開経偈 唱和

 前回も中国の副首相が公的な会見の約束をしておりながら、急に会見の約束を反故にして帰国したということに、小泉首相の対応の仕方が実に見事だったという話をしたわけでありますが、その後も、その問題を考えてみると、やはり小泉首相の対応の仕方というものは抜群だったというふうな印象を持っておりますので、もう一度前回と同じようなことを申し上げてみます。

 二つの国のそれぞれを代表するような人が、公的に長い期間にわたってあらかじめ打ち合わせをして、それが実現する直前にその約束を破って帰国するということは、外交上の問題としては想像もできないほど失礼なことで、そんなことがありうるかと思われるような失礼な事態だったということがいえると思います。

 ただ、中国としては、日本に対する嫌がらせとして、もうここ何十年にもわたって国の代表者が靖国神社に参拝しては困るということをいい続けているわけでありますが、もうそろそろ小泉内閣もかなりその問題で頭を悩ませて疲れてきたであろうということを見越して、この辺で大きくとどめを刺せば小泉内閣が折れて頭を下げてくるのではないかという期待もあったと思うわけでありますが、小泉内閣はそれについてぜんぜん反応しなかった。

 このことは、居丈高になって、自分たちの相手の国が頭を下げてくるだろうという期待をしていたにもかかわらず、そういう事態が全然なかったという点で、せっかくそういう働きかけをしたのに、完全に肩すかしをくわされたということで、外交上の立場としてはあまり芳しくない結果に終わってしまったということを意味しているように思います。

 その一日二日後に、小泉内閣がこの秋に東南アジアの国々と会合をして経済問題についてどう協力していくかという会議を持つという話を談話として発表した。

 そのことがどういう意味を持つかといいますと、東南アジアの国々は第二次世界大戦まではそれぞれ欧米諸国の植民地になっている国がほとんどでありまして、第二次世界大戦の影響で日本の国が東南アジアとかビルマまで進攻して行ったというところから、欧米の武力というものが日本の武力によって一時破壊されたために、たくさんの独立国ができたという事情があります。

 そこで東南アジアの国々が今後どういう動きをしていくかということがかなり大きな問題でありますが、その領域について中国が非常に支配をしたいという希望を持っていて、大いに努力をしているというふうなことは事実としてあるわけであります。

 ただ、東南アジアの国々としては、共産国の体制をとっている国がベトナムだけでありますから、もちろん北朝鮮も含むわけでありますが、そういう点では、中国とベトナムというふうな政治体制の違う国の支配を受けるということはけっして好ましいことではない。そうかといって、中国の強い国力というものを考えてみると、中国が東南アジアを支配するという可能性も果たして防げるのかどうかという問題がある。

 そういう状況の中で、日本の国がいわば中国に対抗して東南アジアの国々のまとめ役になろうという意図で会議をするわけでありますから、東南アジアの国々としても、中国からの脅威を防ぐだめには意味があるかもしれないという態度もありうるわけであります。

 本来、東南アジアというのは中国民族の非常に優れた商人たちが華僑という形で非常に大きな商業の権益を持っておりますから、そういう華僑の勢力がさらに発展するということが東南アジアの国々にとってプラスなのかマイナスなのかという大きな問題もあるわけであります。

 そこで、日本がそういう東南アジアの国々の意志をまとめるために国際会議を開くということが非常に大きな意味を持っているというふうな事情があるというふうに考えることができます。

 ただ、そういう動きがアメリカとの関係で、アメリカをそでにして日本が東南アジアの中心になるというふうな立場をとれば、それは日本にとっては自殺行為でありますから、アメリカの副国務長官をオブザーバーに呼んで、こういうことをやりますからよく見ていてくださいというふうな態度をとることによって、東南アジアの国々に対しては、日本はアメリカと完全に結んでいるぞということを示すわけでありますし、またアメリカに対しては、日本は従来の同盟関係を破る意図は毛頭ありませんというふうな意志表示にもなるということが実情であります。

 最後に、中国とベトナムとを取り上げて、中国とベトナムとはその他の国々の資本主義体制と違うということを指摘して、政治的な原則の違う国と国とが一堂に会して国際会議を行うことができるのかどうかというふうな点に疑問を投げかけたということも、これは日本としては初めてのことであって、そういうふうな形での牽制というものが日本によって初めて行なわれたということにはかなり大きな意味があるというふうな見方をしております。

 そうして、その共産国を挙げるのであれば、当然北朝鮮を含むはずでありますが、北朝鮮を入れなかったということは、もう北朝鮮には自立の見込みがないという判断が含まれているのではないかというふうな見方をしております。

 けさの新聞によりますと、宮沢喜一さん、その他三、四人の総理大臣経験者が集まって、福田元官房長官を交じえて、小泉首相に対して靖国神社参拝を自粛してはどうかという観告をするというふうな会議が持たれたようでありますが、このことは、もうすでに次の内閣の首相が誰になるかということの前哨戦でありまして、その点では、元官房長官が次の総理大臣を目指している一人でありますから、何人かの総理大臣経験者に集まってもらって、小泉内閣の態度に少し自省を促すということが次の総裁選挙において有利だという判断が恐らくあったというふうに見ることができます。

 その中に森という元総理大臣経験者が含まれているということでありますが、小泉首相は森派から出た人でありますから、森元首相の態度というのは、そういう共通的な会合には出て行って、内部の情勢をよく聞いて、小泉内閣の治政に役立たせているという事情もあるのではないかというふうな見方ができるわけでありまして、いずれにしてももう次の選挙に向かって政局が動き出している。

 その結果については、いまのところまったく予想が立ちませんが、対立候補と思われる二人の人も、いずれも元の派閥の長の息子さんでありまして、片方は見事総理大臣になった、片方は残念ながら総理大臣になる前に病死されたというふうな事情から、今度の総裁が誰に決まるかというふうな問題も非常に微妙な様子を含んでいるということがいえると思います。

 この二人のどちらが総理大臣になるのかということは、いまのところまったく読めないというふうな事情ではなかろうかという見方をしております。

 そういう意味で、小泉首相という人が今日までの日本の国内における常識を覆して、国際場裏において自己主張をしているというふうな点では、やはり政治家として出色の力を持っているのではないかというふうな見方をしているということになります。

 

 それではまたこの本のほうに入ってまいりますと、きょうは三三ページの「悟の瞖なるには」というところからになるかと思います。

 本文のほうを読みますと、

「悟の瞖なるには、悟の衆法ともに瞖荘厳の法なり」、「悟」というのは本当のことがわかったということでありますが、「瞖」というのは、自分の得た悟りというものがあるいは間違っているかもしれないというふうな反省を「瞖」という形で表しております。つまり「瞖」というのはかげりという意味で、自分は本当のことがわかったつもりだけれども、この考え方が間違いもしれないというふうな事情が「悟の瞖なるには」という言葉の意味であります。「悟の衆法ともに瞖荘厳の法なり」、その点では、自分が得たと思う本当の真実がわれわれの住んでいる宇宙の全部のものと一緒に、「間違っているかもしれない」というふうなすばらしい装飾によって飾られている現実である。

 だから仏教の考え方としては、これが本当だ、これが本当だという考え方よりも、「自分はこれが正しいと思う。しかしひょっとしたら間違いかもしれない」というふうな余裕のある態度がその本質でありまして、そのことを「悟の瞖なるには、悟の衆法ともに瞖荘厳の法なり」、真実というものにひょっとしたら間違いかもしれないというふうな反省が伴っているならば、真実として眼の前に現れているたくさんの物や現象が、すべて「間違いかもしれない」というふうな見事な飾りによって飾り立てられていると、こういう意味であります。

 「迷の瞖なるには、迷の衆法ともに瞖荘厳の法なり」、そこで、自分の考え方は間違っているというふうなことについても、「これでいいのかな」というふうな反省がある場合には、「迷の衆法ともに瞖荘厳の法なり」、自分の考え方が間違っている立場でとらえられているこの世の中のすべてのものが、やはりこれが間違っているのではなかろうかという飾りによって美しく飾られている現実の世界である。

 「しばらく道取すべし、瞖眼平等なれば空華平等なり、瞖眼無生なれば空華無生なり、諸法実相なれば瞖華実相なり」、「しばらく」という字はとりあえずという意味で、「道取」というのはものをいうという意味でありまして、とりあえず次のようなことがいえる。「瞖眼平等なれば」、自分の考え方はひょっとしたら間違っているかもしれないというふうな反省がきわめて安定した状態であるならば、「空華平等なり」、空間に浮かんでいる花に譬えられるような、われわれが頭の中で考えている思想も、それからわれわれが感覚器官を使って眺めることのできる眼の前の世界というものも、「平等なり」、均衡がとれていて平静である。

 「瞖眼無生なれば空華無生なり」、われわれのものの見方がひょっとしたら間違っているかもしれないというふうな反省を伴った事態が現実の世界の中にあるならば、われわれの持っている考えや、われわれの持っている客観世界に対する受け取り方というものも、現在の瞬間の事実であるし、「諸法実相なれば」、われわれの生きているこの宇宙全体が真実の姿を示しているならば、「瞖華実相なり」、かげりがあるかもしれないという反省を持っている眼の前の現象というものも真実の姿を具えている。

 ここのところで「瞖眼平等なれば空華平等なり」というのも、この世の中の見方として、あまり自信を持ち過ぎてはいけないという主張であります。

 この世の中にはいろんなものについて疑いを持って、自信を持たない人もいるわけでありますが、それと同時に、自分の考え方に絶対の自信を持って、「ひょっとしたら間違っているかもしれない」という余裕を持っていない人もたくさんいる。

 仏道の世界では、これが本当だという追求を真剣にやって、これが間違いないというふうに思えるような状況であっても、やはり本当に正しいかどうかというふうなことについての反省を持つような余裕のある場合に、本当のものが見えているというふうに判断することができると、こういう考え方があるわけであります。

 それから「瞖眼無生なれば」というのの「無生」というのは、「生まれるものでない」という意味でありますが、「生まれるものでない」ということが何を意味するかというと、現在の瞬間における事実だという意味であります。つまり、われわれはこの世の中を過去・現在・未来というふうに長く続いた時間の系列のように考えて、あったものがなくなるとか、なかったものが生まれてくるとかいうふうな考え方をするわけでありますが、「無生」という言葉の意味は、われわれが生きているこの現実の世界は、現在の瞬間における事実であって、なかったものが生まれてくるとか、あったものが消えていくというふうな時間の流れの中における事実ではなしに、きわめて短い現在の瞬間における事実だと、そういう事情を表すために「無生」という言葉を使うわけであります、「生まれてきたものではない」という主張をするわけであります。「瞖眼無生なれば空華無生なり」、自分の考え方はひょっとしたら間違っているかもしれないというとらえ方を現在の瞬間において持っているならば、われわれが持っている頭の中で考えた思想も、それから感覚を通じてとらえた外界の世界というものも現在の瞬間における事実である。

 そうして、「諸法実相なれば瞖華実相なり」、「諸法」というのはこの世の中のすべてでありますが、「諸法実相」という考え方は、『妙法蓮華経』という経典の中の中心思想でありまして、この世の中の一切のものは真実の姿を示している、真実そのものであるという考え方であります。

 ですからこういう考え方の中には、この世の中を現実の世界としてとらえる仏教の中心的な現実主義が含まれているわけでありますが、明治維新以降、仏教の勉強が欧米の仏教の勉強の仕方をお手本にして、優秀な学生が諸外国に出て行って、諸外国における仏教の勉強の仕方を科学的な勉強の仕方として日本に導入して、たくさんの大学で講義を始めたところから、大学における仏教の説明というものは欧米における仏教の理解の仕方というものに置き換えられた。

 欧米の文化というものがどういう基礎の上に立っているかというと、頭で問題を考える立場と、それから眼に見える、耳に聞こえるという感覚的にとらえたものを物質として考えの基準に置く、二つの考え方があって、その二つの考え方の中では、この世の中が実際にあるという理解の仕方が出て来ないところから、仏教哲学も実体の教えではない、この世の中は架空の存在であるという考え方が欧米の仏教思想の理解の中にはあって、それがそのまま日本に移動してきて学会で説かれるようになったという実情があるわけであります。

 ですから今日の日本の仏教界では「諸法実相」という考え方を受け入れない。つまり、この世の中の一切のものは真実であるという考え方は受け入れない。

 ところが、道元禅師が生きておられた鎌倉時代には、仏教思想というものは当然この世の中のさまざまのものは真実の姿を示しているというふうな考え方を基礎にしたとらえ方でありますから、ここにおいても、「諸法実相なれば瞖華実相なり」、この世の中の一切のものが真実の姿を示しているということがわかってくるし、逆に、頭の中で考えた思想も、あるいは感覚的にとらえることのできる現象もやはり真実の姿であるということがわかってくると、こういう意味で「諸法実相なれば瞖華実相なり」。

 つまり「瞖華」というのは、この章の主題になっております「空華」ということと同じ意味でありますから、この世の中のすべてが真実の姿を示しているという考え方になると、われわれが頭の中で考えている思想も、あるいは感覚的にとらえることのできる外界の刺激というものも真実の姿だという考え方に統一されてくると、こういう意味であります。

 「過現未を論ずべからず」、そこで、仏教思想というものは過去・現在・未来というふうな時間の流れで議論してはいけない。「初中後にかかはれず」、最初、中頃、最後というふうな時間の系列と無関係である。

 これがなぜ主張されるかというと、仏教哲学はすべて現在の瞬間における現実というものがこの世の中の実体であるという考え方を基礎にしているわけでありますから、頭の中で考えれば、過去・現在・未来というふうに時間が横に並んだ長い線のように受け取られているけれども、本当の時間はそういうものではなしに、われわれが現実に生きているこの世界の中における現在の瞬間そのものだけが本当の意味の時間であると、こういうような考え方をするところから、「過現未を論ずべからず、初中後にかかはれず」、過去・現在・未来というふうな時間系列の中で問題を考えてはいけない。最初、中頃、最後というふうに時間系列とは関係がない。

 「生滅に罜礙せざるゆゑに」、生まれたとか消えたとかいうふうな移り変わりというものに邪魔をされることがない。「よく生滅をして生滅せしむるなり」、この世の中が瞬間瞬間に生まれたり消え、生まれたり消えしているような実体というものがはっきりしてくるのである。

 「空中に生じ、空中に滅す、瞖中に生じ、瞖中に滅す、華中に生じ、華中に滅す、乃至諸余の時処も、またまたかくのごとし」、この世の中というものは、「空中に生じ、空中に滅す」、われわれが生きている空間に生まれ、空間の中で消滅するという事実もあるし、「瞖中に生じ、瞖中に滅す」、われわれの考え方が間違っているというふうな状況の中でも生まれ、われわれの考え方が間違っているというふうな状況の中で消滅していくということも事実だ。

 「華中に生じ、華中に滅す」、われわれの頭の中で考えた思想とか、感覚的にとらえたこの世の中の外界の世界の実体の中に生まれ、外界の世界の実体の中で消滅していくということもある。

 「乃至諸余の時処も、またまたかくのごとし」、それ以外の時間、あるいは場所というものに関連しても、同じようなとらえ方ができる。したがって、いろいろな時間の中で、いろいろな場所の中で一切のものが生まれては消え、生まれては消えしている。

 「空華を学せんこと、まさに衆品あるべし」、そこで、空中に浮かんだ花としてとらえられているわれわれの頭の中の思想や感覚的につかむことのできる外界の刺激というものも、その勉強の仕方にはいろいろな種類があるであろう。

 「瞖眼の所見あり、明眼の所見あり、仏眼の所見あり、祖眼の所見あり、道眼の所見あり、瞎眼の所見あり、三千年の所見あり、八百年の所見あり、百劫の所見あり、無量劫の所見あり」、だからものの見方についてもいろいろな見方があって、「瞖眼の所見あり」、かげりのあるものの見方で問題を見た場合もあれば、「明眼の所見あり」、かげりのないものの見方で物事を見た見方もあるし、「仏眼の所見あり」、釈尊と同じように真実の立場で物事を見る見方というものもあるし、「祖眼の所見あり」、仏道を勉強した祖師方のものの見方でものを見るということもある。「道眼の所見あり」、釈尊が説かれた真実を基礎にしたものの中で物事を見るということもあるし、「瞎眼の所見あり」、片目がつぶれて満足にはものの見えないような形でのものの見方というものもある。「三千年の所見あり」、三千年というふうに非常に長い期間を基準にしたものの見方もあれば、「八百年の所見あり」、八百年というふうな長さを単位とした比較的短い時間におけるものの見方もある。「百劫の所見あり」、「劫」というのは無限に近い長い時間でありますが、それを百もつないだような、ほとんど無限に近い時間の中で問題を見るという見方もあるし、「無量劫の所見あり」、無限の時間の中で問題を眺めるというとらえ方もある。

 「これらともにみな空華をみるといへども、空すでに品品なり、華また重重なり」、したがって、上に掲げたさまざまのものの見方というものも、「みな空華をみるといへども」、その時代時代の理想というものや、人間が感覚器官を通じて得た具体的な世界の様子というものを見るということにはなるのであるけれども、「空すでに品品なり」、空間というものにもさまざまの種類があり、「華また重重なり」、その空間の中で生まれてくる現象というものにもさまざまのものが重なっている。

 「まさにしるべし空は一艸なり」、空間というものが何を意味するかというと、その空間の中における具体的な一つのものが空間そのものを意味している。「一艸」の「艸」という字は具体的なものを表す言葉でありまして、「空は一艸なり」というのは、われわれは漠然と空間という広い領域を考えるけれども、空間の実体というものは眼の前にある個々のものそのものである。だからこの部屋でいえば、机や畳や、あるいは湯呑みや、個々のものそのものが空間を意味している。

 「この空かならず華さく、百艸に華さくがごとし」、そのような空間というものは必ず現象が含まれているものである。「空」というのは空間でありまして、「華」というのは現象であります。「百艸に華さくがごとし」、その点では、われわれの周囲にあるたくさんの草がそれぞれ花が咲くのと同じような状況である。

 「この道理を道取するとして、如来道は、空本無華と道取するなり」、そこで、「この道理を道取するとして」、そのように基本的な原則を言葉で表そうとして、「如来道は」、釈尊がいわれた言葉というものは、「空本無華と道取するなり」、空間というものには本来現象がないものだというふうな主張をする。この空間の中には本来現象がないというふうなことは何を意味するかというと、われわれは頭を使って空間というものを考え、その中に現象があるという考え方をするけれども、実体というものは空間とか現象とかいう区別がなしに、現実の事態が眼の前にあるだけだ。その現実の世界が眼の前にあることを表現するために、空間には本来現象がないというふうな表現をするのである。

 「本無華なりといへども、今有華なることは、桃李もかくのごとし、梅柳もかくのごとし、梅昨無華梅春有華と道取せんがごとし」、そこで、「本無華なりといへども」、本来は空間の中にこれこれのものがあるというふうなとらえ方ではないけれども、「今有華なることは」、現に眼の前に花が咲いている。この四月の初めには桜の花があっちこっちで咲いたというふうな形で、そういう花の存在を否定するわけにはいかない。そこで、「今有華なることは」、現にいろいろな花が咲いているということは、「桃李もかくのごとし」、桃の花についてもいえるし、すももの花についてもいえる。「梅柳もかくのごとし」、梅の木にも花が咲くし、柳の木にも花が咲く。それがわれわれの生きている世界の実情であり、「梅昨華無シ」、梅がきのうは花をつけていなかった。「梅春華有リと道取せんがごとし」、ところが、きょうは梅の木に花がつき始めた。そのような形で、一切の現象というものが時間の経過とともに移り変わっているというふうな実情がわれわれの生きている世界の実体であると、こういう主張であります。

 「しかあれども時節到来すればすなはち華さく、華時なるべし、華到来なるべし」、しかしながら、現在の瞬間がやってくると、「時」というのは時間を意味しておりますし、「節」というのは非常に短い単位を意味しております。ですから道元禅師は「時節」という言葉で現在の瞬間を表しておられるという理解ができるわけでありまして、「しかあれども時節到来すればすなはち華さく」、しかし、現在の瞬間が到来すると、現象というものが眼の前に現れてくる。「華時なるべし」、その点では、現象というものと時間というものとは一つのものであろう。「華到来なるべし」、現象が到来したということであろう。

 「この華到来の正当恁麼時、みだりなることいまだあらず」、そうしてそのように現象というものが到来した現在の瞬間というものは、「正当恁麼時」というのは、まさに言葉では表せない現実の時間という意味でありまして、「みだりなることいまだあらず」、現在の瞬間の実情というものはでたらめではない。

 「梅柳の華はかならず梅柳にさく、華をみて梅柳をしる、梅柳をみて華をわきまふ」、そうして、梅の木には梅の花が咲き、柳の木には柳の花が咲く。その点では、どういう花が咲くかを見て梅の木であるか柳の木であるかがわかる。「梅柳をみて華をわきまふ」、また逆に、梅の木や柳の木を見て、この木には梅の花が咲くであろうとか、この木には柳の花が咲くであろうというふうに判断ができる。

 「桃李の華、いまだ梅柳にさくことなし」、桃やすももの花が梅や柳の木に咲くということはない。

 「梅柳の華は梅柳にさき、桃李の華は桃李にさくなり」、その点では、柳の花は柳の木に咲き、梅の花は梅の木に咲く。桃の花は桃の木に咲き、すももの花はすももの木に咲く。

 「空華の空にさくも、またまたかくのごとし、さらに余艸にさかず、余樹にさかざるなり」、その点では、人間の頭の中で考える思想というものも、あるいは人間の感覚器官に現れてくる外界の世界の姿というものも、それぞれ空間に現れるのであって、その点では、桃の花が桃の木に咲く、すももの花がすももの木に咲くのと事情はまったく同じである。「さらに余艸にさかず、余樹にさかざるなり」、空間の花が空間以外のところに咲くというふうなことはあり得ない。空間における木というものが空間以外に咲くということもあり得ない。

 「空華の諸色をみて、空果の無窮なるを測量するなり」、その点では、空間の中に生まれている思想や感覚的な刺激というものを観察して、「空果の無窮なるを測量するなり」、そのような形で思想上の結果、あるいは感覚的な刺激としての結果というものが無限に存在しているということを想像することができる。

 「空華の開落をみて、空華の春秋を学すべきなり」、そこで、そのような思想であるとか、感覚的な刺激とかいうものが現れては消え、現れては消えしている状況を見て、「空華の春秋を学すべきなり」、そのような思想や外界の刺激についても、春の時節もあれば、秋の時節もあるということを勉強すべきである。

 「空華の春と余華の春と、ひとしかるべきなり」、その点では、そういう形で空間の花と呼ばれている思想や感覚的な刺激というものにおける春というものも、ほかの世界における春と同じものであろう。

 「空華のいろいろなるがごとく、春時もおほかるべし」、その点では、空間における花に譬えることのできる思想であるとか、感覚的な刺激というふうなものもいろいろな種類があるであろうけれども、それと同じように、春の季節というものについても、さまざまの状況があるであろう。

 その点では、日本の春は比較的長くて、いろいろな花が咲くわけでありますが、たとえば中国の東北と呼ばれている満州では、春が来ると花が咲くわけでありますが、その季節が来るとすぐ夏になってしまう。だから春の季節というものが非常に短くて、冬からほとんど春を経験せずに夏になってしまうというふうな気候であるわけでありますが、そのように世界の気候のあり方も、日本のような春、夏、秋、冬がはっきりと分かれて、その長さがつり合っているというふうな国ばかりではないということもいえるところから、「空華のいろいろなるがごとく、春時もおほかるべし」。

 「このゆゑに古今の春秋あるなり」、したがって、過去においても、現在においても春があり、秋がある。

 「空華は実にあらず、余華はこれ実なりと学するは、仏教を見聞せざるものなり」、そこで、われわれが頭の中で考えた思想や感覚的にとらえる刺激というものが真実でないというふうに主張するならば、「余華はこれ実なりと学するは」、そうして思想や感覚的な刺激以外のものが実体であるというふうに理解するならば、「仏教を見聞せざるものなり」、釈尊の教えというものは、われわれが頭の中で考えた思想を架空のものと考えないというところに特徴がある、あるいは感覚的な刺激が架空のものでないととらえるところに仏教としての特徴である。

 だから仏教では現実を大切にして、思想とか、感覚的な刺激とかいうものを実体でないという主張をするわけでありますが、それと同時に、さまざまのものを抽象的な理論として考え、あるいは感覚的な刺激としてとらえるということが釈尊の教えの一部をなしている。

 そのことがどうして主張できるかというと、釈尊がお説きになった「四諦の教え」、苦諦・集諦・滅諦・道諦ということの苦諦と集諦とは頭の中で考えた思想と感覚的な刺激による外界の世界を指すわけでありますが、それもまた真実の中の一部であるという主張が「四諦の教え」という中には含まれているわけであります。だから苦諦・集諦の立場は仏教の立場ではない、滅諦と道諦が仏教の立場だという考え方ではなしに、苦諦も集諦も滅諦も道諦も仏教哲学の内容であるという主張が仏教の主張であります。

 このことがどういうところで意味を持ってくるかというと、欧米の文化というものは「四諦の教え」で考えると、苦諦と集諦の立場が非常に発達した。それに対して仏教では集諦と滅諦という、行ないの世界と現実そのものとを主張するわけでありますが、今日われわれが仏教を勉強する場合に、欧米の思想の考え方ができないと仏教哲学の理解ができない。これは大事なところであります。

 私自身も、欧米の哲学を多少勉強したから釈尊の教えがどういう教えかということがわかり、『正法眼蔵』の思想内容がどういう思想かということがやっとわかった。だから欧米の哲学の存在がなければ私自身が仏教哲学はぜんぜんわからなかったという事情があるわけでありまして、ここではそのことを主張しているということになります。

 そこで、「空華は実にあらず、余華はこれ実なりと学するは、仏教を見聞せざるものなり」、その点では、釈尊の教えの中では、欧米の観念論も貴重であるし、欧米の唯物論も貴重であると、こういう主張であります。

 私が若いときになぜ仏教に関心を持ったかというと、観念論が正しいのか、唯物論が正しいのかという疑問について、どっちが本当なのかを知りたいという動機があったわけでありますが、そういう点では、欧米の観念論と唯物論がなければ私自身が仏教哲学に関心を持つという可能性がなかったのではないかというふうな見方をしております。

 ですから仏教の思想というものは、欧米の思想から一歩抜け出した思想ではありますが、その基礎にある観念論、唯物論というものもやはり真実を勉強する上の貴重な基礎であるということをここでは述べているわけであります。

 だからそういう苦諦の立場と集諦の立場を仏教思想ではないというふうに主張するならば、それは仏教思想が本当にわかっていないんだということをいわれております。

 「空本無華の説をききて、もとよりなかりつる空華の、いまあると学するは、短慮少見なり、進歩して遠慮あるべし」、そこで、空間というものには本来現象がないものだという説を聞いて、「もとよりなかりつる空華の」、本来はあるはずのない思想や客観的な世界というものが、「いまあると学するは」、現にあるんだという主張をするならば、「短慮少見なり」、それはものの考え方が短過ぎるし、ものの見方が小さ過ぎる。「進歩して遠慮あるべし」、さらに立場を一歩進めて、広い視野で問題を考えてみるべきである。

 「祖師いはく、華亦不曽生」、仏教の祖師が現象というものもけっして生まれるわけではないと。その「生まれるわけではない」ということが何を意味するかというと、現在の瞬間における事実であると、こういう主張であります。つまり頭で考えれば、ないものが生まれてきたとか、あったものがなくなるというふうな考え方をするわけでありますが、現実のあり方というものは現在の瞬間の事実でありますから、生まれたとか消えるとかいうふうな事実ではなしに、現に現実が眼の前にあるというとらえ方をするという意味になるわけであります。

 「この宗旨の現成、たとへば華亦不曽生、華亦不曽滅なり、華亦不曽華なり、空亦不曽滅空の道理なり」、このような基本的な思想というものはどういうことを意味するかというならば、「たとへば華亦曽テ生ゼズ」、現象というものも現在の瞬間の事実であって、生まれてきたものではない。「華亦曽テ滅セズなり」、現在の瞬間における現象というものは、現在の瞬間における事実であるから、それが消滅するというふうな理解の仕方をしない。「華亦曽テ華ナラズなり」、現象というものも、人間は現象と呼ぶけれども、人間の現象という呼び方が本当であるかどうかというふうな疑問が当然出て来るし、「空亦曽テ空ナラズの道理なり」、空間というものも空間という人間のつけた名前が正しい意味を持っているのかどうかというふうな疑問も当然ありうる。

 「華時の前後を胡乱して、有無の戯論あるべからず」、そこで、現象が現在の瞬間においてあるというふうなことを、その瞬間の前もある、その瞬間の後もあるという考え方をして、考え方を混乱させて、「有無の戯論あるべからず」、実際に存在するとか存在しないとかいうふうな遊戯的な議論をしてはならない。

 「華はかならず諸色にそめたるがごとし」、現象というものはさまざまな色を持っている。それと同じように、一切のものが具体的なものとして眼の前にある。

 「諸色かならずしも華にかぎらず、諸時また青黄赤白等のいろあるなり」、その点では、さまざまの色というものが現象だけだというふうな限定はできないし、「諸時また青黄赤白等のいろあるなり」、さまざまな瞬間には青とか、黄色とか、赤とか、白とかいういろいろな色があるのである。

 「春は華をひく、華は春をひくものなり」、春という気候と花が咲いているという現象とは同じもので、花が咲いているという現実と春が来たという季節の到来とは同じものである。

 こういう形で、われわれが頭の中で考えている思想というものと現実の世界との関係、あるいはわれわれがとらえている客観的な世界と、それが現在の瞬間において現れているというふうな現実の実情というものを説明しておられるということになります。

 

 きょうは時間の都合でここで終わりますが、この後、三八ページから始まる張拙秀才という人の詩の説明の中で、人間の欲望をどう処理するかという問題が説かれております。

 先日も朝食のときに、この道場にいるロッドというオーストラリアから来た若い男性が、「われわれは性欲に悩まされる。どういう解決をしたらいいのか」というふうな質問があったわけでありますが、そのときにこの「空華」の巻の張拙秀才という人の詩の中で、欲望というものは押さえつけるから具体化する、押さえつけないで放っておけば欲望というものはあり得ないと、こういう解釈を説明しておりまして、それがまさに欲望の実体だと。

 私はその問題を説明する際に、ゴムのボールが水の上に浮かんでいたとする。で、ゴムのボールが水の上に浮かんでいるのは見苦しいから、手で押さえつけて水の中にもぐらせておこうという努力をしてみても、手が疲れてきて自然に手を放すと、ゴムボールは水の力で水の表面を高く飛び越えて爆発する。欲望の存在というのはそういうものだと、こういう説明がこの後のところには出て来ているということになります。

 

 それでは、いちおういつもと同じような時間が来ましたので、ここで話のほうをとめまして、またご質問を受けるということにしたいと思います。何かありましたらどうぞ。

 

   いまのお話は、四二ページの「断除煩悩重増病」というところのことですね。

 答  そうです。私自身も、若いときにこの部分を読んで、「ああ、そうか」と思って欲望の問題を解決したというふうな印象があります。

   いまの問題ですけどね、道元禅師を非常に尊敬している方が多いですよね。私はわからないなりにやはりそういうことで何とか自分でスッスッと『眼蔵』を読めるようになりたいということで、ここに出していただいているんですが。

 しかし、その性欲の問題についてぜんぜん触れていないわけですよ。それに対して、たとえば親鸞は赤裸々なね。実際われわれは男ですから、もしこれで若い頃性欲がなかったらたいへんな学者か、たいへんな何かになっていたと。結局これに振り回されて。

 というのは、この後に書いてある、まあ私もこれを読んでいますけれども、こういう抑えようとするからとか何とかというのは、もう性の根源から湧き出て来るんだから。

 そうすると、さっき申し上げた道元禅師を非常に尊敬する人も、男にとってはこれは強烈な問題ですからね。私は年を取って一番幸せなのは、それから解放された。年を取って何がいいかといえば、一つもいいことはないけれども、唯一あるのはそれだ。これでもってほとんどありとあらゆることが影響を受けるという実感がありますよね。

 それに対して道元禅師はぜんぜんこのことに触れないというか、多少ちょこちょこと「らしい」ことを触れていますけど。このことについてどうも嘘があるという言葉は悪いんですが、そういう意味では本当の核心の、セックスの性、生きる生でもあると思いますけど、そこに触れていないというのはどうも解せないということをいう人があって、この辺はどういうふうに考えたらよろしいですか。

   それはね、触れていないんじゃなくて、問題にならないという判断。それはどういうことかというと、たとえば欲望というものと生きるという現象とは同じものですよ。だから欲望を否定することは生命を否定することになるから、欲望そのものは否定すべきものじゃないんです。だから現実主義的な仏教ではそれをいうわけです。だから日蓮宗でも曹洞宗でもそういう形で欲望というものを最初から肯定するんです。それを抑圧すると爆発するから、抑圧するという考え方をとらないというのが仏教の基本的な考え方です。

 異例の思想というものがあって、そういう欲望を罪悪視して、それを抑えようと思うけど抑えられませんというふうなところから仏教思想を説くという考え方が、いわゆる浄土系の考え方です。だから浄土系の考え方と現実を認める仏教の考え方との間には基本的な基礎の違いがあると、そういう問題があります。

   たとえば「在家五戒」の「不邪淫戒」とか、坊さんも、もちろん明治以降になって妻帯を認めたけど、妻帯を認めませんね。

 ということで、たとえば道元禅師のこの禅宗で、じゃ性欲が非常に強いから妻帯していいですよとか、異性と関係を持っていいですよなんてぜんぜん認めていませんね。そうすると、その辺がね……。

 というのは、私が男で、まことにそういうことで無駄な時間を延々と過ごしてしまったから。それはみんなそうですね。

   みんなかどうかわからない。(笑)そこが大事なところだ。もう人間はそういうものだと思い込んで、問題の解決を諦めて流されていく立場と、その問題を解決しようとして努力する立場と違います。

   しかし、まあ私は程度が悪いんですけど、私の周りにも、非常に質のいい人ばっかりの中にたまたま一緒に過ごして。だから人間の価値というのは、私は見ていてわかったんだけど、誰でもそういう性欲はある、欲望はある、それをどういうふうに自己の中で解決するのかというのがね。

 この問題というのは、正直いいますと常について回って、年を取って「やれやれ」ということで。いま過去を振り返ってですよ。ということで、この辺が、いろんな人と話をしているときに、ぜんぜん道元禅師が触れていない。この切実な問題をね。

   それはどういうことかというと、ゴムまりが水の上に飛び出していると。永遠に放っておけばいいんですよ。何億年経とうと、そのままにしておけばいい。人間がサル智慧を働かせて、ゴムボールが水面から浮かんでいるのは醜いと、抑えつけようとして抑えるから爆発するというだけのことです。そのことがここの「空華」の最後のところに書いてあるんです。

 そういう形でしか欲望というものは解決できない。本来あるものであり、それを否定すべきものではないんですよ。最初から「否定すべきだ」という考え方が先に出るから、そこで抑えつける、爆発する、抑えつける、爆発するという繰り返しが起きるというのが実情です。

   そこが釈然としないところですね。

   ただ、最近の実験でそれが非常にはっきりしたんですよ、私にとっては。それは、私がこの道場をつくったときに、女性を当然入れるべきだという考え方だった。もう近代社会になって男女が一緒に住んでいればすぐ間違いを起こすというようなことは、人間が哀れ過ぎる、そんなものではないということを実証しようという考え方があったんです。

 で、それは見事に達成できた。ただ、それと同時に、たまたま多少の問題があって、偶然ではあるけれども、三人いた女性が一斉に全部出たんです。その後、道場の様子がどう変わったかというと、和やかな気分が消えた。そうして、きわめて熱心に坐禅をしようという空気が急に出て来た。

 だからその点では女性というものは非常にありがたいもので、生活を和やかにはしてはくれるけれども、その半面、厳しさというものも消してくれるご利益があると。だからそういう点で、男子だけが生活するということになると、多少雰囲気が違う。

 私自身が、女性がいたときは、食事の準備とか、食器洗いについて、まあまあ皆さんにまかせておけばいいということでのんきにしていたんだけれども、女性がいなくなって、男子がお皿を洗う、男子が食事をつくるということになると、私もぼんやりはたで眺めているわけにいかないという事情が出て来たというふうなこともあります。

 そういう点では、仏教教団では男女の問題についてあんまりもう問題にしないという境地で、仏道修行に専心するということが実態だから、その点では世俗で考えている男女の関係と様子が違うというのが実情だということを、私の実際の経験で最近感じています。

   私も実は仕事の関係で何百人の女性に男一人というところに若い頃ずっといたものですから、そういう点で女性というものがいかにいろんな意味でありがたい存在かということは人様以上に身にしみていますし。そういうことをいっているんでじゃなくてね。ちょっとやめましょう、これ長くなりますし。

 ただ、このことについては、正直いって、さっき申し上げたように、もう根源に関わるような問題にほとんど触れていない。

   その点で、触れていないんでなくて、問題が解決しているということなんです。

   解決していませんよ(笑)。でも、やめましょう。すみません。いや、たまたまそういう話がいまちょっと出たものですからね。

 私も道元禅師のこのあれを読んでいて、まことにすばらしい。私もたいへん年を取ったので正直いって読んでいてわからないところが多いんですが、もう少しね、いまだにポケットに突っ込んでおいて、いつもサッサッサッと読めたらいいなという、ただそれだけでこういうところに出させていただいて、いつもご迷惑をかけて、お邪魔ばっかりして申しわけないんですがね。その中で非常に不思議なのは、このことについてどうなのかと。

   やっぱり触れなきゃだめですよ。触れなければ仏道になりません。だから根源に触れて、根源の問題を解決しないと、問題の解決したことにならない。

 だからこういう問題に大いに触れていいんですよ。それで事細かに議論して、実体がこうだというところまで詰めないと問題の解決にならない。

 たとえば沢木老師は結局罪帯しないで終わりましたけど、七十代になってから、「わしもこれでやっと大丈夫だな」といっていた。だからそれまでにはだいぶ悩まされたらしい。で、ぜんぜん経験はなかったけれども、「わしはよくそのことは知ってるぞ。年寄りのばあさんから事細かに聞いたからなあ」といっておられた。

 だからそういうふうな形で実体を詰めてしまうと、問題が小さくなって消えるんですよ。実体を詰めないで、「あれはもう触らないほうがいい。逃げて逃げて逃げまくろう」と思うから、無理が出て、問題が大きく爆発するというようなことも実情としてあると思います。

 だからそういう問題も、われわれの直面しなければならない哲学問題として真っ正面からぶつからないと仏道の勉強はない。そういうものを怖いものだから逃げて逃げて逃げまくろうとすると、いつまでも追っかけて来るというのが実情だと思います。

 だからそういう点では、仏教というのは直接ぶつかるというふうなところに特徴があるということがいえるように思います。

   はい、わかりました。どうもありがとうございました。

   この「空華」の巻はそもそも達磨大師の言葉から始まっているわけですね。道元禅師はこういう中国から伝わった経典に対しましてまったく位負けがしていないということは、いつも感心しながら読んでいるわけです。

 日本の外交というのはよく「対中位負け外交」とかっていいますね。これはけっしていいことではないと思うんですけれども。かつて、八百年も前に中国という非常に大きな文明国に対してまったく位負けもしないで、堂々と自己主張をした人がいるというのは、考えてみれば驚異のような感じがしますが、いかがでしょうか。

   うん、私はやっぱり今度の小泉首相のような態度がきわめて普通の態度だと思います。戦争に負けたから、みんないじけちゃっているんです。だから、さらにいじめられると困るから、仲良くして、お世辞をいっておけというのが、いま小泉内閣に対する批判です。

 しかし、独立国家というのはそんな必要はないんですよ。自分の主張をして、戦争に負けて滅びるなら滅びたっていいんです。独立国としての主張をするところに独立国としての意味があるんだから、独立国の主張をしないで独立国の振りをしているなんていうことはつまらない話だということがあると思います。

   やっぱりそうなるためには、まあ『正法眼蔵』でいえば仏教をきちんと勉強しなければいけないといことでもあると思うんですけどね。だからこういう本をきちっと勉強していれば、外国に対して、ヨーロッパの人に対しても別に卑下しなくてもいいということですよね。

   そういうことは明らかにあると思います。そうして、人間共通の尊厳さというのがあるんです。だから人種の違いなんかではない。人間であるか人間でないかというところに人間の価値の違いがあって、その点では人間は神様になってもいけないですし、動物になってもいけないんです。「人間が人間になる」という考え方が人間の原則であって、その原則が古代のギリシャ・ローマ時代から世界の歴史の中には流れているんです。だからその流れに逆らう勢力というものが排除されていっている。

 だから一つの例が、共産主義の国家ができたけれども、その流れに対する反逆であったから滅亡したということが事実でありますし、イスラムの教えがその流れに反逆しているけれども、これも大した力を持ち得ないだろうというのが長期的な見方だというふうに見ていいと思います。

   私はもう七十近くなりましたので実はいろんなことで遊んでいますが、ここでは『正法眼蔵』しか興味がないんで、そのいまの話については私は何もいう気はないんですが。

 私自身も仕事をやっているときには中国とも関係がありましたし、もちろん何回もまだ日本人が一人も行かなかったときから中国の奥地へ行ったり、韓国の奥地へ行ったりして仕事をして、私の周りにいっぱいいて、彼らというのがいかに扱いにくい民族であるかと。だからはっきりいって真底では、私もそうですけど、正直いってあんまり好きじゃないですね。

 だけど、この問題については、日本の立場からいうとそうなんだけど、非常に考えなきゃいけないのは、いったい日本が過去に何をしたのか。じゃ私が中国人だったら、朝鮮人だったらどうなんだと、この視点を欠くといけないと思うんですよね。

 実はうちの本社ビルが靖国神社の近くにあって、そこに十年ほどいて、それからアォーターフロントのほうに行きましたけど。正直いって私の育った環境からいっても中国や朝鮮は嫌いですし、ビジネスの上でも非常にね。私個人は何も嫌な思いはしていないし、私はもちろん右翼でも左翼でも何でもなくて、まさしくノンポリですから。

 すぐ近くに靖国神社があったけれども、私はなんかやっぱりあそこに行って頭を下げる気にはならなかったですね。というのは、日本人は、われわれ自身が、いかに愚かな戦争で苦労させられたか、ひどい目に遭ったか、いかに僕らの世代があれで殺されたか。

 だから司馬遼太郎がいいことをいっていますよ、「日本は米軍に占領されたのではない。日本は日本の陸軍に占領されたんだ。それを解放してもらったんだ」と。まあ司馬史観が正しいのかどうかわかりませんけど、はっきりいっていますよね。

 だからこの問題は非常に多面的な面があるから、失礼ながら必ずしも……。『眼蔵』についてはもうご老師の説は本当にすばらしいと思って聞かせていただいておりますが、この辺については、それほど単純に決めつけられないところがありますよ。

   私はね、たとえば日本の国が戦時中悪いことをしたかしないかについては、明らかに悪いことをしている! 私自身がその現場で動いていたんだから。だからそういう点で、日本の国を美化する必要はぜんぜんない。それと同時に、「自分の国のために戦死した人の霊を慰めてどこが悪いんだ」という議論もはっきりあるわけです。

 だから私は一番の間違いは、いわゆる戦犯と呼ばれる人々を合祀したということ。そういう主観的な判断で動くということが問題をこじらせるんですよ。

 だから歴史の記述についても、もっと正直に本当のことを書くべきだと思う。紛飾をして日本のプラスになるような形の書き方をして、それが正しい歴史だという考え方の国というものは成長しない、敗北する。

 だから日本が戦争に負けた一つの原因は、歴史的な事実というものを正しく受け取って問題を考えていなかったというところにあるわけです。だから日本の国が第二次世界大戦で悪いことをしていないなんていうことは絶対にない。とてつもなく悪いことをしている。だからそういうことがあったから日本は負けたんですよ。

 日支事変が始まって、その一年後に、私の中学の同級生で慶応に行っていた男が個人で中国旅行をした。そのときの日本軍の陵辱であるとか、略奪であるとかいうことのひどさを見て、帰って来て、「この戦争は負けるよ」といっていた。

 だからそういう事実があることははっきりしている。だから私はそういう歴史的な事実をよく知っているから、日本の国が正しいことをやったとは思っていない。しかし、日本の国のために亡くなった霊魂に対して首相が参拝をするというのは国内問題で、外交問題ではない。だから外交関係でどうこういわれる筋合いはない。

 ところが海外にとっては日本の一番痛いところだから、その痛いところを突いて少しでも経済的な利得を上げようという努力をしているだけのことですよ。だからそれに対して正論で突っ張るというふうなことはけっして間違いではない。それはもう日本の兵隊が悪いことをしたかしていないかという事実問題と別の問題、だと私は見ています。

 だからむしろ大事なことは、歴史というものの内容をもっと本当に正確に、正直に書くべきだ。そのために国際会議ができて一所懸命検討するといえば、非常に結構なことだと。

 歴史を歪曲した国というのは栄えないです。本当のいいも悪いも全部さらけ出すような国でないと正しい歴史観は持てないし、正しい歴史観を持っていなければ、対外折衝の場合にも判断を間違って国に滅ぼすというような事態は幾らもあるんです。

 だから私はあくまでも真実を追求すべきだと、歴史の問題についても、恥になろうと恥になるまいと、本当のものは何かということをもっと真剣に究明すべきだと、そのほうが大事だという見方です。

   わかりました。まさしくそういうことで、単純じゃなくて、確かに中国なんかいっていることは単純に戦前の日本がけしからんということじゃなくて、明らかにいろんな思惑がからんでいますよね。それは、われわれみたいな小さな企業にいて、一経済人として長いことやってきているので、非常にいろんな意味で感じますしね。

 だから、彼らは日本が悪いことをした、戦犯を合祀して、そこに総理大臣が行ってけしからんといっているけど、そんな単純なものだけではないというのはわかりますよね。

 すみません、ちょっとお聞きしたかったのは、三三ページの最初の「悟の瞖なるには」の「瞖」ですが、これを先ほど、自己の悟りが果たして本物なのだろうか、あるいはどこかに間違いがないだろうかというような反省、あるいは自省といいますか、そういうふうにご説明なさいましたね。非常にユニークな解釈だと思いますが、まことに失礼なことをお聞きしますが、この「瞖」というのはご老師の独自のご見解なんですか、それとも『眼蔵』を読む方の共通の解釈なんですか。

   私の独断です。私はこの『正法眼蔵』を全部私の独断で読んでいる。自分の頭で納得しないものは認めていない。だから、昔の先生方がこういっているから、この教えを採用してというような勉強の仕方をしていない。

 私はこの本を何百回となく読んだ。そうして現代人の欧米の思想も勉強した男がこの文章をどう理解するかという形で読んだ。

   わかりました。すみませんでした。

 

 それでは、時間がきたようですから、普回向を唱えて終わりにしたいと思います。

普回向 唱和