開経偈 唱和

 先日は、私の記憶違いから、私の話がテレビ朝日から放映されるような誤解をお話しましたが、実情を考えてみますと、私の手帳に今月の二十五日の一時と七時にテレビ朝日の放映というメモが書いてありまして、私はそれを以前から頼まれているほかのテレビ番組の事実と勘違いをして、皆さんにご迷惑をかけたということであります。

 私が実際にやります放映は、まったく別のテレビ会社でありまして、日本文化チャンネルサクラというテレビ局であります。そこから頼まれまして、四時間分の放送を三回、つまり十二回に分けて仏教哲学の話をしてくれということを頼まれておりまして、その最初の録画を録りましたところから、その放送の記録と混同していたということが実情であります。

 で、実際にテレビ朝日でありましたのは、この道場に前に住んでおりましたイスラエルから来た男子と女子とがおりまして、その人たちが結婚したところから、この道場の近くに住んで道場に通って来ているという人がおります。その女性のほうの人がテレビ朝日から頼まれて、北海道に出かけて行って、アイヌ部落の中でアイヌ部落の人々と一緒に生活するような情景の撮影をした放送が二十五日の一時と七時にあったということでありますので、たいへん大きな誤解でありましたが、そういうことでございますので、ご了承いただきたいと思います。

 それから二、三日前に日経の朝刊に出ていた記事でありますが、安倍晋三さんという人が国会議員に働きかけて、小泉総理大臣の靖国神社訪問を支持する会合をやったところが、国会議員の人が百十六人集まったというニュースがありまして、そのニユースを読みまして、安倍晋三さんのものの見方がかなり現実に合っているのではないかという印象を受けたわけであります。

 それはどういうことをいうかというと、日本が第二次世界大戦に負けまして急に左翼思想が盛んになった。だから赤旗を振る人々がたくさんいて、「インターナショナル」という共産党の歌を歌って労働組合の活動をするという時期がありましたが、それがだんだん和らいでいって、民主主義的な動きに変わってきて、それがまたさらに少しずつもっと真ん中に寄って来るという傾向がいまの日本にあるように思います。

 ですから小泉内閣の首相が靖国神社に参拝するというふうなことも、そういう時代の流れが少しずつ違っているということと関係しているように見ているわけであります。安部晋三さんがそれを支持するというふうな形の代議士の会合を呼びかけたところが、百十六人というかなり多数の国会議員が集まったというふうな事実が、日本の社会がどういう方向に動いているかということの一つの現れとして興味があるというふうな印象を受けたわけであります。

 

 それではまたこの『正法眼蔵』の「古仏心」の巻を進めてまいりますと、きょうは六五ページのところになるかと思います。

 この「古仏心」の巻では、その前の六三ページのところで、大証国師に対して僧侶が「古仏心というものはどういうものですか」という質問をした。「古仏心」の「古」という字は永遠という意味でありまして、「永遠の真実を得た人の心はどんなものでしょうか」という質問をしたときに、大証国師が「牆壁瓦礫」という返事をした。「牆」というのは垣根でありますし、「壁」というのは壁であります。「瓦」というのは瓦でありますし、「礫」というのは小石であります。だから大証国師の言葉の意味は、眼の前に見えている垣根とか、壁とか、瓦とか、小石とか、そういう具体的なこの世の中の事実が永遠の真実を得た人の心と同じものだと、こういう説明をしたわけでありますが、そのことの説明の後半の部分として、きょうの文章が出て来るわけであります。

 

 そこで本文のほうを読みますと、「師いはく、牆壁瓦礫」、大証国師が返事をされた。「永遠の真実を得た人の心というものは、眼の前に見えている垣根や壁や瓦や小石と同じような、この世の中の現実であって、それが古仏心と呼ばれるものの意味である」と、こういう返事をされた。

 そこで道元禅師が解説をされて、「いはゆる宗旨は、牆壁瓦礫にむかひて道取する一進あり、牆壁瓦礫なり」、大証国師のいわれた「牆壁瓦礫」という言葉がどういう意味かということを考えてみると、「牆壁瓦礫にむかひて道取する一進あり」、自分が垣根や壁や瓦や小石に向かって「牆壁瓦礫」という言葉を述べるというふうな一つの積極的な態度がある。「牆壁瓦礫なり」、それが「牆壁瓦礫」という言葉の意味である。

 「道出する一途あり、牆壁瓦礫の、牆壁瓦礫の許裏に道著する一退あり」、ただそれと同時に、「道出する一途あり」、別の言葉を述べるというふうな立場も同時にある。それはどういう意味を述べるかというと、「牆壁瓦礫の、牆壁瓦礫の許裏に道著する一退あり」、自分自身が垣根や壁や瓦や小石と同じような立場に立って「牆壁瓦礫」という言葉を唱えるというふうな一歩退いた態度もある。それが「牆壁瓦礫の、牆壁瓦礫の許裏に道著する一退あり」、垣根や壁や瓦や小石そのものが、垣根や壁や瓦や小石そのものとして、自分が真実だということを述べているというふうな一歩退いた考え方もある。

 「これらの道取の現成するところの円成十成に、千仞万仞の壁立あり、帀地帀天の牆立あり、一片半片の瓦蓋あり、乃大乃小の礫尖あり」、前のところでは「一進」と「一退」という言葉が説かれておりますが、「一進」というのは積極的な態度、「一退」というのは消極的な態度。仏道の世界は中道の立場でありますから、積極的な態度と消費的な態度とが同時に含まれているわれわれの現在の瞬間を指すわけでありまして、そういう点では、大証国師の言葉の中にも積極的な意味と消極的な意味とが両方ある。そうして、そのような言葉が具体化するところに、「これらの道取の現成するところの円成十成に」、そういう積極的な態度と消積極的な態度と両方とも述べることのできるような現実の整った姿の中に、「千仞万仞の壁立あり」、「千仞万仞」というのは非常に長い距離をいうわけでありますから、千、万というふうに非常に長い長さが壁となって周囲に立っているような様子もわれわれの現実の世界にはある。つまり、われわれの周囲に高い壁が立っていて、自分たちがどうにも動きのとれないような状況もある。「帀地帀天の牆立あり」、自分の住んでいる大地や、あるいは大空全体にわたって邪魔になるような垣根が立っている場合もある。「一片半片の瓦蓋あり」、またもっと具体的に、一つ、あるいは半分というふうな瓦が地面に転がっているという情景もあれば、「乃大乃小の礫尖」、大きい石、小さい石というふうなたくさんの小石もある。こういう形でわれわれの生きている世界はこの現実の世界だということを描写されているわけであります。

 そうして、「かくのごとくあるは、ただ心のみにあらず、すなはちこれ身なり、乃至依正なるべし」、このような情景というものは、単に心だけではない。「すなはちこれ身なり」、またわれわれが生身の体を持っているという事実も同時に含んでいる。

 こういうところに仏教思想の基本的な考え方があるわけでありまして、われわれが精神というものを大切にして、それを中心にして生きるという生き方もありますが、仏教ではわれわれの存在は単に心だけの存在ではないと、同時に生身の体を持っている。だからその生身の体を持っているということも忘れてはならないという意味で、道元禅師はここのところで「ただ心のみにあらず、すなはちこれ身なり」、単に心があるだけではなしに、またわれわれを振り返ってみるならば、生身の体である。「乃至依正なるべし」、「依正」の「依」という字は客観という意味でありまして、「正」というのは主体という意味であります。ですから「乃至依正なるべし」というのは、別の言い方をすれば、客観と主観というふうな関係でもある。

 「しかあれば、作麼生是牆壁瓦礫と問取すべし、道取すべし」、そこで、垣根、壁、瓦、小石というふうな言葉が一体何を意味するのかという質問をしてみるべきである、そうしてまたその言葉を述べてみるべきである。

 「答話せんには、古仏心と答取すべし」、「牆壁瓦礫」という言葉を問われたときには、それに答える場合には、「古仏心」という答えをすべきである、「永遠の真実を得た人の心」という返事をすべきである。

 「かくのごとく保任して、さらに参究すべし」、このような形で「牆壁瓦礫」という言葉の意味を覚えて、さらにそれを基礎にして実際の体験を通して仏教の教えを勉強すべきである。

 「いはゆる牆壁はいかなるべきぞ、なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし」、そこで、垣根や壁というものがどんな様子をしているか、どのようなものを垣根、壁というふうにいうのか。そうしてまたそれがいま現在どんな形をし、どんな様子を具えているかということを、「審細に参究すべし」、細かく体験的に勉強してみるべきである。

 「造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか、造作か、造作にあらざるか、有情なりとやせん、無情なりや、現前すや、不現前なりや」、そこで、垣根や壁というものを考えてみても、「造作より牆壁を出現せしむるか」、垣根や壁というものは人間がつくったから眼の前に現れてくるという性質のものなのか。「牆壁より造作を出現せしむるか」、垣根や壁というものがあるということは、人間が何かの動作をするということと関係しているのか。「造作か、造作にあらざるか」、何かをつくるということなのか、何もつくらないということなのか。「有情なりとやせん、無情なりや」、垣根や壁というものは心を持ったものなのか、心を持っていないものなのか。「現前すや、不現前なりや」、現にわれわれの眼の前に実際にあるというふうに考えたほうがいいのか、あるいは現にわれわれの眼の前にはないというふうに考えたほうがいいのか。

 「かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、此土佗界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり」、そこで、このようにいろいろに問題を考えて、体験的に仏道を勉強していくのであるけれども、それに関連しては、「たとひ天上人間にもあれ」、天上の神々の世界にいる場合でも、あるいは人間界の人間の社会にいる場合でも、「此土佗界の出現なりとも」、われわれの生きているこの地上の世界の中に現れた事実である場合もあれば、この地球上の世界以外のところに現れたものというふうなことも考えられるわけであって、その両方の立場で、「古仏心は牆壁瓦礫なり」、真実を得た人の心は垣根や壁や瓦や小石である。

 この考え方は、われわれの生きている世界が、頭で考えていろいろ理解すべき世界ではなしに、われわれが日常生活を生きている現実の世界そのものがわれわれの生きている世界だというとらえ方の説明になるわけであります。

 「さらに一塵の出頭して染汗する、いまだあらざるなり」、だからこの世の中はありのままにあるだけのことであって、この世の中にほんの一かけらの分子、原子というふうな細かいものといえども、新しく現れて現実の世界をけがすというふうなことはいまだかつてあったためしがないのである。

 こういう形で大証国師の「牆壁瓦礫」という言葉について解説をしておられるわけであります。

 

 そうしてさらに六八ページのところにいきますと、

 「漸源仲興大師、因僧問、如何 是古仏心。師曰、世界崩壊。僧曰、為甚麼世界崩壊。師云、寧無 我身」、漸源仲興大師という方があるとき僧侶から質問を受けた。「如何ナルカ是レ古仏心」、「仏道の世界には永遠の真実を得た人の心という言葉がありますが、その永遠の真実を得た人の心とはいったいどういうものでしょうか」という質問をした。

 「師曰ク、世界崩壊ス」、そうすると漸源仲興大師が「世界が壊れてしまうことと同じ内容だ」という説明をした。それはどういうことをいうかというと、われわれは「世界」という言葉を持っていて、世界というものが実際にあるというふうな考え方でふだん生きているわけでありますが、永遠の真実を得た人のものの考え方からするならば、そういう言葉で「世界」と表されるようなものがあるわけではなしに、眼の前に机がある、畳がある、壁がある、蛍光灯があるというふうなこの世の中があるというふうにわれわれは考えているけれども、そういうものが全部壊れてしまって、眼の前の現実の世界があるというふうな状況が古仏心の心だ。「世界崩壊ス」というのは、われわれは「世界」という言葉を使ってこの世の中があるというふうな考え方をしているけれども、そういう「世界」と呼ばれるようなものがあるわけではなしに、机がある、畳がある、壁がある、蛍光灯があるというふうな、さまざまな事実が眼の前に現れていることであって、頭の中で考えた世界というふうなものはどこにもないという考え方をすることだと、こういうふうに漸源仲興大師が返事をした。

 「僧曰ク、甚麼ト為テカ世界崩壊スル」、そうすると、「なぜそんな形で世界が壊れてしまうんでしょうか。世界が壊れて現実が現れてくるということがあるんでしょうか」という質問をしたところが、「師云ク、寧ゾ我身無ランヤ」、「どんなに考えてみても、われわれが自分の体を持っているということを否定できない。われわれが自分の体を持っているということは、われわれが現実の世界の中に生きていて、生身の体として、人間として生きていることだ。そのことが「世界」というふうな頭の中で考えた言葉が消えてしまうということを意味する」と、こういう物語が仏教の世界に残っているわけであります。

 それに対して道元禅師が、「いはゆる世界は、十方みな仏世界なり、非仏世界いまだあらざるなり」、「いはゆる世界は」、われわれは「世界」という言葉を使っているけれども、その言葉としての「世界」によって表されるものは、「十方みな仏世界なり」、われわれの周囲にさまざまの方角がある。東西南北という四方と、西南、東南というふうな別の四つの四方と、四方と四方とが重なって八方があり、その上に上と下の二方があるので、「十方」という言葉であらゆる方角を指すわけでありますが、「十方みな仏世界なり」、あらゆる方角がすべて真実の世界である。「非仏世界いまだあらざるなり」、真実でない世界というものはこの世の中にはけっしてない。

 「崩壊の形段は、この尽十方界に参学すべし、自己に学することなかれ」、そこで、世界が崩壊するということの姿形というものはどんなものかということを考えてみるならば、「この尽十方界に参学すべし」、われわれが生きているあらゆる方角に広がっている宇宙そのものが世界というものが壊れた姿だ、世界が壊れて現実の世界が眼の前にある状況を意味するというふうに理解すべきであって、「自己に学することなかれ」、自分の頭で考えた解釈で、こうであろう、ああであろうというふうに理解すべきではない。

 「自己に参学せざるゆゑに、崩壊の正当恁麼時は、一条両条三四五条なるがゆゑに、無尽条なり」、そうして、自分自身の偏った考え方を捨てて、現実というものを勉強する立場が仏教の立場であるから、「崩壊の正当恁麼時は」、われわれが現実の世界に生きているということに気がついて、「世界」という言葉がどこにもないように消えてしまう現在の瞬間というものは、「一条両条三四五条なるがゆゑに」、さまざまの具体的なものが一つ、二つ、三つ、四つ、五つというふうにたくさん眼の前にあるという情景にほかならないところから、「無尽条なり」、「世界崩壊ス」という言葉の意味は、この世の中にはさまざまのものが無数に存在しているというふうな現実の世界そのものである。

 「かの条条、それ寧無我身なり、我身は寧無なり」、そこで、われわれの生きているこの世界にさまざまのものが具体的に存在しているけれども、そのように具体的に存在しているさまざまのものは、「それ寧ゾ我身無ランなり」、漸源仲興大師の言葉を借りていうならば、どんなに疑ってみても、この生身の体の人間がここにいるということは否定できない。それが「寧ゾ我身無ランヤ」という言葉の意味でありますが、われわれはそういう世界に生きている。「我身は寧無なり」、したがって、われわれの体というものは、その存在をどうしても否定することができない。

 「而今を自惜して、我身を古仏心ならしめざることなかれ」、そこで、現在の瞬間における自分自身の存在というものに執着して、「我身を古仏心ならしめざることなかれ」、自分のこの生身の体が実は真実を得た人の心であるということを具体的に理解すべきではない。したがって、この自分自身の生身の体と永遠の真実を得た人の心とは同じものである。その二つのものが違うというふうな理解をすべきではない。

 「まことに七仏以前に古仏心壁豎す、七仏以後に古仏心才生す」、その点では、過去七仏といわれる七人の仏がおられる以前から、真実を得た仏の心というものはわれわれの生きている世界にはっきりと立っている。そうして、「七仏以後に古仏心才生す」、過去七仏がおられた後の時代においても、永遠の真実を得た人の心というふうな事実がわずかではあるけれどもこの世の中に生まれてきている。

 「諸仏以前に古仏心華開す、諸仏以後に古仏心結果す」、その点では、たくさんの真実を得た人々がおられる以前から、真実を得た人の心というものは具体的に現れていた。真実を得た人々が現れて以後においても、「古仏心結果す」、真実を得た人の心というものは具体的に眼の前に現れてきている。

 「古仏心以前に古仏心脱落なり」、そうしてみると、真実を得た人々の心というものが頭に浮かぶ以前から、真実を得た人の心というものはありのままの姿を見せてこの世の中に存在する。「古仏心脱落なり」というりは、「古仏心」というふうな言葉も要らなくなる、そこに現実があると、そういう主張であります。

 「正法眼蔵古仏心」

 「爾時、寛元元年癸卯四月二十九日、在六波羅蜜寺示衆」、そのときが西洋の紀元でいいますと一二四三年で旧暦の四月二十九日であったわけでありますが、六波羅蜜寺というのは京都にありました鎌倉幕府から派遣された武士の役所である六波羅探題という役所のそばにあった寺の名前であります。そこで、その六波羅蜜寺という寺の中でこの「古仏心」の巻が説かれた。

 恐らく六波羅探題には道元禅師を非常に尊敬している波多野義重という人がそこの長官として仕事をしておりましたから、恐らく波多野義重たちにこの「古仏心」の巻を説法するために六波羅蜜寺で「古仏心」の巻が説かれたというふうに理解することができるわけであります。

 以上が「古仏心」という巻の全体でありまして、真実を得た人の心というふうなものと、われわれが現に生きているこの現実の世界とは別のものでないと、こういう主張をしておられるわけであります。そうしてみると、われわれが朝起きて坐禅をして、朝ご飯を食べて、仕事に出かけたり、あるいは本を読んだりするような日常生活そのものが「古仏心」だというふうな理解にもなるわけであります。

 

 それでは、いちおう一つの巻が終わりましたので、ここで話のほうをとめまして、ご質問を受けるということにしたいと思います。何かありましたらどうぞ。

 

   六八ページの五行目の「而今を自惜して、我身を古仏心ならしめざることなかれ」とありますが、こういう言葉を読みますと、やはり道元禅師が修行者に向かって励ましているというか、頑張りなさいよというふうな励ましの言葉だと思うんですけど。そのまま受け取れば、古仏心になることは当然可能だということでもあって、何もどこかの偉い人だけがなっているということではないわけですね。

   そうです。だから「而今を自惜して」というのは、現在生きている自分を大切に考えて、そのことにばかり執着をしていて、そういうものから離れたようなことがあってはならないと、こういう意味になるわけです。

 だからこういう巻を読んで、『正法眼蔵』の文章を文字どおりに読んでいきますと、われわれが今日一般に仏教という形で想像している教えと実情が違うという問題があります。普通は、仏心といえば普通の人が持てないような立派な心があって、それがあるかないかという問題だというふうなとらえ方をするわけでありますが、道元禅師の理解は、仏教の教えというのは、そういう精神主義的な考え方ではなしに、われわれの日常生活の中で自律神経がバランスしていれば、そこに古仏心というものが当然現れているんだという主張になるということが実情だと思います。

   それから前の大証国師という方は、南陽慧忠禅師という方で、「弁道話」とか「即心是仏」の巻に登場されるわけですが、この方は先尼外道を批判したということで非常にイメージが強いわけですけど、その先尼外道を仏教が否定しているということを頭に入れながら生きていけば、それはそれでまた仏教の正しい行き方なんですが、この功徳というのはどんなところに……。

   そこでね、先尼外道だけを否定したのでは仏道にならない。先尼外道と断見外道と両方否定したところに仏道があるわけです。それは今日の言葉でいえば、観念論と唯物論を否定したところに真実があると、そういう主張なんです。

 この考え方は世界の歴史を決める上で非常に重要な考え方です。今日欧米の社会というものは観念論か唯物論かという二つの哲学で成立しているわけです。ところが、観念論と唯物論は理論的には絶対に一つにならない。だからある人は観念論を信じている、ある人は唯物論を信じているということで、何千年にもわたってどっちが正しいということで争ってきたのが今日のわれわれの社会だということになるわけです。古代インドにも似たような対立があったけれども、釈尊はその対立を解決するために仏道を説かれたと、こういうことになるわけです。

   それから同じ六九ページに「世界崩壊」と書いてありますね。これは頭の中で考えたある種のイメージといいますか、先入観がすべてではなくて、現実はそれを乗りこえるところにあるというお話でありまして、私は東京板橋区に住んでいますが、先日、十五歳の高校生が両親を殺害したという、すごくショッキングな事件があってびっくりしましたけど。

 あの高校生は「もう俺の将来はだめだ」って思い詰めて、それでひと思いにということでああいう事件が起こったらしいんですね。

 大人になりますと、俺の将来はもうだめだと思っても、お酒を飲んだりして適当に何とかやり過ごすわけですけど、逆に中学生とか高校生というのはまだ幼いですから、そういう点で、思い詰めると非常にショックな面もあるわけですね。

 やっぱり前途ある若者がそういうふうな自分の将来が見えないというか、あるいは絶望してしまっているというふうな、そういう人生というのは非常に痛ましいわけですけど、先生からご覧になっていかがですか。

   これはね、自律神経に対する信仰が欠けているところから出て来るというふうに見ていいです。人間が自律神経が欠けていると、どんなことでもする。「まさか!」と思うようなことをやるんですよ。それほど自律神経がバランスしていないということは事実上怖いことなんです。だからそういう危険性を人間は持っているんです、この世の中そのものが持っている、動物が持っているんです。

 だからそういう事実を知って、じゃわれわれはどういう生活で、どう規律しなければならないかというところにまともな生活が生まれてくるということになるわけです。自律神経がバランスしていなければ、人殺しであろうと、盗みであろうと人間は簡単にやりますよ。そういう性格を人間は持っているから、自律神経をバランスさせるということが人間の生活のためにいかに貴重かということが事実としてあると思います。

   わかりました。