開経偈 唱和
二、三日前の新聞にロシアのプーチン大統領が十一月に日本を訪問することが決まったという記事がありましたが、これは日本の国にとって大変いいことだというふうに感じております。
ただ、多少気になりますのは、日本国民が小さな四つの島が返るか返らないかというつまらないことを問題にして、大事な国際交渉の面で不利な立場に立つことがあれば、大変困ったことだという見方をしております。
ソ連との国交回復というふうなことが問題になりますと、すぐ四島が返ってくるか返ってこないかということを持ち出すわけでありますが、私はこの考え方は実にばかげていると思う。あの四つの島がどの程度の利権として活用できるかというと、北洋漁業の基地になる程度のことでしかないわけでありますが、日本の国民は何か四つの島が日本の本来の領土であるというような考え方を持って、それが返ってくるか返ってこないかというようなことをばかに心配しているということでありますが、そういう考え方は現実的ではないという見方をしております。
その点では、橋本総理が国交回復の最初の話を始めたときから、まず四島を返してくれるかどうかというようなことを問題にしている。ですからそういう四つの問題にこだわるという考え方が依然として維持されて、ロシアとの交渉に当たっても、四島が返ってこないと交渉を始めないというようなこだわった考え方をするならば、四島の問題を原因にしてロシアと日本とが今後、天然ガスとか、石油とか、あるいは日本の工業生産を売り込むというようなことで重大な経済的な交渉があるのを全部壊してしまうおそれがあるわけでありまして、今回はまさかそういうばかげたところまではいかないとは思いますが、四つの島の返るか返らないかというようなことにこだわると非常なマイナスを受けるという心配があるように見ております。
その点では、日本国民がそういう四つの島にこだわるということがロシアにとっては大変有利なことでありまして、四つの島を返そうかなあ、返すまいかなあというようなことでチラチラ、チラチラと気を引きながら、外交上の有利な点をどんどん、どんどん取っていくという作戦を取れば、実に簡単にロシアにとって非常に有利な条約を結ぶことができるというふうなおそれもあるわけでありますから、日本国民がそういう点について四つの島にこだわるということは、日本にとって非常に不利であるということがあるように思います。
日本国民は四つの島が日本本来の領土だという考え方をしておりますが、どこかの国に本来帰属している領土というものはけっしてない。武力を使って地球の表面を制圧すれば、そこが領土だ。だから戦争によって負けて土地を取られてしまったら、それは日本の領土ではない。
ところが、頭の中で考えて、本来日本に縁があった土地だから当然返すべきだなんていう考え方は国際的な関係では出て来ない。そういう形で、日本の昔の領土だったから当然返すべきだというような考え方は、感情としてはそういう気持ちがあって不思議ではないけれども、感情を基本にして問題を考えたらけっして正しい判断はできない。
感情を基礎にして問題を考える立場を、英語では「センチメンタル」という。「センチ」というのはセンスの意味であって、感情です。「メンタル」というのは考えたこととという意味。だから感情を基礎にして問題を考えるということは、人間の考え方として間違い。
そういう習慣が日本の国民には意外に強くて、大事なものを感情的な考え方から失ってしまうというふうな心配があるとすると、大変危険だ。そういう点では、一切のものを現実の立場から考えるべきだということを説かれた釈尊の教えがいかに貴重かということにもなろうかと思うわけであります。
それではまた『正法眼蔵』の講義のほうに入ってまいりますと、きょうは四六ページの「大宋国福州芙蓉山霊訓禅師」というところからになるかと思います。四六ページのところを読んでいきますと、
「大宋国福州芙蓉山霊訓禅師、初参帰宗寺至真禅師而問、如何 是仏。帰宗云、我向汝道、汝還信 否。師曰、和尚誠言、何敢不信。帰宗云、即汝便是。師曰、如何保任。帰宗云、一瞖在眼空華乱墜」、
「大宋国」というのは中国の宋の国を指すわけでありますが、「福州」というのは、今日でも福建省という地域がありますが、中国の南のほうの地域を福州と呼ぶわけでありまして、そこに芙蓉山という山があって、そこに霊訓禅師がおられた。「初テ帰宗寺ノ至真禅師ニ参ジテ問ウ」、帰宗寺におられた至真禅師のところに行って質問した。「如何ナルカ是レ仏」、「仏道の世界では真実を得た人という意味で仏という言葉がありますが、仏というのはいったいどういうことでしょうか」という質問をした。
「帰宗云ク、我汝ニ向ツテ道ワン、汝還ツテ信ズルヤ否ヤ」、すると帰宗禅師がいうには、「私はおまえに対して仏というものはどういうものであるか教えてやろう。しかし、おまえが私のいうことを信ずるかどうかな」と、こういう言葉を述べた。
そこで霊訓禅師が「和尚ノ誠言、何ゾ敢エテ信ゼザラン」、「あなたが真心込めておっしゃることですから、私が信じないはずはありません」というふうに述べたところが、「帰宗云、即汝便是」、帰宗禅師が「それではおまえにいおう。おまえ自身が仏だ」ということをいわれた。
「師曰ク、如何ンガ保任セン」、そうすると霊訓禅師が「その仏という状態をどうやったら保つことができますか」というふうに尋ねたところが、
「帰宗云、一瞖在眼空華乱墜」、帰宗禅師が「おまえが自身のものの見方についてどこか間違っていることがあるかもしれないなというふうな考え方が持てるならば、空間にある考えとか、感覚的な刺激というものは全部地面に落ちて、現実の世界が開かれてくるだろう」ということをいわれた。
この物語に対して道元禅師が四七ページのところで解説をされまして、
「いま帰宗道の一瞖在眼空華乱墜は、保任仏の道取なり」、いまここで帰宗禅師がいわれた言葉として、「一瞖眼ニ在レバ空華乱墜ス」、「自分のものの見方が多少間違っているかもしれないというふうな見方ができるならば、空間に浮かんでいる花のような、はかない思想とか、あるいは感覚的な刺激というものは全部地面に落ちてしまって、現実の世界が現れてくる」と、こういうことをいわれたけれども、この言葉は、「保任仏の道取なり」、真実を得た人の状態をちゃんと自分で持っている人の言葉である。
「しかあればしるべし、瞖華の乱墜は諸仏の現成なり、眼空の華果は諸仏の保任なり」、このような物語から理解してみると、「瞖華の乱墜は諸仏の現成なり」、自分の眼にあるかげりとか、あるいはそれによって見えている空間の花に相当するようなものの考え方とか、あるいは感覚的な刺激というふうなものが全部地面に落ちたという状態が、真実を得た人が具体的に現れたということを意味する。「眼空の華果は諸仏の保任なり」、そこで、ものの見方というものが、一切のこだわりがなくなって、本当の意味の現実が見えるようになるということが、「諸仏の保任なり」、たくさんの真実を得た人々が持っている状態である。
「瞖をもて眼を現成せしむ」、自分のものの見方が間違っているかもしれないというふうな考え方を持って、本当のものの見方を具体化することができる。
「眼中に空華を現成し、空華中に眼を現成せり」、その点では、ものの見方の中に頭で考えた思想とか、感覚器官を通じて得たところの感覚的な刺激というものがあることがはっきりしてくると、空間に浮かんだ花というふうな思想とか、あるいは感覚的な刺激の中にも本当の仏道の見方が現れてくる。
「空華在眼、一瞖乱墜、一眼在空、衆瞖乱墜なるべし」、その様子を考えてみると、空間に浮かんでいる花のようなはかない存在としての思想や感覚的な刺激がどんなものであるかということが自分のものの見方の中にはっきりとわかっていると、「一瞖乱墜ス」、一切のかげりというものが一斉に地面に落ちてしまう。「一眼空ニ在レバ、衆瞖乱墜なるべし」、そこで、自分のたった一つの見方がこのわれわれが生きている現実の実体の中にはっきりと存在しているならば、さまざまの眼のかげりというものは全部地面に落ちて、この世の中が現実の世界そのものであるということがはっきり見えてくるであろう。
「ここをもて賢也全機現、眼也全機現、空也全機現、華也全機現なり」、そうしてみると、人間が持っているものの見方の間違いもすべての機能の発現であるといえるし、また仏道の立場から見た正しいものの見方もすべての機能の発現であるということがいえる。ありのまま状態というものも全機能の発現であり、思想であるとか、感覚的な刺激であるとかいうふうな、普通空間に浮かんだ花と考えられるようなものも全機能の発現である。
「乱墜は千眼なり、通身眼なり」、そのような思想とか、感覚的な刺激とか全部地面に落ちてしまって、現実が見えてくるということは、さまざまのものの見方ができることであり、体全体が正しいものの見方と一致しているという状態を意味する。
「おほよそ一眼の在時在処、かならず空華あり、眼華あるなり」、そこで、具体的な眼が存在する時間、存在する場所というものは、例外なしに頭の中で考えた思想とか、感覚的な刺激というふうなものがあり、またものの見方があり、また現象がある。ものの見方と現象とが一つに重なった状態があるということがいえる。
「眼華を空華とはいふ、眼華の道取かならず開明なり」、そこで、人間のものの見方と、それによって眺められるところの現象というものが一つに重なった状態が「空華」という言葉で呼ばれる。つまり、われわれが頭の中で考えたり、あるいは外界の刺激として感覚的に受け入れるようなもの自体が、われわれのものの見方と客観的な世界とが一つに重なった状態と同じものであり、われわれのものの見方と周囲の環境とが一つに重なった表現というものがどんなものかが例外なしにはっきりとわかるべきである。
こういう形で、本当のものの見方と、われわれの周囲に現れてくる思想や感覚的な刺激というものは現実の世界では別のものではないと、こういう主張をしておられるわけであります。
そこで四九ページにいきますと、
「このゆゑに 瑯 山広照大師云、奇哉十方仏、元是眼中華。欲識 眼中華、元是十方仏。欲識 十方仏、不是眼中華。欲識 眼中華、不是十方仏、於此明得、過在十方仏。若未明得、声聞作舞、独覚臨粧」、瑯 山におられた広照大師、瑯 慧禅師という方でありますが、その人が次のようにいわれている。「奇ナル哉十方仏」、「奇」というのはすばらしいという意味であります。珍しいという意味でもありますが、すばらしいという意味で、「奇ナル哉十方仏」、この世の中においてあらゆる方角に真実を得られた方々がたくさんおられる。それは実にすばらしいことである。「元是レ眼中ノ華ナリ」、しかし、それも基本的に考えてみるならば、われわれが眼を通して見ることのできるこの世の中の現象と同じものである。
「眼中ノ華ヲ識ラント欲セバ、元是レ十方仏ナリ」、したがって、われわれが眼で見ているさまざまの現象というものも、本来真実を得られた方々がたくさんおられるところの現実の世界そのものである。したがって、われわれの見ている世界と真実の存在とは一つのものであるという主張であります。
それからさらに、今度は逆の表現を取るわけでありまして、「十方仏ヲ識ラント欲セバ、是レ眼中ノ華ニアラズ」、この世の中の真実を得られた方々がどんな様子かということを知りたいと思うならば、それはわれわれが眼の前に見ているさまざまの現象と同じものではない。
「眼中ノ華ヲ知ラント欲セバ、是レ十方仏ニアラズ」、そこで、われわれの眼の前に見えているさまざまの現象がいったいどんなものであるかということを知ろうとするならば、それはさまざまの方角におられるといわれている真実を得た人々と同じではない。
このことは、われわれの住んでいる世界が真実の世界と現象とが一つに重なった世界だというふうな表現もけっして間違いではないけれども、そうかといって、また別の見方をするならば、眼の前にある現象は現象であり、真実を得た人の状況というものはまた真実を得た人の状況であって、両方のものが同じではなしに、別々のものだというふうな見方も同時にできる。
「此ニ於テ明得セバ」、二つの考え方を並べたけれども、その両方が見えるようになると、「過ハ十方仏ニ在リ」、本来真実を得た人々というふうな考え方自体が間違いの原因だということはありうる。
「若シ未ダ明得セザレバ、声聞作舞シ、独覚臨粧セン」、ところが、そういう形でわれわれの生きているこの現実の世界がどんな世界かということがはっきりわかってこないと、つまりこの世の中の実情というものは、われわれが眼の前に見ている現象であると同時に、それが真実を含んでいるというふうな実情でありますが、その状態がまだはっきりわからないと、というのが「若シ未ダ明得セザレバ」。「声聞作舞シ」、「声聞」というのは、仏道修行に関連して、理論を通して仏教を勉強しようとする人々であります。だからその反面、坐禅をしないという意味があるわけであります。したがって、坐禅をせずに理論だけで仏教を勉強している人々は、現実の世界がわからないということが実情としてあるならば、自分たちの考え方が正しいといって喜んで舞いを踊るだろうし、「独覚臨粧セン」、「独覚」というのは環境を大切にして仏道を勉強する人々でありますが、環境を大切にして仏道を勉強する人々も、自分たちの考え方が正しかったというふうな誤解を起こして、お化粧して客を迎えようというふうな態度をとるであろう。こういう表現を瑯 山慧覚禅師がされた。
この引用に対して道元禅師がまた解説をされまして、五〇ページのところで、
「しるべし、十方仏の実ならざるにあらず、もとこれ眼中の華なり」、ここではっきりと知っておらなければならないことは、「十方仏の実ならざるにあらず」、この世の中には真実を得た人々がたくさんおられるということが真実でないというわけではない。「もとこれ眼中の華なり」、しかし、真実を得た方々というものは、われわれが眼で見ることのできるさまざまの現象と別のものではない。だから眼の前に見えている現象が真実を得た方々の存在と同じものである。
そのことは、この部屋の中でも畳があり、机があり、蛍光灯があるわけでありますが、そういうものすべてが真実だという主張が表現されているわけであります。だから仏道の世界では、われわれの生きている現実の世界が真実だと、その実体がわかってくることが、この世の中の本当のことがわかり、釈尊の教えがわかることを意味する。
「十方諸仏の住位せるところは眼中なり」、眼中にあらざれば諸仏の住処にあらず」、われわれは眼を持ち、眼でものを見ているのであるけれども、そういう眼で見えるような世界が、あらゆる方角にいる真実を得た人々のおられる場所である。「眼中にあらざれば諸仏の住処にあらず」、われわれが見ることのできるこの世の中でなければ真実を得られた方がおられるはずがない。つまり真実を得た方々の存在というのは、このわれわれの生きている現実の世界そのもののことを指すのであって、この現実の世界を別にして真実を得た人々のいる場所というものはない。
そのことは、一般に宗教的な立場から、この世の中以外の世界に神と呼ばれるものがあるというふうな考え方と仏教思想とは違うという意味であります。仏教思想では、われわれの住んでいるこの現実の娑婆世界が真実そのものの世界であるという主張をしておられるということになります。
「眼中華は、無にあらず有にあらず、空にあらず実にあらず、おのづからこれ十方仏なり」、そこで、われわれは眼に見えるものが現象ということで、それが本来の真実ではないというふうな主張をするけれども、そういう考え方は仏教思想ではない。それはあるとかないとかいうふうに頭で考えて区別のできる世界ではない。「空にあらず実にあらず」、それは何もない世界だというふうな表現も正しくなければ、真実だというふうな表現も正しくない。
それはどういうことをいうかというと、「空」という言葉とか、「実」という言葉がそのままわれわれの生きている現実の世界ではないと、こういう意味であります。そうして、そういう無でもない、有でもない、空でもない、実でもない世界が真実を得た方々の存在である。
「いまひとへに十方諸仏と欲識すれば、眼中華にあらず、ひとへに眼中華と欲識すれば、十方諸仏にあらざるがごとし」、しかし、別の見方をしてみると、「いまひとへに十方諸仏と欲識すれば、眼中ノ華にあらず」、われわれの生きているこの現象世界があらゆる方角におられる真実を得た方々そのものだととらえたいというふうな希望を持つと、そのような世界というものは、われわれが眼の前に見ている現象とは別の世界として現れて来る。また、「ひとへに眼中ノ華と欲識すれば、十方諸仏にあらざるがごとし」、われわれが眼の前に見ている現象を、本当に現象そのものとして見たいというふうな態度をとるならば、それはあくまでも眼の前の現象であって、真実を得られた方々と同じではないというふうな実感が湧いてくるのと実情は似ている。
「かくのごとくなるゆゑに、明得未明得、ともに眼中華なり、十方仏なり」、このように考えてくると、この世の中の実情がよくわかった場合も、この世の中の実情がまだよくわからない場合も、両方とも、われわれが現象としてのさまざまのものを眼の前に見ているという状況であり、また、それらがあらゆる方角に広がっている真実そのものであるというふうな見方も同時にできる。
だからこの辺の表現は、頭の中で考えた世界と、眼の前に見える現象とが一つに重なった現実の世界があって、その現実の世界が現象とも呼ばれ、真実の世界とも呼ばれるというふうな理解の仕方であります。
ですから仏教思想というのは、われわれが頭の中で考えた世界と、感覚的に見た、とらえたというふうな物質的な世界とが頭の中では考えられるわけでありますが、そういう二つのものが一つに重なった現実の世界があって、その現実の世界の存在に気づくということが、釈尊の教えがどういう内容の教えかがわかったことを意味する。
こういう考え方は、『正法眼蔵』を読むと、はっきりと出て来るわけでありますが、そういう考え方というものはわれわれの常識的な世界と基礎が少し違いますから、そこでわれわれは頭で問題を考えて、この世の中はこういう世界だというふうな思想的な理解をしたり、あるいは直接眼に見えるもの、聞こえるもの、そういう感覚的な刺激が物であり、実体の世界だというふうなとらえ方をするかというふうな、二つの態度が出て来るわけでありますが、その二つの態度とは違う現実をつかむということが釈尊の教えの狙いであります。
そこで、「欲識および不是、すなはち現成の奇哉なり、太奇なり」、そこで、知りたいと思う態度と、それから「これではない」というふうな反省的な態度と、その両方が現実の事実として出て来ることが非常にすばらしいことであり、大変すばらしいことである。「奇哉」というのは、「奇ナル哉」という読み方をするわけでありまして、この世の中の状況は実にすばらしい。「太奇」というのも、大変すばらしいという意味であって、眼の前の現実というものについて、それが真実であり、その真実に対して感動を覚えるという状況を、「すなはち現成の奇哉なり、太奇なり」という表現をしておられるわけであります。
何が現成の奇哉であり、太奇だというかといいますと、「欲識および不是」、何とかして本当のことを知りたいという態度と、「いや、これではない、これではない」というふうな反省と、その両方が共に存在するような生き方の中に現実というものが現れてきていると、こういう主張であります。
「仏仏祖祖の道取する空華地華の宗旨、それ恁麼の逞風流なり」、そこで、真実を得られたたくさんの方々や、伝統的な師匠の地位を継がれたたくさんの祖師方が表現するところの、「空華地華の宗旨」、頭の中で考えられた思想や感覚的な刺激を指す「空間の花」という言葉、「空華」という言葉、あるいは現実的に地上にある事実、現象というものの考え方は、「それ恁麼の逞風流なり」、「恁麼」というのは、このようなという意味でありまして、「欲識および不是」、本当のことが知りたいという切実な希望と、「いやあ、これが本当ではない、これが本当ではない」というような反省と、そういう人間の営々とした努力の中に、われわれの住んでいる世界がどんな世界であるかということを、真実を得た方々や、伝統的な祖師の方々が述べた言葉として、「空華」「地華」という言葉の意味であり、また、そのような言葉では表現できないものを日常生活の中で楽しんでいくという状況でもある。
「逞風流」というのは、「風流ヲ逞シクス」と読むわけでありまして、頭の中で考えた思想や、感覚的な刺激を乗りこえて、現実の世界において現実の実情を楽しむというふうな態度が「風流ヲ逞シクス」という言葉の意味でありますが、そういう生き方がある。
「空華の名字は、経師論師もなほ聞及すとも、地華の命脈は、仏祖にあらざれば見聞の因縁あらざるなり」、ここで空間の花ということが問題にされているけれども、地上の花というもの、つまり現実の事実というものを「地華」と呼ぶわけでありますが、「空華の名字は」、空間に浮かんだ花という言葉によって思想や感覚的な刺激を表現しているけれども、そのような表現というものは、「経師論師もなほ聞及すとも」、経典を教えている師匠も、経典の注釈を教えている師匠も、その程度の「空華」という言葉については耳にするということがあるけれども、「地華の命脈は、仏祖にあらざれば見聞の因縁あらざるなり」、地上における現実の現象、そういうきわめて大切なものについては、「仏祖にあらざれば見聞の因縁あらざるなり」、真実を得た人にとってはそのような「地華」という言葉の意味がわかる。つまり、この世の中の現実というもの、地上の世界というものの中に真実があるということが「地華」という言葉の内容でありまして、そのように現実の世界の中に真実を求める態度というものは、「仏祖にあらざれば見聞の因縁あらざるなり」、仏道修行をして仏道の真実を得た人でないならば、見たり聞いたりするというふうな直接、間接の原因に出会わないものである。
「地華の命脈を知及せる、仏祖の道取あり」、このような地上の現象というふうな言葉の中には、その非常に尊い内容を知ったという意味で、真実を得た人の主張というものが隠されている。
こういう形で、われわれが今日の西洋文明の中では非常に重要視されるもの、つまり思想や感覚的な刺激というものについて、仏教の立場では「空華」という言葉を使って表現をし、また現実でないという意味に理解するわけでありますが、ここで道元禅師はそういうものに対する地上の現象というものを取り上げて、そういう地上の現象そのものがわれわれの周囲にあって、それが非常に重要な真実にほかならないということを仏道を勉強した祖師方がしっかりとつかんでおられたという事情を主張しておられるわけであります。
ですから私は仏教の説明に、仏教が現実主義であるということをしばしば述べるわけでありますが、『正法眼蔵』を克明に読んでいくとそういう思想しか出て来ない。
今日非常に残念なことではありますが、仏教思想というものをそういう形で理解している考え方というものがまずほとんどない。だからこの部屋でこそ皆さんおとなしく聞いていていただけるわけでありますが、ここで述べていることを別の会場でいった場合には、「いや、それはおかしい」という反論はもう無数に出て来ると思う。それほど現実として釈尊の教えをつかんでいる方というものは今日ほとんどいない。しかし、『正法眼蔵』のような本当の意味の仏教思想の書かれている本を読みますと、釈尊は七年間修行をされて何を実感されたかというならば、われわれはまさに現実の中に生きている、われわれの生きているこの現実の世界が真実そのものだということに気づかれた。
この思想というものが今日でも世界のさまざまの問題を解消する上において非常に重要な意味を持っている。イラクの争いにしても、いまだに解決するか解決しないかはっきりしないような形で動揺しているわけでありますが、ああいう問題も、問題を現実的に考えて、歴史的な事情や、住んでいる人口の数等から、最も妥当な国境線をつくって、その国境線をお互いに守るというふうな現実的な解決以外に解決の可能性というものはない。
ここは本来われわれの土地である、神から与えられたものだというふうなことをいい争っていれば、いつまで経っても問題の解決につながらないというふうな事情がわれわれの住んでいる世界にはあるということも、問題をどう理解するかというときに考えてみなければならない重要な問題を含んでいるということがいえるわけであります。
そこで五二ページのところにいきますと、
「大宋国石門山の慧徹禅師は、梁山下の尊宿なり」、偉大な宋の国における石門山という山におられた慧徹禅師は、「梁山下の尊宿なり」、「梁山」というのは梁山縁観禅師という方でありまして、石門禅師の師匠に当たるわけでありますが、そういう梁山縁観禅師の流れをくむ優れた僧侶であった。
「ちなみに僧ありてとふ、如何 是山中宝」、あるとき僧侶がいて質問していうには、「われわれは山の中に住んで一所懸命仏道修行をしておりますが、その山における非常に貴重な価値というものはどういうものでしょうか」という質問をした。
「この問取の宗旨は、たとへば如何是仏と問取するにおなじ」、この質問の意味は、「たとえば真実を得た人とはどういう人のことをいうのでしょうか」というふうな質問と同じ意味を持っている。
「如何是道と問取するがごとくなり」、「真実というのはいったいどういうものでしょうか」という質問をするのと同じような意味である。
「師云、空華従地発、盍国買無門」、慧徹禅師がどういう返事をしたかというと、「空華地従リ発(ひら)キ」、空間の花に譬えられるような思想も、感覚的な刺激も、われわれのいる現実の世界を基礎にして現象として現れている、あるいは空間の花として現れている。「盍国買ウニ門無シト」、われわれが生きている国全体を眺めてみても、入口から入って真実の世界に入りたいと思っても、お金を出して手に入るような、そういう入口というものはどこにもない。
つまり、真実というものはどこにでもある。門があって、その門を入れば真実に出会うというふうな形のものではない。その点では、「空華」「空華」と呼ばれているような思想や感覚的な刺激も、本来現実から生まれているということを「空華地従リ発キ」という言葉で表現して、「盍国買ウニ門無シ」、国全体で真実に入る入口を見つけようとしても、それを買うような可能性というものはまったくない。
そこで道元禅師がさらに解説されて、「この道取ひとへに自余の道取に準的すべからず」、この言葉というものは、ほかの人々の言葉と比較して判断すべきではない。そのことは、非常に優れた表現だという意味であります。
「よのつねの諸方は、空華の空華を論ずるには、於空に生じてさらに於空に滅するとのみ道取す」、世間一般のたくさんの四方にいるところの真実を得た人々は、「空華の空華を論ずるに」、空間の花という意味で、思想や感覚的な刺激を議論する場合には、「於空に生じてさらに於空に滅するとのみ道取す」、そういうものは空間の中で生まれ、空間の中で消滅するというふうにばかり主張する。
「従空しれる、なほいまだあらず、いはんや従地としらんや」、そのような思想な感覚的な刺激というものは、空間のような現実の世界とは別の世界で生まれてくるというふうなことが本当の意味でわかっていないし、「いはんや従地としらんや」、そのような「空華」と呼ばれるものがわれわれの生きているこの現実の世界と密接に関係があるということを知っている人は非常に少ない。
「よのつねの諸方は、空華の空華を論ずるには、於空に生じてさらに於空に滅するとのみ道取す。従空しれる、なほいまだあらず、いはんや従地としらんや」、だから一切のものがこの地上世界の現実を基礎にして生まれてきているということについて、そのことを知っている人が非常に少ない。
「ただひとり石門のみしれり」、この石門禅師の言葉から、石門禅師はそのことを知っていたということがわかる。
「従地といふは、初中後つひに従地なり」、現実を基礎にして問題を考えるならば、最初も、中頃も、終わりも、すべてが現実を基礎にした状況であるということがわかる。
「発は開なり」、ここで「発」という字を使っているけれども、この「発」という字は開くという意味である。
「この正当恁麼のとき、従尽大地発なり、従尽大地開なり」、「正当恁麼のとき」というのは、まさに現在の瞬間という意味であります。仏教では一切のものが現在の瞬間において存在する、現在の瞬間において生まれ、現在の瞬間において消滅するという考え方を取っておりますから、「正当恁麼のとき」というのも、まさにその現在の瞬間という意味でありまして、「従尽大地発なり」、大地のすべてから現実が生まれてくるのであり、「従尽大地開なり」、大地のすべてが開かれるのである。
「盍国買無門は、盍国買はなきにあらず、買無門なり」、そうして、全国の様子を眺めてみても、金で買えるような入口というものは見つからないと、こういう表現が行われているけれども、「盍国買はなきにあらず」、国全体の中で買うというふうな事実がないわけではない。で、何を買うかというならば、入口がないという現実を買うのである。
「従地発の空華あり、従華開の尽地あり」、その点では、現実の世界から開く空間の花というものもある。現象から開くところの現実の事実というものもある。
「しかあればしるべし、空華は地空ともに開発せしむ宗旨あり」、そうしてくると、この一般には空間の花として評価されている思想や感覚の刺激というものについても、現実の世界においても、空間の思想や感覚的な刺激の世界においても、空間の花というものは開き、その意味を発揮しているというふうな基本的な考え方がありうる。
こういう形で、この巻では、仏教で一般に空間の花に譬えているところの頭で考えた思想とか、感覚的にとらえられる刺激というふうなものを、現実の世界を知らせるところの一つの要素として重要な意味を持っているという主張をしておられるということになります。
「正法眼蔵空華」
「于時寛元元年葵卯三月十日、在観音導利興聖宝林寺示衆」、これが紀元一二四三年の旧暦三月十日でありまして、観音導利興聖宝林寺においてたくさんの人々にこの「空華」の巻を説いた。
「空華」の巻がいちおう終わったわけでありますが、この「空華」の巻の思想などは、まず最初にわれわれが欧米文化の偉大な内容として考えている思想と、感覚的な刺激を通じて生まれた唯物論の考え方を、「空間における花」という表現で、現実と対比して、その現実的でないものを表現すると同時に、そのような形でとらえられている思想や感覚的な刺激がやはり現実を示すという意味で貴重な内容を持っているという主張をこの「空華」の巻でしておられるということになるわけであります。
ですから仏教思想の構造というものは、欧米の文化水準ではわからないような思想内容を含んでいるという面があります。ところが、欧米の文化が非常に進んできまして、そろそろそういう現実主義の哲学の時代に入り始めているというふうに見ていいのではないかと感じております。
ですからここで世界の中心的な文化が仏教思想が説いている現実を基礎にした思想を理解するようになると、この地上の世界に真実というものが具体化してきて、人類の歴史が非常に優れた黄金時代に入って行くという可能性を私は期待できるという見方をしております。
果たしてそのことが可能かどうかということにつきまして、現在この道場にイスラエルから来たギル・アロンという人がおりますので、「今後、イスラエルを含めてユダヤ民族が仏教思想を信ずることができるようになるかどうか」というような質問をしたところが、彼の見方では「現実問題としてなかなか難しいんではないか」というような感想を持っておりましたる
それは、ユダヤ民族がユダヤ教に対する信仰があまりにも強過ぎるというふうなことも背景にあるようでありまして、そういう状況からしますと、世界がいったいどの程度のところまで進むことができるのかというふうな疑問は出て来るわけでありますが、私は『正法眼蔵』や『中論』のきわめて論理的な仏教思想体系というものを克明に理論的に説明していくならば、世界の人々を説得するだけの可能性はあるというふうな見方をしております。
そういう超楽観的な考え方で仏教を説明してきたわけでありますが、まだそういうことの可能性が実現するまでには長い期間がかかるとは思いますが、私はそういう点では、人類そのものが真実に到達できないほどばかではないという期待を持っておりまして、時間はかかるにしても、いつかは人類全体が真実というものに気がついて、優れた時代を楽しむことのできる可能性が将来には必ずあるという見方をしているわけであります。
そういう点が私の超楽観的なことにつながるわけでありますが、私は人類というのはけっしてばかではないという見方をしておりまして、現に原子兵器を抱えて第三次世界大戦が起きるか起きないかという心配をしたときに、見事に第三次世界大戦を防ぐことができた人類の聡明さというものは、やがて真実を発見して、その真実に従って世界全体を運営する時代が必ず来る。時間は非常に長くかかるかもしれませんが、そういう可能性が私はあるという見方をしているというのが実情であります。
それでは、いつもと同じような時間になりましたので、話のほうをとめまして、またご質問を受けるということにしたいと思います。何かありましたらどうぞ。
問 「欲識および不是」のところのことなんですけれども、私は商売柄、職人なんですが、若いときは「もっと上手になりたい、もっと上手になりたい」という気持ちがすごくあったんです。それからちょっと覚えると、「こんなものじゃいけない、こんなものじゃいけない」というのがすごくあったんですけど、だんだん年齢を重ねるに従って、そういうものがだんだん、だんだんなくなっていくんですよね。それが自分ですごく不安なんですよね。向上心というのがなくなっていく、それから疑問に思うこともだんだん少なくなっていくんですよ。だいたい想像が、「ああ、こうなるんだ、ああなるんだ」というのがわかるようになってくるんですよね。それが年齢的なものなのか、それとも自分の怠慢なのかと、その辺がちょっとわからないんです。
答 その点ではね、怠慢とか、年齢とかいうより、いろんなことがわかってくると、焦りが減るということがあります。だから焦りが減ってきたということと勉強したいという気持ちがなくなったということは別であって、焦りがなくなってくるということは好ましいことだけれども、そうかといって、「もうこれでいいんだ」という考え方を持つと危険だと思います。そこで進歩がとまってしまうから。
だからその点では、結局人生のゴールがあるかどうかというと、私はないと思う。死ぬまで前進すると思う。だから死ぬまで勉強しなきゃならないという問題が人間にはあるんだと思います。
問 初めに外交問題の話が出ましたので、その交渉ということで伺いたいと思いますけど、「虚々実々の駆け引き」なんていう言葉がありますが、先生もいろんなことを、いろんな事件とかを見てこられたと思いますけど、やはりそういうことをきちっと見抜く力というのは、坐禅なんかではよく身につくわけなんでしょうか。
答 それはあります。それはどういうことかというと、いわゆる「複眼的な見方」というのがありますよね。いろんな眼から見ると、何を考えるについても、それが大事なんですよ。だから四島が欲しいなんていう考え方にこだわってしまえば、全体が見えないから、結論的には粗末なものにしか取れないですよ。
だからそんな小さな問題よりも、全体を広範に考えて、日本の国にとって何が一番大切かというような考え方で問題を考えるべきだという事情があるように思います。
問 たとえば外務省の方たちはやはり四島帰属というか、外務省を中心に考えますけど、総理大臣という人はもっと大きな職責にある人ですから、やっぱりそれだけの技量を具えてもらわないと困るんですが、その辺は信用して大丈夫なんでしょうか。
答 うん、私はそう思う。橋本さんと小泉さんじゃちょっと格が違うと思う。
問 ずっと前なんですけど村山富市さんという総理大臣がおられましたね。あまり評判はよくなかったですけど。でも、西嶋先生はかなり点を高くつけておられたようですが、やはりそんなふうに思われたわけですか。
答 う〜ん。ただ、いまから考えてみると、社会民主党の立場というのはやっぱり浅はかだと思うね。だからいまでも社会民主党という政党も少数にはなったけれども、頑張ってはいるけれども、少数になるだけの内容しかなかったというふうに見ていいと思います。
問 それから、「現実的」という言葉なんですけどね、これはいい意味で取られる場合もありますが、何となく計算高いというか、「あいつは現実的だ」とか、「ソロバン勘定だ」とかということですけど、その「現実的」というのは「妥協」という言葉と裏表みたいなニュアンスがございますね。
たとえば靖国神社の総理の参拝問題にしましても、「あそこではいわゆる永久戦犯が祀られているので、それを分祀したらいいんじゃないかということで、これが現実的な解決方法である」と、こういうふうなことをいう人も与党、野党、それぞれいらっしゃるわけですけど、こういうのも「現実的」ということですね。
答 うん、うん。
問 こういう「現実的」と道元禅師のいう「現実的」と一致するのか、多少違うのか、その辺はいかがでしょうか。
答 私は同じだと思う。これは常識的にいうと、「そういう姑息な手段を取っちゃいけません。もっと真っ正面から」というような考え方があるけれども、われわれの問題の解決というのは、現実の問題を解決するわけだから、対立した意見が両方とも満足せずに、いつまで経っても和解ができないような考え方というものは現実離れがしているというふうに見ていいと思います。
だから私は正直いうと、永久戦犯の人々を、もっと立派な神社をつくったって構わないから、国民の募金でできるだけ立派なものをつくるというようなことで構わない、その代わり靖国神社からは別になると。
なぜそういうことをいうかというと、靖国神社は無名戦士の墓なんですよ。だからそれはそれで国家として非常に貴重な存在だから、それをどうこういう必要はないけれども、非常に間違った対策をとったといわれるのは、やっぱり永久戦犯の合祀ですよ。これはもう根拠も何もない。自分たちの身勝手でそういうことをやったわけだけれども、それがいまだに国際的な問題として障害になっているわけだから、国民から募金を募って、靖国神社の十倍も二十倍も大きな立派な神社をつくって永久戦犯を祀ったっておかしくはない。それをやって国際問題が解決できれば、それでいいじゃないかという可能性はある。
問 いまのお話を伺っておりましてね、やはり「現実」というのはある意味で複雑怪奇な面があるわけですけれども、いろんな問題が錯綜してややこしい糸がからみ合っている。その中でやはり総理とか外交関係の役職にある人は、中心的な眼目といいますか、普通「急所」といいますが、これを見抜く力というのが普通の人よりははるかに高いと思いますけど、そういうことがきちっと見抜ければ、外交に限らず、われわれの日常生活でも、かなり楽に生きていけるんじゃないかなと。ところが普通は、なんか途中でややこしくなって、何が何だかわけがわからなくなるわけで困るんですけど、これはどのように……。
答 これはね、自律神経がバランスしていることが大事なんです。自律神経がバランスしていると、心が鏡のようになって、結論が映るんですよ。結論というのは、考えて、考えて、なお考えて、やっと結論に達したという性格のものじゃなくて、自律神経がバランスしていると、最後の結論が姿として見えるんです。で、それを基礎にして問題を考えるから、最終の回答に行き着きやすいということがあるわけです。
しかし、そういう直観的な判断がなくて、頭で考えて、「これは得だ」「これは損だ」というようなことで考えていれば、どんなに時間をかけて考えたって、いい結論は出て来ません。
だからそこで仏教が「般若」というものを非常に尊重するのは、考えるよりも正しい直観のほうがはるかに大事だという主張なんです。これは人間社会で実にそのとおりというような事情があります。
だから頭のいい人は考えて、考えて、なお考えて、おかしな結論を出す例は世間に幾らもあるんです。
問 頭がよくても、おかしくなる……。
答 そうなんです。ですから思考によって正しい結論が出て来るわけじゃない。結論というものは現実だから、自律神経がバランスしていて、最終結論の映像がパッと映るか映らないかというような能力は非常に大事なんです。
で、これは欧米の思想にはないんです。だから欧米の人にそういう話をすると、「いや、それは無謀だ。われわれは優秀な思考能力を持っているんだから、考えて、考えて、最善の結論を出してから行動すべきだ」という主張がありますけど、そういうふうな形で考えた場合には、結論が出て来ないというのが実情だと思います。
問 はい。ありがとうございました。
問 結局経験で得た知識というのがありますよね。それで経験で得た知識で考えたことでやっていくことは、理論的に考えたこととは違うわけですか。
答 違う。経験というのは実際の事実だから、基礎が現実だから、だから頭で考えた想像と違うわけです。
問 はい、わかりました。
答 だから西堀栄三郎という人が「橋は叩いたら渡れない」ということをいったそうだけど、石橋を叩いたら渡れなくなると。だから西堀隊長なんかも、やってみなけりゃわからんということで、思い切ってやったというだけのことであって、「やろうかなあ、やるまいかなあ、うまく成功するかな、失敗したらどうしょう」なんていうことを考えていたら、いつまでも探検隊は組織できなかったということを意味しているんだと思います。
問 冒頭のお話で、日本の北方領土の返還という話が出ましたけど、これを題材にしてロシアと交渉するのは日本にとって不利だというお話があったわけですが、そういう中でいま北朝鮮というのは六者会談をやる意志はあるんだけれども、「その条件が整えば」ということで、そこでとまっているようですね。
これに関して、最近の新聞なんかでは、中国もあまり強く迫っていない、かといってロシアのほうもそれほど強く北朝鮮を説得しようという態度がないというような話が出ているんですけど、この辺の駆け引きというのは、あれだけの大国が、たとえば中国なんですが、力があるように見えるんですけど、どうして北朝鮮に対して強く出られないという背景があるんでしょうか。
答 う〜ん、私の想像では、見離したということだと思う。「あれはもうばかだから、話しても相手にならない」という国際的な評価が出始めているんじゃないかな。だからいちおう「一緒に話そうじゃないか」と誘ってみるけど、乗ってくればいいけれども、乗ってこなかったらまあ別の手段を取らなきゃならないなということだと思います。
問 一番怖いという感じは、もし北朝鮮が核を持っているとすれば、まあテポドンとか、長距離のミサイルもだいぶ開発しているという話も出ているらしいんですけど、その辺でやはりアメリカ側としては、半分本当にそういうものは持っているというふうに見ているんでしょうか。
ということは、最近、ブッシュが金正日を「悪の塊だ」というふうに極端な表現をしたわけですけど、最近は「ミスター」をつけて呼んでいるという話も出まして、その辺ではどういうふうに考えたらよろしいんでしょうか。
答 だからその点では、アメリカは国情をよく調べているはずだから。私は正直いうと、金政権を倒す以外に解決方法はないなと見ているんじゃないかと思いますよ。私の見方では、そうだな。
問 中国の態度は、北朝鮮に対する態度の問題もありましたけれども、三、四回前から、東アジアの問題について先生のご発言がありましたが、そういう戦略的なことをいま、日本もありますけど、中国も盛んに考えているようで、その辺についてはどうでしょうか。
日本のやることに対して、インドとか、そういうところでもいろいろ中傷したり、国連安保理になるかならないかの問題も含めて、中国の日本に対する政策として、東アジアの主導権争いみたいなところまで来ているんじゃないかと思いますが。
答 それはそうですよ。だからそこでこの間小泉首相がいったことに意味があるんです。「国家体制の違う国とは話し合いができない」ということをいっている。それは、共産国じゃ国際社会の仲間入りができないよということなんです。で、東南アジアも共産主義に汚染されることは好まないから、「別のルートでどうだい仲間に入らないか」という話が出て来れば、乗ってこないわけでもない。どう展開するかは未知数だけれども、その点では、今度小泉総理がやろうとしていることが外交上の政策としては筋が通っていると思います。
だから私はやっぱり小泉という人は政治家としては立派だと思うし、おじいさん、お父さん、ご本人と三代続いた政治家というのは、やっぱりそれなりの価値があると思う。もう子供のときから、孫のときから政治を教えられているわけだから。
だから政治家の世襲はいけないなんていうのは、おかしな考え方だと思う。どんな職業でも、親子代々引き継いで、優秀な職業人になるということのほうが社会のためには大きな貢献ができると思う。
問 それは、学校の勉強ということとは違って、政治に対するセンスのような、そういうことがやはり小泉さんの体というか心の中に育っているということでしょうか。
答 恐らくそうだと思う。それはもう子供のときからそういう環境の中で生きたという場合とそうでない場合とでは非常に大きな違いがあると思います。
問 「空華」の巻が終わったんですけど、「画餅」の巻となんかすごく似ていると思ったんですが。
答 うん、似ている。内容的には同じものをいっているというふうに見てもいいです。
それでは、時間がきたようですから、普回向を唱えて終わりにしたいと思います。
普回向 唱和