開経偈 唱和
郵便事業の民営化は、わずか五票の差で衆議院を通過したようでありまして、まあ通過したことはよかったんだろうと思いますが、参議院に行って否決される可能性が強いと。本来、衆議院で通った法案が参議院に行って否決された場合には、もう一度衆議院に差し戻して、そこで可決されれば法案は通るわけでありますが、五票の差では、恐らく非常な駆け引きが行なわれて、どっちに決まるかわからない、コストばかりかかるというふうな状況だとしますと、もし仮に参議院で否決された場合には、やはり新聞でもぼつほついわれ始めているように解散ということがありうるというふうに考えられるわけであります。
ですからその点では、政局がかなり緊迫した状態になるということが予想されるわけでありまして、小泉内閣も末期に差しかかって、際どいところに進みつつあるということがいえるのではないかというふうな見方をしております。
それではまたこの本のほうに入ってまいりますと、きょうは七八ページの「愛語」という言葉の説明になるわけであります。
この「愛語」という言葉は、「四摂法」の中の二番目に出て来る教えでありますが、どういうことをいうかというと、やさしい言葉ということであります。人間関係というのは、厳しい言葉を使う場合も、やさしい言葉を使う場合もあるわけでありますが、やさしい言葉を使えというのがこの「愛語」という言葉の教えの意味であります。
子供に対しても、ほめてやる場合と、叱りつけてけなす場合と、どちらが教育にいいかというと、私はやはりちょっとでもいいところがあればほめてやって、子供が喜んでなお一所懸命にほめられたことをやるというふうな形のほうが人間関係をよくするという問題があるように思います。
それは子供の場合だけでなしに、大人の社会でも、欠点を見つけて、これはだめだ、あれはだめだというふうな態度よりも、少しでもいいところを見つけてほめてやるという形のほうが社会生活がうまくいくのではないかというふうな見方をしております。
この「愛語」という個所もやはりそのことを指しているのではないかと、こういう理解をしております。
それでは本文のほうを読んでいますと、
「愛語といふは、衆生をみるにまづ慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり」、「愛語」という言葉の意味は、「衆生をみるに」、たくさんの人々に出会った場合に、「まづ慈愛の心をおこし」、やさしく相手をいたわるという気持ちを起こして、「顧愛の言語をほどこすなり」、相手の立場に立って、相手に対して親切な言葉を与えることである。
「おほよそ暴悪の言語なきなり」、別の表現をとれば、一般的に乱暴な、人を憎むような言葉を使わないことである。
「世俗には安否をとふ礼儀あり、仏道には珍重のことばあり、不審の孝行あり」、「世俗には」、一般の俗世間では、「安否をとふ礼儀あり」、「ご機嫌いかがですか」というふうな形で相手の状態を尋ねるという礼儀がある。「仏道には珍重のことばあり」、「珍重」というのは「お大事に」という意味であります。したがって、人々が別れ際に「お大事に」というふうな場合に使われるわけであります。それから「不審の孝行あり」、「不審」というのは両親に対して「いかがですか」という様子を尋ねる言葉でありまして、両親に対する態度としても、「いかがですか」という形でご機嫌を伺う習慣がある。
「慈念 衆生猶如赤子のおもひをたくはへて、言語するは愛語なり」、そこでたくさんの人々に対して、慈しみの心で取り扱うという態度が、「猶赤子ノ如シ」、ちょうど赤子をいたわるような態度の考え方を持ってものをいうことが「愛語」という言葉の意味である。
「徳あるはほむべし、徳なきはあはれむべし」、そこで、いい点があったならば大いにほめてやるし、いい点がない場合には、気の毒だという形で、同情的な言葉を与えるべきである。
「愛語をこのむよりは、やうやく愛語を増長するなり」、そうして、自分が相手に対してやさしい言葉を使うと、そのやさしい言葉を使ったということが、さらにやさしい言葉を使うというふうな形で、やさしい言葉を使う態度が増えていく。
「しかあれば、ひごろしられず、みえざる愛語も現前するなり」、そうして、ほかの人に対して親切な言葉を使っていると、ふだんは気がつかなかなったようなやさしい言葉、あるいはそういう言葉があるというふうにさえ思わなかったやさしい言葉が具体的に現れてくるものである。
「現在の身命の存せらんあひだ、このんで愛語すべし、世世生生にも不退転ならん」、そこで、現在の体や命が存続している間、好んでやさしい言葉を使うべきであるし、「世世生生にも不退転ならん」、長い期間にわたっても、やはりやさしい言葉を使うというところから、後退したり、転換したりしないということが「愛語」という言葉の意味である。
「怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむること、愛語を根本とするなり」、そうして、敵同士で戦っている敵味方の間でも、相手を降伏させる方法や、「君子を和睦ならしむること」、優れた人をお互いに仲良くさせるというふうなことは、「愛語を根本とするなり」、お互いにやさしい言葉をかけ合うというところから生まれてくる。
仏道ではこういう習慣があるわけでありますが、現実の仏道修行の世界で必ずそうかという問題を考えてみますと、私がドーゲンサンガという団体を国際的につくりまして、そこに所属する人たちが議論をするわけでありますが、場合によっては非常に極端な非難の言葉を与え合って、普通の俗世間よりも水準が低いというふうな事情も最近あったわけでありまして、そういう点を考えると、仮に意見が違っても、激しい言葉を使って争うというふうな態度は避けるべきだということが基本的な教えとしてあるわけであります。
「むかひて愛語をきくは、おもてをよろこばしめ、こころをたのしくす」、お互いに顔を見合いながらやさしい言葉をかけ合うと、顔の表情が喜びに満たされるし、心というものも楽しい状況になる。
「むかはずして愛語をきくは、肝に銘じ魂に銘ず」、ところが、直接面と向かってほめられるわけではないけれども、人からの言い伝えで「あの人があなたのことをこうほめていましたよ」というふうな情報を聞くと、「肝に銘じ魂に銘ず」、直接いわれたよりもさらに自分の心の中に喜びが生まれ、そのやさしい言葉の影響というものが体の中にまでしみ込んでいく、あるいは心の中までしみ込んでいく。「銘」という字は金属に字を彫るという意味でありまして、「肝に銘じ魂に銘ず」というのは、体の中にまでその影響が及ぶ、あるいは心の中にまで影響が及ぶと、こういう意味であります。
「しるべし、愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり」、そうして、やさしい言葉というものは、相手をやさしく取り扱うという心から生まれてくる。「愛心は慈心を種子とせり」、相手の人をやさしく取り扱うという心は、本来慈悲の心から生まれてきている。
「愛語よく廻天のちからあることを学すべきなり、ただ能を賞するのみにあらず」、そうして、やさしい言葉というものが天下をひっくり返すだけの力を持っているということを勉強すべきである。「廻天」というのは天地をひっくり返すという意味であります。で、やさしい言葉にはそれだけの力があると、こういう主張をしておられるわけでありまして、「ただ能を賞するのみにあらず」、そういう優れた行ないのできる人をほめるだけではなしに、現実の人間生活において状況を一変させるような力をやさしい言葉が持っていると、こういう解説をしておられます。
これなども人間関係の事実として実際にあるわけでありまして、相手の人を非難するよりは、相手の人の良いところを見つけてほめるということのほうが人間関係をよくするために役立つという教えは、いつの世でも通用するような原則だということがいえるわけであります。
その次にいきますと、八〇ページのところで、
「利行といふは、貴賎の衆生におきて、利益の善巧をめぐらすなり」、「利行といふは」、人のために役立つ行ないをするということは、「貴賎の衆生におきて」、人間社会には豊かな金持ちの人もいれば貧しい生活をしている人々もいるけれども、その豊かである、貧しいというふうなことにかかわらず、「利益の善巧をめぐらすなり」、どうしてあげたら相手の人のためになるかというふうな工夫をすることである。
「たとへば遠近の前途をまもりて、利佗の方便をいとなむ」、その点では、遠い人についても、身近な人についても、将来どうなるかというふうなことを注意深く見ていて、「利佗の方便をいとなむ」、何とかほかの人の役に立つように努力をする。
「窮亀をあはれみ、病雀をやしなふし」、中国では非常に困っている亀を助けてやったという例もあるし、また、病気の雀を助けてやったという例もある。ところが、その助けてやった亀や助けてやった雀のことが原因になって、そういう助けをした人々が幸せになったという物語が中国にあるわけでありますが、そのことを頭に置きながら、「窮亀をみ、病雀をみしとき、かれが報謝をもとめず、ただひとへに利行にもよほさるるなり」、そういう人々が困った亀を救ったり、あるいは病気の雀を看病してやったというふうなことは、「病雀をみしとき、かれが報謝をもとめず」、病気になった雀を見つけたときに、将来いいことをしてやれば何らかの報いがあるというふうなことを考えたわけではない。ただかわいそうだと思ったから助けてやっただけである。そのことを「ただひとへに利行にもよほさるるなり」、つまり、困っている亀や病気の雀を助けてやろうというだけの気持ちでそういう行ないをしたのである。
「愚人おもはくは、利佗をさきとせば、みづからが利、はぶかれぬべしと」、そうして、愚かな人々は次のように考えるであろう。ほかの人の利益を先に考えていると、自分の利益が犠牲になってしまうだろうと、こういうふうに考える。
これは、われわれでも普通に考えると、そういうことになる。人様のお役に立っているよりは、まず第一に自分を大事にして、というふうな考え方があるわけでありますが、そういうごく社会の普通の考え方を道元禅師は「愚人おもはくは、利佗をさきとせば、みづからが利、はぶかれぬべしと」。
「しかにはあらざるなり」、ただ、道元禅師が世間の実情を見ていると、そうではないと。
「利行は一法なり、あまねく自佗を利するなり」、人のために何かをしてあげるという行ないは、一つの行ないという事実である。「あまねく自佗を利するなり」、だからその人に利益を与えようという行ないは、自分の行ないでもあるし、人のための行ないでもあるから、たった一つの行ないであって、相手の人の役に立つというだけではなしに、自分自身にも役に立つということが実情である。
これは、江戸時代のいろはがるたに「情けは人のためならず」という言葉があるわけでありますが、人のために一所懸命尽くしていると、いつかその人のために尽くした行ないが自分に戻って来てしまうと、そういう事実がわれわれの住んでいるこの社会にはあるという意味でありまして、その点では、一つの行ないであるから、人のために役に立つと同時に、自分自身のためにもなる。
そのことは、ほかの人のために何かしてあげようというふうな余裕のある人は健康でいられる。人にために何かしてやるよりはまず自分のことだという考え方を持っている場合には、人間の自然な感情がゆがんでくるから、健康の維持にも不適当な状況が出て来ると、こういう意味であります。
「むかしの人、ひとたび沐浴するに、みたびかみをゆひ、ひとたび飡食するに、みたびはきだせしは、ひとへに佗を利せしこころなり」、昔の人というのは、中国の役人でよその国の地域の政治をしていた人の話でありまして、その土地の人が相談に来ると、入浴しているときにも、入浴を途中でやめて出て来て応対した。客が二度三度と来ると、そのたびに入浴をやめて客に応対した。それから食事をしているときに、客が訪ねて来ると、自分がいま食べているものを口から出して、客に応対して、ほかの人の利益になるような努力をした。
「ひとの国の民なれば、をしへざらんとにはあらざりき」、外交官としてよその国に出かけているわけでありますが、ほかの国の人々であるから教えなくてもいいというふうな考え方ではなかった。
「しかあれば怨親ひとしく利すべし、自佗おなじく利するなり」、そこで、親しい人だけでなしに、憎しみを持っている人に対しても同じように利益を与えるべきである。したがって、自分自身も、自分以外の人も、同じように利益を与えるのである。
「もしこのこころをうれば、艸木風水にも、利行のおのれづから不退不転なる道理、まさに利行せらるるなり」、こういう気持ちがわかってくると、単に人間同士だけではなしに、草や木や風や水や、そういう自然のさまざまのものに対しても、利益を与えようというふうな気持ちが自然に生まれてきて、その気持ちが後退したり、転換したりすることがないという現実があって、そのような原則がさらにほかの人のために役立つことによって増大していくのである。
「ひとへに愚をすくはんといとなむべし」、そこで、何とかしてほかの愚かな人々を助けてやろうという努力をすべきである。
こういう形で「利行」という人間関係の一つの態度が説かれているわけであります。
それから八二ページにいきますと、今度は「同事」という徳目が説かれております。この「同事」というのは、ほかの人と一緒のことをやりなさいと、こういう教えであります。
人間関係の中でも、自分はほかの人と違うということで、ほかの人のやるようなことを一緒にやるのはつまらない、ほかの人のやらないようなことを自分はやりたいという態度の人もあるわけでありますが、ここで説かれているのは、逆に、特別に反対する必要がなければほかの人と同じことをやりなさいと、それが「同事」という言葉の意味であります。
そこで本文を読みますと、「同事といふは不違なり」、同じことをやるということは、お互いに違った行動をとらないことである。
「自にも不違なり、佗にも不違なり」、自分自身も素直について行くし、ほかの人のいうことにも素直について行くという態度である。
「たとへば人間の如来は人間に同ぜるがごとし」、その例として、人間社会の中で真実を得た人は、人間社会に逆らうことなく、人間社会の習慣と自分の生活とを一緒にしていくものである。
「人界に同ずるをもて、しりぬ同余界なるべし」、そうして、人間の世界においてさえ自分の行ないを周囲の状況に合わせていくのであるから、その点では、人間社会以外の世界でもやはり同じように自分の行ないと周囲の環境とを合わせていくことであろう。
「同事をしるとき、自佗一如なり」、同じことをほかの人と一緒にやるという状況がわかってくると、自分と他人との区別がないことがわかってくる。
これは仏道の世界で大事なことでありまして、普通は自分と他人とは違うと思っている。で、どっちが大事かというと、普通の場合には自分のほうが大事だと、自分以外の人は大事でないと、こう思うわけでありますが、人は頭の中で考えて、「いや、それではいけない。自分は粗末にして、ほかの人を大事にしなければ」という考え方もあるわけであります。
ただ仏道の世界では、自分と他人とは一つの宇宙の中に一緒に存在しているんだから、自分と他人とはそう区別のある存在ではないと、そういう考え方をとっていて、それが「自佗一如」という言葉の意味であります。そこで、「同事をしるとき、自佗一如なり」、ほかの人と同じことをやろうという心がけができてくると、自分とほかの人とがぜんぜん別のものでないということがわかってくる。
「かの琴詩酒は人をともとし、天をともとし、神をともとす」、中国では本当の教えと同じような態度で生活をする人々の間で、琴を弾くことを好む、それから詩をつくることを好む、それからお酒を飲むことを好むというふうな習慣があるわけであります。これは、中国の社会が乱れて、まともな考え方が通用しなかったときに、そういう人間社会の争いから抜け出して、自分の趣味を生かして静かに生きている人々がそういう主張をしたわけでありますが、そういう考え方を、「かの琴詩酒は人をともとし」、琴とか、詩とか、酒とかを大切にする人々は人間と友人関係を持つということに努力した。つまり、俗世間でいろいろな影響を受けている人々よりも、本当の人間として生きている人々を友人に選び、「天をともし、神をともとす」、天を友とし、神を友とするのである。
「人は琴詩酒をともとす、琴詩酒は琴詩酒をともとし、人は人をともとし、天は天をともとし、神は神をともとすることわりあり、これ同事の習学なり」、また、人間が琴や詩や酒を友とするのであるが、同時に、「琴詩酒は琴詩酒をともとし」、琴や詩や酒が琴や詩や酒そのものを友とし、「人は人をともとし」、人間が人間そのものを友とし、「天は天をともとし」、天が天そのものを友とし、「神は神をともとすることわりあり」、地上の神も地上の神と同じようなことをするというふうな基本的な原則がある。「これ同事の習学なり」、これがどういう社会でもほかの人と同じようなことをやるという勉強の仕方である。
「たとへば事といふは、儀なり、威なり、態なり」、そこで「同事」の「事」という言葉の説明をされて、「事」という言葉は姿でもある、それから威厳でもある、それから態度でもある、やり方でもある。そういう形で、同じことをやるということについても、同じやり方をするとか、同じように威厳のある態度を持っているとか、あるいはどういう形の行ないをするかとかいうふうなことを意味している。
「佗をして自に同ぜしめてのちに、自をして佗に同ぜしむる道理あるべし」、そこで、同じことをやる場合に、ほかの人のやりたいと思っていることを常に自分を曲げて同じことをやるという態度ばかりではなしに、ほかの人の心を入れ換えて、自分と同じような仕事をさせるというふうなこともありうる。そうして、「自をして佗に同ぜしむる道理あるべし」、それと逆に、自分自身をほかの人に合わせるというふうなやり方も同時にある。
「自佗はときにしたがふて無窮なり」、その点では、自分と自分以外の者との関係は永遠に続く関係である。
「管子云、海不辞水、故能成其大」、管子という人の書いた書物の中に次のようにいわれている。「海ハ水ヲ辞セズ」、海はいろいろな河から流れ入る水を断るということをしない。「故ニ能ク其ノ大ヲ成ス」、そういう形で海に流れ込んで来る水を嫌うということをしないから、海が大きな姿を示しているのである。
「山不辞土、故能成其高」、山も土を嫌がるということをしない。そこで山というものも高さを保っていることができる。
「明主不厭人、故能成其衆」、また、優れた君主というものは人間を嫌わない。人間を嫌わないから、たくさんの人々が集まって来るという結果が生まれる。
「しるべし、海の水を辞せざるは同事なり」、そこで、海が河から流れ込んで来る水を断ることをしないということが、同じ事柄を実行するという言葉の意味である。
「さらにしるべし、水の海を辞せざる徳も具足せるなり」、そこで、「水の海を辞せざる徳も具足せるなり」、つまり、水の側でも海に入ることを嫌がらないという性質を持っている。そのことは、この世の中の実情というものが海と水の間でも相互に共存共栄しているというふうな実情がある。したがって人間関係も同じように、同じ行ないを共同でやるという習慣を持つべきであると、こういう主張であります。
「このゆゑに、よく水あつまりて海となり、土かさなりて山となるなり」、そこで、この世の中にあるさまざまのものがお互いに嫌い合わない、お互いに一つに集まるというふうな性質があるところから、水が集まって海となり、土が重なって山となるというふうな自然の姿が眼の前に現れているのである。
「ひそかにしりぬ、海は海を辞せざるがゆゑに、海をなし、おほきなることをなす」、そういう事実から、心の中で次のようなことを知ることができる。「海は海を辞せざるがゆゑに、海をなし」、海は海を嫌っていないから海なんだ。海が海を嫌っていないから海が大きくなるという性質を具えている。
「山は山を辞せざるがゆゑに、山をなし、たかきことをなすなり」、それと同時に、山も山であることを嫌っていない。そこで山があり、山の高い事実もあるのである。
「明主は人をいとはざるがゆゑに、その衆をなす」、優れた国王というものは人間を嫌わない。したがって、たくさんの人々が集まって来る。
「衆とは国なり」、たくさんの人々が集まっているということは、国家をつくっているということを意味する。
「いはゆる明主は、帝王をいふなるべし」、ここで優れた国王という言葉の意味は、大きな広い国を統治する国王のことをいっているのであろう。
「帝王は人をいとはざるなり」、大きな国を支配する人は人間を嫌うということをしないのである。
「人をいとはずといへども 賞罰なきにあらず」、そうして、人間を嫌わないからといって、ほめたり、罰したりしないことが正しいわけではない。
だから人間社会でも、善いことをしたらほめる、悪いことをしたら処罰するというふうな事情があるわけでありまして、会社のような団体でも、よく働いた人に対して、それに報いるだけの金銭を支払うという習慣もありますし、社会の中で許されない行為をした場合には処罰を受けるというふうな制度もあるということになります。
したがって、人を嫌わないということが、ほめたり、罰したりしないということではない。
「賞罰ありといへども、人をいとふなし」、ほめたり、罰したりすることはあるけれども、人間を嫌うということをしないのである。
「むかしすなほなりしときは、国に賞罰なかりき」、昔、人間が非常に素直であったときには、国家にほめたり、罰したりするという制度がなかった。
「かのときの賞罰は、いまとひとしからざればなり」、そのときのほめる、けなすというふうな方法は、いまの方法と違っていた。
「いまも、賞をまたずして道をもとむる人もあるべきなり、愚夫の思慮のおよぶべきにあらず」、そこで現在でも、「賞をまたずして道をもとむる人もあるべきなり」、ほめられるということを期待していないけれども真実を求めている人もあるはずである。「愚夫の思慮のおよぶべきにあらず」、愚かな人々の考えでそのことの想像できるということはない。
「明主はあきらかなるがゆゑに、人をいとはず」、優れた国王は事態がわかっているから、人間を嫌うということをしない。
「人かならず国をなし、明主をもとむるこころあれども」、また人間の側からするならば、国家という組織をつくって、優れた国王を求める心がある。しかしながら、「明主の明主たる道理を、ことごとくしることまれなるゆゑに」、何か優れた国王であり、何が優れた国王でないかというふうな基本的な原則がまったくわかっていないところから、十分にわかっていることが珍しいから、「明主にいとはれずとのみよろこぶといへども」、よくもののわかった国王から嫌われないということで喜ぶという事情があるけれども、「わが明主をいとはざるとしらず」、自分が優れた国王を嫌っていないかどうかというふうなことがわかっていない。
「このゆゑに明主にも、暗人にも、同事の道理あるがゆゑに、同事は薩埵の行願なり」、そこで、優れた国王の場合にも、あるいはものが十分わかっていない人の場合にも、「同事の道理あるがゆゑに」、同じことをやるという基本原則があるところから、「同事は薩埵の行願なり」、人と違うことをやらないというふうな人間関係というものは、菩提薩埵、つまり真実を求めている人の行ないであり、願いである。
「ただまさにやはらかなる容顔をもて、一切に向かふべし」、そこで日常生活の中では、やわらかな表情をして、すべてのものに向かうべきである。そのことは、喧嘩腰で人生を生きるよりも、やさしい態度で人々と接して生きるべきであると、こういう主張であります。
そうして八五ページのところで、
「この四摂、おのおの四摂を具足せるがゆゑに、十六摂なるべし」、四つの人間関係をよくする方法の一つ一つの中に、やはり同じような四つのものが含まれていると、こういうことを主張しております。
それはどういうことかというと、同じ「布施」という言葉の中にも、人々にやさしい言葉をかけるというふうな性質のものもあれば、ほかの人のためにやるというふうな性質のものもある。あるいはほかの人と同じような行ないをするというふうな場合もある。
つまり、人に物を上げるという場合にも、それが純粋に物を上げるというふうな場合もあれば、物を上げるよりは、やさしい言葉をかけてやるというふうなこともあり、ほかの人のためになるという場合にも、何かを上げるのではなしに、行ないでほかの人に役立つというふうな事実もあり、また、ほかの人が何か一緒にやりたいと思っているときに、その人と一緒に同じことをやって相手と仲良くするというふうな関係もあるから、四つの人間関係をよくする方法、つまり「布施」も、「愛語」も、「利行」も、「同事」も、それぞれ一つ一つの中に布施、愛語、利行、同事というふうな内容が含まれている。そこで四・四の十六で、十六種類の人間関係があるのであろうと、こういうふうにいっておられます。
そのことを、「この四摂、おのおの四摂を具足せるがゆゑに」、つまり四つの人間関係をよくする行ないが、それぞれ四種類の人間関係をよくする行ないを含んでいるから、「十六摂なるべし」、四・四の十六の種類の行ないがあるはずであると、こういうことを述べておられます。
そうして、「正法眼蔵菩提薩埵四摂法」
「仁治癸卯端午日、入宋伝法沙門道元記」、これが一二四三年の旧暦五月五日、宋の国に行って釈尊の教えを伝えられて日本に戻って来た僧侶がこの道元禅師であるけれども、その道元禅師が以上のような教えを述べたという奥書が最後に書かれているわけであります。
それでは、一つの巻が終わりましたので、ここで話のほうをとめまして、またご質問を受けるということにいたします。何かご質問がありましたらどうぞ。
問 八五ページの「この四摂、おのおの四摂を具足せるがゆゑに、十六摂なるべし」ということで、いまの先生のお話で、たとえば「愛語」の中にも四つの内容を含んでいるということですが、具体的にはどういうふうになるんでしょうか。
答 そういう点では、言葉についても、やさしい言葉をかけるということは、人に何かを上げるという性質が含まれている。だから愛語の中に布施と呼ばれるような性質も含まれている。それから二番目には、やさしい言葉そのものを与えるという例もあるから、愛語が愛語を含んでいるというふうな理解の仕方もできるし、それが三番目の形としては、やさしい言葉というもので人を力づけるならば人が元気を出す、そういう点では人の役に立つという性質も持っているし、それからまた、やさしい言葉をかけるということについて、たくさんの人々がそういう態度をとっているときには、自分も同じ態度をとるというふうなことで、愛語の中にも同事というふうな例も含まれていると、そういう意味です。
問 わかりました。
問 きょうのお話を伺って、道修禅師の思想を勉強しておりますと、やはり仏教というのは基本的に性善説だというふうなことを感じましたが、それでよろしいですか。
答 そのとおりです。仏教は徹底的な性善説です。人間は本来普通にしていればいい人間なんだけど、普通にしていないから悪く見えるだけだと、そういう主張が仏教思想の基本にあります。
だからそういう点では、仏教思想というのは楽観論だと、何でも肯定する立場だということがいえるわけです。
問 たとえば「愛語」という言葉がありますけれども、道元禅師は常々これを実践しておられたと思うんですが、たとえば『正法眼蔵』の中に外道を批判するに当たっては「犬畜生」というような、われわれでもふだん使わないような言葉が出て来ますので。面と向かってそんな言葉を相手にぶつけたとは思えないんですが、やはり仏教からはずれた人のグループを批判する場合は、かなり激しい言葉を……。
答 そうですね。ですからものの考え方が違った場合には相手にしないという態度があるんです。だから、本当のものがわかった人同士で人間社会はうまくつくれるけれども、本当のことがわかっていない人と一所懸命何かやろうとしても、なかなかうまくいかないものだという諦めを仏教思想は持っているんです。だからそれを何とか一緒にやりましょうという態度は仏教ではとらない。
だから、この「愛語」「利行」「同事」というような言葉も、仏教を信じている人の間で通用する考え方というような性格があると思います。
問 多少週刊誌的で恐縮ですけれども、かつて横綱を張った若・貴兄弟というのがいますが、いまチャンチャンバラバラをやっているわけですね。ああいう罵詈雑言の投げつけ合いといいますか、ワイドショーとか、テレビ局からすればこれは面白いネタなんですが、はたから見ていると、何も兄弟でそこまでということがあるわけですね。当事者からすれば、もうここまで大っぴらになると、引に引けないという形にもなるし、結局、絶対に負けられないというか、引けないというか、そういうふうなこともいま現にあるわけですが、先生はどんなふうに考えられますか。
答 いや、世の中変なもので、兄弟がばかに仲の悪いことは幾らもあるね。他人同士よりも兄弟のほうが仲の悪い例は幾らもあります。そういう点では不思議なもので、同類同士で反発し合うと、手がつけられないような場合は幾らもあります。
それと、二人とも力士として勝つことだけに何十年も命を懸けてきた生活をしていますから、ちょっとやそっとでは負けられないというお互いの意地があるんだと思います。で、弟にしてみれば、兄貴が威張っていて、理不尽なことで抑えつけられたという恨みも残っているだろうし、兄貴のほうでは、弟のくせに俺より強くてけしからんと思っているかもしれないし、というふうないろんな関係があるんだと思いますよ。
問 人間関係の話ですけど、これは非常に大事なことだから伺いたいんですが、相手の人物に一人の人格を持った人間として接するか、あるいは物というか、歯車というか、まあいてもいなくてもどっちでもいいような、代わりのきく、そういう人間として接するか。これを考えてみた場合に、後のほうが、いまの世の中、「おまえら、いてもいなくても、代わりは幾らでもいるんだからね」というのはあらゆる職場でささやかれていると思うんですね。かといって、みんなに親切にするというわけにもいかないし、そこはさじかげんが必要かと思いますけれども、先生からご覧になっていかがですか。
答 それはやっぱり時代思想だと思います。第二次世界大戦に負けて、道義が崩れたんです、道徳というものが崩れたんです。そうすると何が残るかというと、物を中心にした競争であり、争いなんです。いまはその熾烈な時代だから、そういう例がもう随所に見られるというのが日本の今日の実情だと思います。
ただ、それがいつまでも続くかどうかという問題について、人間社会というのは意外によくできているようなところがあって、そういう状況が非常に激しくなっていくと、社会の内部から、これじゃいけないなという動きが出て来て、転換するという例が幾らもあります、歴史を眺めていくと。
だから日本の場合はどうなるか、まだ事実としてははっきりわかりませんけれども、完全に諦める必要はないということがあるんだと思います。
問 私は板橋区に住んでいまして、ご近所で高校生の息子が父親を殺害するという事件がありましたが、あの息子はお父さんにかなり恨みがあったみたいですけど、あるときお父さんが「俺のほうがおまえなんかより頭がいいよ」と言ったらしいんです。それで息子がカチンときて、ああいうふうな事件が起きたということですけど。
やっぱり親子であっても、いっていいことと悪いことがあって、本人の自尊心を粉々にするようなにするようなことはいっちゃいけないと思うんですけどね。先生はどんなふうに思われますか。
答 それはね、お父さん自身も社会でいじめられているんじゃないかと思う。会社で「おまえなんか役に立たないから、隅っこで座ってろ」というふうな扱いを受けて、「俺はもっと力があるんだけど、何で使ってもらえないんだ」と思って、悔しい時間を一日中ずっと過ごしていると、家に帰って来ると弱い者に対して威張りたくなるということがありうるんじゃないかと思う。
だから社会の出来事というのは全部因果関係がありますよ。だからお釈迦様が「因果の理法」というものをお説きになったのはけっして間違いじゃないんです。
で、そういうものが積もり積もってしまうと、もう人間で制御できなくなるから、非常に極端な形で暴発するということが実情だと思います。
問 八〇ページの四行目、「利行は一法なり、あまねく自佗を利するなり」とありますが、これなんかはやはり覚えて実行すると、自分に対してもプラスになると思うんですけど。
先日、商店街を歩いていましたら、久しぶりで会った人から声をかけられたんですね。それだけのことなんだけれども、やっぱり無視されるよりは声をかけてもらったほうがうれしいですね。だからそういう点で、やっぱり人に親切にするというか、なんとなく関係を持っていれば、商店街で出会ったときでも、声をかけてくれるわけだし、気持ちがいいですから、まさにこのとおりだなあと思いましたけど。
それと、やっぱり道元禅師という人はお寺の中にいた人みたいですけど、人生の達人といいますかね、それは感じますね。
答 いや、人間関係は実によく知っていた人だと思うな。だからこの「四摂法」の説明でも、われわれの日常生活にピッタリ合うような表現をしているように思います。
問 そうですね。
それから「同事」という言葉がございまして、同じことをするということだけれども、なるべく協調して、無理に異を立てないということが先生の訳に出ていますが、人間社会というのはグループとか、派閥というのがありますからね。派閥は派閥でまた同じことをしているわけだけれども、派閥が三つでも四つでもあると、同事といっても、違ったことになりますから。これはどういうふうに見たらいいですか。
答 そういう点では、仏教の教えの中に「異類中行」という言葉がありまして、ほかの人と違うけれども、それに合わせて生きていくという主張です。だから人間社会でも、仏教徒ばかりはいないから、仏教徒の考え方で生きていると、嫌な思いをしたり、不利な状況に追い込まれたりということは幾らもあるわけだけれども、それはもう無視して、仏道の生活をすべきだという主張です。
問 はい。ありがとうございました。
それでは、まだ少し時間がありますから、少し次に入っておきますか。それでは八七ページの「正法眼蔵葛藤」という巻に入っていこうと思います。
「葛藤」の「葛」という字は、くずという植物の名前でありますし、「藤」というのはふじという植物の名前であります。くずもふじもつるを枝から出してよその木にからみついて立っているという性質の植物でありますから、くずとふじとが一緒なると、つるつるとがからみ合ってどうにもほどけなくなる。そういうところから、そういうふうに非常に複雑になってほどけないものを「葛藤」と呼ぶわけであります。
ところが、この「正法眼蔵葛藤」の巻で述べられていることは、師匠から弟子に伝えられる教えというのものは何かというと、「葛藤」だという主張をしておられるわけであります。つまり、言葉で説明して簡単にわかるものではなしに、非常に複雑な現実というものが師匠から弟子へと教えられて伝えられると、こういう主張をしているわけでありまして、この辺が仏教思想というものが単に頭の中だけで考えた理論だけでもないし、ただ眼に見える、耳に聞こえる、手に触れるというふうな物質の世界だけでもなしに、非常に複雑な何かがわれわれの生きている人生の実体であって、それのわかってくることが、現実がわかることであり、仏道がわかることであると、こういう主張をしているということになります。
そこで最初のところを読んでおきますと、
「釈迦牟尼仏の正法眼蔵無上菩提を証伝せること、霊山会には迦 葉大士のみなり」、釈尊の正しい眼目の所在、つまり最高の真実というものを実際に体験して伝えたということに関連しては、「霊山会には迦葉大士のみなり」、霊鷲山で釈尊の説法が行なわれたわけでありますが、その教団の中で釈尊の教えを一番よく伝えた人は摩訶迦葉尊者であった。
「嫡嫡正証二十八世菩提達磨尊者にいたる」、その摩訶迦葉尊者に伝えられた教えが代々伝えられて、中国においては二十八代目の菩提達磨大師まで伝わってきた。
「尊者みづから震旦国に祖儀して、正法眼蔵無上菩提を、大祖正宗普覚大師に付属し二祖とせり」、そのインドの菩提達磨大師が、自分自身で中国に行って、伝統的な師匠の態度を示し、「正法眼蔵無上菩提を」、正しい教えの眼目の所在、すなわち最高の真実というものを、「大祖正宗普覚大師に付属し二祖とせり」、大祖慧可大師でありますが、大祖慧可大師に伝え、その大祖慧可大師を中国の二祖とした。
「第二十八祖はじめて震旦国に祖儀あるを初祖と称す、第二十九祖を二祖と称するなり」、そのようにして釈尊の弟子の摩訶迦葉尊者を第一祖として、二十八代目に当たる菩提達磨大師が初めて中国に行って伝統的な師匠の態度を示し、中国における初祖となった。そこでその次の第二十九祖の大祖慧可大師が二祖と呼ばれているのである。
「すなはちこれ東土の俗なり」、これはインドから東のほうにある中国における習慣であった。
「初祖かつて般若多羅尊者のみもとにして、仏訓道骨まのあたり証伝しきたれり」、この初祖である菩提達磨大師は、かつて自分の師匠である般若多羅尊者のところで釈尊の教えを受け、釈尊が説かれた真実の中心的なものを現実に体験として伝えられてきた。
「根源をもて根源を証取しきたれり、枝葉の本とせるところなり」、そこで、達磨大師がインドの真実を中国に伝え、中国の二祖、大祖慧可大師がそれを継がれたということを描写して、「根源をもて根源を証取しきたれり、枝葉の本とせるところなり」、菩提達磨大師から大祖慧可大師に仏道の中心的な教えが伝えられて、それ以外の宗派の基本となった。
「おほよそ諸聖ともに、葛藤の根源を截断する参学に趣向すといへども、葛藤をもて葛藤をきるを截断といふと参学せず、葛藤をもて葛藤をまつふとしらず、いかにいはんや葛藤をもて葛藤に嗣続することをしらんや」、そこで、菩提達磨大師から大祖慧可大師に何が伝えられたかというと、複雑なものが伝えられた、葛藤が伝えられたと、こういう主張をしているわけであります。
つまり、言葉で説明のできる単純な理論が伝わったわけじゃない。それからまた感覚的につかむことのできる物質が伝わったわけではない。その点では、頭の中の働きや感覚的な働きを乗りこえて、行ないの世界の中で生まれてくる非常に複雑なものが教えとして伝えられたと、こういう意味であります。そのことを「おほよそ諸聖ともに、葛藤の根源を截断する参学に趣向すといへども」、たくさんの真実を得た人々は、われわれが持っているさまざまの複雑なもの根本を断ち切るという勉強を目標にしてはきたけれども、「葛藤をもて葛藤をきるを截断といふと参学せず」、複雑なもので複雑なものを割り切るということが断ち切るということの意味だということを勉強せず、「葛藤をもて葛藤をまつふとしらず」、複雑なものと複雑なものとがからみ合っているというのがわれわれの生きている世界の実情だということがわからず、「いかにいはんや葛藤をもて葛藤に嗣続することをしらんや」、師匠も複雑なものを持っていた。その師匠の持っていた複雑なものが弟子に伝わったというふうなことがわかっていない。
「嗣法これ葛藤としれるまれなり、きけるものなし、道著せるいまだあらず、証著せるおほからんや」、その点では、「嗣法」、師匠から正しい教えを受け継ぐということが、非常に複雑なものが伝わっていくということだということのわかっている人が少ない。つまり、言葉では表すことのできない複雑なものが伝わっていく。
これは何を意味するかというと、やはり自律神経のバランスというものがその中心にあるという理解をせざるを得ないわけであります。つまり、交感神経が強くて、頭がよくて、いろんなことを頭で考えている状態の場合には、理論は伝わるかもしれないけれども、現実そのものは伝わらない。感覚が敏感で、いろいろなものを非常に鋭く受け取るけれども、それがどういうものなのかという理論的な構成が難しいという人もいるけれども、そういう二種類の人々は、現実という複雑なものがあって、それを師匠から弟子へ引き継ぐんだというふうなことがわかっていないと、こういう意味であります。
それで、「嗣法これ葛藤としれるまれなり、きけるものなし、道著せるいまだあらず、証著せるおほからんや」、法を継ぐということは、非常に複雑なものが引き継がれるのだということがわかっている人が非常に少ない、聞いた者もいない、自分でそのことを主張する人もいない。ましてそのことを自分の体験として実感している人々もけっして多くはない。
こういう形で、仏道の世界の真実というものは何かというと、複雑なものだと、こういう主張をしておられます。つまり理屈で割り切れない。感覚的につかむことができるかというと、感覚的につかんだものでは十分にその複雑なものを表現することができない。
だから坐禅の修行を通じて、自分自身の自律神経をバランスさせて、複雑なものを直観的につかむ能力を養うということが仏道修行であって、そのことができているかできていないかによって、この世の中をどう見ていくかということの基本的な態度が変わってくると、こういう主張をしておられるわけであります。
したがって、こういう文章を読んでいきますと、釈尊のお説きになった教えが、われわれが普通常識的に想像している教えと内容が非常に違うという問題があります。つまり、われわれは明治維新以来、欧米の学問を一所懸命勉強してきましたが、欧米の学問の中心は、理屈を中心にした教えと、眼に見える、耳に聞こえるという意味で物質を中心にした教えと、二つのものが非常に発達したわけであります。
その二つの発達した文化が、理論的にはどうしても一つになることのできない性質を持っておりますから、そこに今日の欧米の文化の悩みがあり、その欧米の文化が世界の中心に位置しておりますから、世界全体がその問題に悩んでいるのが実情だということがいえるわけであって、そういう複雑なものを理解し、解決するために菩提達磨大師がインドから中国に来られたと、こういう趣旨が説かれているということになります。
それでは、ここで話のほうをとめまして、また何かご質問がありましたら、お答えしようと思います。
問 前の部分で、八三ページの終わりから二行目のところに、「ただまさにやはらかなる容顔をもて、一切に向かふべし」というところはすごく感動したんですけど、いまの「葛藤」の最初のところの話を聞いていて思ったんですが、その「やはらかなる容顔」というのは「葛藤」ということととらえてもいいんですか。
答 というよりも、「やはらかなる容顔」のできる人は「葛藤」というものがわかっているということにはなります。
問 はい。どうもありがとうございました。
問 この「葛藤」の巻を以前伺ったときに、西嶋先生がこの「葛藤」の巻が理解できるのはだいぶ時間がかかるということをおっしゃったように思いますが、これはどういうことでしょうか。
答 これは正直いって、長いことこの「葛藤」の巻は何をいっておられるのかわからなかった。ただ、現実というものをとらえていくと、まさに「葛藤」なんだね。つまり理屈で説明できる部分もあるけれども、理屈の説明では十分というわけにいかない。だから今度は物の立場から物だというふうにとらえると、ある程度の説明はわかるけれども、本体を完全につかめたかというと、そうはいかない。そうすると現実のものは理屈でも完全には説明できない。感覚的に外から見ただけでも完全にはわからない。そういうものを持っているということが釈尊の教えの一つの主張なわけです。
そのことがわかってくるということと、この「葛藤」という巻の意味がわかってくるということと同じだというような問題があると思います。だからその内容がわかるまでに時間がかかったということです。
問 「葛藤」というのは、言葉で表せないということで、よく出て来る「恁麼」とか、そういうような言葉ですよね。
答 そう。同じ性質の内容を持っています。
問 あと、「四諦」の話で、苦諦と集諦と、そういうものが現実の中には一緒にある、複雑にからまっていると、そういう現実の見方と……。
答 そうそう。「葛藤」ということと「四諦の教え」による説明と関連しているということはいえます。
だからそういう点では、釈尊の教えというのは一つの思想体系でね、その思想体系を理解することが大事だということになります。少なくとも二十一世紀にはそれが大事だと。
どうも理屈の上でわからないものを信じなさいといわれても、二十一世紀にはそういう素朴な考え方は通用しないという事情もあるわけだから、そこでこの『正法眼蔵』という本の持っている意味が大きくなるわけです。
だから私なんかも『正法眼蔵』を読まなかったら仏教思想は一生わからなかっただろうと思う。だけど、『正法眼蔵』を読んでいるおかげで、釈尊の教えが理論的にわかるという点では非常にありがたいと思います。
だからこの「葛藤」という巻も仏教思想の最終結論を述べているわけです。だからそれだけに普通の理論的な書物では書かれていない思想だから、理解が難しいということと同時に、こういう考え方がわかってくると、世の中が見えてくるという事情があると思います。
問 前置きのお話で政治のことが出ましたので、一つお伺いします。現状というのは、国会議員の方、あるいは小泉総理にとってみたら正念場というふうなことがいえると思いますし、それぞれの議員さんにとってはある意味では修羅場みたいなものですけど、やはりそういうことをああいうベテラン政治家というのはたくさん経験して育ってくるということですね。
答 それはありますね。
問 これからどうなるかですけど、先生は長いこと、選挙を通じて、あるいはいろんな政治の動きを見てこられたんですが、その先生からご覧になってどんなふうに……。
答 まあ、「小泉さんはよくやったなあ」という感じですよ。ただ、「終末が近いな」ということも偽らない事実です。だからその後をどう引き継ぐかということについて、私はどうも小泉という人は安倍さんに継がせようと思っているんじゃないかという気がしています。で、安倍という人も小泉という人の思想がよくわかるから、小泉という人と似たような思想を述べていて、それが次の政権を持つ手がかりになっているわけだけれども、時代もそういう方向に進んでいる可能性があるんじゃないかという見方をしています。
だから私は、何人かの総理大臣経験者が靖国神社参拝やめろという話をしているというのは、やっぱり不見識だとも思うし、時代遅れだなとも思います。
問 じゃ、またこの話は後日お伺います。ありがとうごとうございました。
それでは、時間がきたようですから、普回向を唱えて終わりにしたいと思います。
普回向 唱和