開経偈 唱和
きょうは「空華」の巻の張拙秀才という人の詩に関する議論を説明するわけでありますが、その前に、欲望というものについての仏教の考え方というものを簡単にお話しておきますと、どういうわけか仏教という教えは欲望を否定する教えだという理解が意外に強いわけであります。しかし、これは本来の仏教の思想ではない。なぜ日本でそういう思想が盛んになったかといいますと、一つは明治維新以降の特徴だということがあります。
それはどういうことかというと、明治維新が終わりまして、欧米の文化と日本の文化を比較すると非常に差があるということに日本国民が気がついた。そこで何とか勉強して欧米の文化に追いつかなければならないという事情を感じて、明治維新以降、非常に優秀な学生が欧米の国々に行って、欧米の学問を勉強してきて、明治十年頃から日本にも大学ができまして、その大学では欧米の文化を教えたと、こういう事情があります。
仏教の研究についても同じように、欧米では仏教がどんなふうに勉強されているかというふうなことを勉強して帰って来て、優秀な学生たちがその欧米における仏教の勉強の仕方というものを大学で講義した。
そこで欧米の仏教の勉強の仕方というものはどういうものかということを考えてみますと、欧米にはキリスト教その他、精神を中心にした宗教がありまして、宗教というものは本来精神的なものだと、肉体というものを否定して精神の世界を強調するのが宗教の立場という考え方がありましたから、仏教も同じような立場で説明が行なわれた。
そこでどういうことが起きたかといいますと、仏教のいろいろな宗教の中でも、浄土宗という系統の教えがありまして、浄土宗という系統の教えでは、われわれの死後、西方の浄土に生まれるというふうな考え方があったわけでありますが、それがちょうどキリスト教の、死後に天国に行くというふうな考え方と同じような形で理解されまして、明治維新以降、日本の仏教学の研究のかなりの中心的な流れというものは、その浄土系統の思想を中心にして行なわれたという事情があります。
そこで浄土系統の思想では、欲望というものを否定的な見方で見ると同時に、解決の難しいものだという考え方をしていた。浄土系統の思想では、「煩悩具足の凡夫」というふうな表現がありまして、欲望がたくさんしがみついているような普通の人間、それが普通の人間だという理解の仕方をしていたわけであります。
ですからそういう浄土系統の仏教思想の理解の仕方とキリスト教のような精神主義の思想の中で、人間というものは本来罪深いものであると。なぜ罪深いものと考えるかといいますと、欧米の宗教の中心である聖書の中では、アダムとイブという男子と女子とが間違いを犯したために天国から追放されて地上の人間になったというふうな考え方があるところから、欲望というものは本来罪深いものだ、それの救済のためには神の助けを得なければならなという信仰が非常に強く何百年も、何千年も支配していたという事情がありまして、その考え方が日本の仏教の中にも非常に大きな影響を与えたという事情があるわけであります。
ではそういう考え方が仏教の本来の欲望に対する考え方かといいますと、『正法眼蔵』で説く限りでは、そうではなくて、「煩悩即菩提」という言葉がありますが、「煩悩即菩提」という考え方は、欲望というものがそのまま真実だと。なぜ欲望が真実だという考え方をするかといいますと、欲望が存在するということと人間が生存しているということとは同じ事実。つまり欲望がなくなったときには人間の生存が途絶えたときという事実がありますから、欲望の存在と生命の存在とは同じものだと、こういう主張になるわけでありまして、そうすると欲望の存在そのものを否定するわけにいかない、むしろそれがわれわれの生活の基礎だというふうな考え方が仏教の中心思想にはあるわけであります。
ですから仏教という思想は、本来はそういう現実を認めて、欲望を正面から見詰めて問題を考えるという傾向があったわけでありますが、明治維新以降、そういう考え方は本当の宗教思想ではないと、本当の宗教思想よりも水準の低い、劣った宗教だというふうな考え方で、明治維新以降、そういう現実を肯定する宗教というものは排除されたという事情があります。
ですからそういう点では、天台宗にしても、真言宗にしても、あるいは曹洞宗にしても、日蓮宗にしても、現実的な民間宗教という形で取り扱われまして、本来の宗教思想ではないという形で、その理解の仕方が今日まで続いているというのが実情であります。
だからこの『正法眼蔵』の「空華」の巻では、そういう考え方に対して、それとは違う考え方で仏教における欲望というものが理解されていると、こういう事情があるわけであります。
そこで本文のほうを読んでまいりますと、三八ページのところで、「張拙秀才は石霜の俗弟子なり」、「張拙」というのは人の名前でありますが、「秀才」というのは、中国にも官吏登用の試験がありまして、その官吏登用試験に受かった人のことを「秀才」と呼んでいるわけであります。張拙という人もその官吏登用試験に受かって「秀才」と呼ばれていた人でありますが、本人は僧侶にはなっていないけれども、石霜慶諸禅師という人の弟子であった。
「悟道の頌をつくるにいはく、光明寂照遍河沙」、その張拙秀才という人が仏道の真実がわかったときに、詩をつくって次のように述べた。「光明寂照遍河沙」、「光明」というのは輝きであります。その輝きが静かに照らしている。ここではその情景というものを表して、それが河の周囲にある砂までもあまねく照らしていると、そういう意味で、まず詩の第一行目として、「光明寂照遍河沙」という言葉を述べたわけであります。
道元禅師がこの詩の一行目に解説をされまして、「この光明あらたに僧堂・仏殿・廚庫・山門を現成せり」、この光を月に譬えるならば、月が照っていて、修行僧の住む建物も、あるいは仏像を祀る建物も、あるいは僧侶の食事をする庫裡と呼ばれる建物も、寺の入口にある山門も眼の前に見えている。
「遍河沙は、光明現成なり、現成光明なり」、「遍」という字はあまねしという意味でありますが、河の流域にある砂をあまねく照らしていると、そういう表現を取り上げて、「遍河沙は、光明現成なり」、河の流域に砂があって、それに月の光が煌々と輝いている。「現成光明なり」、その姿というものはこの世の中が輝かしさに満ちあふれているという情景を示していると、こういう詩をまず第一行目に張拙秀才という人が述べておられるわけであります。
そうして二行目に、三九ページのところになりますが、「凡聖含霊共我家」、その情景というものは、平凡なものと、それから非常に精神的なものと、あるいは霊魂を含んだようなものが満ちあふれていて、それがわれわれが住んでいる世界である。
それに対して道元禅師が解説をされまして、「凡夫賢聖なきにあらず」、その点では、われわれの住んでいる世界に仏道を勉強していないごく普通の人もいる、また非常に賢い人もいれば、また精神的な世界に生きている人もいる。
「これによりて凡夫賢聖を謗することなかれ」、だからそういう点では、この世の中のありのままの姿を見るならば、仏教に無関心な平凡な人もいるし、賢い人もいれば、宗教的に優れた人もいる。そういう形でさまざまの人がいるけれども、そういう人々の存在を否定してはならない。
そのことは、この世の中というものが光明に照らされて静かに眼の前にある。だから「凡夫賢聖」というふうな表現をして、あの人は偉いとか、あの人は偉くないとかいう批評をすべきではないと、こういう趣旨であります。
そこで四〇ページのところへいきまして、「一念不生全体現」、「一念」というのは現在の瞬間という意味があります。「一念生ゼザレバ全体現ズ」、ですから現在の瞬間ごとに宇宙の全体が眼の前に現れている。「一念」というのは人間の心の働きという意味がありますから、人間がいろいろなことを頭で考えるとか、あるいは感覚的にとらえるというふうな状態がなければ、われわれの落ち着いた状況の中で宇宙全体が現れている。それが「一念生ゼザレバ全体現ズ」、何か小さなことに自分が気持ちを取られるということがなければこの世の中の全体が現れてくると、こういう意味でもあります。
ですからわれわれが坐禅をしているときに、ごく一部のことに気を取られるのではなしに、宇宙全体と同じような状況で坐っているというふうな実情もあって、そういう情景も含めて「一念生ゼザレバ全体現ズ」という言葉を張拙秀才が述べた。
「念念一一なり」、そうしてみると、われわれの人生というものは、心の働きがあって、その心の働きが瞬間瞬間に存在しているということが実情である。
「これはかならず不生なり」、そのような情景というものは特に生まれてくるものではなしに、現在の瞬間における事実である。「不生」というのは生まれないという意味でありますが、生まれないということは、現にこの世の中が現在の瞬間において存在している、なかったものが生まれてくるわけではないと、こういう意味であります。
「これ全体全現なり」、その点では、現在の瞬間においてわれわれの生きている世界が全部眼の前に現れているということである。
「このゆゑに一念不生と道取す」、そこで張拙秀才は、現在の瞬間における心の働きさえ生まれてこないと、そういう形で瞬間瞬間に現実の中に生きているというふうな情景を描写された。
そうしてその次にいきますと、同じ四〇ページのところで、
「六根纔動 被雲遮」、「六根」というのは六種類の感覚器官であります。ですから眼・耳・鼻・舌・皮膚・感覚の中枢というふうな六種類の感覚器官が「六根」でありますが、「纔カニ動ズレバ雲ニ遮ギラ被」、感情的な動揺があると、心の働きというものに雲がかかったような形で、はっきりしなくなる。だから感覚的にとらえるということが必ずしも人間の本来のあり方ではないという主張が含まれているわけであります。
「六根はたとひ眼耳鼻舌身意なりとも、かならずしも二三にあらず」、そこで、仏教哲学では六種類の感覚器官というものは眼と耳と鼻と舌と皮膚と、それからそれをまとめている感覚の中枢という六つのものが主張されているけれども、それは必ずしも二三が六という六種類に限られたわけではない。
「前後三三なるべし」、その点では、具体的な感覚の働きが前にも後ろにも具体的に二つ三つというふうに現れているということが実情であろう。
「動は如須弥山なり、如大地なり、如六根なり、如纔動なり」、そこでこの世の中の動きというものを考えてみても、あるいは感覚的に刺激を受けて興奮するというふうな状況を考えてみても、それは世界の中心にある須弥山と呼ばれる山と似たような動かないというふうな状況だというとらえ方もできる。「如大地なり」、われわれの住んでいる地球のように、われわれの生活を支えて動かないように見えるものでもある。それかまた「如六根なり」、眼が働き、耳が働き、鼻が働き、舌が働き、皮膚が働き、感覚の中枢が働くというふうな六種類の感覚器官の動きでもあるし、「如纔動なり」、それは何かがわずかに動いているというふうな現実であるともいえる。
「動すでに如須弥山なるがゆゑに、不動また如須弥山なり」、そこで動いている状況が須弥山のようにジーッと動いていないというふうな情景がわれわれの生きている世界だというふうなとらえ方もできるから、その点では、この世の中がジーッと動かないというふうなとらえ方をしてみても、それがやはり須弥山のあり方と似たような様子を示している。
ここで「動」とか「不動」とかいうことが説かれておりますが、現にわれわれの坐っているこの部屋が動いているかどうかということを考えてみると、物理学の教えるところでは明らかに動いているわけでありますが、坐っているわれわれは動いているとは感じない。だからわれわれの住んでいる世界にはそういうふうな二通りのものの見方があって、その両方が間違いではないというふうな事情があるところから、「動すでに如須弥山なるがゆゑに、不動また如須弥山なり」、動いているということと須弥山のあり方と似ているというふうな理解の仕方があるけれども、それと同時に、ジーッと動いていないということもまた須弥山と同じようなわれわれの住んでいるこの宇宙、あるいは自然と同じような性格を持っている。
「たとへば雲をなし水をなすなり」、そこでわれわれの住んでいる世界には、水分が大空に上がって雲ができたかと思うと、それがまた雨となって降ってくるというふうな変化の世界でもある。
そうして四二ページのところにいきますと、「断除煩悩重増病」、ここが道元禅師が張拙秀才という人の詩を使って欲望というものがどういうものかということを非常に明快にお説きになっている個所であります。「煩悩」というのは欲望でありますが、「断除」の「断」という字は断ち切るという意味であります。「除」という字は取り除くという意味であります。そこで「煩悩ヲ断除セバ」というのは、欲望というものは悪いものだ、断ち切らなければならない、取り除かなければならないというふうに取り扱うと、「重テ病ヲ増ス」、さらに弊害が増える。だから欲望の弊害がどこから出て来るかというと、断ち切ろう、取り除こうとするからだ。そのことは、欲望に対する偏見があって、欲望を断ち切ろう、抑えようとすれば、欲望に対する取り扱いが間違うと、こういう意味であります。
そこで、この「煩悩ヲ断除セバ重テ病ヲ増ス」ということが何を意味するかというと、私はこの情景をゴムのボールが水に浮かんだ情景を例に取って説明するわけであります。水の上にゴムのボールが浮かんでいるとする。それを見た人が、ゴムのボールが水の上に出ているのはけしからんと、そこで無理にゴムのボールを水の中に抑え込んでおきますと、五分や十分は持つかもしれない。二時間三時間とそんなばかなことはしていられない。だからパッと手を離すと、空気の入っているボールが水の上に飛び上がる。欲望が出てくるというのはそういう現象だと。
だから欲望というものは水の上に浮かんだゴムのボールのように何もせずに放っておけば一億年経っても変化はないはずだと。もちろんゴムが古くなってボールそのものが破けて水に沈んでしまうということはあるけれども、抑えつけていて、手を放したときに飛び上がるというふうな現象はないはずだ。
そういう情景をここでは「煩悩ヲ断除セバ重テ病ヲ増ス」、欲望というものは好ましくないものだから、断ち切ろう、抑えよう、取り除こうとすると、弊害がさらに増える。「病」という字は弊害の意味であります。
そうしてこの言葉に対して道元禅師が解説をされて、「従来やまふなきにあらず」、その点では、釈尊の教えの中にも間違った考え方の弊害というものがないわけではない。「仏病祖病あり」、どういう弊害があるかというと、仏という弊害があり、祖師という弊害がある。この仏という弊害、祖師という弊害が何を意味するかというと、人間をあまりにも理想的に考えて、釈尊のような人格、あるいは祖師方のような人格というふうなものを、地上の出来事とは別に、非常に高い地位に祭り上げてしまうと、その誤解のためにさまざまの弊害が出て来る。それが「仏病祖病あり」という言葉の意味であります。
ですから仏教哲学を勉強された方の中でも、「仏病祖病あり」というふうな思想を持っておられる方の例が非常に少ない。道元禅師は釈尊の教えを最後のところまで追求されましたから、仏というものを理想的に考えて、完全なものだと考えるならば、そこで弊害が出て来る。代々の祖師方も完全無欠の人格だというふうな理想的なとらえ方をすれば、現実と違うから、それなりの弊害が生まれてくる。
そこで、「いまの智断は、やまふをかさね、やまふをます」、「智断」の「智」という字は頭の働きという意味であります。そこで、頭を働かせて、欲望というものはけしからんものだ、断ち切ろう、断ち切ろうというふうに努力をすれば、弊害がさらに増えてくる。それが「いまの智断は、やまふをかさね、やまふをます」、このことは何を意味するかというと、人間がサル智慧で欲望というものを考えて、悪いもんだ、けしからんもんだ、すり潰さなければならないというふうな考え方をすること自体が間違いだと、こういう主張であります。
ここで、欲望というものは本来の生命現象と同じだから、それを断ち切ろう、取り除こうとしないで、そのまま放っておけば、何億年経っても弊害になることはない。人間がサル智慧を起こして、断ち切ろう、取り除こうとするから、欲望というものが飛び上がると、こういう理解の仕方であります。
私も若いなりに欲望の問題を抱えていた時代がありますから、そのときにこの『正法眼蔵』の言葉を読んで、欲望というものをどう扱ったらいいのかということがかなりはっきりしたという事情があります。
「断除の正当恁麼時、かならずそれ煩悩なり、同時なり、不同時なり」、そこで、欲望というものはけしからんものだから断ち切ろう、取り除こうとする、まさにその瞬間において、「かならずそれ煩悩なり」、だから断ち切ろう、取り除こうとする、その瞬間に欲望はある。だから断ち切ろう、取り除こうとしなければ、欲望そのものが姿を現さないと、こういう意味であります。
そこで、断ち切ろう、取り除こうという心の働きと欲望があるということとはまったく同時に生まれるものであって、そのことを「かならずそれ煩悩なり」、したがって、欲望の存在と、断ち切ろう、取り除こうとする心の働きとはまったく同時に生まれるものである。そうして、「不同時なり」、同時だといえないほど、まったく同じ瞬間における一つ出来事だ。
「煩悩かならず断除の法を帯せるなり」、欲望というものは人間が断ち切ろう、取り除こうという原則を持っているところから生まれてくるものであると、こういう解説をしておられます。
このことは人間の欲望の実体というものを知る上においてかなり大切なところでありますが、明治維新以降、精神主義的な欲望観というものが欧米の精神的な宗教の影響によって日本にも導入されてきたところから、欲望というものを罪悪視して、それを断ち切ろう、取り除こうという習慣が生まれて今日まできているということが実情であります。
そういうことが人間の社会生活でどういうところに現れてくるかといいますと、日本の社会では明治維新以前には男女は混浴だった。だから明治維新以降も日本の温泉地では男女混浴で入浴が行なわれていたけれども、じゃ間違いが起きたかというと、そういう場面で間違いの起きたという例は聞かない。
だから欲望というものを肯定的にそのままありのままに認めて、ごく普通の生活をするならば、そう大きな弊害のあるものではない。だけれども、明治維新以降、欧米の人々が日本に入って来て、男女の混浴について非常にショックを受けた。そこで日本の国民も「いや、よほどおかしいことなのかな」というふうな考え方をして、それを取りやめてしまった。
第二次世界大戦後も、日本の温泉地では男女の混浴というものはあったわけでありますが、向こうから来た人々がとてつもなく喜んで、とてつもなく珍しいことのように取り扱ったので、日本国民が「いや、これはちょっとおかしいのかな」ということで取りやめるというふうな事情があったということもあるわけであります。
ですからそういう意味で、欲望というものの本質的なものをしっかりとつかむならば、欲望というものは弊害をもたらすというふうな次元ではなしに、そういうものの存在をありのままに認めて、特別の問題を起こさないというふうな水準の考え方があって、釈尊の教えはそういう考え方をつかんでおられたという意味があるわけであります。
そこで四三ページのところにいきますと、
「趣向 真如亦是邪」、「真如」というのは本当の現実でありますが、その本当の現実、真実というものを目標にして、それに行こうと努力すると、というのが「真如ニ趣向スルモ」という言葉でありまして、「亦是邪」、間違いである。
だから真実というものがあるから、それに向かって努力しようという態度そのものが間違いである。ではどうしたらいいのかというと、われわれの体の状態、心の状態が本当の状態になるならば、そこには真実があるだけであって、間違ったものは何もあり得ない。
われわれが坐禅をするということの習慣がどうして生まれてくるかというならば、われわれが姿勢を正して坐っているときに、われわれの体の状態、心の状態が真実そのものと一つに重なる。だから真実というものがわれわれと別のところにあって、それに向かって一所懸命努力して近づこうという努力よりも、姿勢を正して坐っていることの中に真実があって、そういうものがあるということに気づかずに、真実を求めてそれに向かって努力するということは間違いである。それが「真如ニ趣向スルモ亦是邪」。
「真如を背するこれ邪なり、真如に向するこれ邪なり、真如は向背なり、向背の各各にこれ真如なり」、そこで、「真如を背するこれ邪なり」、それでは本当のものに向かって努力してはいけないのかという考え方から、本当のものに背を向けるということも間違いである。
「真如に向するこれ邪なり」、そうかといって、本当のものに向かって努力することも間違いである。
「真如は向背なり」、真実というものは向かう働きと背を向ける働きと両方がなければおかしい。これが自律神経のバランスということに知識がないならば、恐らくわからないだろうと思う。ただ、向かうという姿勢と背くという姿勢が自律神経の二つの要素、交感神経と副交感神経の働きだということに気がついた場合に、「真如は向背なり」、真実というものは自律神経のバランスだ。
「向背の各各にこれ真如なり」、そこで、副交感神経の働きと交感神経の働きとが両方とも均衡しているときが真実そのものである。
「たれかしらん、この邪の亦是真如なることを」、そうしてみると、この世の中には間違ったことが幾らもあるけれども、その間違ったことの中にも真実が含まれている。「いやあ、そんなおかしい話はない」という意見も出るかもしれないけれども、私は正直いうと、今日イラクにおいてアメリカの兵力がテロリズムの勢力を駆逐しようとして努力しているのは真実だという見方をしております。
ですから私は戦争を常に罪悪視するというふうな考え方が本当に正しいかどうかということについてはたいへん疑問を持っている。何千年、何万年の人類の歴史の中で、戦争がなければ今日の文化は築けない。間違ったものと間違っていないものとが争って、正しいものが勝ってきたから今日の人類の文明があるのであって、その点では、争いがなかったならば今日の文明は形成できない。フセイン政権が独裁政治をやっていたときのイラクと、フセイン政権が倒れた以後のイラクと、どっちが好ましい方向に進んでいるかということを考えれば、たとえフセイン政権の政治によって人民が全部抑圧されていた時代に比べるならば、今日わずかにテロリズムが反抗しているという程度のほうが歴史の流れの中ではよい方向に進んでいるというふうに私はいえると思う。
だからそういう点では、「たれかしらん、この邪の亦是真如なることを」、地球上の中におけるいろいろな間違いが真実そのものを現しているというふうなこともありうると、こういう理解の仕方になるわけであります。
そこで四三ページのところで、
「随順世縁無罜礙」、「世縁」というのは人間の世界、俗世間でありますが、俗世間の環境に従っていて、特別の弊害というものはない。
そういう点では、仏教の世界、宗教の世界だけが正しい世界だというふうな考え方から、俗世間のさまざまの動きを嫌う、批判するという考え方もあるけれども、張拙秀才という人は仏教哲学の最終のものをつかんだ観点から眺めて、世間の常識に従って生きていてちっとも問題はないと、そういう意味で「世縁ニ随順シテ罜礙無シ」。
そこで道元禅師が解説をされて、「世縁と世縁と随順し、随順と随順と世縁なり、これを無罜礙といふ」、世間の環境と世間の環境とがお互いに共通の立場で調和している。「随順と随順と世縁なり」、あちらでも協調があり、こちらでも協調があり、それが世間の様子だということもいえる。そのような調和した状態を、「これを無罜礙といふ」、邪魔になるものが何もないという表現をしている。
「罜礙不罜礙は、被眼礙に慣習すべきなり」、そこで、邪魔があるとか邪魔がないとかいうふうな状況は、われわれが現実に眺めた、その情景というものに慣れるというふうな態度の中に見出すべきである。それが「罜礙不罜礙は、眼ニ礙エ被ルに慣習すべきなり」、そのことは、われわれが眼で見たものが意外に正しい判断に役立つと、こういう意味でもあるわけであります。
だから、「おかしいなあ」と感ずるようなことについては、間違った要素が含まれていると、こういう見方でもあるわけであります。だから単に理論だけで問題を考えて、正しいとか正しくないとかいう議論ももちろんあるけれども、現実を眺めてみて、「変だなあ」「おかしいなあ」という感じを持つことも、また何が正しくて何が間違っているかの基準を知ることに役立つ。
そこで四四ページのところで、「涅槃生死是空華」、「涅槃」というのは自律神経がバランスして静かな状況になったことをいうわけでありますが、また、われわれの生命が終わりになることも「涅槃」というわけであります。「生死」というのは生き死にでありますが、生き死にの問題がなくなったとか、あるいは生き死にの生活の中で生きているとかいうふうなことも、空間に浮かんだ花のように、思想であり、感覚である。そういう意味で「涅槃生死是レ空華」。
そこで道元禅師が、「涅槃といふは、阿耨多羅三藐三菩提なり、仏祖および仏祖の弟子の所在これなり」、「涅槃」というのは、ニルヴァーナというサンスクリットの言葉を漢字に当てはめた言葉でありますが、そのニルヴァーナという言葉は、「阿耨多羅三藐三菩提なり」、最高の均衡のとれた真実である。「仏祖および仏祖の弟子の所住これなり」、真実を得た人々、あるいは真実を得た人々の弟子の住んでいる場所である。
「生死は真実人体なり」、われわれの生き死にと呼ばれる人生も、本当の人間の実体である。
「この涅槃生死は、この法なりといへどもこれ空華なり」、そこで、静かな均衡のとれた状態とか、生き死に伴ったわれわれの日常生活というものは、「この法なりといへどもこれ空華なり」、確かに現実の世界の実情ではあるけれども、それもまた空間に浮かんだ花のように必ずしも頼りになるような固定的なものではない。
「空華の根茎・枝葉・華果・光色、ともに空華の華開なり」、その点では、空間に浮かんだ花のようにとらえられる「涅槃生死
」というものも、その根や茎、枝や葉、花や果実、あるいは光や色というふうなさまざまの姿形というものも、「ともに空華の華開なり」、必ずしも根拠のあるものではなしに、その場その場で生まれてきた現象である。
「空華かならず空果をむすぶ、空種をくだすなり」、そこで、そういうふうな空間に生まれた花のような思想とか感覚的な刺激というものも、それなりの結果をつくり出すし、また、その結果がさらにその次の結果を生む原因をつくる。
「いま見聞する三界は、空華の五葉開なるゆゑに、不如三界見 於三界なり」、そこで、われわれが思想とか、あるいは感覚を通じてこの空間におけるさまざまの現象というものを眺めていると、この三種類の世界と呼ばれるわれわれの住んでいる現実の世界というものが、空間に浮かんだ花のようなもので、それは五枚の花びらが開いたというふうな現実の姿ではあるけれども、そのようなところから『妙法蓮華経』の中では、「三界ノ三界ヲ見ズルニ如カズ」という言葉が述べられている。つまり、欲界・色界・無色界と呼ばれる現実の世界というものは、現実の世界そのものを眺めることによって一番よくわかると、こういう意味であります。
だから人間のやることというものについて、どういう事実が起きたかというふうなことを眺めることによって、われわれの住んでいる世界の実情がわかる。イラクでは依然としてテロリズムを攻撃するという軍隊と、自殺テロを使って殺人を繰り返す勢力とが争っているわけでありますが、そのような情景というものがまさに人間社会がどんなものかということを示している。だからそういう事実の中に人間社会の現実があると、こういう主張であります。
そのような現実の姿というものが真実の姿である。そのことを「この諸法実相なり」、われわれの生きているこの現実の世界というものが真実の姿を示している。だから真実の姿というものが活字でつくられた本の中にあるわけではない。
あるいはわれわれが眼で見た限りでの色や光の刺激だけではない。そういう点で「この諸法華相なり」。「乃至不測の諸法ともに空華空果なり」、そこで、われわれの住んでいるこの現実の世界というものは現象でもある。「諸法」というのはわれわれの住んでいるこの現実の世界でありますが、「華相」というのは、現象である、われわれに見える姿である。「乃至不測の諸法ともに空華空果なり」、またわれわれが想像もできないようなさまざまの現実というものがあるけれども、そのようなさまざまの現実も、空間に浮かんだ花のような性格のものであるし、それに伴う結果でもある。
「梅柳桃李とひとしきなりと参学すべし」、その点では、梅の木には梅の花が咲く、柳の木には柳の花が咲く、桃の木には桃の花が咲く、すももの木にはすももの花が咲くというふうな現実の姿を眺めて、現実というものがどういうものかを勉強すべきであると、こういう主張をしておられるわけであります。
こういう形で道元禅師が張拙秀才の詩を引用されながら、欲望に対してどう対処すべきかというふうなことを考えておられるわけであります。
道元禅師の思想というのは、欲望というのはそう罪悪視すべきものではない、始末に困るようなたいへんなものでもない、放っておけば何でもないと、こういう趣旨を説いておられるわけであります。放っておけば何でもないということなんだけれども、放っておくほうがなかなか難しいという皮肉な事情がある。だからいろいろ問題をつくり出して、まあ問題を楽しむというふうな状況も出て来るというふうなことでもあろうかと思うわけであります。
まだこの「空華」の巻が続くわけでありますが、いまやりましたところが張拙秀才という人の詩の解説でありまして、この後はまた別の項目に入っていきますので、きょうはいつもより少し時間が早いわけでありますが、話のほうをここでとめまして、またご質問を受けるということにしたいと思います。何かありましたらどうぞ。
問 道元禅師は名利というのをすごく否定していますよね。名利というのは、これは結局、金銭欲とか、物質欲、名誉欲というようなものですよね。
答 うん。ただ、同一視できるかどうかということになるとね。それはどういうことかというと、名利と欲望とどっちが仏道修行に邪魔になるかというと、名利のほうがはるかに仏道修行の邪魔になるんですよ。
それはどういうことかというと、人間社会では名誉を得たい、金を得たいという二つの欲望を中心にして人間社会が動いているわけですから。そこで、そういう目標を頭に置きながら仏道修行をすると、名誉は得られるかもしれない、金が得られるかもしれないけれども、仏道の真実というものはどうでもよくなっちゃう。
だから名誉や利得というものを頭に置きながら仏道修行をすると、名誉を得たとか、金を得たとかいう結果は出てみても、釈尊の教えが何であるかはぜんぜんわからない。だから道元禅師は名利の心を持つべきでないという主張をされたのであって、これはかなり大切なことなんです。
問 ここでいう「煩悩」というのはそういうのも含まれるんですか。
答 だからそこで、もっと原始的な欲望のほうが罪がないということ。ご飯が食べたい、夜寝たいというようなことは、けっして罪なことでも何でもない。それよりは、名誉が得たい、金が欲しいということで大切な時間を費やすほうが本当の真実を求める面では邪魔になるという点で、道元禅師は名利の心を持ってはいけないということを非常に強くいわれているわけです。
だから名利の心を持つことに比べるならば、つまらん欲望に煩わされるなんていうことは罪のない話だという見方もできるわけです。
問 『学道用心集』なんかでかなり強く名利というのを否定的にいっているんですけど、その名利というのは、人間が持っている煩悩、基本的な欲望とはまた……。
答 違って、人間社会の価値観として、名誉を欲しがる、金銭的なものを欲しがるという価値観があるんですよ。人間社会はその二つの価値観を中心にして渦巻いているわけだけれども、そういうふうな形での名誉欲や金銭欲というものが真実を勉強する上においては非常に邪魔になる。
問 それで、それを目的とするのはよくないかもしれないんですけど、結果として名誉とか、評判を受けたりとか……。
答 そう、そのとおり。だから名誉も利得も手段でしかない、本当の目的にはならない。だから名誉を得ること、金を得ることはけっして悪いことではないけれども、それを目標にしたならば、本当のことは見えなくなると、そういう思想です。
問 もし名誉とか、利益とか、そういうものが入って来たときも、そこに執着しないで、まあ放っておくというか、そんな感じでいればいいということですか。
答 そういうことです。だからそういう点では、大金儲けてけっして悪いことではないけれども、大金儲けたことにこだわるというふうなことで、とらわれれば、その人の人生が目的からそれてしまう。
問 わかりました。
問 『正法眼蔵随聞記』の中にあったと思いますけども、女性の問題について、いわゆる俗に猥談というんですけど、そういう話はあんまりやめたほうがいいよというのがありますね。これなんかでもかなりおおらかなというか……。
答 そうですね。道元禅師は、そういう話をすることを悪いとはいわないけれども、そういう話をしていると、ついつい実行したくなるから、やめたほうがいいと、こういう説明なんです。だからそういう話をすること自体が悪だから絶対にやるべきでないという立場よりも、話すこと自体はそう罪はないんだけれども、それに引かれて実行行為に進むおそれがあるから、やめたほうがいいという説明をされたというふうに書いてあります。
問 ただ、道元禅師のような方が、あるいは鎌倉時代でも江戸時代でもいいですけど、そういう時代の方々がいまの世の中に出て来ると、えらい刺激が強いというか、広告、あるいはコマーシャル、結構刺激がいっぱいありますよね。だいぶ抵抗を感じると思うんでけど。
先生もこの道場におられるから、そういう消費文化の刺激からはやや遠いところにおられると思いますけど、どんなものでしょうか。
答 それはね、私はだいぶ長いこと週の半分ここに泊まって、週の半分は自宅にいたんですよ。で、家内が死んでからこっちにずうっと住むようになったけれども、実際に住んでみると、ここに住んでいるほうがはるかに楽だ。俗世間というのは、生活をしてやっぱり苦しい。
だからこの道場に住んで、はたから見ると、「さぞかし苦労しているだろう」という想像もあるかもしれないけど、ここに住むほうがはるかに楽です。余分なことに気を遣う必要もない、余分なことに時間を使う必要がない。
それと、健康の点でどうかなと思っていたけれども、健康の点でも、ここへ移ってからのほうがよくなったね。
だからやっぱり正直いうと恵まれた生活だとは思います。たいていの人はその「恵まれた生活」が嫌いなんだ。(笑)だから「まあちょっともう少し後で」という考え方になるけどね。
問 それから煩悩ですけどね、欲望でもいいんですが、たとえば道元禅師は「三毒」という言葉で貪・瞋・痴というものは避けろとおっしゃっていますね。これなんかも、人様を見て羨ましいなんていうのはまさに貪・瞋・痴と関係があると思うんですけど、こういう嫉妬心 というものもある程度人にとっては基本的に具わっているもので、悟り切った人はまあそうでもないでしょうけど、普通の人にはあるわけですね。これなんかの処理の仕方というのはどんなものですか。
答 これはね、貪・瞋・痴というのは、人間としては異常現象です。だから自律神経がバランスしていると貪・瞋・痴の生まれる可能性はない。欲張りとか、腹立ちとか、愚痴とかいうものは自律神経のアンバランスから出て来る異常現象ですよ。だからそれをなくすことが仏道の世界に入ることだというのが、貪・瞋・痴というものを三病として唱えて、それをなくすようにという教えが残っている実情だというふうに見ていいと思います。
それに比べると肉体的な欲望なんていうのは罪が低いということになるわけです。
問 それから四〇ページの一行目、「一念不生全体現」と。で、やはりいわれてみればそのとおりなんですが、いまの現代社会に生きておりながら、全体、まあ宇宙全体といってもいいんですが、こういうものをいつも感じながら生きている人というのはあんまりいないんじゃないかと思いますけど。
自分というのは、やっぱり何となくその他大勢の一人だし、社会の歯車のほんのちっぽけな一部分だし、ということですけれども、この張拙秀才という方は全体というものが現れているものをいつも実感しながら生きていたということになりますね。
答 うん。
問 この辺もなんかえらい達人の生き方というか……。
答 というよりもね、仏教徒の生活というのはこれなんですよ。だからわれわれは日本の国に住んでいるとか、東京都に住んでいるとか、千葉県に住んでいるとか、住んでいる世界に限定があるし、地球上に住んでいるというようなこともあるけれども、もっと本質的に考えれば、宇宙の中に住んでいるんです。だから「宇宙の中に住んでいる」という実感で問題を考えるということが仏道の世界です。
「そんなのんきなことを考えていたら飯が食っていけない」というかもしれないけど、またそうかもしれないけど、宇宙全体の中で生きているというふうな考え方で生きることが本当の人間の生き方だという主張が仏教なんです。
問 はい、わかりました。
問 先ほど、「煩悩具足の」何とおっしゃいましたか。
答 「煩悩具足の凡夫」です。
問 これはどういう意味なんでしょうか。
答 これはね、欲望のかたまりの人間という意味です。「具足」の「具」というのはつぶさという意味の字で、完全に具わっているということです。だからいろんな欲望が完全に具わった普通の人間ということで、人間を卑下するときに使う言葉で、まあ真宗あたりでよく使う表現なんです。だから、人間は本来だめなものだから、阿弥陀様の名前を唱えることによってしか救われないという考え方になるわけだけれども、仏教の本来の思想というのは、そうではなしに、現実を肯定していて、人間というものは非常に貴重なものだという主張が根底にあるわけです。
だから『正法眼蔵』の「法華転法華」という巻に法達という僧侶のつくった詩の最後に、「誰カ知ル火宅ノ内、元是レ法中ノ王ナルコトヲ」という言葉があるんです。これはどういうことかといいますと、本来人間は宇宙の中の帝王だと、ただ人々はなかなかそのことを知らないという表現がありますけれども、こういう思想が仏教思想の中心なんです。人間というものは宇宙の中心にいて、本来崇高なものだと、そのことに気がつくと人生の生き方が変わってくると、こういう主張なんです。
問 じゃ真宗なんかはやっぱり他力本願で、自分の責任として考えないで、お経を唱えて、それにすがるという感じですね。
答 はい。
問 それからもう一つ、先ほど、「貪・瞋・痴を三ビョウと唱える」とおっしゃいましたか。
答 三毒です。三毒は貪・瞋・痴です。だから貪というのは欲張り、瞋というのは腹立ち、痴というのは愚かさ。だからその三種のものが仏道修行の邪魔になるから取り除けという主張なんだけど、それは全部自律神経のバランスしていない状況と関係しているんですよ。欲張りというのも、腹立ちというのも、愚痴というのも。だから自律神経のバランスしていない状態を避けろというのが仏教の教えのかなり大事な要素として含まれているということになります。
問 どうもありがとうございました。
問 「煩悩具足の凡夫」という立場に浄土宗系が立ったという、その出発点といいますかね、どういうところでそういうふうに考えていったんでしょうか。
答 これはね、キリスト教の一派にネストリュース派という宗派があって、それがローマ協会から異端として退けられた。それが東のほうに移って行って、インドの西北方のガンダーラという地域でインドから流れて来た仏教と合流して真宗の思想ができたのではないかという説があります。
私もその本を研究したことはないから、そういう説があるというだけのことですけれども、私はこれは本当だろうと思う。つまり、キリスト教信仰の中の思想というものが仏教の中に流れ込んだ。そこで生まれたものが浄土信仰であり、それの一派が浄土真宗だという見方をしています。
ですからそのネストリュース派と仏教とが合流して独特の念仏宗のような思想が出来上がって、それがシルクロードを通って中国に入ったと、そういうふうに想像していいと思います。
問 神と精霊とは別々だというのがネストリュース派の考え方ですね。
答 ですからそういう点では、カソリック教の世界では異端として追い出されたわけです。
問 四三ページの「趣向 真如亦是邪」とありますが、道元禅師が「真如は向背なり」といっていますね。こういう考え方というのは、西洋の人たちの考え方ではなかなか受け入れてくれないと思うんですけれども。でも考えてみると、道元禅師という人は四十二、三でよくまあこういう発想が出て来たなあと思うんですけど、普通、こういうのはもう相当年配者になって、いろんなことを経験してからわかるんであって、お寺の中で勉強したり修行しているだけでここまでわかる人がいたんだなあと思って読んでいましたけど。
答 うん。だからやっぱり天才だったということはいえると思いますね。やっぱり天才的な能力がなければ道元禅師のような思想をつかむということは普通では難しいと思います。
その点では、釈尊自身がとてつもない天才だった。だから二千数百年前に本当のことをつかんでしまった。で、釈尊の教えがあったから、龍樹尊者も本当の教えがわかったんだし、道元禅師といえども釈尊の教えがあったから真実がわかったというだけのことであって、道元禅師がいかに優れていても、釈尊の存在なしにご自分で仏教思想を発見されたということは私は不可能だったと思う。
問 四二ページの「「断除煩悩重増病」ということですが、これに対して、宗門、要するに曹洞宗のほうでは現在どういうふうに取られているんでしょうか。
答 どういうふうに取っているか知らない。あまり問題になっていないんじゃないかな。
問 それからもう一つ、先生が翻訳されている『中論』の中ではこの煩悩というのはどういうふうな取り扱いになっているんでしょうか。
答 『中論』ではやっぱり二つの両極端を離れるというところに主張がありますから、同じような思想は『中論』の中に含まれていると見ていいです。
問 人間が持っている性欲、食欲、睡眠欲というのが三大欲望だと思うんですけれども、これを、その欲望のままにするのはよくないんですけど、無理やりに抑制する必要もないということなんですか。
答 必要もないということです。というのは、そういうものを抑制したら、人類は滅亡していますよ。人類が今日でもピンピン生きているのはなぜかといえば、そういう欲望があって、その欲望に従って人間社会が継続したから。
だから家族生活を罪悪視するという必要はない。ただ人によっては家族生活を離れて真実を勉強するという人があってもおかしくはない。だから職業の分担だというふうに見ていいと思います。
問 ただ、その欲望、煩悩をどう処理するか、自分と向き合ってやるかというのは、結局自分自身が坐禅とかやって自律神経を正常な状態に保たないと、こういう考え方が持てないということなんですよね。
答 そうですね。
問 それでないと欲望がどんどん走って行ってしまう。
答 そうそう。だから抑えつけるとはね上がるけど、放っておけば弊害のないものだという考え方です。
問 だからこっちに行っても、またちょっと戻ればいいというようなことなんですか。
答 うん。だからそういう点では、中間でウロウロしていればいいということ。
問 わかりました。
問 人間の煩悩をうまくビジネスにしようというのが、昔は一つは典型的な赤線というのがあったわけなんですけど、いま私は毎日パソコンでメールをやっていますと、実に今風の煩悩をうまく利用したビジネスが出ているんですね。結局どういうことかというと、「私は三十六歳です。人妻で、時間があります。どうですか」と。で、サイトがありまして、そこをクリックすると、たぶんいかがわしい画面が出て来て、で、自動的にまた請求書が来ると。たぶん振り込め詐欺みたいなね、そういうところにつながっているんじゃないかという印象を私は受たんですよ。それはほとんど毎日流れて来るんですね。それが一つ。
もう一つは精力増強剤でバイアグラという薬があるんですが、それに類似したやつが、これは日本語じゃなくて、英文で入って来るんですね。恐らく海外から来るんじゃないかと思うんですけども。
ですから最近は、そういった人間の煩悩をうまく取り込んでビジネスにしようという動きがインターネットの中でもう毎日のようにありますね。だからたぶん私も坐禅でもやっていなければ「ふん、ふん、ふん」といって振り込め詐欺みたいなところにつかまるような気がするような、最近そういう印象を持ちました。
答 そう。だからそういう点では、やっぱり何らかの基準を持っていないと、生きること自体が危険だという状況はありますよね。
問 四四ページの後ろから二行目あたりのところで「諸法実相」とか、そういうことが書いてありますけど、先生のお話では、『法華経』とつながっているというふうなお話があったように思いますけど、前々から「空華」の巻で二重に否定することによって現実ということを説いているというふうな話があったように記憶していますが、ここの部分は『法華経』と「空華」の内容と道元禅師は関連させて考えているという部分というふうに取ってよろしいんですか。
答 ええ、そうですよ。だから明治維新以前は現実的な仏教が力を持っていた。明治維新以降は欧米の宗教観が入って来たから、現実主義の宗教は価値がないというふうに否定されて、むしろ浄土真宗や悟りを問題にする臨済宗が脚光を浴びたというのは事実です。
問 最後のほうに地から花が咲くとかという部分もありますよね。そういうようなところは『法華経』の部分と関係があるんですか。
答 そう。だからそういう点では、仏教思想というのは本来は現実主義の思想ですよ。欧米の宗教観が入って来たときに、現実主義が仏教から消えちゃったと。だからもう一度取り返さなきゃならんというのがわれわれのいまやっている仕事だというふうに見ていいです。
問 もっと飛躍して聞きますが、「空華」というのと『法華経』の「法華」というのは同じようだというふうに考えていいんですか。
答 ただ、「空華」というのは結局頭の働きとか、感覚的な刺激というふうなものを頭に置いているわけだけれども、「法華」というのは現実の世界、この宇宙そのものを意味しているということになりますから、「空華」と「法華」では思想の内容が反対だというふうに見てもいいです。
問 あともう一つなんですけど。仏教の中で心と体が一体であるというお話があるかと思うんです。心と体が一体であると、そういう状態というものは、先生のお話からすると、自律神経がバランスしている状態だということだと思うんですけど、そういうときに「煩悩」というのは、ただあるがままにあると、そういうことですか。
答 うん。だから自律神経がバランスしているときには、極端な煩悩が出て来ないんです。だからフワーッと水の上に浮かんだゴムまりのようなもので、何の弊害もなしに何億年でもその状態が続くんですよ。
問 煩悩が煩悩として嫌なものとかそういうものとしてあるんじゃなくて……。
答 そういうものじゃなくて、この世の中があるということの実体の中身を示しているわけだから、それをけしからん、取り除こう、抑えつけようという努力そのものが人間のサル智慧で出て来ると、問題が間違うということなんです。
問 煩悩そのものを肯定するという話から、さらに続けて現実がありのままにあるというところまで話を進めているというふうな読み方でよろしいんですか。
答 そうそう。だからそういう点ではね、「おなかがすいたらご飯を食べなさい。おなかがいっぱいになったらご飯を食べるのをやめなさい」というだけのことなんですよ。
だから幕末から明治を過ぎて大正の初年まで生きられた西有穆 山さんという方は、新聞記者から健康の秘訣というのを聞かれたら、「寒いと思ったら着物を着なさい。暑いと思ったら着物を脱ぎなさい」と、こういうことをいわれたけれども、これが人間の生命を保つ、健康を保つ最大の方針なんです。「暑いと思ったら着物を脱ぎなさい。寒いと思ったら着物を着なさい」という動きだけの問題なんです。
ところが、考え方が違うと、寒いときに薄着をして頑張らないと体がよくならないと思う人もいれば、夏に火をたいてどてらを着て我慢比べをやるというふうな考え方もあるわけだけれども、そういうのは健康によくないという主張でもあるわけです。
問 ありがとうございました。
それでは、時間がきたようですから、普回向を唱えて終わりにしたいと思います。
普回向 唱和