなり」、だから眼にかげりがあるから、そこで空間におけるありもしない思想や現実、物質世界というものを考えるというふうな理解をして、「空華によりて眼瞖あらしむる道理を覚了せざるなり」、空間における花と呼ばれるような思想とか、あるいは物質世界というふうなものがあるところから、眼にかげりが出てしまうというふうな基本的な原則が理解されていない。
「しるべし、仏道の瞖人といふは、本覚人なり、妙覚人なり、諸仏人なり、三界人なり、仏向上人なり」、そこで次のようなことを知るべきである。釈尊がお説きになった実践哲学の世界の中で「瞖人」と呼ばれる人は、つまり眼にかげりがあるというふうに呼ばれている人は、本当のことがわかった人である。そのことは、自分の考え方が間違ってはいないかなというふうに感ずることのできる人が本当のことのわかった人だ。「妙覚人なり」、この上ない真実を得た人である。「諸仏人なり」、たくさんの真実を得た人々と同じ人格であり、「三界人なり」、欲界・色界・無色界という三つの世界、つまり欲望の世界、あるいは物質の世界、あるいは行ないの世界、そういう全部の世界を知ることのできる人であり、「仏向上人なり」、真実を得た後もコツコツと日常生活を過ごしていく人を意味する。
「おろかに瞖を妄法なりとして、このほかに真法ありと学することなれ、しかあらんは小量の見なり」、非常に愚かな立場から、眼にかげりがあるというふうなことは間違っているという理解の仕方をして、「このほかに真法ありと学することなれ」、そういう間違った考え方のほかに本当の教えがあるというふうに勉強してはならない。つまり、自分たちの眼が間違っているかもしれないというふうな反省の能力があるところに、本当のものが見えているという事実があるのであって、そういう錯覚は間違いだ、錯覚がなくなったところに本当の世界が現れてくるという考え方はすべきでない。「しかあらんは小量の見なり」、もしそのように考えるならば、非常に規模の小さいものの考え方である。
「瞖華もし妄法ならんは、これを妄法と邪執する能作所作、みな妄法なるべし」、そこで、眼にはかげりがある。また、この世の中における空間に浮かんでいる花に譬えられるような思想とか、物質世界というふうなものを間違いだというふうにもしいうならば、「これを妄法と邪執する能作所作、みな妄法なるべし」、そのような考え方は間違いだという主張そのものが執着している主体的な動作も、あるいは実行される行ないというものも、全部間違いだというふうに理解せざるを得ないであろう。
だからここでいっていることは、この世の中には、あるいは自分の考えには間違いがあるかもしれないというふうな反省の持てるところから本当の仏道に対する勉強が始まると、そういう主張を述べているわけであります。
「ともに妄法ならんがごときは、道理の成立すべきなし」、そうして、この世の中の一切のものが間違っているならば、本当の原則というものの成立するはずがない。
「成立する道理なくば、瞖華の妄法なること、しかあるべからざるなり」、本当の根本原則というものがしっかり確立されているのでなければ、「瞖華の妄法なること、しかあるべからざるなり」、眼にかげりがあるとか、あるいは空間に実体のない現象が現れているとかいうふうなことも、本当に間違いだというふうに断定することはできない。
だから仏教哲学では非常に難しい論理構造を持ってはおりますが、その論理構造がわかってこないと本当のものが何であるかがわからないと、こういう主張をしておられるわけであります。
ですから仏教では本当のものは何もわからないというふうな見方ではなしに、明確に現実の世界というものがあるけれども、その現実の世界がどういうものであるかということについては、人間の頭の働きで完全に理解できるというふうな形のものではないし、また眼に見えた、手に触れたから実在だというふうなとらえ方もできない。何によってそれがわかるかというならば、行ないの世界の中に入って、現実そのものがどういうものかを体験することによってのみ、われわれの生きている世界というものがはっきりしてくる。
だからそういう観点から、単に頭の中で考えた思想だから価値がないとか、感覚的な刺激の映像であるから真実だとはいえないというふうな理解までの理論がわかったとしても、その後の現実の世界というものを行ないを通じて体験しなければ本当の仏教哲学はわからないと、こういう主張をしておられるということになります。
ですからこの「空華」の巻でいっていることは、仏教哲学では頭で考えた思想というものが現実のものではない、あるいは眼に見えた、耳に聞こえたという感覚的にとらえられた本当の現実の世界だという見方をしないけれども、そういう考え方がわかってきた後で何が残るかというならば、何もないという空が残るのではなしに、現実という実体、法というものがわれわれの日常生活の中に現れてくるんだと、こういう主張をしておられるということになるわけであります。
ですからそういう意味でこの「空華」の巻に説かれている思想も、われわれの常識的な考え方の裏返しをもう一回裏返すというふうな論理構造を持っておりますから、理解しにくいという問題があると同時に、この程度の論理的な過程というものがわかることによって、仏教哲学というものが欧米の論理的な哲学と合流する可能性が出て来るというふうな内容を持っているわけであります。
ですから私は、欧米の文化とは違う異質の文化が東洋にあって、それが真実なんだという主張ではなしに、欧米の文化が論理を通じて一歩一歩築き上げてきた膨大な文化と、その奥にひそむ現実というものについての仏教哲学の理解とが合流することによって、人類の最終の哲学が生まれ、人類の最終の文明の段階が近く具体化するであろうというふうな見方をしていて、そういう意味でこの『正法眼蔵』という本の意味を正確に理解していくことがわれわれの文化が本当の意味で欧米の文化と東洋的な実践的な文化とが合流する時代を迎えるというふうな見方をしているということになります。
ですからこの「空華」の巻という個所で述べておられる考え方は、一つの否定的な立場をもう一回否定するという形で仏教哲学の現実的な世界を説明していますから、理解しにくいという面があると同時に、こういう考え方で正確に仏教哲学を理解していくことが、欧米の論理的な哲学がさらに現実の世界に導入されて、現実の世界を全般的に説明する仏教哲学の意味が世界の文明の流れの中に早晩登場して来る時代があるというふうに見ておりまして、その時代が早く来るようにというふうな努力をしていることが、今日のわれわれのやっている理解ではなかろうかというふうに見ているわけであります。
それでは、いつもよりまだ少し時間が早いわけでありますが、この後がだいぶ長くなりますので、きょうはここで話のほうをとめまして、またご質問を受けるということにしたいと思います。何かありましたらどうぞ。
問 前置きのお話で、先生が新聞を読まれて、まあ新聞といっても紙に字が並んでいるだけなんですけど、それを非常に立体的に読んでいらっしゃるなという感想を持ったんですが、実体というものと新聞に書かれている日本語の文章と両方とも読み比べて実情がよくつかめるということは、やはりこれは仏教を勉強しているということと関係があるわけですか。
答 あります。そういう見方をするために仏教を勉強するんだということになりますから。文字で書かれた意味だけでは本当の理解にならないということ。いろんな考え方があって、そのいろんな考え方を突き合わせたときに、人間社会がこう動いているなというふうな見方ができるかできないか、それが仏教的な見方ができるかできないかの違いです。
だからたとえば中国の副首相が突然会見をとりやめて引き揚げた。その場合に、「うわーッたいへんだ」と思うようなことは、現実を見ていないから。中国では日本を大いに困らせてやろうと、小泉内閣を揺さぶって日本の政府を入れ替えようという意図があるかもしれませんが、恐らく小泉首相の考えたことは、世界というものはそう小さくないよということ。
それはどういうことをいうかというと、中国では賃金が安いところから、非常に有利な形で世界の経済界に進出している。それからまた元という中国の貨幣が非常に安く評価されているから、それで非常に有利な貿易ができているということだけれども、そういう異常現象の中での経済的な力というものが実体的にどの程度の勢力があるかということを見ないと、中国の経済力が大きいか小さいかの本当の意味の評価も難しいよという主張があるわけです。
だから、中国は中国で得意になって、自分たちの国は賃金が安いから、そこで非常に生産がやりいい、そうして元の価値も安く決められているから貿易がどんどんと進むと、そういう形でよその国に対して経済的には完全に有利な立場に立っているということが現状ではあるかもしれないけれども、今後どうなるかというようなことは当然考えなければならない。
だからそういう点で、いま中国が非常に調子がいいから、小泉内閣が靖国神社を訪問したというようなことを材料にして日本をいじめてやろうと、小泉内閣がそろそろもう終わりになっているからこの辺で大いに逆らっても構わないということで、副首相が急に帰るというようなことをやったのかもしれないけれども、小泉総理の頭にあるのは、世界というのはそう小さくないよということだ。
だから中国の見方が現実的なのか、小泉総理の見方が現実的なのかという、比較の問題がある。
問 たとえば外務大臣は「最低限のマナーは守ってもらいたい」ということをいっているわけなんですね。いわゆる「非礼」という感想を持った人が多いわけですが、ところが公明党の方は「非礼というよりは異例なことだ」と。この「非礼」というふうな言葉から浮かんでくるイメージと、「異例」という言葉から浮かんでくるイメージとやっぱり多少違いますね。
答 うん、うん。
問 この辺もやはり非常に微妙なところですけれども、きちっと区別してといいますか、事態をどうとらえるかということと、認識のとらえ方というか、認識力というのもやはり大事だと思うんですけれども、先生はどんなふうに思われますか。
答 私はそうは思わない。「異例」と「非礼」なんかは子供のレベルの問題であって、現実的にはそう大した意味じゃないです。
今後日本の経済がどう伸びるか、今後中国の経済がどう伸びるか、東南アジアの勢力や経済力がどう伸びるか、アメリカがどういう形でどっちの勢力を援助するか、あるいはブッシユ政権が維持できるかできないかとか、そういう世界の情勢が全部からまっているんです。
だから靖国神社を参拝されたから非礼をしますといったって、異例をやったって、どっちでもいいんだ。(笑)
問 いや、ほんとは「非礼」だと私も思いますけどね、そういいたくない人がやっぱりいるわけで。
答 うん。だからそういう点では、そういう言葉の言い換えでは現実問題は解決しないんですよ。
問 確かにそうですね。
答 だからそういう点では、われわれの歴史というものは現実のエネルギーの流れだから、その実体をつかんでどう対処するかというような考え方になるわけです。
だから小泉総理が、中国やベトナムがえばっても、まだ共産体制だよと、俺たちとは仲間が違うよ、だから俺たちは俺たちの仲間をつくって、アメリカと協力してやるよというだけのことです。中国はそれが一番痛いんです。
だからその点では、今度の小泉内閣の態度というのは、少なくとも対等に対処しているというだけのことです。
外交関係なんていうのは力の問題だから、力がなしに議論をいったってしようがない。日本の国はもう武力をやめたから、その点では国際的に力はないんだけれども、そういう力のないところでどう対処するかということになると、なかなか難しいんですよ。
だけども、その点では、小泉内閣が打った手というのは、私はやっぱりさすがだなという印象を持つということです。
問 やはりそれは外国に対して、中国に対しても位負けはしないという、そういう信念というか、気概をお持ちだということですか。
答 うん。ただね、その「気概」だけじゃ勝てない。(笑)力の情勢がどうなっていて、どっちへついて、どう戦ったらいいかという問題ですよ。だから将来、今日までの世界の経済情勢がどうなってきているか、いまどうなるか、今後どうしたらさらに勢力が強くなるか弱くなるかというふうなことの事実認識ですよ。
だからそういう問題で個人の生活も、国家の生活も考えなきゃならない。だから仏教の現実を基準にして一切のものを考え、対処しろという教えが絶対の真実なんですよ。
問 ただ、日本の経済界のトップにあられる方が「ちょっと中国のいうことを聞いたほうがいいんじゃないですか」というふうなことをおっしゃっていますよね。
答 うん、そう。だからその点で、貿易的に損をしないというふうなことが大事なことだけれども、それは靖国神社を参拝する、参拝しないなんていうことと関係がないんですよ。経済というのはやはり「経済力」の問題だから、「力」の問題だから。日本の経済力が弱ければ勝てないんです、負けるんですよ。
だけど、日本の経済力がいまそれほど弱いかというと、それほど低く見くびる必要もない。
ただ、今後しっかりしなきゃならん問題はあります。だからコンピューターの知識で日本国民が十分な知識を持っているかとか、小学校教育からそういうものについて訓練をするだけの考え方を持っているかどうかというふうなことが、経済問題の今後についてものすごい大きな力として出て来るわけです。
問 この二九ページに「釈迦牟尼仏言、亦如瞖人、見空中華、瞖病若除、華於空滅」とございますね。この読み方なんですけどね、これについて道元禅師がどういう論理を展開されているか、それをご老師がどういうふうにご理解なさっているかということは大変よくわかりましてね、それは何一つ異論はないんですが。
しかし、一般にわれわれがこれをきちっと読む場合に、このご老師の解説によると、『首楞厳経』の巻四にこの言葉が出ているそうですけど、お釈迦様というのはいわゆる対機説法といって、私は『法句経』ぐらいしか読んだことがないんですけど、あれなんか読んでみると、非常に平易に、ほんとに表現どおり理解できるようなあれをなさっていますね。
だからやはりここの漢文については、一般に理解されているように読むと。それは道元禅師も百もご承知であったと。道元禅師の頭の中をのぞいてみますとね。で、それを承知の上で、なおかつ道元禅師独特の、それはまさしく真理なんでしょうけど、それを展開されたというふうに理解するほうが、われわれとしてはずっと入りやすいし、なんか真実を得ているような気がするんですが、その辺はどうでしようかね。
答 それはだめだ。仏教哲学というのは一つの哲学。だから、あの哲学も、この哲学もいろいろ含まれているということではない。仏教哲学というのは世界の唯一の真実ですよ。それだけの価値を持っているし、それだけの精密度を持っているんですよ。
仏教を勉強する人が、そのことに対する信仰がないから、本当に仏教を信じて一所懸命勉強するという形がなしに、それぞれにその場で都合よく解釈して、たくさんの文献が出来上がっているわけだけれども、『正法眼蔵』の思想と『中論』の思想を読む場合に、釈尊の教えはこれしかないというたった一つの思想体系がどうしても出て来るんですよ。
そのことに気づいて、そういう立場で仏教を勉強しないと、仏教というものの本当の意味が永遠にわからない。
問 いや、私はね、さっき申し上げたように、道元禅師のこの理解について興味を持ったのは、『首楞厳経』のこれを読んだときに、道元禅師は最初から論理をこういうふうに取られたのか、それとも、私がさっきちょっと申し上げたように、それは一般に理解されているように、それからお釈迦様が一つの真理を八万四千に人によって使い分けて表現されたという、それだけ平易に説かれているわけですね、もとは。
ということからすると、やはりここは素直に取った上で、まさしく道元禅師の信念というのをここでこういう形で展開なさっていると取ったほうが、なんか私はこの文章を読んでいると非常に理解しやすいなあというふうに思っていたものですから、それでお聞きしたわけです。
答 ただ、道元禅師の仏教の理解の仕方は、基礎に坐禅があるんですよ。で、日常生活の中で坐禅をやったときの体、心でずうっと生きているから、一切の哲学問題を仏教哲学の立場で考えるんですよ。そうすると、この問題は誰それはこう説いているけれども、この意味じゃなしにこうだなというふうな、仏教哲学を基礎にした統一的な解釈が出るんですよ。
で、その統一的な解釈から生まれた仏教哲学が本当の意味の仏教思想だから、それをつかまなきゃならんということが仏教を勉強する上の基礎だというふうに見ていいと思います。
問 わかりました。
それからもう一つだけ。すみません、二つも質問して時間をいただいて申しわけないんですが。前回のところで、前からお聞きしようと思ったのが、ご老師の話を伺っているうちに別のほうに興味が行っちゃって、ほかのことを聞いてしまったんであれなんですが。二三ページの四行目の「華開世界起をしらず」、まあ「華開世界起」というのはよく出て来ますね。これについては、こちらの説明で、「花が咲くというような個別の現象と、世界が生起するというような全体的な現象とは全く同一の事実である」ということで、わかる気もするんですが、なんかイマイチどっかひっかかってよくわからないところがあるんで、このことについてもうちょっとご説明いただけたらと思いますが。
答 その点ではね、最初の「華開イテ世界起ル」というのは、現象というものと世界と呼ばれものとは同じだと、こういうことです。
それはどういうことをいうかというと、世界があるということと、畳がある、白い壁がある、ランプがついているというふうな個々のものがあるということと一つの事実だという主張なんです。
抽象的に考えると、世界という抽象概念があって、その中に畳とか、電気とか、白い壁とかいうものが存在しているという考え方をするけれども、そうじゃなくて、畳がある、ランプがある、白い壁があるという事実と世界があるということとは一つのことだよというのが「華開イテ世界起ル」という言葉の意味なんです。
だから「世界」という抽象的な言葉と、「世界ガ起ル」というふうな事実というものとは同じものだから、現象があるということと世界があるということとは一つの事実だという主張なんです。
問 おっしゃるとおりだと思いますね、そのことはよくわかるんです。私がこだわったのは、ただこれは、花が咲くということと世界が生起する、世界が新たに生まれるとすると、もちろん現実のわれわれのことであっても、われわれと考え方が全然違いますからね。だから花が一つ開いた、それが実は全世界が生起したということと全く同じだなんていうことはわからなくはないけれども。
何となくそこのところ、「生起する」ということが、存在するということであれば、世界というものがあって、それが実は、そういう抽象的なことじゃなくて、小さなスミレの花が一つ咲くということが、そのことが実は全世界の事実を現しているんだよと、ちょっと言葉はヘたですけど、ということようなことがわかる気がするんですがね。「生起スル」というのは、存在するというんならわかるんですがね。
答 「起ル」ということは、現象が現れるという意味です。
問 そうすると、全世界がそこになかったというか、「刹那生滅」じゃないですけど、そういう意味ではなくて、その「生起スル」というのは、世界が、花が一つ開いた……。
答 だからこの言葉は、物があるということと世界があるということとは同じ事実だということ。
問 「生起」というのは、「ある」というふうに取ればいいわけですか。
答 うん、そうそう。だから、仏教哲学というのは現在の瞬間の事実しか述べないから、物があるということと世界があるということとは同じ事実だというのが「華開イテ世界起ル」という言葉の意味だと。
問 はい、わかりました。すみません。ありがとうございました。
問 先生のお話の中で、現実がよくわかるようになると、「空華」ということの重要さがわかるというような内容のお話があったと思うんですが、その逆で、「空華」ということがわかると現実がわかるということではないですか。
答 それはないな。それはない。
問 そうするとやっぱり仏教というのは、まず現実があって、それからそれを開いてみると、この「空華」もあれば、一段階、二段階のこともあるということで、起こってくるのは、「世界起」も同じなんですが、まずそこに現実があるというところから始めるということは、私たちはすごく慣れていない考えだと思うんですが、それしかないんでしょうか。
答 私は仏教はその思想だと思う。で、その思想が、昔の仏教を理解した人々は、あまりにも子供っぽくて単純過ぎる、だからそれは釈尊の教えであるはずがない、釈尊の教えはもっと高尚な理論だという解釈でいろんな解釈が行なわれたという見方をしています。
だから私は正直いいますと、私が最初に仏教の解説を書いた『仏教−第三の世界観』という言葉の中では「素朴実在論」という言葉を述ベています。
今日の仏教哲学でも、観念論の哲学もあれば唯物論の哲学もあるけれども、それ以前に素朴な現実があるという主張があるんです。仏教はまさにそれだという見方です。
だから釈尊もバラモンの教えを勉強された、それから六師外道の勉強もされた。ただ、坐禅をやっておられて、ある朝、いやあ、俺たちは現実の世界に生きているんだということに気がついたときに、バラモンが説いているような抽象的な理論の中に生きているわけじゃない、六師外道が説いているような物の世界に生きているわけじゃない、この現実の世界に生きているんだということに気がついた。そのことが「山川草木悉皆成仏」という言葉の意味なんです。山や川や草も木も真実であるということに気がついたということ。これが釈尊の教えの出発点です。
問 そうすると、その「四諦」でも、だいたい一、二、三、四というふうに段階的な方向性で考えますけれども、それは逆なんですね。
答 そうそう。
問 現実があって、そして開いてみたらそういうことが……。
答 そのとおり。だからそういう点では、思想の世界では苦諦があり、集諦があり、滅諦があるけれども、本当にあるのは道なんですよ、現実なんですよ。
問 そうすると、本当にあるのが道だというのは、どっちからいってもわかるんですが。現実というのは、その方向性というのは、私たちが考える積み重ねの論理じゃなくて、現実があって、それを開いてみたら、そういう構造になっているというしかいいようがないものなんですか。
答 そのとおり、そのとおり。
問 そこがやっぱりすごく難しいところだと。
答 うん、そう。だからその点では、そういう考え方をすると、「いや、それは子供の考え方であって、大人になるとそういう単純な考え方はしないんだ。言葉があって、いろいろな教えがあって、哲学が出来上がっている。それから科学思想も発達して、実験が行なわれて、いろんなことがわかってきた。それが本当のこの世の中の世界であって、それ以前に現実があるなんていうのは子供の考え方だ」というのが普通の大人の考え方。
だけれども、そういう子供の考え方のほうが本当ではなかろうかというのが釈尊の教えなんです。
だから私はこの問題を考えるときによく思い出すのは、グリムの中に『裸の王様』という御伽話があるんです。王様は洋服屋に騙されて「糸も布もない形で立派な服をつくります」ということで、洋服屋が服をつくった真似をして王様に着せた。何もないんだけど、着物があるように着せた。王様は得意になって立派な着物を着ているつもりで街中へ歩いて行ったら、観衆も、王様は確かに裸なんだけれども、何か俺たちの眼に見えないものを着ているんだろうと思って拍手喝采した。そしたら子供がチョコチョコッと出て来て、「あのおじさん裸だ」といった。そしたら観衆がやっと真実に気がついてワァーッと笑ったという物語があるけれども、そういう問題と関係しているんですよ。
だから、「裸なんだけれども何か立派なものを着ている」というふうな錯覚で社会が動いている。だからそのときに、「ああ、あのおじさん裸だ」ということがいえる子供の純心な考え方が真実なんです。
問 逆ということがわかったんですが、そうすると現実があるだけだからということだと、虚無主義というか、そういうことになりがちなわけですよね。
そうすると、さっきいったように、一、二、三というような分析とか、積み重ねとかということは、統計学とかありますよね、こういうことはだいたいはこういう結果が出るというような。そういう意味ではやっぱり大事なことととらえてよろしいわけですか。
答 うん。だからそういう点では、科学思想を軽蔑する思想というのは仏教にはない。それから哲学を軽蔑する思想も仏教にはない。日常生活を大事にする思想が仏教にはあって、何があるかといえば、現実があるということ。その現実のことを「法」と呼ぶわけです。だから法の存在を認め、法に対する信仰を持って、法に従って生きるというのが仏教哲学です。
問 そうすると、「空華」の大切さというか、その重要さというものがわかるということは、どういう意味があるというか、近づくことはできるけど、現実にはなり得ないというふうにとらえてよろしいんですか。
答 いや、そうじゃない。われわれは現に現実の世界に生きているんだから、現実のほうが基礎だということに気がつく。そこで初めて哲学が本当に意味を持ってくるし、科学思想が本当の意味を持ってくるということなんです。
だから現実の尊重から生まれた哲学が仏教哲学で、その哲学を持つことによって今日までの無数の哲学が本当の意味を持ってくるし、無数の科学の知識というものが本当の意味を持ってくるということなんです。
だから現実主義に戻るということは、われわれの思想がいかに貴重か、われわれの科学的な検討がいかに貴重かということが本当の意味でわかるということです。
問 またちょっと国際問題で恐縮なんですけれども、国連の安保理が拡大をめぐりましていま対立があるわけですね。日本は常任理事国入りを目指していまでも一所懸命やっているんですが。常任理事国といいますと、日本ばかりじゃなくて、ドイツ、インド、ブラジルというのが候補に挙がっていますね。
それで各国を見てみますと、ドイツはやっぱりフランスという国もお隣にありますので、イタリアが反対している。インドのほうはパキスタンが反対する。それからブラジルはアルゼンチン、あとメキシコなんかも反対する。日本は韓国と中国が、まあ中国のほうはちょっと微妙な表現はしていますが、韓国は反対している。
こういういきさつをちょっと見ますと、隣の国とのバランスでわからないことはないんですが、なぜゆえにこう皆さんが反対するんでしょうかね、ご老師からご覧になって。
答 私は、そんなものはつまらん問題だと。
問 だけど、反対すると、やっぱりなかなか……。
答 あんなものに入らなくたって、日本の国力が急に上がるわけでもないし、急に下がるわけでもないんですよ。
問 発言力が、やっぱり常任理事国に入ると違いますけどね。
答 うん。だからその点で、私の正直な実感をいえば、国連がどの程度世界的な政治の中で力を持っているかどうかという問題があるんですよ。
問 確かにございますね。
それでアメリカがイラク戦争を始めたときに、早くいえば国連を無視したというような一部のいわゆる進歩的な国々の言動があったわけですけれども、しかし、やってみて、それは事実としてそれなりになってしまうんですが。
ただ、アメリカでも、一応反省といいますかね、やや国連主導にまた戻っているようなきらいもあるんですけど、今後の世界を牛耳っていく上において、やっぱり国連というのは無視できないんで、どうしても必要じゃないでしょうかね。ご老師とちょっと意見が対立するんですけれども、そこらあたりはどうなんでしょうかね、今後のあれは。
答 私の実感をいえばね、国連とアメリカはつながっていると思いますよ。アメリカがあって、国連が独立の勢力を持っていて意見が違うという形じゃないと思う。世界はもっと一つにつながっています。私はそうとしか見えない。
問 なるほど、なるほど。その背景には、軍事力というか、やはり力というものも相当左右しているんでしょうかね。経済力と。
答 こういうことをいうと、まあ内輪話になるかもしれないけれども、世界の底辺にたった一つの勢力があると思います。
問 もうすでに固まったと?
答 うん。それはアメリカも国連も同じですよ。
問 それは無視できませんな。
答 と思うな。
(笑いながら)こういうことをいうから、人様から批判を受けるのかもしれないけれども、私はそういう見方をしています。
問 まあ先のことはわからないとして、世界のここ数年の間の勢いがアメリカという一つの力の国を中心にしたそのグループが進んでいくと。これはもうちょっと変えがたいと。
ですから利口な国ですと、やはりそれにのっとって従っていくという形になるんでしょうね。それは事実だと思いますね。
そういう点では、やはり各国も、仏教を信じる、信じないは別として、現実主義というものにのっとっているんじゃないでしょうか。
答 うん。だから私は現実主義の時代はもう二十世紀の初めから始まっているという見方です。まだ気がついていないけど、早晩気がつくだろうという期待を持っているわけです。
問 そうそう。それを無視したのが過去の日本でしたから、戦前は。ですからものの見事に敗戦という一つの大きな試練を経たと、こういうことですよね。
答 うん。それと、日本が参戦をしたのは、世界歴史の流れがわかっていなかったということ。だから負けるほうに加担して、戦って、負けたというだけのことです。私はそういう見方です。
問 やはり現実主義ですね、考えてみると。
答 そう。だからその点では、事実があるんだから、事実を勉強して、それに逆らわないように個人も、国家も動くべきだという見方です。
問 だからそういう意味で、先ほどのご質問にも出ましたけど、靖国神社というのはほんとにちっちゃなことであって。
私はこの問題でかねてから思っているのは、唯物論を論ずる共産主義の国が、要するに「宗教はアヘンなり」という、これは過去の共産主義が論じた言葉ですけれども、どうしてもそこまで靖国神社が何とかかんとかいうのかと、まず素朴な疑問が起こるんですけどね。共産主義者というのはだいたいが宗教を信じない……。
答 いや、だからあれは日本をいじめてやろうと思って、いいがかりをつけているだけのことですよ。根本的な議論があるわけじゃない。
問 そうでしょ。だからそれを無視しちゃえば一番いいんですよね。
答 ただ、私は無視できないのは、戦犯を一緒に祀ったということ。これは非常に世界常識に欠けた判断だったと思います。だからその辺に手をつけることのほうが日本の国内としては大事だと。
問 それが現実的ですよね。
答 うん。
問 どうもありがとうございました。
では、時間がきましたから、普回向を唱えて終わりにしたいと思います。
普回向 唱和