では、次の巻に少し入っていきますか。それでは七一ページの「正法眼蔵菩提薩埵四摂法」という巻に入っていきたいと思います。

 「菩提」というのは真実ということであります。それから「薩埵」というのは、その真実を求めている人という意味でありまして、「菩提薩埵」というのは真実を求めている人という意味になりますが、「四摂法」の「摂」という字は自分をまとめるという意味で、自分をまとめる、バランスさせるために四つの方法があると、それが「菩提薩埵四摂法」という巻であります。

 この巻で、仏教で人間関係をまとめるための四つの方法が説かれている。それが、一は布施、二は愛語、三は利行、四は同事という四つのことになるわけであります。

 一の「布施」というのは、人々に何でも上げる、欲張らないという態度であります。それから二の「愛語」というのは、やさしい言葉をかけるという意味であります。ですから朝出会った場合に、「おはようございます」といったり、別れ際に「さようなら」といったりするような言葉も当然含むわけでありまして、お互いが気持ちを和やかにするような言葉を各人が表すというふうな、人間のごく普通のあり方が「愛語」であります。それから三の「利行」というのは、ほかの人に役立つようなことをするという意味であります。それから四の「同事」というのは、ほかの人と同じことをやる。つまり、人々が一緒にいるときに、これこれのことをやろうかというふうな話が出たときに、「いや、自分はやりません」という態度よりも、なるべくほかの人がやるのと同じような共同の動作をすべきだと、こういう考え方でありまして、このような四つの態度というものが人間社会において人間関係を非常に円滑にする大事な要素だという主張がこの「菩提薩埵四摂法」という巻の意味になるわけであります。

 そこで最初に、「一者布施、二者愛語、三者利行、四者同事」 という言葉をまず述べた上で、その後でこの四つの言葉について、一つ一つ説明をしていかれるわけであります。

 

 そこで七二ページのところでは、まず「布施」という言葉について説明が行なわれております。

 「その布施といふは不貪なり」、四摂法の中の布施という言葉、人々に何でも上げるという言葉というものは、貪らないことである。

 なぜ貪らないことが貴重かというと、これが人間の本来のあり方。「いやあ、そうはいかない。人間は欲が深いから、あれも欲しい、これも欲しいと、人が持っているものでも、もぎ取ってでも、騙し取ってでも自分のものにしたい」という状況もあるわけでありますが、それは人間として普通じゃない、自律神経がバランスしていないというところから、布施というものを非常に大切に考えて、「その布施といふは不貪なり」、貪らないことである。

 「不貪といふは、むさぼらざるなり」、したがって、「不貪」という中国の言葉を日本語に置き換えて、「むさぼらざるなり」、欲張らないことである。

 「むさぼらずといふは、よのなかにいふ、へつらばざるなり」、貪らないということの意味は、世間では、へつらわないという言葉があるけれども、それと同じ意味だ。つまり、何かを欲しいと思って人にお世辞をいうというふうなことをしないと、こういう意味であります。

 「たとひ四州を統領すれども、正道の教化をほどこすには、かならず不貪なるのみなり」、そこで、われわれの住んでいる世界の須弥山という山を中心にして東西南北に四つの大陸が広がっているといわれているけれども、その四つの大陸を統括するような天輪聖王というふうな人物といえども、「正道の教化をほどこすには」、正しい真実というものを教えようとする場合には、「かならず不貪なるのみなり」、けっして貪らないという態度があるだけである。

 「たとへば、すつるたからを、しらぬ人に、ほどこさんがごとし」、そこで、自分が持っている価値のあるもので、自分は要らないから捨ててもいいというふうなときに、「しらぬ人に、ほどこさんがごとし」、ぜんぜん知っていない人がそのものを欲しがったら、快く上げるというふうな態度である。

 「遠山のはなを如来に供し、前生のたからを衆生にほどこさん、法におきても、物におきても、面面に布施に相応する功徳を本具せり」、そこで、仏教経典の中では、「遠山のはなを如来に供し」、遠い山から取って来た花を釈尊に差し上げるとか、「前生のたからを衆生にほどこさん」、その点では、過去において自分が得た価値のあるものをたくさんの人々に与えるというふうな行ないも、「法におきても、物におきても」、釈尊の説かれた宇宙の原則に従っても、また物質の世界を基準にして考えてみても、「面面に布施に相応する功徳を本具せり」、各人が人に物を上げるというふうな態度にちょうど適合したような徳というものを本来自分のものとして持っている。

 だから、貪らないとか、人に物を上げるというふうなことも、われわれの本来の性質だと。つまり、自律神経のバランスが失われて、本来の性質が失われてしまうと、自分のものを人にやるのは絶対に嫌だというふうな考え方が出て来る。

 「我物にあらざれども、布施をさへざる道理あり、そのもののかろきをきらはず、その功の実なるべきなり」、そこで、自分の持っているものではないけれども、「布施をさへざる道理あり」、人に物を上げることを邪魔をしないというふうな基本的な考え方がある。

 たとえば自分の家の庭に小石が落ちていた。誰かがその石を欲しいと思ったら、その石が自分ものだということではないけれども、「どうぞお持ちください」というふうな態度をとることが人間として当たり前だ。そのことが「我物にあらざれども、布施をさへざる道理あり」。「そのもののかろきをきらはず」、その欲しいものを上げるというふうなことが、価値がないから上げても意味がないというふうな考え方ではない。「その功の実なるべきなり」、人に物を上げるということは、それが価値のあるものであろうと、価値のないものであろうと、それなりの意味を持っている。

 「道を道にまかするとき、得道す」、そこで、この世の中には宇宙の真実といってもいいような守るべき基準がある。自分自身をその守るべき基準に素直に合わせていくことによって、真実というものが自分に具わる。

 「得道のときは、道かならず道にまかせられゆくなり」、そこで、本当の真実を得た瞬間というものは、「道かならず道にまかせられゆくなり」、真実というものは真実としてひとり歩きをするのである。だから人間が良心を持っていて、やりたくないけれども我慢してやるというふうな形のものではない。自分自身の体の状態、心の状態が本来の状況の中に置かれているならば、自然にやる動作が四摂法のような四種類の行ないとして出て来るのである。

 「財のたからにまかせらるるとき、財かならず布施となるなり」、したがって、宝と呼ばれる価値のあるものがありのままの働きをするときに、その価値のあるものは必ず人に与えられるというふうな働きをするのである。

 「自を自にほどこし、佗を佗にほどこすなり」、その点では、自分自身が自分の持っているものを貪らずに人に与えるということもあるし、ほかの人がまたほかの人に何かを上げるというふうなことも頻繁に行なわれる。

 「この布施の因縁力、とほく天上人間までも通じ、証果の賢聖までも通ずるなり」、このように人に物を上げるということから生まれてくる原因、あるいは環境としての力が、「とほく天上人間までも通じ」、そのような人に物を上げるということから生まれてくる力というものが、遠く天上の世界にいる神々や、あるいは地上に住んでいる人間にまでも力を及ぼし、「証果の賢聖までも通ずるなり」、真実を得た人々として、優れた人、賢い人と呼ばれている人にも届くのである。

 「そのゆゑは、布施の能受となりて、すでに縁をむすぶゆゑに、ほとけのたまはく、布施する人の、衆会のなかにきたるときは、まづその人を諸人のぞみみる」、このような事情があるところから、「布施の能受となりて」、物を与える人となったり、あるいはそれを受ける人となったりして。「能」というのは与えるほうを意味するわけでありますが、「受」というほうは受けるほうを意味するわけであります。「すでに縁をむすぶゆゑに」、与えられる、受け取るというふうな形で、そこに人間関係が生まれるところから、「ほとけのたまはく」、

釈尊は次のようにいわれている。「布施する人の、衆会のなかにきたるときは、まづその人を諸人のぞみみる」、人に物を上げようという気持ちで釈尊が説法しているような場所に人が来ると、そこに集まった人々はその人に物を上げようとして来た人々を眺める。「まづその人を諸人のぞみみる」、その人もほかの人々を眺める。

 「しるべし、ひそかにそのこころの通ずるなりと」、その点では、物を上げようとしてやって来た人と釈尊の教えを聞いている人々との間に自然に心のつながりが生まれるのである。

 「しかあればすなはち、一句一偈の法をも布施すべし、此生佗生の善種となる」、そこで、たった一つの言葉、たった一つの詩というものに関連しても、そのような言葉や詩に含まれている教えというものを人に与えるべきである。そのことがわれわれの生きているこの現在の瞬間においても、また将来の瞬間においても自分の幸せをつくる善い原因になる。

 「一銭一艸の財をも布施すべし、此世佗世の善根をきざす」、その点では、その与えるものが一銭であろうと、一本の草であろうと、そういうごくわずかの値打ちのものであろうとも人に与えるべきである。「此世佗世の善根をきざす」、あまり高い価値のないものであっても、それを人に上げることによって将来の善い行ないをする原因になる。

 「法もたからなるべし、財も法なるべし、願楽によるべきなり」、そこで、釈尊がお説きになった真実も非常に大きな価値であろうし、また人間生活に必要な物質的なものも釈尊が与えられた教えと同じ価値を持っている。「願楽によるべきなり」、人々が何を願い、何を喜ぶかということによって、その対象が変わってくる。

 「まことにすなはち、ひげをほどこしては、もののこころをととのへ、いさごを供しては、王位をうるなり」、その点では、ひげを人に与えて家臣の心をつかんだ中国の皇帝の物語もある。「いさごを供しては、王位をうるなり」、また、釈尊に差し上げるものがなかったので、砂を拾って釈尊の応量器の中に移した子供が将来国王になったというふうな物語も残っている。

 「ただかれが報謝をむさぼらず、みづからがちからをわかつなり」、その点では、そういう物を人に与えた人々は、与えたことによるお礼を欲しがっていたわけではない。ただ自分ができることをほかに分けようとして分けただけのことである。

 「舟をおき、橋をわたすも、布施の檀度なり」、そこで、川があって舟がないときに、舟をそこに備えるとか、あるいは橋をつくって人が川を渡りやすいようにするというふうなことも、人に物を与えるという仏教上の行ないである。

 「もしよく布施を学するときは、受身捨身、ともにこれ布施なり」、その点では、人に物を上げるということの実態がわかってくると、自分がこの世の中に体を受けている、人間として生きていると、そのことも布施という事実の一部である。自分の体がなければ人に物を与えることができないというふうな形で、自分が人間としての体を持っているということも布施であるし、またある場合には自分の体を犠牲にして人を救うというふうなこともやはり人に物を与えることである。

 「治生産業、もとより布施にあらざることなし」、その点では、生活を維持する、あるいは人間社会で必要なものをつくるというふうな仕事も、本来人に物を与えることでないというふうなことは一つもない。

 「はなを風にまかせ、鳥をときにまかするも、布施の功業なるべし」、そこで、花が風に吹かれて散っていくときにも、もったいないというふうな形で風に吹かれていく花を惜しがるというふうな気持ちを持たず、鳥が飛んで来る来ないというふうなことも、春になって鳥が飛んで来る、秋になり冬になると鳥が南のほうに飛んで行くというふうなことも、ありのままの情景にまかせるというふうなことも、「布施の功業なるべし」、人々に物を与えるというふうな行ないの一つの要素である。

 「阿育大王の半菴羅果、よく数百の僧衆に供養せし、広大の供養なりと証明する道理、よくよく能受の人も学すべし」、仏教経典の中にはアショカ大王という国王が半分の菴羅果という果物を人々に与えたところが、数百人の僧侶の人々にそれを分けて与えることができたという物語があるけれども、そのような話も、「広大の供養なりと証明する道理」、ほんのわずかの果物をたくさんの僧侶に分けるというふうなことも非常に大切な供養であるというふうなことを正しいとしている考え方が、「よくよく能受の人も学すべし」、そういう考え方があるのであるから、与える人も、受ける人も、その考え方を勉強すべきである。

 「身力をはげますのみにあらず、便宜をすごさざるべし」、人間の体が持っている力というものを一所懸命励ましてそういう行ないをするだけではなしに、「便宜をすごさざるべし」、ちょうどそういう機会があったら、すぐその動作をすべきである。

 「まことにみづからに布施の功徳の本具なるゆゑに」、人間は誰でも人に物を上げたいという性質を持っている。そういう性質を本来もっているということが、われわれの人間の実情である。そこで、「いまのみづからはえたるなり」、現に現在の瞬間において自分自身が人に物を上げるという気持ちが持てるということは、われわれ人間が本来そういう気持ちを持っているということにほかならない。

 「ほとけののたまはく、於 其自身尚可受用、何況能与 父母妻子」、釈尊の述べた言葉の中に、何か価値のあるものは、自分自身がそれを受け取って使うというふうなこともできるけれども、さらに父母、あるいは妻や子に与えるということも同時に当然可能である。

 「しかあればしりぬ、みづからもちゐるも布施の一分なり、父母妻子にあたふるも布施なるべし」、そこで、何か物を自分自身で使うことも布施の一つの例である。父母や妻や子に与えるのも布施の一つの例である。

 「もしよく布施に一塵を捨せんときは、みづからが所作なりといふとも、しづかに随喜すべきなり」、自分がたまたま人に何かを与えようとするときには、その与えるものがほんのわずかのものであっても、そうしてそれは自分がやることではあるけれども、自分が何か人に上げる動作ができたということを静かに心から喜ぶべきである。

 「諸仏のひとつの功徳を、すでに正伝しつくれるがゆゑに、菩薩の一法を、はじめて修行するがゆゑに」、なぜそういうことをいうかというと、「諸仏のひとつの功徳を」、たくさんの真実を得た方々が持っている一つの性質というものを、「すでに正伝しつくれるがゆゑに」、自分が正しく伝え持っているためにそういう動作ができたということを喜ぶべきである。「菩薩の一法を、はじめて修行するがゆゑに」、その点では、仏教修行をしている人の一つの真実というものを初めて自分は実行することができるのであるから。

 「転じがたきは衆生のこころなり」、変えることのできないものの一つとして、たくさんの人々の心がある。

 「一財をきざして衆生の心地を転じはじむるより」、その点では、一つの価値のあるものを材料にして、「衆生の心地を転じはじむるより」、たくさんの人々の気持ちを変えるというふうなことを始めとして、「得道にいたるまでも転ぜんとおもふなり」、仏道修行の結果、真実を自分のものにするという時点まで、衆生の心を次々に変えていこうと思うべきである。

 「そのはじめ、かならず布施をもてすべきなり」、そうして、そういう努力の最初には、必ず人に物を与えるということが行なわれる。

 「かるがゆゑに六波羅蜜のはじめに、檀波羅蜜あるなり」、そこで、仏道の世界には六波羅蜜という六種類の得が主張されているけれども、その六種類の行ないの一番最初にあるのが布施という行ないであり、檀波羅蜜と呼ばれる行ないである。

 「心の大小ははかるべからず、物の大小もはかるべからざれども、心転物のときあり、物転心の布施あるなり」、そこで、心と呼ばれるものも、それが大きいのか小さいのかは想像することができない。そうしてまた物質についても、その価値が大きいか小さいかというものは想像することができない。しかしながら、「心物ヲ転ズルのときあり」、心というものが物質の価値を変えてしまうことがある。価値のあるものを自分がジーッと持っていて使わなければ、宝の持ちぐされになるけれども、欲しがる人に与えてやれば、それが物として生きる。「物心ヲ転ズルの布施あるなり」、また、何か持っているものを人に上げることによって自分自身の気持ちがまともになるというふうな事実もあると、こういうことを述べておられるということになります。

 そこで、この記述なども、人間関係の一つとして、人に物を与えるということがどんな内容を持っているかということを、きわめて具体的に、また現実的に書いておられるという点で、道元禅師が人間というものを非常によく知っておられたというふうな事情が読み取れるということがあるわけであります。

 

 きょうはいつもより少し時間が経ちましたが、ここで話のほうをとめまして、またご質問を受けるということにしたいと思います。何かありましたらどうぞ。

 

   先ほど先生のお話で、布施ということは、挨拶をすることもその一つだというお話がありましたね。私も毎日家の周りを朝ジョギングしているんですけど、そのときに、前を行っている人にも「おはようございます」といって、それから前から来る人にも「おはようございます」というんですね。大体朝歩いている人は結構老寄りが多いんですけれども、五十過ぎ、場合によっては七十ぐらいの人もいらっしゃいますけど、中には正面から来て、挨拶をしても、挨拶をしない結構な年の人がいるわけですが、こういう人はどういうふうに見たらよろしいんでしょうか。

   (あっさりと)自律神経がバランスしていない。(笑)

   そういう人は、恐らくその親も挨拶をしないような教え方をその人にしたんじゃないかというふうに考えていますけど。

   それはあると思います。

   この布施というのは、寄付をするようなことも……。

   それも含まれています。

   西洋では寄付をすることは貴族の行為だというふうにいわれていますけれども、やっぱり向こうでも尊いことだというふうに……。

   それはあると思いますけれども、向こうの物を上げるという考え方は、高い立場の人が低い立場に恵むとか与えるとかいう意味が強いようです。仏教の場合には、同じ立場に立っている人が要らないものを上げるというような関係として理解されていますが、欧米の場合には、地位の高い人と地位の低い人とがいて、高い人が低い人に上げるという意味がある。

 だから欧米の社会でチップという風習が盛んなのは、その考え方と関係があると思います。

 問  ああ、やっぱり高い立場からチップを上げると……。

   そう。だからその点では、ドアを開けたら閉めたりしている人は貧しい、身分の低い人だと、かわいそうだから上げると、こういうふうなことになるわけです。

 そういう考え方は、西洋の精神的な宗教と関係があるように思います。つまり、自分たちは地位が高い、だからかわいそうな者に物をやるんだというふうな考え方が基礎にあると思います。

 精神的な人は、自分の地位は高い、だから高い地位の人間が低い地位の人間にやるんだと、こういう考え方が強いようです。

   ああ、「恵む」という。布施というのは、いまおっしゃったように、要らないものを上げると。

   そういう考え方ですね。

   じゃぜんぜん違いますね。

   ですからものの考え方の基礎が違う。

   ああ、やっぱり違うんですね。ありがとうございました。

   「ノブレス・オブリージュ」という言葉がありまして、日本語に訳しますと、「高い地位に伴う義務」ということらしいですけど。

   ああ。だから私はあのチップという風習はあんまり好感が持てない。で、日本でチップというのがないのはたいへん結構だと思う。ただ、日本でも封建社会のときにはあったんだと思う。

   質問というわけじゃないんですけどね、前に京セラの会長の稲盛和夫さんの本を何冊か読んで、その中でちょっと印象に残っているのは、彼が出家して初めて一回目の托鉢のときですが、冬の寒いときに先輩のお坊さんと一緒に行ったんですけど、コンクリートのところをわらじで歩くから、お昼くらいになるとやはりすれて血がかなり出て。それで水を飲んで公園のところで休んでいたらしいんです。そしたら公園のトイレをお掃除していたおばさんがひょこひょこっと来て、その稲盛さんのずた袋に五百円玉をポンと入れて、それで何事もなかったようにまたスタスタ行ってしまって、それにひどく感動したと書いてある本を見て、私もそれでまた感動したんですね。あの人は今度完全に退職して、たしか出身大学は鹿児島大学だったと思うんですが、そこに退職金を全部寄付したというので、立派だなあと思ったんです。何ヵ月か前に出た堤義明さんとはまったく正反対の生き方をしているんじゃないかなと思ったんですけど。

   そうそう。だからそういう点で、どんな生き方をするかということは、さまざまですすよ。

 ただ、やっぱり与える立場になるほうが幸せだと思うね、与えられる立場になるよりも。どうもそういう傾向はあるように思います。

   じゃ、そういうおばさんでも、五百円玉を上げたって、その人は幸せなんですかね。

   うん、そうそう。そういうことになると思う。

 電車の中に老人や足の不自由な人なんかの座る席があるけれども、あれが始まった頃は、まず譲らなかったけど、最近はわりあい譲る人が増えてきている感じがあるんで、時代が変わってきたなという感じはありますね。

   大阪にかつて布施市というのがありまして、それでいま東大阪市に変わりましたけどね。だから布施というのは地名ではあるにはあるわけですね。それから長野に小布施町という観光の町がありますね。だからああいう布施というのが地名になっているということは、やっぱり仏教の言葉が日常生活というか日本の中に取り入れられている。

   それは確かにあると思いますよ。だから日本の社会は鎌倉時代以降、江戸時代の末までは仏教思想にかなり強く影響された社会だったと思います。

 だから江戸の文化にはそういう考え方が残っていたんだと思います。で、それを薩摩、長州の人たちが来て壊すことによって明治維新が生まれ、西洋文化を勉強する機会が与えられたということですから、明治維新を境にして仏教思想に対する態度が日本社会では完全に変わったということがあると思います。

   道元という人は鎌倉時代の人ですから、資本主義社会とか、市場経済とか、そういうことはまったくなかった社会ですけど、たとえばきょうの「布施」という言葉は、まあ仏教とはぜんぜん場違いな話なんですが、共産主義社会ということとは違うわけですか。

   違うと思うね。

   きょうの本と関連がないんですけれども、前に先生が、ご自宅に週の半分いらして、週の半分こっちに来ている、そのときよりもずっとここにいるようになっていいという話がございましたけど、自宅のほうにいるとやっぱりいろいろ煩わしいことがあるというようなことをおっしゃったんですが、失礼でなかったら、具体的にどういうことが煩わしいのかを……。

 答  その点では、やっぱり人と一緒に暮らしていると気を遣いますよ。

   でも、ここでも人がいる……。

   それはまあたくさんの人に気を遣うけれども、やっぱり家族に対する気の遣い方と少し違うんじゃないかな。だから家庭生活というものは非常に生活しやすいという面と、別の意味でそうでない面と、両方あるように思います。

 その代わり、こういうところに住むと、不便は不便です。それで自分が家でやったことがないのをやりますからね。

 私は服をつくるときなんかでも、家内が服をつくれというから、「ハーイ」といってつくっていた。だから自分でつくったことがないから、自分ひとりで生活していると、服をつくろうという気が起きないね。だから服はだんだん古くなっていくから、困るなとは思うけれども、自分でそういうものを用意してみようという気持ちが起きない。

   私なんかそれに関連して思い出すのは、旧制高校の最後の世代の方がおっしゃっていましたけど、旧制高校というのは男同士て寮生活をしていますね。で、それこそ好き勝手なことをやっているわけですけど、やはり同じ価値感というか、同じ目標に向かって一所懸命やっている仲間同士だから、それはそれで非常に強い連帯感があって、その人たちが家族を持ち、家庭ができると、またそれはそれで別の気苦労もあると。まあどっちがいいかわからないんだけれども。

 やはりこういう道場というもの、修行の場というものを、クラブかサークルのように考えれば、先生のいわれる意味もそれなりにわからないわけではないですね。多少関係するとか、多少結びつくと。

   だからね、出家というのは苦しい、厳しいように世間では印象を受けているけれども、むしろ楽になるね、正直いうと。束縛がなくなる。だから「こんな自由な世界でいいのかな」と思うくらい束縛が消えますよ。で、束縛が消えるということは、寂しさでもあるのかもしれない。だけど束縛のない生活も楽は楽だという感じはありますね。

   たとえば権力なんかを握って、社会的な意味での黒幕になるなんていう人もかつてはいたわけで、いまはあんまりそういう人はいませんが、ああいう生き方なんていうのは先生からご覧になってどんなふうにお考えになりますか。

   私も若い頃は、そういうことが人間社会の当然の姿だと思っていたけれども、今日の立場からすると、やっぱり「余分なことで苦労している」というふうな印象が強いです。

 だから、いろいろ欲しいもので努力することは、それに縛られていることだから、自由な生活からは切り離されているなという印象があります。

 

 それでは、時間がきたようですから、普回向を唱えて終わりにしたいと思います。

普回向 唱和